少女―choice―

 その日の夜。

 海を前にして碧狼は、まるで長旅の疲れを癒すように、獣のように四足で砂場で横たわっていた。

 人の真似をするように、もしくは人として生きようとする二人を応援するために、物言わぬ機人獣きじんじゅうは二足歩行で歩いて来たのだ。


「ありがとう、碧狼へきろう


 開けていた胸部から出ながらも、緑色の長髪の少女は、家族でもあり相棒である機械へ囁いた。

 今やその瞳は閉じている。獣の耳に届いているかは、彼と繋がっていない彼女には解らない。それでも、彼女にとって大事な人を抱いてくれる事も含めて、彼女は初めてその言葉を口にしたのだ。


「月……綺麗」


 砂場へ降りて、澄んだ空を仰ぐ。そこには太陽にも劣らないほどに輝く月があり、それを称えるように星々が煌いている。

 あの日、少女が初めて見た星空に負けないぐらいの、綺麗な満天であった。そんな感動を共有できないことを、少女は碧狼の腹部で閉じこもっている彼を想って悲しく感じる。


「リシティ……」


 この長い旅路の中、確かに少女の内から元となった人間の記憶は薄れていっている。かつて毎日のように繰り返していたハンナオリジナルの記憶も、今は夢のようにすら感じていた。

 それでも、その繋がりが消える事はない。ましてや、彼女にとってハンナは母のようなものであり、彼女の本質は娘でもあるエメに続いている。

 だから、管理者オリジナルと繋がりを持つリシティに抱く気持ちは、恋心だけではない。それは慈しみと言い、同時に母性に近しい愛おしさであった。


「そうだよね……リシティも、私と同じ……」


 子供なのだから、と唇だけが動き呟いた。

 砂場に座り込んで、止まらない波飛沫を見る。繰り返される水の音色は、旅路の中で築いてきた少女の知性に働きかける。

 子供の定義なんてエメには解らない。リシティは頼りになる大事な人であり、自分よりも大人びていると少女は感じている。

 それでも、同じように未知へ心を躍らせた彼もまた、自分と同じ子供であった。彼がどんなに必死になっても、知識を持つからと胸を張っても、責任からくる勇気を持っても――世界へ歩き出したのは、同じ時なのだから。


「怖いんだ……終わるのが」


 少女はその感情を知っている。それを助けてくれた少年の右手を知っている。

 自分の存在が消されるかもしれない。そう諦めていた時に響いた、自分を自分だと知ってくれた少年の声を。その存在という光を。

 エメは砂を握りしめて、自分の胸の元へ持ってくる。ギュッと力を籠めると、柔らかい砂はサラサラと少女の脚へと落ちていく。

 砂が触れる感覚は、少女が失うはずだった今を描いていた。


「ここまでの旅路が、私とあなたの世界の在り方を決めてくれた」


 あの時とは違う。何かを失うわけでも、命が消える事もない。

 危険な旅路だったと少女は思う。碧狼とリシティがいたとしても、何かが間違ってしまえば終わってしまうような、そんな命を意識させる旅路だった。

 だからこそ、自分がここに生きていると思えた。エメという少女は、この世界に祝福されていると。


「リシティは……まだそれが解らないんだ」


 エメは瞳を潤ませながらも、そう呟いてしまった。落ちた砂が湿気を帯びる。

 馬鹿にしているわけではない。ただ、少女と少年の差異が明確になった現実が辛いのだ。

 一心同体。それが二人がここまで歩めた一つのキーワードだった。碧狼を通じて繋がっていたはずの心。しかし、海に辿り着いた時点で二人の心は割れてしまった。


「そう思うと、あの二人は……凄かったのかも」


 ふと、以前出会った自分と同じ境遇の少女と、彼女と一緒にいた男を思い出していた。赤い鳥型の機人獣を駆る、リシティが妙に男性の方を毛嫌いしていた二人組だ。

 彼らとは再会してはいない。だが考えてみれば、肌黒の男は、神経接続をせずに姉妹とも言える少女と通じ合っていた。

 本来の人間は、心なんて繋がずとも分かり合える生物だ。

 だけど、その事実がリシティの機嫌を損ねたのかもしれない――そう理解すると、エメは僅かに顔を綻ばせた。

 嫉妬だ。自分達にできない事をやってのける人へ向ける、無邪気な羨望。それが原因であるのなら、その時点からも、リシティは少女と同じく幼い少年だったのだ。


「……ずっと、リシティに頼り続けてきた、な」


 頼る事は決して間違いではない。だけど、そのせいで大事だと思っていた人の弱さに気づいてあげられなかった。


「……そっか。それが、私とリシティを分けてしまった理由……」


 心が繋がり合うことで、いつの間にか見過ごしていた彼の弱さ。

 そしてその弱さは、以前の少女が得たものでもあり、少年によって乗り越えられた物であった。

 若草色の長髪がふわりと舞う。潮が誘った風が少女の瞳の雫を連れ去らう。獣混じりの少女は、口を噤んでゆっくりと立ち上がった。


「今度は私の手で……ハンナ……」


 自身の元となった女性の事を想う。少女は今という時間の意味を理解していた。

 この旅路こそ、二人のオリジナルが歩めなかった理想の未来。だけど、二人は決してオリジナルではない。独立した個体ゆえに、想定外は起きてしまう。

 リシティは、管理者では起こる事のなかった事態に陥っている。


「あなたが出来なかったことを私がする。今度こそ、私が彼と共に――」


 それでも、少女の瞳に揺らぎはなかった。

 生命の危険もない。何かを遺すために焦る必要もない。自分のために、自分を犠牲にした大事な人よりも先に逝く事への恐れはない。

 だから、彼女は名残惜しく表情を歪めながらも、渚へ――海の先にある故郷へ向けて呟く。


「さようなら、ハンナおかあさん……やっと、そう言えるようになったよ」


 彼と違って、この地に至るまでかけられなかった言葉。今はもう届かないと知りながらも、それでも届くだろうと信じて捧ぐ。

 決別の言葉は潮騒に溶けた。少女の瞳は覚悟に染まった。エメの――この世界に生きる獣と人が混ざった少女「エメ・アート」の選択は決まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る