人間―Birth―

 白煙を切り裂くかの如く、碧色の狼は空を跳ぶ。

 眼前、見えるのは巨大な女の肉体。

 身体は艶めかしく、肌色で傍目では巨人の姿としか思えない。黒い髪は淫らに垂れ流しており、肉付きのいい肢体は力なく座り込み項垂れている。

 マザーハーロットモンスター――かつて憧れを抱き恋した男が生み出した、恋慕の獣。

 そう言う意味では機人獣きじんじゅうの母とも言える存在。管理者の妻となるべき、機械仕掛けの女神――マザー・ハンナ・マキナ、MエムHエチMエム

 それこそが、MHMの真の定義。


『この器こそ我が機械の肉体の伴侶に相応しいッ!」

「自分勝手な!」


 機械の女神に乗り込む管理者アドミニスター、オリジナルのリシティ・アートは狂喜に叫ぶ。

 エメを取り込んだ。しかし、その邪魔をする目の前の偽物に敵意をむき出す。それを嫉妬と言うかどうかは僕にはわからない。

 けれど、その状況こそが狂うに喜ばしいのだろう。彼にとって自身は子も同然な存在。レプリカのリシティ・アート。

 彼の長年の夢を阻む最後の壁として、彼はその存在を受け入れている証明だ。


「光の爪ッ――」


 跳躍する碧狼ヘキロウの腕には、光のエネルギーを硬質化させる機構が存在する。三つの爪を形成する三つの管、トライトンファー。両腕から伸びるそれは、碧狼が最も得意とする近接戦闘の象徴だ。

 目指すは管理者の肉体。機械であればコックピット。思考する脳を殺し、命芽生えぬ女神を止める。


『ケダモノの如きその証明。女の命は髪と知れぇッ!』


 熱量を有する光の爪は、どのような金属や有機物を融かすだろう。だが、それは碧狼の手が届く範囲まで。そこまでに至らなければ、その爪は力あるだけの飾りだ。

 決して大きくはない胸部に、挟まれ隠された管理者は、狂い笑いながらも妻の肉体を動かし始めた。その狂言と共に、垂れ落ちていた黒の髪が己の意志をもって動き出す――


「ッ!?」


 それが幾数もの束であればまだ良い。だが、それらは一本一本が凶器。跳躍する碧狼を下から追ってくる黒の触手達は、その先端にある刃と銃口を獣の肉体に目がけて突き進んでくる。

 ペダルを踏みしめる――碧狼は、腰に連結するスラスターから炎を噴射させて軌道を変える。幾束の髪がその余波で燃えるが、それでも数える程度。

 肉体を翻し、鋼鉄の壁を蹴り、更なる跳躍を試みる――が。


「数が――多すぎるッ!?」


 たとえそれが造られた物であったとしても、一人の人間をこの世に蘇らせようとした男の執念は計り知れない。

 陳腐にいけば太いパイプで表現されてもおかしくはない髪は、一本一本がワイヤーのようであり、全てが全て可動する。

 碧狼の感覚と僕の脳を使ってさえ、その認識に数秒の遅れが生じる。少なく数えて、十万。それらが管理者の意思に沿って、各々の軌道を描く――


「グァッ!?」


 跳躍した瞬間、数万もの髪の毛が腕諸共に絡めとった。碧狼に神経を接続している肉体が、犇めき合う黒毛の感覚を全て受け止める。

 上昇するエネルギーを完全に失い、肉を引き裂くかのような痛みを覚えつつも滑降していく。どんなにレバーを引き絞ろうにも、ペダルを踏んだとしてもワイヤーを振りほどくことはできない。


『獣を御するのは大聖母のみが許された特権だ』

「だ、からっ……て――」

『母性は獣を蕩かす。それが、MHMに定められたプロトコルであり、生存本能に刻み込まれた絶対的なミームである』


 黒き髪と共に、碧色の狼は地に叩きつけられる。衝撃が走る。全身を殴りつけられるような感覚が響き渡る。悪態の代わりに漏れるのは、どこか痛々しい吐息だけだ。

 意識は、死んではいない。だが、肉体のしがらみは解かれていない。碧狼の肉体と一緒に、縛られていない本体も動かせない気がしてくる。


「動いて……くれッ!」

『無駄だ。機人獣は機械と獣。無機物と有機物の融合体だ。機械としての制約、獣としての束縛に逃れる手段はない』

「そんな屁理屈――」

『機械がそう言うか。ならば、その脳を矯正しよう』


 ――――刹那、全てが真白に染まる。


「アッ……ガガ、ガガガガガッ!?」


 否、碧狼は今、その肉体全てに雷鳴が轟いていた。黒き女神の髪から流れゆく雷撃は、機械の肢体を蛇のように蝕んでいく。それは、獣の中で共に戦う僕にも同じように伝わっているのだ。


『雷とは、神の鳴り響く音だとされる。なぜならば、人が産みだした業である機械をも殺し、生命である人も殺せるからだ』

「ガッ、ガグググッ」

『ゆえに、機械でありながら人に近づいたお前には辛かろう。さぁ、思い直せ。お前も私と同じであれば、同じ心を有しているはずだ』


 機械の肢体を持ち、人間の心が芽生えたとしても、その生命を揺るがすのは神を騙る雷鳴。かつて人が地に落とした英知。機械を発展させた母とも呼べる存在。

 肉体を走り、脳とも呼べるメモリをショートさせていく。神経パルスは焼き切れ、碧狼と繋がるための神経接続口も火花を散らし始めた。


「ゼッ……ダい、にぃッ……イやだッ!!」

『まだ言うか!』

「ァァァァァァァァァァアアアアッ!?」


 抵抗は無意味。肉体の限界は目に見えている。碧狼は言葉を発さない。何も言わない。何も――


「まァァァ……ダ、だぁッ」


 声は聞こえない。

 だが、苦しみは解る。

 碧狼の肉体は自分自身。

 一体化したから、解る。

 呻き漏れるはずの声は、未だその口から発せられていない。

 耐えているんだ。どこまでも、もう一人の自分は。

 だからこそ――この肉体が発する声は、嘆きや叫びではなく、抗うための咆哮だ。


「ァァアァアァァアッウォォォォォォォォォォォォンッ!!』


 呼応する。共鳴する――抗え。足掻け。本能に従う。生存せよ。一秒先に見える、世界を求めて。

 それが人や獣、ましてや機械でさえもが求める本能。機人獣も、機人も同じ。この世界に生きる、生命なのだから――


『MHMとレプリカの声が重なる……機人獣は、その内に生み出した生命に最も反応を示す。ではなぜ、命も持たぬレプリカに反応を示す……?』


 がんじがらめにされながらも、叫び抗う機械の獣を見下ろし、その叫びの変動に管理者は疑惑を言葉が聞こえてくる。管理者である以上に技術者である彼は、しかし数秒もせずにその答えに辿り着いたようだ。


『命を……宿した? 現実の肉体ではなく、精神が魂を宿したのであれば……』


 それは――ハンナという存在を蘇らせるために彼が行った、その所業のもう一つの姿。

 どのようなクローンを生み出したところで、同じ魂を宿す確率は極めて低い。だからこそ、彼は機人獣という揺り籠を作り、最もハンナの魂と同調できる肉体を作り上げた。そして生まれた魂を上書きするための器が、マザーハーロットモンスター。

 だが、その計画の前に行ったプロトタイプのクローン生成がある。それは管理者自身。遺伝子データをベースにした精神を機械の肢体に入れ込んだ疑似的なクローン。RCモデル。


『機械が生命となった……機人獣ではなく、その機械の肉体を揺り籠にして……それは』

「碧狼ォォッ!!」


 呼応する。その咆哮が聞こえる。生命が、生命の叫びに共感する。

 肉体を包み込む雷が、その鳴りを潜めていく――いや、順応していくのが解る。


『それは、もはや人間と同じだ!』

「――ッ!!」


 今や肉体を縛るのは雷などではなく、髪と呼ばれるワイヤーだけだった。

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