再生―Symbiosis―

 翌朝。少年はゆっくりとその瞳を開けた。

 何がどうしてなのか、少年は不思議な感覚を覚えていた。幾つか存在する経験したことのない感覚のせいで、少年は呆けた表情を浮かべる。

 ボケた頭を総動員して、リシティは目を回す。

 まず、少年は眠る感覚を覚えていた。機人である彼は、人間の眠る感覚が自分のスリープとは違うと知った時から眠ったという実感を覚えなくなっていたが、久しいその感覚を感じていたのだ。

 原因は彼の首元の感覚で察せられた。碧狼と同調していたから、彼の眠気に当てられたのだろうと。

 それはいい。だが……もう一つ。それは、14歳相当の肉体と精神を有するリシティには困る、女の子の柔らかい感覚だった。


「あっ――ッ!?」

「……すぅ……んぅ」


 ふにゅん、と。ほんの少しだけ主張しているエメの胸が、少年の胸に接していた。

 いやそれどころではない。少女の腕は彼の胴を包むように回され、もはや全身がリシティに預けられていたのだ――言い得た言葉で使うなら、抱き着かれていた。

 その事実に、少年にしては大いに珍しく顔を赤らめながらも、昨夜の状況を確かめる。が、どうしてもこの状況に繋がらない。

 少年は落ち込んで、いつものように碧狼の腹部コックピットの座席を倒して寝る姿勢でいたはずだった。寝るとは思っていなかったが、少女は胸部で寝ていたはずだったのだ。


「……んん……あ、リシティ……」

「エッ、あ……お、おは、よう……?」

「ん……おはよー」


 もはや恐れと緊張から覚醒してしまったリシティに対し、エメはへにゃんと微笑みながら更に身体を寄せる。

 密着し、高まる熱。そして、その胸から響きなるのは心拍音。小刻みに震えるそれは、少女の行為の意味を物語っていた。


「え、エメ……ど、どうし——」

「んー!」


 少年の動揺を押し通すように、緑色の瞳が少年の瞳の間近にまで迫る。そして、その桃色の唇が少年の初めてを奪った。

 数秒。そのソフトタッチな重なりは、しかして少年の頭脳をオーバーヒートさせるには十分だ。

 エヘヘ、と微笑むエメに対して、リシティは赤い瞳を渦巻かせて湯気が出ていた。

 カシャンと、白髪の下のうなじに刺さっていた碧狼の神経接続用コードが外れる。獣からしても匙を投げたくなるレベルの初々しさだった。



――――――――Next――――――――



「えーと、その……」


 結局、あまりにも情けない大声をあげてしまい、エメを驚かせてしまったことでリシティは解放された。

 ぽりぽりと緊張を紛らわせるように頬をかくリシティは、搭乗席の背もたれを上げて椅子状に戻して、目の前で笑う少女の様子を見る。

 これまでの旅の中、少年にここまで濃密な求愛行動はしてこなかった。


「ど、どうしたの? 朝から元気だけど……」


 ましてや肌の触れ合いでさえほとんどなかった。碧狼に乗ってる間、二人の身体は別々に分けられていたこともあり、国の中では同じベッドで寝ないように注意していた。

 それは——逆に言えば、リシティが彼女と濃く関わる事を止めていた、とも言える。


「昨日のリシティが落ち込んでたから、代わりに私が元気になるの!」

「それは……あぁ、まぁ、ごめん……」


 見当違いの答えであったが、それでも原因が自分にあると気づくと少年の声は小さくなる。

 リシティ自身、なぜこうも暗い気持ちになるかが解っていなかった。ゴールへ辿り着く事は素晴らしい事のはずだ。目標へ至る——成し遂げられない者達のことを考えると、自分達は幸せだったはず。

 しかし、その先が解らなかった。そして愛おしい彼女へ迷惑をかける。それもまた耐えられない苦痛である。


「大丈夫だよ、リシティ」


 そんな痛みに塗れた少年を、今度は慈愛を持って少女が抱きしめる。


「私がいるから……私があなたの側にいるから……」

「エメ……」


 僅かな警戒心はあった。しかし、彼女の口から漏れ出す言葉は少年にその僅かを解かせるだけの優しさがある。


「迷いは、誰にだって訪れるものだから……あの二人は、焦るばかりに道のくねりに気づかなかっただけなの。でも、私達は違う。まだ時間はあるから……」

「でも、解らないんだ……僕らの目標は達成されてしまった。今から何をすれば良いか、僕には解らない」

「だから——私が、リシティの手を握る」


 開かれたコックピットの先は、地平線から現れた陽光に溢れていた。満点の光の中、長髪の少女は少年に手を差し伸べる。

 逆光のせいで、その表情は解らない。泣いているのか、笑っているのか——ただ、光の中へ消える煌めく雫が見えた。


「あなたが迷えば、今度は私があなたを導く。私が間違えれば、リシティが正してくれる。そう信じてる」

「それは……」

「だから、手を伸ばして! 私の手を握って! 私と一緒に——生きて!!」


 叫ぶ。選ぶ。手を伸ばす。

 欲しいと望む。二度と離すものかと誓う。絶対に後悔しないと願う——。

 それが少女の決意だった。前世の杭で結ばれた赤い糸を断ち切るための選択。杭の代わりに紡ぐのは互いに伸ばすその手——肌色の細い糸。


「————」


 それを、彼女の心からの叫びを少年はどう受け止めたか。

 彼女はただ手を伸ばす。だから手を握り返したくなる。力なく伸ばす少年の手は、怯えるように震えてしまう。

 震えの正体を。彼女の手を取る行為が、どんなに罪深いことかを彼女は知らない。


「——っ」


 少年は元が人間とはいえ、やはり機械であった。それはどんなに望んでも変わらない現実だ。

 対し、彼女は人間だ。獣が混じっていても、彼女は生命だ。この世界に相応しい、生命を紡げる存在の一人だ。

 リシティはエメを愛している。だが、彼女が自分ではない別の人間に恋をするなら譲っても良いと考えていた。それが正しい、と。そう思い込むことにしていた。


「……っ」


 しかし——それはあくまで機人と思い込みに過ぎなかった。彼女が伸ばす手、言葉は誰よりも目の前の機械へ向けられている。

 罪深いと思う。所詮は贋作。幾つもの複製品がいる自分が、彼女の手を取るのは。

 それでも。そうだとしても——あの時と同じく、この冷たい心に灯った感情に従うとするならば!


「——僕はッ!」


 細い、あまりにも儚い少女の手を掴む。いや、それ以上に彼女の腕へと手を伸ばす。

 力強い少年の手。少女もまたそれに応えるように、彼の腕を掴む。

 支え合う腕のアーチ。それを伝って、少年は少女がいる光の中へ立ち上がる。


「ねぇ、エメ」

「なに、リシティ?」


 暗い操縦席を出て、明るい世界の下で抱き寄せ合う二人。

 いつもとは逆に、少女へ問いかけた少年は恥ずかしそうに——だけど、意を決して言葉を告げる。


「————」


 潮騒が、声を攫う。

 それでも少女には声が届いたのだろう。快活に頷き、少年に全てを任せるように力を抜いた。

 若草色の髪を撫で、そして少女の頬へ手が触れる。見つめ合う瞳。彼女の表情を確認して、少年は微笑んでゆっくりと——


「えへへ……奪われちゃった」

「お互い様だよ」


 薄暗い闇の中。逆光で見えなかった少女の表情は、太陽の下ではハッキリと見えた。

 綺麗な、笑顔であった。



――――――――Next――――――――



「さてと……それじゃあ、ここからだね!」

「これからどうしようと思ってるの?」

「んー、ここで暮らすというのも考えたけど、やっぱり旅を続けたいかなぁ」


 碧緑色の獣の腹部で、二人の人がこれからの話をする。

 いつかした旅への提案と違い、今度は少女が先導して未来へ想いを馳せる。


「最西端まで来たということは、北や南を行ってみるのはどうかな?」

「北と南か……東に少し戻ることになるかもだけど……」

「戻るぐらいに戻った時には踏ん切りもついてるよ!」


 エメの根拠のない言葉は、しかし二人の未来を照らすには十分だ。


「しかし……えーと、本当に大丈夫?」


 強いて不安があるとすれば、少女がリシティと同じ搭乗席に乗ると発言したことであった。

 エメが碧狼にそう宣言すると、なんと操縦席が変形し、縦に並ぶようにもう一席の席が登場したのだ。

 機人獣の適応能力の高さであった。


「うん! ……たぶん」

「……不安だ」

「だ、大丈夫だから!」


 しかし結果、二人は同じ空間での生活を得たが、エメとの神経接続はできなくなった。心は繋がらず、二人の意思疎通は本来の会話だけとなる。

 二人にとっては初めての当然の事。だからこそ不安も覚える。だからこそ、二人でなら乗り越えられる。


「もぉ……」

「エメは子供っぽいなぁ」

「リシティが大人すぎるの!」

「はいはい」


 二人は無邪気に笑う。底抜けのない明るさを持って。

 暗い夜は終わった。今から広がるのは明るい世界。最後の旅人は、最初の旅人して、再び世界へ挑む。


「おはよう、碧狼」

「おはよー!」

『ウォォォォォオオオンッ!』


 碧緑の獣の機械は目覚め、高々にその獣声をあげる。水色の瞳は空を見上げ、海を見下ろし、そして海浜の境目は目を向けた。


「さて、それじゃ」

「うん。旅を再開しよー!」


 若い男と女、そして一匹の獣はその言葉と同時に一歩を踏みしめた。



 旅人はこの地を去る。

 再び共に生きようと誓った、この最後の大地に足跡を付けて。

 新緑芽吹く春の暁。雲なき快晴の空の下。

 二人は——確かに、生きていた。

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