頬の傷は大したことないけど、不意打ちな告白は僕を悩ませる。
青見銀縁
本編
頬を切られるというのは、僕としてはあまりにもあっさりに感じられた。
平日の夜。高校一年の僕は母親から頼まれた買い物の帰りだった。
片手にスーパーのビニール袋を提げ、中には卵のパックが入っていた。何でも、母親が夕飯にオムレツを作ろうとして、卵を切らしたことに気づいたからだった。
とまあ、僕が出歩いている理由はそれとして。
僕は見知らぬ誰かに襲われていた。
頬を切られたというのは、相手がナイフで、僕に向かってきたからだ。
住宅街の舗道。僕と相手との間には、電柱の外灯が明かりを照らしていた。周りには通行人がいない。家々の電気はついているところから、住人はそこかしこにいるはず。だけど、僕が襲われていることには気づいていないだろう。叫び声を上げたわけでもないから。
というより、僕は誰かに助けてもらおうという心の余裕すらなかった。
相手は黒っぽいパーカを着て、顔はフードを深く被っており、見えない。身長は僕と同じくらい。胸があるかどうかは、薄暗いこともあり、わかりづらかった。なので、性別すら不明。赤の他人か、知り合いかも不明。
僕は卵パック入りビニール袋を片手で握りしめたまま、身構えた。
相手は前にナイフを出し、正面を合わせてくる。
また、襲ってくる。
頬の傷は痛みがない。緊迫感が増して、アドレナリンとかが出ているのだろうか。まあ、いい。
相手は腰を屈めた。
僕は逃げようとしなかった。
正確には、恐怖で逃げられないといったところ。
とにかく、心臓を一突きされて、即死というのは免れたい。
相手は走り出すと、僕の正面めがけて、ナイフを突き出して襲ってきた。
僕は寸前で、相手からの攻撃を避けた。反復横跳びの要領でだ。
相手は僕に避けられたことに対して、振り返り、再びナイフを手に向かってくる。
僕は距離を取ろうと後ずさりする。だが、途中で背中が固い感触にぶち当たった。
振り返れば、住宅のブロック塀だ。
追い詰められた。
僕はまた、寸前で避けようと思ったが、今度は相手がどう出るかわからない。
もう、ダメなのか。
僕は内心、諦めかけそうになっていた。
相手はナイフ片手に、ゆっくりと近づいてくる。
僕はもう、まぶたを閉じてしまっていた。
「おい! そこで何やってんだ!」
突然の声に目を開ければ、近くにスーツ姿の男性が現れていた。どうやら、会社帰りらしい。
相手は男性の方へ顔を動かすと、まずいと感じたのか、すぐに場を立ち去っていった。
「おい!」
男性は叫び、追いかけようとするも、何歩かで立ち止まってしまった。相手は近くの角をさっさと曲がってしまい、姿が見えなくなっていた。
男性は相手を諦めたのか、僕の方へ駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
「頬、ケガしてるじゃないか」
「そこまで大したことないケガです」
僕は答えるも、男性は何もしないわけではなかった。スーツのポケットからハンカチを出すと、頬の傷に優しく当ててくれた。
「とりあえず、警察を呼ぼう。君は家に電話した方がいい」
男性は言うなり、別のポケットから手にしたスマホで、電話をし始めた。何があったかや、場所はどこかなどを、話していた。
僕は男性のハンカチを頬に当てつつ、ぼんやりと夜空を見上げた。
曇りがちで、星は数えるほどしか視界に映らなかった。
僕を襲った犯人は単なる通り魔か。
それとも……。
ふと、手にしていたビニール袋の中を覗けば、卵は割れていなかった。
僕の命とともに幸いだったと感じたくなるものがあった。
翌日。
僕は傷が残る頬をさすりつつ、窓際の席でぼんやりとしていた。
昨日は駆けつけてきた警察に色々と聞かれて疲れてしまった。気分としては、学校を休みたくなるほどだった。だが、母親に言われ、仕方なく学校に来たというところだ。
クラスメイトはおろか、全校生徒全員、僕が襲われたことは知っているらしい。職員会議で話があったので、各クラス、朝のホームルームで伝わったそうだ。と、担任からはおぼろげに聞いた。
僕としては、昨日あったちょっとした出来事になっていた。ナイフを突き出された時は、死ぬ覚悟をしていたのにだ。危機を脱して、よほど気持ちが腑抜けになってしまったのだろうか。今は疲れを少しでも和らげるために、眠りたかった。
と思ったが、僕は席を立ち、トイレへ行くことにした。休み時間に尿意を堪えることはさすがにだ。
窓際から黒板前の教壇を横切り、廊下へ続く引き戸へ向かう。クラスメイトらは雑談やらで盛り上がっていたり、寝ていたりと様々だ。既に教科書を開き、次の授業に備えているであろうクラスメイトも少数だがいる。
僕はただひとつの光景として、さらっと見つつ、教室を出た。
「赤坂くん」
不意に、僕の苗字を呼ぶ声が耳に響いてきた。
顔をやれば、廊下の窓に寄りかかっているひとりの女子がいた。
両腕を組み、かけているメガネから、真っ直ぐ、僕の方を見つめているみたいだった。肩まで伸ばした黒髪はあまり手入れしてないのか、所々跳ねている。化粧っ気はなく、どちらかと言えば、地味な子の部類になるかもしれない。胸は巨乳でもなければ、薄くもない、どちらかといえば、ある方だ。
彼女はおもむろに僕の方へ歩み寄ってきた。
「古橋琴海」
「君の名前?」
「そう」
「僕の名前は」
「赤坂薫。知らなければ、わたしが声かけるわけない」
古橋は口にするなり、背を向け、どこかへ足を進ませていく。
「話があるから」
古橋の言葉に、僕はわけがわからないながらも、ついていくことにした。
教室のある校舎を抜け、職員室がある別の校舎をつなぐ渡り廊下へ出る。
古橋は渡り廊下の真ん中ぐらいで、足を止め、僕の方へ振り返ってきた。
「このままだと、赤坂くんは殺される」
「殺される?」
「そう。殺される」
古橋の声に、僕は何が何だかわからなかった。
「昨日、赤坂くんが襲われたこと」
「うん。襲われた」
「わたしは、単なる通り魔事件じゃないと思うから」
「それって、僕を狙って、誰かが襲ったってこと?」
僕の問いかけに、古橋は躊躇せずにうなずく。
「そもそも、この学校に赤坂くんがいたこと自体、驚きだけど」
「何で?」
「てっきり、どこか遠いところへ進学したと思ったから」
古橋は言うなり、渡り廊下の手すりに寄りかかった。
「わたし、赤坂くんと小中、同じ学校だったから」
「そうなんだ」
「とぼけないで」
古橋は僕の方へ鋭い眼差しを向けてきた。
「わたしは、赤坂くんとはクラスが一緒になったことないけど、知ってる」
「僕、そろそろ、次の授業があるから」
「逃げる気?」
「そういうわけじゃ」
「小学校であったこと、なかったことにしようとしてる。赤坂くんは」
古橋の質問に、僕はどうしようかと戸惑ってしまった。今まで、古橋には早くトイレに行きたいがために、適当に受け答えしていた。
だが、今の質問は、曖昧に答える気持ちがとてもじゃないけど、起きなかった。
「昼休みの時にちゃんと話そう。僕が小学校にあったこと」
僕が真剣な調子で口にすると、古橋は、「わかった」と返事した。
「昼休み始まってすぐ、屋上前の西階段で待ってるから」
「わかった」
僕がうなずいたと同時に、チャイムの電子音が校内に鳴り響く。
「それじゃあ、わたしはこれで失礼するから」
古橋は淡々と口にすると、僕の前を立ち去っていった。
僕は古橋のことを知っているかどうか、記憶を遡ってみたが、ダメだった。
そんなことより、トイレだ。
僕は足早に校舎へ戻ると、急いで、トイレに駆け込んだ。
途中、先にいなくなっていた古橋がとなりのクラスへ入っていくのを見かけた。
「このままだと、赤坂くんは殺される」
古橋の言葉は、トイレから戻り、授業を受けている間にも、頭から離れなかった。
昼休み。
古橋は屋上前の西階段で座り、弁当を食べていた。
一方で僕は、購買部から手に入れたものを持っていた。チョココロネとコロッケパン、そして、紙パックのコーヒー牛乳だ。
「遅い」
「いやあ、購買部はいつも混むから」
僕は軽く頭を下げると、古橋とやや距離を空けて、座り込んだ。
古橋は弁当の中身を半分ほど減らしていた。
「弁当って、手作り?」
「母さんが作ったもの。女子の弁当はみんな手作りとかじゃない」
「何だか、ごめん」
「そんなことより」
古橋は残っている弁当に箸を置き、僕と目を合わせた。
「赤坂くんの話」
一方で僕は、チョココロネを袋から出し、かじりつこうとしているところだった。
「あの、少しは腹に入れたいんだけど」
「そんなこと、知らない」
「そうですか」
僕は諦め、チョココロネを近くに置いた。後は未開封のコロッケパンとコーヒー牛乳。
「まあ、古橋さんは、僕と同じ小学校だったから、僕に何があったことを当然知ってるわけで」
「前置きはいい」
「わかりました」
僕は言うなり、小学校の頃を思い出し始めた。
「僕は、誘拐した犯人を殺したことを、なかったことになんて、してない」
僕の言葉に、古橋は驚くような様子がまったくなかった。当たり前だ。同じ小学校だったなら、そのことは同級生に知れ渡っていた事件だからだ。なので、古橋の反応にはかえって、安心感を抱くことができた。
古橋は何も変わらず、僕と向かい合う。
「それなのに、赤坂くんは休み時間の時、適当な受け答えをしていた」
「それは、トイレを我慢していたから」
「なら、先にそのことを言えばいいだけ」
「何というか、その、古橋さんには断りづらい雰囲気があったから……」
僕がおもむろに言うと、古橋は気にしないような表情をしていた。
「それなら、仕方ない」
「あれ? それなりに、古橋さんのネガティブなことを口にしたつもりだったんだけど、怒らないの?」
「怒るも何も、そういうのは慣れてるから」
古橋は淡々と声をこぼす。
「昼休みにこんなところでひとり弁当を食べてるわたしを見て、赤坂くんは何となく察しがつくと思う」
「ああ、そういうことね」
僕は苦笑いを浮かべてしまった。
「でも、小中の時よりはマシだから」
「マシ?」
「その時はよくいじめられていたから」
「そう、なんだ」
僕はどう反応すればいいか、困ってしまった。自分には誘拐犯を殺したという重い過去がある。とはいえ、古橋のいじめを受けていた話が軽いということにはならない。
「僕はその時、自分のことだけで精一杯だったからなあ……」
「それがおかげというのも失礼かもしれないけど、わたしは助かった」
「助かった?」
僕がおうむ返しに尋ねると、古橋はゆっくりと首を縦に振った。
「当時は、物を隠されたり、万引きを強要されたり、時には暴力を受けたりしてた。けど、赤坂くんのことがあって、いじめてた奴らは多少なりとも、赤坂くんの方へ興味が移ったみたいで、わたしへのいじめは薄らいだ」
古橋は中身が半分残る弁当箱を見つつ、口にした。
どうやら、僕のことを感謝しているみたいだった。
「それは、その、どういたしまして」
「でも、薄らいだとはいえ、まったくなくなったわけじゃなかった。だから」
「地元じゃない今の高校へ進学ってことか」
「そう」
古橋は返事すると、残っていた弁当の中身を箸で食べ始める。
僕はチョココロネを持ち、かじりつく。
「僕も、この高校へ進学したのは、同じ理由だなあ……」
「誘拐事件のことをみんなから言われ続けてたから?」
「まあ、そんなところ。高校も同じようなことを言われ続けるのも疲れてきたから」
僕はチョココロネを味わいつつ、小中の頃を思い出す。
人殺しと陰でささやかれ、誰からも接してくれなかった日々。
両親ですら、僕を腫れ物扱いする。
つまりは、僕のことを真剣に気にかけてくれる人がいなかった。
高校では、誘拐事件のことを触れずに、どうにか、友人とかはできたりした。
なので、誘拐事件を知っている人で、僕とまともに話す古橋は不思議に思えた。
「古橋さんって、何で、僕なんかに声かけたんだろうなって」
僕がとぼけた感じで言うと、古橋はメガネを軽くかけ直した。
「恩返し」
「恩返し?」
「そう。赤坂くん、このままだと殺されると思ったから」
古橋は弁当で最後に残っていたご飯を口に運び終えると、弁当箱を片づけた。
「同じ学年の『あかさか』くんという人が、誰かに襲われたって聞いて、もしかしたらと思って、いるであろうクラスの前で待ってみた。そしたら、赤坂くんが現れた。それで、わたしは確信した。赤坂くんを襲った人は、前の誘拐事件絡みの人だろうって」
「どうして?」
「それは、赤坂くんが一番よく知ってるはず」
古橋から視線を向けられ、僕はチョココロネのかけらを思わず飲み込んでしまった。
「そっかあ……。古橋さん、知ってるんだ」
僕はまいったなと思いつつ、髪を掻いた。
高校生になった今でも、まさかとは感じつつも、僕は受け入れなければいけないのだろうか。
「犯人の従妹」
「覚えてる」
「わたしは、噂しか聞いたことない。罵倒されたこととか」
「そうそう。僕が誘拐犯を殺して、警察に保護された後、病院に移された時かなあ」
僕は記憶を遡ってみた。
病室のベッドで横になっていた僕。
突然、入り込んできて、僕に涙ながらに詰め寄ってきた女の子。
当時、一緒の学年だったので、現在も同じ高校一年生か。
「『何でお兄ちゃんを殺したの!?』って、叫んでたよなあ」
「その子、今は?」
「知らない。だけど、もしかしたら、近辺に住んでるかもしれない」
「近辺って」
「最悪、この高校に通ってるかもなあ」
僕はコロッケパンの袋を開け、かじり始める。ついでに、コーヒー牛乳の紙パックにストローを差した。
「その子が、昨日僕を襲ったって言いたいの?」
「そう」
「それで、僕が殺されるかもしれないから、恩返しとして、僕を守ろうとか、そういう感じ?」
「そういう感じ」
古橋はうなずいた。
「考えすぎだよ」
僕はコロッケパンを半分ほど食べ終えると、コーヒー牛乳を飲んだ。
「それじゃあ、昨日、赤坂くんを襲ったのは誰?」
「それはまあ、通り魔かもしれないというわけで」
「通り魔じゃなかったら? 仮に、赤坂くんを襲った犯人が、誘拐犯の従妹だとしたら」
「事件のことは警察に任せておけばいいよ。古橋さんは考えすぎだって」
僕はコロッケパンを食べ終えると、コーヒー牛乳を一気に飲み干した。
「だいたい、事件から何年も経った今になって、どうして、僕を今さら殺そうと思い立ったのかわからないし」
「それは……」
「古橋さんが僕のことをそう心配してくれるのは嬉しい。けど、古橋さんは僕のことを気にせずに、せっかく地元から離れた高校に進学したんだから、小中の時は忘れて、学校生活を楽しまないとって」
僕は話しつつ、しまったと思った。古橋は屋上前の階段で弁当を食べていた。今の高校生活もあまりうまくいってないようだったのだ。
「ごめん。後半の話は忘れて」
「わたしはそれなりに楽しんでるから」
「そう、ですか」
「とにかく、わたしは、小中でいじめを薄らいでくれた赤坂くんに、何らかの恩返しをしようと思ってるから」
「と言われても、犯人を見たとはいえ、顔を隠してたし、胸はあったかどうかもわからないから、性別不明だし……」
「だとしたら、常に赤坂くんの周りを警戒するしかない」
「そこまでしなくても」
「殺されたら、その時はもう、手遅れ」
「手遅れというより、もう、ゲームオーバーだなあ」
「わかってるなら、赤坂くんはそれなりに自分のことを気にした方がいいと思う」
真剣そうな眼差しを送ってくる古橋。大真面目に僕のことを心配してくれているみたいだ。
なら、あまりにも断りすぎるのもよくない気がしてきた。
「わかった」
僕は言うと、パンふたつの袋を片手で握りつぶした。
「古橋さんの恩返し、受けようかと思う」
「わたしは、赤坂くんが嫌といっても、しようと思っていたから」
「はた迷惑だなあ」
「わたしは赤坂くんの命を守れれば、十分だから」
古橋は弁当箱を持って立ち上がると、制服のスカートを手で払った。地べたに座っていたせいか、埃とかがついたらしい。だいたい、屋上前の階段は掃除当番がいたとしても、サボりやすそうだ。というぐらい、床や階段は汚れているみたいだった。
「赤坂くん、昼食は終わった?」
「一応ね」
「なら、教室まで送っていくから」
「いいよいいよ」
「学校でも、どこで誰が狙ってるかわからないから」
「まあ、それはそうだけどさあ」
「もしかしたら、誘拐犯の従妹がこの学校にいるかもしれないから」
「それだけはごめんだね」
僕は苦笑いを浮かべると、パンの袋とコーヒー牛乳の紙パックをつぶして、立ち上がる。
古橋は周りへ顔を動かした。誰かいないか、確かめているのだろう。
僕はふと、昨日切りつけられた頬の傷を撫でてみた。
痛みはなく、僕は死なずに済んだことを改めて感じさせた。
「赤坂くん」
放課後、僕が教室を出ると、当たり前かのように、古橋が待っていた。
僕が声をかけようとすると、後ろから誰かが思いっきり肩を叩いてきた。
「赤坂―、誰、この子?」
「誰って、まあ、その、知り合いとかかな」
「へえー」
僕の横に現れた女子、能登真理奈。席がとなりのクラス委員長だ。髪をバッサリと短く切り、制服を着ていなければ、男子と見間違えそうなほどだった。僕に対して、クラス委員長という立場も含めてか、色々と気にかけてくれる。僕はクラスで友人はいるにせよ、基本はひとりで過ごすことが多い。なので、能登が時々話しかけてくれたりした。
一方で、古橋にとっては、能登とは初対面だ。
「誰?」
「うちのクラス委員長」
「とりあえず、よろしくー」
能登は表情をほころばすと、古橋と強引に手を握った。
「それで、この子は、赤坂の彼女?」
「違う違う」
僕はかぶりを振った。
「ちょっとした知り合いかなあ」
「その、『ちょっとした』っていう言い方、怪しすぎるよねー」
「それじゃあ、小中一緒なだけの知り合い」
「そう言えばいいんじゃん」
「そういうのって、紹介するのは微妙かなあって思っただけで」
「微妙じゃないよー。赤坂はそういうところ、気にしすぎるところがあるんだから」
能登は笑みを浮かべると、古橋と目を合わせた。
「それで、お名前は?」
「古橋琴海」
「ことみねー。いい名前だねー」
「まだ、漢字を伝えてないけど」
「いいのいいの。名前っていうのは、聞いた語感でわかるようなものだから」
「そういうもんだっけ?」
「そういうもんだよ、赤坂」
能登は言うなり、僕と古橋の方へ視線を交互へ動かす。
「で、本当はどういう関係?」
能登は首を傾げつつ、聞いてくる。
無理もない。能登にとっては、僕が他の女子と会うところなんて、初めて見たようなものだからだ。
「まあ、その、ほら」
「恩人」
古橋はぶっきらぼうな表情のまま、淡々と答えた。
「恩人かー。赤坂は人助けをしたんだー」
「小中の時に、わたしがいじめられていたところを色々と助けてくれた」
「どんな風に?」
「隠されたものを見つけてくれたり、いじめの主犯格の奴らに怒鳴ってくれたり」
「へえー」
能登は僕の顔を覗き込むなり、何回も納得するかのようにうなずいた。
「それで、その恩人さんと何か約束?」
「高校が一緒だったことを今日初めて知りました。それなので、お礼をしようと思っていました」
「やるねー、赤坂」
能登は僕の肩を肘で小突き、顔をほころばせる。
古橋の言っていることはうそと本当が混じり合っていた。
「というわけで、赤坂くんをお借りします」
「いいよいいよー。というより、赤坂はあたしの持ち物じゃないしねー」
能登は手を振るなり、教室へと戻っていった。考えれば、能登は今日、掃除当番だった。教室の中に入るなり、残っている生徒からほうきを渡され、床を掃き始めた。
「赤坂くん」
「そう、だね」
僕が歯切れ悪く返事した時には、古橋は既に、下駄箱へ続く階段の方へ歩いていた。
「怪しい」
「能登のこと?」
「彼女しか考えられない」
帰り道の住宅街。古橋は真面目そうな表情で口にした。
「能登さんはいつもあんな感じ?」
「そうだね。僕以外にも、クラスメイトにはみんなあんな感じ」
「そう」
「だから、特別僕にだけやたら接してくるというわけでもないし」
「他のクラスメイトにも同じように接してるのは、カムフラージュかもしれない」
「古橋さん、やたら、能登にこだわるね」
「赤坂くんが殺した誘拐犯の従妹だったら、危ないから」
「それはそうだけどさあ……」
僕は返事するなり、誘拐犯を殺した記憶がうっすらと蘇ってきた。
監禁されたワンルームの一室。
近くのキッチンにあった包丁。
僕は手に取るなり、後ろを向いた彼の背中を刺した。
「赤坂くん?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとね」
僕は心配そうに覗き込んでくる古橋に対して、手を出して答えた。忘れたい過去ほど、根強く残るものなのかもしれない。
「とにかく、能登さんは怪しい」
「僕は別に、怪しくないと思うけどな」
「赤坂くんは危機感がなさすぎる」
ぼそっと口にする古橋。僕のことを気にかけての発言だろうか。
「能登さん、誘拐犯の従妹に似てた?」
「似てたって、もう、小学校の頃だからなあ」
「それでも、多少なりとも面影みたいなのはあるはず」
「能登は髪が短いけど、あの時会った従妹は髪が肩まであったし、顔は、うーん」
僕は両腕を組み、考え込む。顔は正直、おぼろげ過ぎて、能登と比べられるほど、覚えていない。
「能登に聞いてみようか?」
「それはない」
古橋は声を尖らせた。
「そんなことしたら、彼女を刺激するだけ。それに、正直に答えてくれるはずもない」
「そこはまあ、遠回しに色々と」
「赤坂くん。本当に危機感を持った方がいいと思う」
見れば、古橋が鋭い眼差しを向けてきた。
僕は思わず、「ごめんごめん」と言い、軽く頭を下げた。
「まったく……」
「何が、『まったく……』なのかなー?」
「うわっ!」
後ろからの声に、僕は驚いた。
見れば、教室で別れたはずの能登が僕と古橋の間に割り込んできた。
古橋は表情をきつくした。
「能登さんは掃除当番みたいだったけど?」
「ああー、まあ、そこは他の人に代わってもらったよー」
「クラス委員長がそんなことしても?」
問いかける古橋の口調は鋭かった。
「いいのいいのー。それに、クラス委員長っていっても、大した仕事とかしてないしー」
能登は笑みをこぼしつつ、答える。
古橋は能登を挟んで歩いている僕の方へ向けて、視線を投げかける。
怪しいっていうレベルじゃない。
僕には、そういう風に伝えているかに思えた。
「で」
能登は僕と古橋より前へ出ると、足を止め、振り返ってきた。
「ふたりはこれから、どこに行くのかなー?」
「そんなの、わたしたちの勝手」
「ことみには聞いてないよー」
能登はにこやかな表情で言うなり、僕と目を合わせた。
「まさか、本当に、ことみのいじめを助けようと色々やってたのかな?」
「いや、まあ、それは、かくかく云々で……」
「とぼけるんだー、赤坂」
能登の声は、僕がうそをついていると思っているみたいだった。顔は笑っているが、内心は明らかに違うようだ。
僕は能登にうまく説明しようと、足を何歩か進ませた。
と、僕は急に手首を掴まれた。
両腕は背中へ回されて、誰かの手で押さえられた。学校の鞄はそばに落としてしまっていた。
首筋近くには、いつの間にか出てきたナイフの刃先。
「油断した」
「やっぱり、あたしのこと、警戒してたんだねー」
後ろを見れば、能登がいて、僕のことを完全に押さえ込んでいた。
「赤坂は、変な動きしたら、首を掻っ切るから、気をつけてねー」
「そういうことをするなんて、あなた。赤坂くんを誘拐した犯人の」
「お兄ちゃんを殺したこと、ことみは知ってるんだー」
能登は言うなり、僕の手首を押さえる腕の力を強くした。思わず、僕は「ウッ!」と声を漏らしてしまう。
古橋は僕と能登の距離を保ちつつ、動かない。いや、動けないのだろう。
能登はナイフの刃先を僕の首筋から、背中の方へ移した。
気づけば、横を自転車が通り過ぎていった。乗っていた男性は、僕らのことを横目で見やっただけだった。
「ここだと、人目がつくから、場所を変えよっか?」
能登の言葉に、古橋はうなずきもしない。抗っても、意味はない。かといって、素直に応じることは嫌だ。古橋のメガネの奥にある瞳がそう僕に伝えてきているような気がした。
僕は何もできなかった。
「じゃあ、赤坂、ついてきてー」
僕は能登に手首を掴まれ、ナイフを背中に当てられたまま、歩かされた。
古橋は黙って、ただ、足を止めていた。
「ことみも行くんだよー」
「わかってる」
古橋はぼそりと口にすると、落ちていた僕の鞄を拾い上げ、遅れてついてくる。
ところで気づいたが、能登は学校の鞄を持っていなかった。
「能登はさ」
「何ー、赤坂」
「学校の鞄は?」
「置いてきた」
「置いてきた?」
「うん。だって、赤坂をこうするのに、邪魔だからねー」
陽気そうに答える能登に、僕は今さらながら、恐怖感がほとばしってきた。
「ここで言うのもなんですが、わたしの名前は、楽器の『琴』に、日本海の『海』なので」
「『琴』『海』ねー。漢字で言われると、いっそういい名前に感じるねー」
能登は何回もうなずく。
僕と古橋は、河川敷の鉄橋下にいた。時折、電車が速度を上げて走っていく。
僕は相変わらず、手首を後ろで掴まれ、身動きを取れなくされていた。首筋には再びナイフが当てられている。ちょっとでも動こうものなら、血が滴り落ちてきそうだ。
僕と能登は、古橋に対して、距離を置いて正面を向ける形になっていた。先ほど住宅街でなっていた構図と同じだ。
「琴海は、何で赤坂と一緒にいたのかなー」
「別に、知ってもらう必要はないと思う」
「こんな状況でよくそんなこと言えるねー」
能登は言うなり、笑いをこぼす。
「あなたは、赤坂くんを殺すつもり?」
「そうだよー。お兄ちゃんの敵討ち」
「で、でも、僕を殺しても、お兄さんは生き返るわけじゃないし」
「うるさいよ、赤坂」
能登はナイフに力を入れてきて、僕の首筋に刃先を当ててきた。一瞬痛みがあり、見れば、赤い血が垂れてきていた。
「ひどい」
「ひどいのはどっちかなー。お兄ちゃんを殺した赤坂の方がよっぽどひどいと思うよー。そんな赤坂とふたりでいた琴海はもっとひどいと思うよー」
「古橋は関係ないって。やるなら、さっさと僕を殺して」
「簡単にサクッと赤坂を殺しても、あたしはお兄ちゃんを殺された恨みは晴れないんだよー」
能登は言うなり、間を置かずに僕の首筋を軽くナイフで切りつけてきた。
「いてっ!」
僕は痛みに耐えかねず、場に倒れこんでしまった。首筋に手を当てれば、すぐに真っ赤になってしまうほど、血が噴き出ていた。
「赤坂くん!」
古橋は慌てた感じで、制服のポケットからスマホを取り出す。
だが、能登がうつ伏せで倒れた僕の背中に片足を乗せ、ナイフを古橋の方へ向けていた。
「それ以上余計な動きすると、赤坂の息の根、完全に止めちゃうよー」
「の、能登……」
僕は意識が薄らいでいく中、何とか声を絞り出した。
「赤坂は、今の傷だけでだいぶダメージがあったみたいだねー」
「赤坂くん!」
古橋が必死さを滲み出したような口調で叫ぶ。まぶたが重くなってきて、視界は段々と狭まっていく。赤坂は僕に駆け寄りたいのだろう。けど、能登がそれを許さないはずで、場にとどまったままだった。
もう、ダメなのか。
僕は諦めの感情を抱き始めていた。
再び、電車の走行音が頭上で鳴り響く。
重いまぶたが閉じられ、僕の耳からは何も聞こえなくなってしまった。
目を開ければ、僕はベッドで横になっていた。首筋には白い包帯が巻かれ、吊るされた点滴の袋が自分の腕までチューブでつながっていた。そばにある窓を見れば、灰色の雲が空を覆っていた。雨音がするところから、外の天気は悪いらしい。
僕はどうやら、どこかの病院にいるようだった。鉄橋下で能登に首筋を切りつけられてから、どれくらい経ったかわからない。
「赤坂くん」
不意に声がし、僕は顔を動かした。
「古橋さん?」
「意識が戻ったみたい」
僕がいるベッドの横で、赤坂がメガネを外し、瞳を擦りつつ、口にした。丸椅子に座り、先ほどまで眠りこけていたかのようだ。
「僕はいったい……」
「赤坂くんは、あれから一日ぐらい眠っていた」
「そう、なんだ」
「助かってよかった」
古橋はメガネをかけ直し、安堵したような調子で言った。
「能登は?」
「能登さんは捕まった」
「捕まったって、警察に?」
「そう」
古橋はうなずいた。
「そうかあ……。でも、あの状況でよく捕まることになったね」
「何でも、どこかの人が自転車で横切った時に、赤坂くんにナイフを突きつけてる能登さんを見たから、警察に通報して、鉄橋下にわたしたちがいるところまでつけてたみたいだから」
「それって、能登が鉄橋下に行こうと言う前に横切った人?」
「かもしれない」
「まあ、何はともあれ、助かったっていうわけか」
僕はホッとするなり、病室の天井を見上げた。
「でも、安心はできないから」
「どういう意味?」
「能登さん、しばらくは少年院とかにいると思うけど、いずれは外に出てくると思うから」
「その時はまた、僕のことを狙ってくるってこと?」
古橋はうなずくと、立ち上がり、僕と目を合わせた。
「だから、その時はまた、わたしが赤坂くんのことを守るから」
真剣そうな眼差しをする古橋。断ろうにも、本人は受け入れないだろう。恩返しはまだ終えてないということなら。
「そういえば」
僕はあることを思い出した。
「結局、夜中の買い物帰りに僕を襲ったのって、能登?」
「それはわたし」
「へえー、古橋さんだったんだって、えっ?」
僕はさりげない古橋の告白に、声が止まってしまった。
「うそ、だよね?」
「本当」
「それじゃあ、古橋さんは、僕のことをあの時、殺そうとしてたってこと?」
「それはない」
古橋はかぶりを振った。
「あの時は赤坂くんに危機感を持ってほしかった。ただ、それだけのため」
「危機感ってさあ……」
「それに、ああすれば、誘拐犯の従妹が出てくるかもしれないと思ったから」
古橋は口にするなり、僕の方へ正面を向けて、頭を深く下げた。
「えっ?」
「だから、ごめんなさい」
古橋は僕を襲ったということに対して、申し訳なさがあるらしい。
僕はどうすればいいのか戸惑ってしまう。
「まあまあ、その、とりあえず、古橋さん。顔を上げて」
「顔は上げられない」
「ほら、僕の頬を傷つけただけだし……」
「傷つけたのは立派な罪」
古橋は顔を上げる気配すら見せない。
僕は頭を掻いた。
「それじゃあ、その、代償として、僕のことを守ってください」
口にした僕は、途端に恥ずかしく感じた。男子が女子に言うセリフじゃないだろうと。いや、現代において、聞いたことないセリフだ。
一方で、古橋はゆっくりと顔を上げてきた。
「それは当然」
「当然かあ。僕は本当に、古橋さんに何もしてないんだけどなあ」
「してる。わたしのいじめを軽減してくれた」
「それは、僕が単に誘拐犯を殺したってことでみんなから嫌われただけだし」
「それは違う」
古橋は首を横に振った。
「わたしは嫌っていなかった」
「それはまあ、僕に感謝してるみたいだし……」
僕がどう言葉を紡ごうか悩んでいると、不意に古橋が僕の手を握ってきた。
「わたしは、赤坂くんのことが好きだから」
「えっ? それって……」
「告白」
古橋は真っ直ぐな視線を僕の方へ送ってきた。
僕はさらに悩んでしまった。
人殺しをした僕が、恋人を作っていいんだろうかと。
窓に目をやれば、灰色をした雲の切れ間から、光が差し込んできていた。雨音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
僕は見るなり、意を決した。
「わかった」
僕がうなずくと、古橋は「ありがとう」と小声で答えてくれた。
頬をさすれば、古橋に切られた傷の跡が相変わらずあった。痛みはもうないけど、どことなく、しみじみとした気持ちを抱いた。
頬の傷は大したことないけど、不意打ちな告白は僕を悩ませる。 青見銀縁 @aomi_ginbuchi
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