そとごはん

常盤しのぶ

地下街のいちぼ定食

 私は言った。何度も言った。そのプレゼンはクライアントに勘違いされると、何度も言った。しかし上司のクソヤロー、自分のやりたいようにやって案の定クライアントに誤解を与え、怒らせた。しかもその尻拭いを私にさせやがった。ムカムカする。お腹がぐらぐらとお鍋みたいに煮えくり返っている。なんで私が悪いみたいな流れになっているんだ。訴えてやる。どこに訴えればいいのかわからないけど。とにかく、この苛立ちをどう鎮めてくれようか。

 一時間程度の残業で事は済んだから良かったものの、このまま家に帰るのはなんだか癪だ。何か美味しいものをたらふく食べてお腹と心を満足させて、それから帰ろう。


 何を食べようか。職場から外に出たものの、私のお腹が何を求めているのかさっぱりわからない。おまけに雨が降っている。夏から秋へ差し掛かり、過ごしやすい天気になってはいるが、雨に降られると遠くまで行けない。少し歩けば美味しいラーメン屋があるが、雨の中を歩くとなると少し遠すぎる。それにラーメンの気分でもない。以前から気になっているステーキハウスを思い出したが、そこも少し距離がある。仕方がないので雨から逃げるように地下街へ潜り込んだ。


 駅と駅とを結ぶ地下街。ファッションや雑貨、コンビニ、エステサロンに占い屋まで混在している。そしてもちろん飲食店もそれなりに充実しているのだが、果たして私のお腹が求めるごはんはあるだろうか。

 主要な駅と駅とを結ぶ故か、やたらと距離がある。出退勤の際はいつもこの地下街を通っているのだが、端から端へ歩くだけでも結構な運動量になると思う。平日毎日こうしたウォーキングをしているのに何故身体が引き締まらないのか。だめだ、余計イライラしてきた。早くごはんを探し当てないと。


 一件のお店が目についた。最近できたばかりの定食屋で、他の店に比べて店舗が倍くらい広く作られている。賃貸費用も倍かかっているのだろうか。そんなくだらない事を考えつつメニューを眺めてみる。ホッケの開き定食やサバの味噌煮定食など、定食メニューが充実している。そういえば最近ハンバーガーだのナポリタンだのといった洋食ばかりを食べていた。待て、ナポリタンは日本生まれだから和食なのか?いや、そんなことはどうでもいい。

 その中でも一際目についたのが”ローストビーフ丼”。最近テレビやSNSでよく見かけるが、そんなに美味しいのだろうか。ここのそれだって1600円もするではないか。みんな良いものを食べておる。よし、ここに決めた。やるなら徹底的に、だ。


「いらっしゃあせこんにちはおひとりさまですかぁカウンターどうぞー」

 流石プロというか、有無を言わさずカウンター席に座らされた。

 いわゆる”ひとり外食”はかろうじてクリアできても、カウンターに座ることがどうしてもできない女性が沢山いると聞く。私は別に気にせず座ってしまうのだが、どうやら少数派らしい。少しして水が置かれ、お絞りが手渡される。冷たい。

「何かお飲みになりますか?」

 おそらくアルコールのことだろうが、生憎私はその類が飲めない。少し残念そうに去っていく。この時間はごはんついでに一杯やるサラリーマンが多いのだろうか。

 メニューを開くと、店先で見たような定食の名前が並んでいる。その他にも当然メニューは存在するのだが、あるひとつに目を奪われた。


牛1頭から約3kgしか取れない貴重な"いちぼ"を贅沢に盛った定食!麦飯はおかわり自由!


 いちぼ、初めて聞いた。メニューには「お尻のお肉」と書いてある。お尻といえばたしかランプがお尻だったと思うが、どう違うのだろうか。どっちみち"いちぼ"は希少部位であることに間違いはなさそうだ。それに麦飯はおかわり自由。ローストビーフ丼を食べる為に入ったのに、私のお腹は完全に"いちぼ定食"に釘付けになっていた。

 店員を呼び、いちぼ定食を注文する。「お飲み物はいかがされますか?」とまた聞かれたが、断った。少し残念そうに去っていく。そんなに酒を飲まないのが珍しいのだろうか。少し面白く思えてきた。


 水を飲みながら少し待っていると、キッチンから怒号が飛び込んできた。何を言っているのかわからないが、おそらく怒っているであろう側は相当イライラしているようだ。怒られている側の様子はまったくわからないが、なんとなく応援したくなる。何を怒られているのかわからないが頑張れ。それを乗り切って美味しいもの食べて元気だそう、な?心の中でエールを送る。


 お待たせしました、の声と共にいちぼ定食が目の前に現れた。鉄板の上でミディアム・レアに焼かれた"いちぼ"が目を引く。ステーキのように何切れかに分かれているそれは、赤身を輝かせ、脂身を滴らせ、私の喉を唸らせる。上に載っているのはバターだろうか。熱を持った肉が四角いそれを少しずつ溶かしていく。

 肉と一緒にポテトが添えられていた。皮がついている、いわゆるフライドポテトの形ではない食べごたえのあるあの形だ。ちなみに野菜は一切ついていない。憎いことをしやがる。


 初めて食べる"いちぼ"に少し恐怖しながら、おそるおそる箸を伸ばす。肉質は柔らかく、程よく弾力がある。溶けかけているバターを少し付け、口に運ぶ。脂の香りがふわりと口の中に広がり、噛む毎に赤身の旨味が肉汁と一緒に喉を下っていく。これが牛1頭あたり3kgしか取れない"いちぼ"の味。今まで食べていたスーパーの牛肉はなんだったのか。ゴム?バターのコクが肉の旨味を更に引き立て、私の空腹感を追い詰める。

 仕方がない、これは仕方がないんだと訳の分からない言い訳をしながら麦飯を豪快に掻き込む。麦飯って多分健康に良いからたくさん食べても大丈夫。そうやって言い訳をして易易と太ってゆく。しかし構わない。こんなに美味しいお肉が贅肉になるのなら気にならない。後できっと後悔するけど、今の私が許す。未来の私よ、今の私に免じて許してくれ。


 肉、麦飯、肉、麦飯、ポテト、肉、麦飯おかわり、肉、麦飯。間髪を入れずに肉と米の楽園をフルに楽しむ。お酒が飲める人はきっともっと楽しめるのだろう。少し羨ましい。気がつけば肉が無くなり、私のお腹は満腹感で満たされていた。


 いちぼの余韻に浸りたかったが、店が段々と賑やかになってきたため、邪魔にならないうちに退散する。希少部位であるにも関わらず、あんなにも堪能したのにも関わらず、お会計は2000円を超えなかった。さすがに毎日は厳しいが、月に一度のお楽しみと考えれば非常に通いやすい。なにより通勤経路上にある。こんなに幸せなことはない。

 今の私は幸せに満ち満ちている。仕事で何か嫌なことがあった気もするが、もう何も気にならなくなった。

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