廃水―unfamiliar―

 その土地が危険だと語ったのは、かつての文筆家だった。

 曰く、影響を受けた旅人がその地の水がとても危険だと言ったらしい。実際にその文筆家も危険を承知で確認していったらしいが、結論として危険なのは変わりはなかったとされる。

 彼の残した記録によると、水質がとにかくで悪いらしい。汚臭が激しく、かつては綺麗な都だったであろう光景も、それのせいで印象を悪く感じられたという。

 彼の時代では無かった言葉で置き換えるなら、何かしらが要因で水がヘドロと化した、というのが他国の見解であった。

 そのような見解が出てから、もう百年も経つ。文筆家の記述が出たのは更に五十年もの昔。

 その廃墟となったかつての水の都は、この世界で取り残されていた。


「はぁ……はぁ……ッ」


 そんな誰もが立ち寄らない土地へ向かう、馬鹿な男が一人。荒く息を吐きながらも、その足を進めていた。

 足の感覚はもうなかったようだ。何度もこけては地面に膝を打ち当て、その紺色のズボンは泥で汚れていた。


「あと……もう少しッ!」


 決して気持ちの良い旅路ではなかったはずだ。彼の旅路は辛酸を舐めるものであったのだから。

 彼がこの国へ訪れた最大の理由は、若気の至りであった。彼は隣国、ソルサーの出身である。そこで生まれ、隣の国であるこの地が未開拓であることを知った彼は、どうしても自身の目で真実が知りたかったのだ。

 しかし――一緒に志した仲間は、彼の若気を裏切り同伴しなかった。彼の夢を否定したのだ。同時に練られていた計画の中にあった、MHMエムエイチエムの入手も不可能となった。


「クソッ……舐めんなよ!」


 彼は仲間を問い詰めた。なぜ協力するような態度をとったのか。彼の仲間は面倒そうに答えた――まさか本気だとは思わなかったから、と。

 彼の理想に追いついてこれなかったと捉えるべきか。最初から本気だと思われなかったのか。どちらにせよ、青年のやる気を刺激した事実に変わりはない。

 昔と違って、MHMが無くとも国を出る事は容易い。誰かに襲われる可能性はある者の、無差別に行う者などはいないからだ。ただ、あると便利ではある。

 隣国とはいえ、延々と歩いておよそ一か月。食料の備蓄も尽き、もはや執念の屍になりつつある青年は、その裏切りへの対抗心だけで歩いていた。


「門は……ここか」


 かつては門であったであろう場所は、石が剥げてしまっていた。しかし、相変わらず頑強な出来であり、青年は僅かにできた亀裂を縫って、国内へと入っていった。


「変な臭いはしないが……」


 必死に勉強した文筆家の知識と照らし合わせても、その汚臭はしてこなかった。

 第一、そこまで強調されているのであれば国の外からでも酷い臭いがすると踏んでいた青年は、着けていた物々しいマスクを取り外して国内へ侵入する。

 不安はあった。自分の苦労は全て水の泡になるんじゃないかと。せめて報われる景色を見せてくれたら、と心から。

 ゆえに――この国へ入っての第一声は、静寂を守る国中へ響き渡った。


「――イッツ ビューティフルッ!!」


 ヘドロなど何のその。黒の景色など見えぬほどの水面の光景。空は青く、日差しが差し込む虚構に満たされた円柱の中。水の都とはまさにこのこと。

 男が想像していたよりも、その水は清らかであり、汚れなど一切なかった。確かに廃墟ではある。至る所にかつて誰かが住んでいたであろう跡も見えた。しかし、それでさえ一種の絵画のパーツに見えてくる。

 清廉とはこのこと。ここはまさに、世界に遺された未踏の楽園であった。


「……飲めるか?」


 こんな光景、水を見てしまえば彼の喉の渇きは一層強まってしまう。危険なのは承知で、彼はそっと道端を通る水道の水をすくい、口の中へと収めた。


「……うまい。なんだこれ……国でも飲んだことないぞ、こんな水」


 彼は知らない。この水の原点は地下水であることを。自然から生み出された天然の水。合成飲料が普通となっていた彼からすれば、まさしく運命の出会いである。

 ただ彼とて愚か者ではなく、口を癒すと、その水を持ってきておいた筒の中に入れて蓋をする。彼は学者ではない。ゆえに、自身の国の学者へ渡すためのものである。

 彼は国を歩き回る。道も半壊しているのか、決して歩きやすいわけではなかった。道の傍には水だらけ。まるで石畳が水面に浮いているようである。


「この下……全て水か? もしかしたら、水のせいで埋まってしまった廃墟があるかもしれないな……」


 深いのか、暗い水底に関しては想像しかできない。

 ただ、青年はニヤリと笑う。裏切られた者たちへの嘲りも含めた、最大限に吐き捨てる歓喜の大声。


「ざまぁみやがれッ!! 見つけってやったぞー!!」


 下品に、しかし喜びを表現するにはこれ以上のない大歓声を一人で行う。歴史的発見の瞬間とはこういうものだろうか。もしかしたら、彼が捻くれているだけであろうか。

 どちらにせよ、彼は知らない。

 彼の足場の下――水底には、かつてこの国を支配していた元凶が眠っていることを。



――――――――Shift――――――――



 黒きヘドロの生みの親。人間への恩讐を得た、八つ足の海の獣。

 今は眠る。されど、その脳髄の思考は変わらない。


 ――ニニンゲゲゲゲンンン。

 ――ウラララミ。ネタミンミンミ。サゲスムムムム。


 壊された脳は何度も恨み言葉を繰り返すだろうが。もはや浮上できない、生きた屍。

 ヘドロは自然の力で浄化された。その脳は碧緑の狼に壊された。

 水底の中、終わらぬ妄執を想う黒き蛸。その姿は、かつて自身が嫌悪した、人間と変わらぬ愚かな末路に見えた。

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