第3話 お洒落な小父さん

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ。


 彼のことを、綺音は“お洒落な小父さん”と呼ぶ。


 どのあたりがお洒落なの、と訊いてみたことがあるが、彼女は笑うばかりで答えてくれなかった。


 お洒落と言えば奏の知識の中ではモーツァルトやリストだが、綺音の言う“お洒落”は、そういう意味ではないらしい。


 優美で儚げな、それでいて勁いまでに美しい旋律が綺音のヴァイオリンから流れ出る。その旋律を支えながら追うチェンバロの清雅な響き。


 囁くような音型。

 歌うような音型。

 交互にあらわれる雅びやかな憂鬱。

 絶妙な弓さばき。

 しっかりと澄んだ和音。


 このあと同じ曲を奏が演奏しなければならない。

 奏の胃が、きゅうっと縮んだ。


 静かな終末。

 次の曲の華麗につながる、上品な穏やかさ。

 残響が綺麗に消えると、西澤が頷いた。


「うん。さすが母子おやこね。息がぴったり。思わせぶりな表現も、おんなじ」


 その笑顔に、茶目っ気が弾けた。

「メランコリーの高貴さは、綺音さんの特徴ね。遺伝って面白いわ。両親ともに得意の表現ですものねぇ。奏くんには第二楽章や第四楽章のほうが似合いそうだけれど、今日はせっかく結架ゆいかさんがいらっしゃるのだから、やっぱり第三楽章をやっておくべきだと思うわ」

「はい……」


 たしかに、お上品な第三楽章より、活力にあふれた第二楽章や第四楽章の勢いのある表現のほうが、奏にはやりやすい。快活な上品さなら、奏にも表現できる。


「じゃあ、つぎ。奏くん」


 西澤に楽弓でさされ、奏は返事をしてヴァイオリンを構えた。

 綺音の母親、結架と視線を交わしてタイミングを合わせる。奏が頷くと、結架は数秒後に弾きだした。そのあいだに、奏はイメージを高める。


 和音を刻むチェンバロの前奏に、奏のヴァイオリンが滑りこむ。綺音のように繊細に、優雅に、やさしく、美しくと思うと、レガートが強くなってしまう。ねっとりしすぎてはだめだ。あくまで清爽な香気で。知性に溢れたメランコリーを。

 奏の楽弓にこめられた力が、わずかに緩む。


「はい、ストップ」


 重音のところで止められた。


「ロマンティックでいいわ。でも、重音の下が濁ってる。弓の傾きが悪いせいだと思うの。それと、左手ね。楽弓の返しだけ気にしてはだめよ。この小節だけ、奏くんだけで弾いてみて」


 何度か奏は弾かされた。

 楽弓の角度に細心の注意を払う。

 先生がスローテンポで手本を奏でると、その動きを見た奏は理解した。左手の押さえも足らないのだ。だから、触れてはいけない弦に楽弓がわずかに触れることがある。


 何度も弾いて動きを体に覚えこませると、それは改善していった。


「いいわ。じゃあ、最初から。アンサンブルも忘れないでね。結架さん、お願いします」

「はい、馥子こうこ先生」

 微笑をうかべて、結架が姿勢を整える。


 五つの和音が豊かに響く。

 奏は滑らかにその和音に飛びこんだ。

 チェンバロの音型の反復。その重音に細心の注意を払いながらも感情をこめていく。


 そして。


 静かに訴えかける。


 切々と、しかし誇りたかく。


 聴き手の存在が消えた。


 結架の奏でる主題の変形に、丁寧に音を乗せていく。


 世界が、この音楽だけを残して静寂となった。


 麗しい主題。

 交互に交代する、主題の反復。

 聞いていただけでは見えないものが、奏の胸を熱くさせる。

 今度は最後まで止められなかった。


「……うん、いいわ。かなり良くなったわね」


 そう言って、先生は綺音を見やる。


「どうだった? 綺音さん」

 ぴくり、と綺音が顔を上げる。


「なんか悔しい」


 え? と、奏は口をぽかんと開けてしまったが、綺音は何やらむっつりしている。

 西澤と結架が顔を見合わせて笑った。


「──そうね。奏くんには、綺音さんにはないものがあったわ。完成度は綺音さんのほうが上だけれど、持っているものの違いかしらね」


 結架が両手を膝の上において頷く。その所作は貴婦人のようだ。


「そうですね。なんというか、艶やかしさを感じましたわ」

「ええ。色気ね。奏くんの演奏は、艶めかしかったわ」

「わたしより表現力が大人な感じ?」


 三人が口々に言うのを、奏は照れながら聞く。


「綺音さんは清雅。奏くんは典雅。そんな感じかしら」

 すると、綺音の表情が和んだ。


「先生、先生もマンマと合わせて弾いてくださる? お手本」


 すると、西澤は、にやり、と笑った。


「いいわよ」


「あら、すてき。光栄ですわ」


 喜ぶ結架の表情に思いがけないあどけなさが浮かぶ。その笑顔は娘のそれと似ていて、奏はどきりとする。

 綺音は父親似だと思っていたが、母親に似ているところもあるらしい。


 嬉々として、結架がチェンバロの鍵盤に指を添わせる。西澤もヴァイオリンを構え、楽弓を弦に当てた。


 ひとつの単音と、五つの和音。


 見事な光沢のある深い音が西澤の手の中で輝いた。


 綺音の純真な音とも、奏の艶麗な音とも違う。


 決して太くはないのに、豊かな音色。

 見事にカットされた宝石が光を乱反射させるかのようなチェンバロの光輝にも劣らない、黄金の音。

 香り高く、豊かに潤む。

 清々しい妖艶さ。

 無駄な力みの一切ない、精美な演奏。


 流れるような音の波に渦まかれて、その悦楽に身もだえしそうなほどだ。


 綺音も奏も呼吸を忘れそうなほど没入した。


 その弓づかい、指の動き。深く澄みきった低音と、崇高なまでに煌めく高音。

 たたみかけるような、訴えかけるような音の表情。

 すべてを聴きとって、自分のものとしよう。綺音は耳を開ききっていた。

 いっときも、西澤から目を離さない。


 軽やかな音の動き。

 のびやかな長音。

 胸に迫る、完全に調和した重音。

 息の合った、結架との旋律の掛け合い。

 甘いトリルと静かな終結。


 西澤が楽弓を下ろすと、綺音が力いっぱい拍手した。遅れて奏も拍手する。


「すごい! 先生、迫力! トリハダがたちました」


「まあ、嬉しいわ、綺音さん」


 西澤の微笑みに、喜びが加わる。


「絡め捕られるような名演でした」


「あら、奏くんは詩的ね。ありがとう」


「でも、ほんと、先生の演奏で通して聴きたい」


「まぁー、それは駄目よ」


 西澤が笑いだす。


「レッスンなんですもの。全員でやりましょう」


「ええっ、ぼく、まだ第三楽章しか通して弾けません」


 慌てた奏に、西澤が鷹揚に答える。


「あら、いいじゃない。間違えても。互いの音を聴いて、自分の音も聴く。大事なことよ。初見の練習にもなることだし。綺音さんも、まだ第四楽章は初見でしょう」


「はい」


 逆らっても無駄なようだ。


 全員が構えると、西澤が合図を送る。


 明るいヴァイオリンとチェンバロの響きが流れ出た。


 どうにでもなれ! と言う気持ちと、しっかり弾くぞ! という気持ちが混ぜこぜになって、奏は必死に楽譜を追った。

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