美しい姉弟

第1話 綺音と奏

 授業がすべて終わって、生徒たちが部活動、あるいは帰宅し始める時間。


綺音あやね


 呼びかけると、彼女はヴァイオリン・ケースを手にして近づいてくる。彼女はどんな日でも、たとえ教科書を忘れようとも、ヴァイオリンだけは持ってくる。


「なに、かなでちゃん」


 あどけない笑顔が、たまらなく愛らしい。


「今日のレッスン、休もうと思って」


 奏は綺音と同じ師匠についてヴァイオリンを習っている。とはいえ、その演奏水準には、子どもと大人ほどに差が開いていると奏自身は思っているのだが。


「え? どうして?」


 小首を傾げるさまも、とびきり可愛いと奏は思う。


「うん、ちょっと」

「奏ちゃん、ぐあいでも悪い?」

 途端に心配そうな表情に変わる。


 ──ああ、可愛すぎる。

 奏は頬が緩んだ。


 まわりの生徒たちが、綺音に挨拶していったが、彼女は生返事しかしない。そんなところも、奏の心にグッときた。


「今日のレッスン、というかさ、西澤先生のレッスンをやめようかどうか、考えてて」


「ええっ!?」


 思ったとおり、綺音は驚いた。


 大きな鳶色の眼が、さらに大きく開かれる。長い睫が扇のように広がって、お人形のようだ。薄紅色の頬と薔薇色の唇が、さらにその印象を高めている。


「どうしちゃったの、奏ちゃん! まさか、ヴァイオリンも、やめちゃうの!?」


 奏は慌てて首を横に振る。髪がさらさらと揺れて、その直毛を羨ましく思っていることを、こんなときながら綺音は思い出した。


「いやいや、ヴァイオリンは辞めないよ。でも、どう考えても綺音とレベルが違いすぎるでしょ。一緒にレッスンを受けるのは、お互いにデメリットになるかと」


「そぉんなこと気にしてるの?」


 綺音は、ころころと笑いだした。

 くるくると毛先が縦ロールにカールした亜麻色の頭髪が回る。驚きなことに、この色味もカールも、彼女の生まれつきだ。


 美男美女の両親から不世出の美貌と才能を受け継いだ彼女は、あらゆる意味で特別な存在だった。


 そのヴァイオリンの腕前も、さまざまなコンクールで既に優勝を重ね、いつ留学するのかと注目されているほどだ。

 しかし、彼女の両親がまだ早いとして、叶っていない。


 そのかわりというか、両親の演奏旅行に同行して、海外の著名な演奏家による個人レッスンを受けることもあった。

 一度だけ、奏も同行したことがある。


 フェルティーレ・デッラ・弦楽合奏団オルケーストラ・ダールキの首席ヴァイオリン奏者、ゴンザーガ氏のレッスンは、非常に興奮した。これまでにない、アーティキュレーションへのアプローチと運弓法ボウイング。それが音と音の自然なつながりと区切りを明確にし、整った流れを旋律に乗せることができる。


 とくに綺音の進歩は目覚ましかった。


 表現の幅が広がり、豊かな創意につながったのである。

 フレーズごとに快い音色が高まって、恍惚とするほどの繊細さと、身震いするほどの力強さを兼ね備えた。


 そのころから、奏は劣等感を捨てられずにいる。


「大丈夫。そんなふうに思ってるの、奏ちゃんだけだから。それに、まだ、わたしたちの目標を達してないでしょ? ひとりにしないでよ。美弦みつるだって、納得しないわ」


 ──目標。


 ヨハン・ゼバスティアン・バッハの、『ふたつのヴァイオリンのための協奏曲』を三人で合奏すること。


 もともとは協奏曲だから、中規模の編成での演奏が本来の形だ。三人での演奏では音が減ってしまう。それをどう編曲するかで、曲の特色をうまく保てるかどうかが決まるだろう。綺音と奏、そして彼女の弟の美弦の三人で何年も試みてきたものだ。


「けど、原曲は中編成だもん。やっぱり無理があるんじゃないかな。美弦に負担が大きいよ」


「でも、パーパが言ってたわ。本当にミリョクテキな音楽は、編成や楽器の種類の差をも乗り越えるって。楽譜どおりが一番だけど、原曲のスピリットは消せはしないって」


 ふてくされても、綺音は可愛らしい。

 カールした髪が、ゆらゆらと揺れる。


「美弦だって、大好きな曲だもの。弾きたいに決まってる」


 言いきる彼女の瞳は、強く輝いている。


 奏は、ため息を押し殺した。


「そうだね」


「ねっ。じゃあ、レッスンに行くわね?」


 大きな光り輝く鳶色の瞳に見つめられて、奏に拒めるはずがない。

 奏は苦笑とともに頷いた。


「かなわないなぁ、綺音には」


 綺音は綺麗な顔にとびっきりの笑みを浮かべた。


「とうぜんよ!」


 それは、彼女の父親の笑顔と驚くほど似ていた。

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