【エピローグ】
【明日】
【西暦二〇六五年 オーストラリア メルボルン】
広大な公園であった。
中央の広場を背にするように巨大な石柱が並ぶ様子は、まるで古代の神殿を思わせる荘厳さ。実際にそこは、厳粛さを求められる空間ではあった。
噴水を中心に設置されていたのは、巨大な慰霊碑であったから。
「……思えば私たち、ヘカテーのこと何も知らなかった」
「そうだな。お互いのことを知らないまま、私たちは戦った。みんなが傷ついた」
慰霊碑を見つめていたのはふたりの少女。黒髪の一人は車椅子に座り、もう一人の金髪の少女はそれを押している。
麗華とそして、ドナだった。
二人が見ていた慰霊碑の周辺。幾つもある石板に刻まれた戦死者の名の、ひときわ目立つ場所に女性名が一つ刻まれている。
ヘカテーの本名だった。彼女はここでブリュンヒルデたちと戦い、果てたのである。彼女だけではない。多くの人々。オーストラリア軍を主力とする国連軍の兵士たちが亡くなったのだ。
殺したのは麗華でありドナだ。ふたりの意思でやったことではなかったし、彼女らだけでやったことでもないが、しかし神々の片棒を担いだのは事実だ。それでも、地球の人々はふたりを責めなかった。暖かく迎え入れ、治療を施し、病院でのリハビリにくじけそうになるのを励まし、式典に招待した。生還したふたりの縁者を探してくれさえした。ドナの家族は見つからなかったが、麗華は妹がまだ日本で生きていることを知った。妹は高齢であり、そして麗華は治療中の不自由な身であったからまだ直接の対面はしていないが、モニターごしに互いの生存を喜び合った。その様子はニュースでも流れた。
ふたりは、ゆっくりと公園の内部をめぐり始めた。様々な黒い石碑が立ち並び、その表面に刻まれた無数の名が読み取れる。やがて、公園内を一周すると、彼女らは中央の噴水まで戻ってきた。
「いざ自由になってみると、拍子抜けする。あんなに私を縛っていた思考制御がきれいさっぱり消えてなくなったんだ」
「凄いよね」
進歩した地球のテクノロジーは、ドナに施された脳内の思考制御を完全に無効化していた。驚くべきことだ。遺伝子戦争中から現代まで、連綿と続けられてきた研究の成果らしい。仮死状態から回復し、"デメテル"も脳内に戻されたドナを縛るものはもはや何もない。いや、定期的な検診は今後も一生、受けねばならないそうだが。神格の破壊力を考えればその程度はやむを得ないだろう。
麗華も、間もなくデメテルと同じ立場になる。車椅子生活をおさらばし、自由に動き回れるようになるはずだった。損傷して機能を損なった"ブリュンヒルデ"を再び脳内に組み込まれることで。
ブリュンヒルデの損傷は深刻だったが、修理が不可能なほどではなかった。思考制御機能を完全に無効化されたそれは、再び麗華の脳内に戻される運びとなったのだ。もはや麗華は、神格無しでは生きられない体だったから。今代わりをしているのは、首に埋め込まれた複雑な機械である。それで麗華の肉体を強化している多種多様な微小機械群の統制を取っていたが、現状ではパワーが足りなさすぎた。その結果が車椅子である。
幾ら安全とは言えあの神格が戻ってくるのは恐ろしい。とは言え、贅沢は言っていられない。麗華は健康な体を取り戻すため、"ブリュンヒルデ"を受け入れる覚悟だった。
「麗華。回復したら何をしたい?」
「まず故郷に戻って妹と会う。でも、それ以外はちょっと思いつかないかな。ドナは?」
「私も故郷の様子を一度目に焼き付けておきたい。誰も残っていなかったとしても。けれどその後は、君と一緒にいたい」
「私も同じ考え。どうしようか」
「いっそ宇宙に行くのもいいかもしれないな」
二人して、空を見上げる。そこには驚くべき構造物が存在していた。
赤道上を一周する、巨大なリング。明らかな人工物であるそれは、オービタルリングと言う宇宙工学の結晶だった。衛星軌道上に安定するそれは、地上へと伸ばしたテザーを上り下りするエレベータによって安価な宇宙進出を可能とするのだ。
ミカエルが言っていたのはあれだったのか、と、初めてオービタルリングを見上げた麗華は思ったものだ。
地球は確かに変わったが、昔ながらの街並みや風習も多く残っている。それが、確かにここは故郷なのだという事実を二人に訴えかけていた。
「ここは平和だ。戦争中とは信じられない」
「うん」
戦争は、人類の勝利に終わるだろう。そう信じられるだけのものを、彼女らはふたつの世界でさんざん見て来た。
「この世界でなら、どこにいようとも生きていけるだろう。君と二人でなら」
「うん」
「じっくり考えるとしよう。時間はもはや無限にある。自由な時間が」
「そうだね……」
ふたりの少女は天から大地へと視線を戻す。これから先、生きていくことになる大地を。
「さ、麗華。戻ろう。明日には検査。明後日には手術だろう?ここには治ったらまたくればいい」
「ええ、ドナ。きっと、また来ようね」
ふたりは最後にもう一度だけ慰霊碑を見ると、大切な名前を口にした。
「ヘカテー、またね」と。
二人の少女はその場から立ち去り、そして明日へと旅立っていった。
昏き海の底で クファンジャル_CF @stylet_CF
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