第2話 絶世の女主人

 ヴァイオリンを取りに一度自宅に帰った奏が綺音の家に行くと、インターホンの音が鳴ってすぐに、彼女の母親が出てきて門を開けてくれた。


「あれ、おばさん。今日はレコーディングじゃなかったの?」


 奏が訊くと、世にも美しい彼女は微笑んだ。今更ながら、おばさんと呼ぶのは、遠慮したほうがよいかもしれない。


 奏にスリッパを用意してくれながら、

「綺音から聞いていたのね。ええ、予定より早く終わって、先刻さっき、帰ってきたのよ。さあ、どうぞ。西澤先生は、もうすぐいらっしゃるわ」


「はい」


 綺音とは系統が違うものの、絶世の美女だ。儚げで、繊細な美貌。彫りの深い、日本人離れした造作である。いつ面と向かっても、奏は少し緊張してしまう。美形は美形でも、綺音と似た面ざしの彼女の父親のほうが、見慣れていて、安心できる。


 亜麻色の長い髪を綺麗に編んだ髪も、日本人とは思えない。とくに印象的なのは、その瞳だった。みどりを帯びた明るい茶色の虹彩。珍しい色。


「綺音はもう音楽堂にいるわ。一緒に行きましょうか」


 しっとりとした、上品で艶やかな声。


 奏は頷いた。


「はい」


 彼女の先導で、奏は長い廊下を進んだ。

 本当に広い屋敷だ。

 玄関から音楽堂とピアノ室以外の場所に行こうとしたら、きっと、奏は迷ってしまうだろう。


 長い廊下を抜け、ステンドグラスの窓がある階段のところまで歩く。


 上り階段の横に短い下りの階段があり、その階段を下りた先がピアノ室と呼ぶ練習室兼スタジオだ。とはいえ、現在ではレッスンのためにしか使われていない。今日は、綺音の弟の美弦がレッスンのために使っているだろう。


 音楽堂へは、中庭を抜けて裏庭へ行く。


 一度、火事で燃えてしまったという音楽堂には、さまざまな楽器を保管している部屋と、ピアノとチェンバロが置かれた練習室がある。このお屋敷には、さらにチェンバロの練習室まであるそうだ。綺音の母親が愛用するチェンバロが、五台も置かれた部屋らしい。さらには、綺音の父親が練習する部屋まであるそうだから、敷地の広さも頷けるというものだ。ピアノとチェンバロがあちこちにあるのも、家族がそれぞれ練習できるようにと配慮されているからだという。独奏練習でも合奏練習でも困らないように。


 庭に出るところで用意されていたサンダルに履き替え、奏は女主人の後ろをついていった。


 花々が育てられている庭は、いつ見ても美しい。


 世話をしているのは、昔からこの家の雑務を引き受けている一家だという。敷地の南側に建つ一軒家に住んでいて、庭と家屋の手入れに清掃、日用品の購入から、運転手のような仕事もしているらしい。


 演奏活動で不在がちな夫妻に代わって、綺音と美弦の食事の世話までしてくれているという。


 それでいて、決して目立たず、あまり奏の前には現れない。


 大きく育った薔薇とジャスミンの木を横目で見ながら、奏は女主人の後ろをついていく。綺音が音階を弾いているようで、ヴァイオリンの音色が聴こえてきた。


 白い壁の音楽堂は、風通しを良くするために窓が大きい。しかし、直射日光をしっかり防ぐために、紫外線反射加工されたカーテンが、窓全体を覆っている。それでも中は照明で明るかった。


 ピアノとチェンバロが置かれた音楽堂の練習室は、それでもまだ広く感じる。その部屋の中心に、ヴァイオリンを構えた綺音がいた。既に楽器を準備し、調弦チューニングも終え、音階練習も終えたようで、いつものメニューである練習曲エチュードを弾いていた。


「マンマ。奏ちゃん」


 微笑んだ彼女の歓びを前にして、奏は胸が締めつけられる。こんなに無防備な綺音に、困惑さえ浮かんでしまう。


「調子は?」


 短く奏が訊くと、綺音はヴァイオリンの楽弓を、くるりとまわした。


「ゼッコウチョーよ。とうぜんでしょ」


 ちょっと生意気な彼女も可愛らしい。


 そのとき門のインターホンが鳴った。慌てて奏はヴァイオリンケースを開ける。


「いらしたみたいね。すこしお引き留めするから、慌てなくて大丈夫よ、


 綺音の母親が優しく言った。


「はい。ありがとうございます」


 は松脂のケースを手にして、頭を軽く下げた。


 綺音がヴェラチーニのエチュードを弾きだす。

 それに聴き惚れてしまいそうになるのをなんとか耐えて、奏はチューニングを始めた。E線をミ、A線をラ、D線をレ、G線をソになるよう、糸巻きを次々に回していく。それからチューナーのスイッチを入れ、綺音に尋ねる。


「何ヘルツ?」


「四一五」


 綺音は現代音楽の周波数より半音低い数字を答えた。

 なるほど、今日も古楽をやりたいんだな、と奏は頷いた。

 奏の表情を見て、綺音が唇を尖らせる。


「だって、今日はマンマがいるもん。西澤先生にもキョカは得てて、伴奏してもらえることになってるの」


「ああ。じゃあ、ソナタをやるの?」


「そう」


 チューナーの周波数を四一五に設定しながら、

「ふうん。バッハ? ヘンデル?」

 綺音の今日の気分は、どちらかだろう。それとも、西澤先生の指示があるのだろうか。


 綺音は楽弓を止め、譜面台から大判の紙を取りあげて奏に差しだした。


「バッハ。はい、楽譜」


 先生の変わっているところは、教材を綺音の好みに合わせてくれることだ。

 甘いなあ、と奏などは思う。


 現実に、綺音が不得手な現代音楽も、演奏家としては、巧みに演奏できなければ、楽団への所属など夢のまた夢だ。そう言って練習を促すと、彼女は言う。


「バロック・ヴァイオリニストになるもん」


 とはいえ、実際に音楽学校への入学を望むとしたら、現代音楽の習熟も避けては通れない。

 先生も、その点は承知しているらしく、数週間に一度は現代音楽の厳しいレッスンもしてくれる。そのかわりなのだろうか。バロック音楽の曲目については、綺音の気分を最優先してくれるのだ。


 血は争えないもので、綺音の父親も、現代音楽が苦手らしい。優雅さに欠ける、冷静で超論理的な音楽だというのだ。


 古楽器であるチェンバロを演奏する綺音の母親については、言うに及ばず。


 この音楽一家に、現代音楽は鬼門だった。


「面白いのに」


 呟くと、綺音がしょぼんと俯いた。


「好きになれないぃ」


 奏は笑ってしまった。


「遺伝だね」


「パーパとマンマに言って」


 情けなさそうな表情。それでも、愛らしい顔。


 チューニングを丁寧に終わらせた頃、扉が開いた。

 二人とも、しゃきっと背筋を伸ばす。


「こんにちは、西澤先生」


 なんだかんだ、この先生は厳しい。

 それは生活態度にまで及んでいる。


「こんにちは。ふたりとも、調弦は終わっているわね」

「はい」

「はい」


 頷いた二人に、西澤は微笑む。


「じゃあ、私が調弦するあいだ、譜読みをなさい。バッハのソナタ、第3番ホ長調だったわね」

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