サトリのことは考えちゃいけない
佐々宝砂
サトリのことは考えちゃいけない
私には任務がある、やらなくちゃいけないことがある。
そう、サトリのことは考えちゃいけない。
僕は野球のユニフォーム着て夜の道を歩いている。練習帰り、地下鉄の駅に向かう地下道で、親子連れに出会った。母親とこどもだ。こどもはみっつくらい? こどもの年はよくわからない。目が黄色い。濁っているのじゃない。白目の部分がすきとおったレモン色だ。サトリのことは考えちゃいけない。なんのことだ。「なんのことだって思っただろ」こどもが言う。母親がにたりと笑う。なんだ。いったいなんだ。逃げなくてはいけない気がして僕は走る、いつのまにか僕は枯れ葉模様のスカートを履いている、なぜだ。なぜだ。これ僕のカラダか。違うと思う。なんか違う。わからないけど考えてはいけない。走る。地上に出て、レストランの前に出る、一階には明かりがついてるけれど二階は真っ暗だ。親子連れはいるのかいないのかわからない、人混みがすごい。
人混みのなかからふいと一人の女性がでてくる、クローズアップされる。美人ではないと思う。僕より年上だと思う。でも綺麗だ。綺麗な人だ。えび茶の小花模様のワンピース。彼女の僕の腕をとる、僕よりすこし背が高い。僕のおでこにキスをする、軽く。「さあでかけましょ、デートするのでしょう? 忘れちゃった?」彼女が言う、そうだデートするんだった。外から直接レストランの二階に通じる階段を登って、ドアをあける、明かりがついてない部屋の半分だけが明るい。月光だ。月光が入ってくる窓は大きく、信じられないくらい大きな月がそこから見える。窓のまわりはドライフラワーで装飾され、古拙なヨーロッパの意匠に似ている。シェフ自身が料理を運んでくる。「もうだいじょうぶね」彼女が言う、私は答える、「そうだね」料理は彼に食べさせてやろう、と私は考える。
ぽん、と場面が変わる。夜のグランドの隅で、ユニフォームの少年がほうけた顔で立っている。私は彼に投げキッスを送る、少年は一瞬すべてを理解し、一瞬のうちにそれを忘れてしまうだろう。私と彼女は腕組んで地下鉄駅へ。「今夜も自分を売ってしまったわ」と彼女が言う。「どの程度に売ったわけ?」私が言う、笑いながら。彼女が私のおでこに軽くキスする。「このくらい」と笑いながら。彼女は信頼おける仲間だ。私は彼女に手を振り、ホームで別れる。
地下道。地下鉄駅の改札の前。華奢な男が狐顔の女性と並んで歩いている。年は同じくらいか。女の方は知らない顔だが私のお仲間だ。男の方がやばい状況にある。追われている、やつらに。それはわかる。でもなんだか変だ。しかし危機的状況だ。入れ替わる。いつものように。
地下道の右側にだらしなく座っている男、ホームレスだ。たぶん。なんだか僕に似ているけれど。僕はどすんと地下道の左側にあるドアに体当たりした。ドアが開いた。空気が変わった。地下道の側は奇妙にびりびりした感じ、誰もが驚いているような。でもいいんだ、これでいいんだ、彼女が教えてくれた場所だ。彼女と僕はドアの中に入り込む。暖かい雰囲気の部屋だ。隣の部屋でミシンの音が聞こえる。作りかけのシャツが壁一面にかかっている。シャツの工房みたいだ。レモンの目をしたおばあさんが出迎えてくれる。「たいへんだったねえ」僕と彼女は部屋の奥の木の椅子に座る。テーブルも無垢の木だ。
「何度も練習したじゃないか」と僕は言う。「でもできないのよ」彼女が答える。僕が考案したのは、歌詞のある音楽を頭の中で歌い続ける、できれば映像付きで、という方法だ。やつらは僕らの心を読む。だから音楽と映像と歌詞を頭に思い浮かべ続けて、何も考えないで逃走するのだ。これはけっこううまいやりかたで、僕は何度もやつらから逃れた。「もういちどやってみて」と僕は言う。彼女の目の色が微妙にかわる。「洩れてるわ」とおばあさんが言う、「結婚したいって思ったでしょ」「すみません、それ思ったの、たぶん、僕です」「あら。望みはちょっと薄いわ」おばあさんが言う。わかってるってば、わかってるけど言わないでくれ。なんて笑ってる場合じゃない。僕の彼女の顔が白い、本当に白い。何も考えていないのだとわかった。本当に、何も、何一つ、考えていない。おばあさんに訊ねる、「彼女、何か考えていますか」「考えていないわね、たいしたもんだわよ、とりあえず、安全ね」ほっとした僕はふと、自分が枯れ葉模様のフレアスカートを履いてることに気づく、なんだこりゃ。僕は確かに細っこいが男だぞ。女じゃない。なんでこんな格好してるんだ。「すみません、ズボンありますか」「ありますよ、あげましょ、奥の部屋にいらっしゃい。このこは大丈夫でしょう」おばあさんに誘われて僕は隣の部屋へ。
窓がある。窓のそばに向かい合ったソファ。ソファに座っている男が3人、立って煙草を吸っている男が一人。どの男も、ただものじゃない雰囲気を匂わせている。空気がピリピリする。いっせいに僕に向けられる、八つのレモン色の目。考えちゃいけない。考えちゃいけない。どうしよう。やばい。
ホームレスのようにだらしなく座っている私は考えてる、やばい。騙された。あの女は仲間じゃない、このばあさんも仲間じゃない。入れ替わるか。今さらできるか。どうしよう。もうしかたない。殺されよう。あああのカラダ、気に入ってたのだが。脳味噌空っぽで元気なカラダを探すのは大変なんだぞ。もう。でもしかたない。入れ替わる。私のカラダは死ぬ。だらしなく座ってた華奢な男が不意に立ち上がって、きょろきょろする。みんな忘れな。忘れたほうがいい。忘れちまいな。
新しいカラダをなんとか探し当てて、私は電車に乗ってる。地下鉄じゃなくて、普通の電車だ。いつもの駅で降りてデパートの地階食品売り場を歩く。地下は常にやばい場所だ。デパートの地下もやばい場所だ。サトリのことは考えちゃいけない。不意に私は後ろから羽交い締めにされた。私をつかまえたのは図体のでかい男だ。レモンの目だ。やつらだ。考えちゃいけない。音楽を頭の中で鳴らす。私の頭のなかで、黒ヤギさんと白ヤギさんが永遠に通じない文通を続ける。といいのだけれど続けられなかった。変なことを考えてしまった。私の頭に浮かんだのは、鼻をクリップでふさがれる映像。クリップなんかないから大丈夫だろうと思ったが違った。クリップじゃなくて洗濯ばさみが出てきて、私の鼻をふさいだ。鼻で息ができない。口もふさがれたらどうしよう。そんなこと考えちゃいけない。大きな手が私の口をふさぐ、やばい、考えるのやめ、もうどうにでもしてと考えよう、サトリのことは考えちゃいけない、爆ぜる栗の実のことも、考えちゃいけない。
偶然に身をまかせる。具体的な映像は思い浮かべない。考えるのやめ。男が不意にきょろきょろする。目標物を見失ったのだ。やつらは思考だけで人を見る。やつらの目は人間の姿を見ない。表面を見ない。内側しか見えない。やつらには私が見えない。
私は無だ。さもなくば私には、表面しかないんだ。
サトリのことは考えちゃいけない 佐々宝砂 @pakiene
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