ハンナ―Eme―

 ハンナと言う女性の名前に引っかかりを覚えた僕は、そのまま施設のデータベースへ向かう事となった。かつての人類が遺した文化や記録などが保管されているこの場所には、現在と過去の人類の人間のデータも残っている。現在の人類のデータは、植民地コロニー――人間はそれを国と呼ぶ――ごとの代表者から提出されている物である。

 その中で、ハンナという女性を探したのだが、一人も該当はしなかった。そう、一人も、だ。


「……呼んではいけない名前、とかなのか?」


 人類の事は詳細には解らない。彼らがどのようなタブーを抱いているかも。

 だが、彼らがかつてこの世界を支配していたというのだから、そのような存在を生み出しても仕方がないだろう。問題は、その名前をオリジナルが呼んだという事だ。彼にとってその名は特別のように思えるし、彼のコピーである僕でさえも、その名前には思うところがある。

 だが、それがなぜエメに繋がるのだ。確かに彼女は変わっている。明らかに人間であるし、そんな彼女を秘密裏に世話をさせようとしているのもおかしな話だ。


「……リシティ!」

「エメ……」


 閲覧を終えた僕は、謎に疑念を募らせながらもエメの元へ帰還する。碧狼ヘキロウと接続した彼女は、聡明に見えてその本質はエメである事を感じさせる声を出す。いつものエメの様子を見て安堵を覚える。

 階段を上って開かれた胸部へ向かう。心なしか、そのリズムは早く、心踊っているような気がした。


「遅いよ。さぁ、チェスの続きをしよう!」

「うん……いや、そうだ」


 駒と盤面を用意しようとする彼女を引き留める。エメとの繋がりがない事を信じたいが、やはりそれが一番解るのは彼女から直接聞いた方がいい。


「エメは、ハンナという名前を聞いた事があるかい?」

「…………」


 その名前を聞いた瞬間、エメの表情が少しばかり強張るのが解った。小さな変化だ。少し前の自分なら見逃してしまいそうな、眉が強張る程度の、そんな。でも、彼女と遊び続けた今の僕には解る。

 言葉が詰まるように黙してしまった彼女に、胸が痛むのを我慢して問い質す。


「その名前に憶えがあるんだね?」

「……どこで、その名前を知ったの?」

「オリジナル――管理者アドミニスターが。調べたけど、その名前は記録されていなかった」


 管理者という言葉を聞き、緑髪の少女の瞳は更に細く、何か後悔をするような表情を見せる。彼女にとっても、その名前はそこまで大事な名前なのだろうか。


「誰なんだい? RCタイプにそのような名前も無い。人類においても記録がない」

「そんな事はないわ。少なくとも、ハンナという名前は人間の名前としては普通にある」

「じゃあ、なんで――」

「――これ以上先は、あなたにとって。そしてエメにとって、最悪な結果を呼びかねないわよ」


 その声音は、確かにエメの物に聞こえるが、しかし決定的に何かが違っていた。聡明な彼女でも残していた幼さが、完全に消えていたように感じたのだ。

 何よりも、どこかその言葉は冷たくて、エメの中にあった僕にはない暖かさが、微塵も感じられなかった。


「……君は、エメじゃない?」


 こくりと、彼女は頷く。姿かたちは完全にエメだというのに、違う誰かが入っているとでもいうのか。そんな事、人間ができるわけがない。僕達のような機械人間アンドロイドならともかく、生命の絶対的な器を持っている彼女が、そんなわけが――


「私の名前はハンナ……厳密には、この碧狼に組み込まれた遺伝子の断片。そこから生まれたエメの自意識を媒体に、一時的にあなたと言葉を交わしている。RC.640」


 エメの声音で、その名前は止めてほしい。一瞬だけ、エメの身体を操っている存在に殺意を覚えた。人間を殺す事もできない僕の右手が、震える拳を作っていたのだ。もし彼女がエメの姿でなければ、殴り殺していたに違いない。

 ハンナを自称する彼女は、そんな僕のやるせない表情を見て慈しむように、憐れむような視線を向ける。エメの姿でそんな事はしないでくれ。


「……ごめんなさいね。その名は、私にとっての起動キーでもあるの」

「あなたは一体……エメは? エメはどうなっている!」

「エメなら大丈夫。私は、言葉で言い表すなら亡霊みたいな物よ」


 エメの安否を心配し安堵するや否や、次に出てきた非科学的単語に警戒心が更に強くなる。亡霊……僕達にはあまり関連のない言葉だ。霊と言う存在でさえ、かつての人類が抱いていた妄想と言っても過言ではない。


「それは喩えなのか?」

「いいえ。私は、かつてハンナと呼ばれていた人間の精神体――の一部。電子世界で再構成され、遺伝子情報として圧縮された形。そう言う意味では、亡霊と言うより電子幽霊みたいね」

「そんな事……まず、MエムHエチMエムに遺伝子情報なんて話、初耳だ。もし仮に、あなたが本当に元人間の幽霊だとして、なぜエメなんだ?」

「……あなたは、何も知らないのね?」


 馬鹿にしたような言い方ではなかった。むしろ、知っていると思っていた事を知らなかった、という事に驚きを感じているようだった。

 知るわけがない。この機械の国での閲覧情報は、全て頭の中にインプットされている。あくまで今回調べたのは、自分の頭の中にある情報のミスが無いかを調べるためであった。そして、彼女の語った事は何もかも記憶の中に無い。


「……ごめんなさい」


 彼女はそれ以上の言葉を言い残さなかった。ただ懺悔をするように、相手の無知を笑うのではなく、悲しむように。

 数秒後にはエメの自意識が蘇り、首を傾げる。そしてチェスをしようと催促するのだ。自分の身体を別の誰かが乗っ取っている事など知らず、無邪気に、ただ僕と遊びたい一心で。

 解らない。僕は解らない。ハンナとは何なのか。エメはなぜそう微笑んでいられるのか。僕はなぜ、こう胸が苦しくなっているのか。

 小さな疑心は、大きな軋みを生み出す。



――――――――Next――――――――



『……そうか。ハンナの人格が浮かび上がったか』


 この異常を、僕は管理者に伝える。エメに巣食う、あの亡霊をどうにかしてもらうために。エメの人格を乗っ取るあのような存在は、エメには必要ない。


「一刻も早く、かの人格をどうにかするべきです」

『かもしれんな。このような機会はそうはない』

「何か手が?」

『用意は周到だ。君にその名を問うたのも、準備ができているからであった』


 機械の王は、そのマスクの赤いモノアイを点滅させる。やはりその点滅の意味が解らない。しかし、何かしらの手があるというのであれば、安心はできる。

 世話こそ僕がしても、エメの保護をしているのは彼だ。人間でいう、娘のような存在であるならば、道理である。


『早急な準備が必要だ』

「お手伝いします。エメに関してはお任せを――」

『いや、必要ない。RC.640。この作業は、君には手が負えん作業だ』

「ですが……」

『必要ないのだよ。君は久しく、スリープもしていないだろう。少しの休みをしなさい』


 ……確かに、スリープモードには久しく入っていない。エメの相手をしていると、かつての習慣であったスリープの時間を逃すし、何よりも彼女と遊び会話する時間が何よりも楽しかったのだから、休眠の時間は必要がないと感じていたのだ。

 僕達のような機械人間にとってのスリープは、頭脳回路の整備に使われる。頭の中に溜まったプログラムのバグを整える。次の活動に入った瞬間には、行う行動がスムーズに行えるようになるために。だから、彼女との遊びには負担があまりないために、七日間ぐらいならどうにかなる。

 彼女の事で不安はある。しかし、確かにもうそろそろ頭の中を整理する必要はあった。


「解りました。僅かながら、スリープに入らせてもらいます」

『そうしなさい。おやすみ』


 管理者の言葉に礼をして返し、僕はエメの下ではなく自室へ戻る。嫌な胸騒ぎがした。だけど、僕にはその感覚がよく解らない。胸騒ぎと言語化できるこの感情は、本当にそのような物なのか。

 ぐちゃぐちゃになっている頭の中で、警告音が鳴り響いているような、そんな感情。これが、本当に人間の言う胸騒ぎであるのならば――いや、長らくスリープしていない自身のバグによる妄想かもしれない。

 どちらにせよ、一度休もう。僕は数刻の間だけ、世界から意識を失う。警告音はいつまでも鳴り響いていた。

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