第2話 その2


 彼女がトイレから出てきました。


「焼きそばッ!」


「ここにありますよ」


 テーブルの上に置いたままの、カップ焼きそばを指差します。蓋を開けた珠美さんは、そっと蓋を閉じました。


「うどんになってた」


「よかったですね。お腹が膨れます」


「やだよう」


「自業自得です」


 珠美さんは、すっかりふやけた焼きそばを、もそもそと食べ始めました。文句を言いつつ食べる姿は、立派です。無駄にしない精神ですね。


 ……。


 今、「無駄にしない精子ですね」などという下品なことを思いつきましたが、珠美さんの前では口にしないようにしましょう。珠美さんはピュアですから。


 恋人なんだから、そろそろキスくらいしてもいいんじゃないかと思うんですけどね。


 珠美さんは、ピュアですから。


 はぁ……。


「もそもそするー」


「そうでしょう。そうでしょう」


 不満を言いながらも、全部食べ終えました。あっぱれです。前歯の青海苔も、きちんとティッシュで拭いています。できれば、横を向いてやって欲しい。僕の目を見ながら前歯を拭くのはやめて欲しい。


「はぁー」


「どうしました」


「女の子って大変ね。そういうの、分かる?」


「女の子の大変さは分からないけど、男の子も女の子も大変だなとは思いますよ」


「そういう人生論じゃなくて、女の子って恋をしたいのよ」


「はあ」


「恋愛が人生のすべてとは言わないけれど、恋愛を軸にした幸せってあるじゃない? そういう軸を考えると、どうせなら幸せ度の高い恋愛をしたいって思っちゃう」


「でも軸ができると、他人と比較したりしませんかね」


「そうなの! あの子と私と、どっちが幸せな恋愛をしているだろうとか、思っちゃう」


「もしかして、遠回しに僕のことを批判しようとしています?」


 珠美さんは、驚いて顔を上げました。おおげさに手を振って否定します。


「違う、違う。そんなんじゃないの。もっと、私の中の問題」


 そう言って考え込みました。


 考えてみれば、僕はこちらの世界に出稼ぎに来ているようなものです。珠美さんが、ちょっと異世界に言って騎士をやっているのと同じように、僕はちょっと異世界に来て大学生をやっています。


 単身赴任のサラリーマンが愛人を作ってしまう騒動は、ありがちと言えばありがちですが、同時に本気に恋愛するには単身赴任というのはハンデになるような気もします。珠美さんとの関係に、一歩を踏み出せていないのは、僕のほうなのかもしれません。


 僕は、こことは違う世界に戻らなければなりません。それは規定路線です。


 違う場所、違う世界。違う時間が流れる異世界。


 その時、珠美さんをどうすればいいのでしょう。このまま異世界パンゲアへと、連れていけばいいのでしょうか。それは彼女にとって幸せなことなのでしょうか。


 僕と彼女は、おそらく見ている世界が違います。それはどうしようもない事実です。


 そんな僕らの世界は、交わることができるのでしょうか。


 この小さなアパートの部屋は、それはそれは居心地のいい空間です。ふたりでここにいると、僕は自分が異世界の神様であることを忘れてしまいます。


 しかし、ここはあくまで「点」でしかないのです。


 ふたりの世界が触れ合った、奇跡的な「点」です。


 単身赴任のお父さんは、愛人を捨てて家に戻らなければなりません。では残された愛人は、どうなるのでしょう?


 ……忘れてもらえばいいんですね。


 神様なんだから、そのくらいできないとおかしいですね。


 だけどこちらの世界でも、そういう力を使えるのかなあ。




「シンちゃんはね」


「はい?」


「私と結婚したいって思う?」


 おおっと。衝撃的な質問ですね。


 どうなんでしょう。


 結婚っていうものを意識したことはありませんが、今は珠美さんが恋人ですし、恋人っていうからには、珠美さんのことが一番好きな訳ですし。もしも今、結婚を考えるとしたら、相手は珠美さんしかいないでしょう。


「今すぐですか」


「えーっ! 違う違う」


 今度は珠美さんがうろたえる番です。


「将来ってこと」


「将来ですか……。まだ僕たち、学生ですもんね」


「卒業して……就職して……それからよね……。就職のこと、何か考えてる?」


「いえ、まだ一年生ですし」


 それに僕は、神様という本業を既に持ってます。神様というのは、兼業できるのでしょうか。それともむしろ、こちらの世界で普通の会社に就職したとして、その会社は神様との兼業を許してくれるでしょうか。


 就職活動のことを、想像してみました。バイト先の先輩が、就職活動に出遅れてしまったと焦っていました。切角の春だというのに、大変だなあと思って見ていましたが、何年か先には自分がその立場になるのです。履歴書を書いて、エントリーシートを書いて、企業の人材募集に応募するのです。


 履歴書の職歴欄には、神様と書けるのでしょうか。それとも特技欄でしょうか。


 いや、むしろ——。


 守秘義務に抵触しますね。


 僕が神様というのは、秘密です。こちらの世界で「僕は神様だーっ!」なんて叫んでも、誰にも相手にされないのは承知していますが、秘密にするべきことは胸の中に秘めておくに限ります。秘密を抱えておくことで、僕の行動も慎重になるというものです。


 そんなことよりも、結婚ですよ、結婚。


 珠美さんと結婚ですか……。


「ねえ、もし、ね? 私たちが結婚したら、どんな家庭になるかなあ」


「そうですね。まあ最初は小さなアパート暮らしでしょうね。新卒の給料だと、そんなに大きな部屋は借りれないでしょうし」


「二人合わせれば、そこそこの部屋を借りれるんじゃないかしら。この部屋の家賃、いくら?」


「六万五千円です」


「じゃあ、二人で同じ額を出し合えば、一三万円よね。いいマンション、借りれない?」


「それじゃあ、三LDKのマンション暮らしを始めるとしましょう。それだけのマンションだと、ペットも飼えますかね」


「そうね。でも私、子供は早めに欲しいな」


 おっとー。衝撃的ですね。


「だけど、珠美さん。子供ができたら、しばらくは会社を休まないといけないから、家賃が大変じゃないですかね」


「そっかー。じゃあマンションはあきらめようかな。貯金しないとね」


「そうですね。ま、その時は僕も頑張りますよ」


「私も頑張る。んっと、なんて言うんだっけ、こういうの。一心同体?」


「一蓮托生?」


「家族だもんね」


「家族になるんですからね」


 家族になるとどうなるか、実のところ、よく分かっていません。僕には家族がいませんから。ぽっと生まれて、この世界にやってきたようなものですから。


 だけど、知識はあります。


 健やかなる時も病めるときも。そんな風に誓いあって夫婦になる。二人はきっと、一心同体で一蓮托生で、離れることはありません。辛いことは二人分だけど、幸せなことも二人分。


 夫婦になる、家族になるっていうのは、そういうことなんじゃないかと思います。


 言い換えれば、夫婦っていう新しい個体が社会に生まれる?


 大げさですかね。


 珠美さんは、すっと立ち上がりました。


「どうしました?」


「ちょっとトイレ」


 気持ちを切り替えられたのでしょう。彼女は僕のところを離れて、仲間のところに向かいます。


 騎士団の仲間が待つ、異世界パンゲアへ。




 お風呂でした。しかも露天風呂でした。


 こたつの天板をひっくり返して、パンゲアの俯瞰モードに切り替えます。ゆっくりとズームして、珠美さんを探して移動した先は——騎士団女子部の専用浴場でした。


 いけません、いけません。これはいけません。


 まだキスもしていないのに、珠美さんの裸を見るなんて、そんなことは許されません。


 おぉう。


 珠美さんが浴場に入ってきました。大浴場は既に何人もの女騎士が、身体を洗い、湯船につかっています。


 珠美さんも洗い場に座り、身体を洗い始めました。


 おぉう。


 しかし、湯気。


 もくもくと白い湯気。


 この湯気が見事なくらいに、色々なところを隠しています。珠美さんだけでなく、他の女騎士についても、肝心なところは湯気に隠れて見えません。


 この湯気はいったい何なのでしょう。


 だいたい湯気というものは、眼鏡を曇らせる以外に、視界を遮るなんてことはできないものだと思っていたのですが。この風呂の湯気は、強気ですね。攻めてきます。いや、むしろ守りか。


 僕は一生懸命角度とか変えてみましたが、やっぱり湯気のせいで色々見えません。


 色々ってのは……ねぇ、色々ですよ。


 邪魔だなあ。——あ、別にどうしても見たいという意味ではないのです。


 ただ……邪魔だなあ。


 珠美さんが湯船にちゃぽんとつかります。気持ち良さそうです。湯気がのぼって、こう温まる感じですね。いい湯気ですね……邪魔だなあ。


「タマミはちゃんと訓練をしているのか? 肌が白すぎないか?」


 小麦色の肌のアルルさんが、からかいます。


「ちゃんとしてるもん。素振りもしてるもん。それにセレナちゃんのほうが、色白いし」


 隣で肩までお湯につかっているセレナさんは、なるほど確かに透き通るように綺麗な肌をしています。これまた、細かいところは湯気のせいで見えませんが。


 ちゃぷんちゃぷんとお湯をかき分けて、マリさんがやってきました。


「ハロー、みんな。あったまっている?」


「マリちゃん、少しはタオルで隠すとかしたほうがいいと思うよ」


「大丈夫よ、誰も見ていないから」


 僕が見ていますがね。


 しかしマリさんも、肝心なところが見えません。タオルで隠さずに湯船の中を歩いているのですから、確実に見えそうなものなのですが、見えません。


 この湯気どうなっているんだ?


 神をも恐れぬ湯気とは、すごいですね。


 マリさんも湯船につかり、再び四人のお喋りが始まりました。


 女子ってのは、風呂でも女子会なのですね。


 男同士が共同生活をしたとしても、風呂でお喋りが始まったりはしないと思うんです。そもそも、一緒に風呂に入るかも怪しい。入ったとしても、他人の振りをしている気がします。


「お前、肌が綺麗だな」


「貴様こそ、いい筋肉をしている」


 そんな会話をするはずがない。


 ないですよ? ——一部の女性の皆様は、男子同士もそれなりにきゃっきゃウフフがあるものと思っているようですが、そんなことは断じてありません。


 男子なんで、臭いだけです。


 え? 僕?


 僕は薔薇の香りがしますよ。


 そういえば、パンゲアは匂いがしないんですよ。パンゲアの問題ではなく、この「こたつ天板スコープ」の機能的制限ですね。パンゲアの様子を見たり、音を聞くことはできるけれど、匂いは分からないんです。


 だからきっと、女風呂の中はむせかえるくらいの女性の匂いが充満しているんだろうと想像はできますが、それを実際に感じることはできません。僕が想像できる女性の匂いなんて、たかがしれていますが、重要なのは本人がどう知覚するかであり、それが想像上の感覚であったとしても、脳内の適切な場所を刺激するのであれば、ああっ珠美さんが珠美さんが、いくら女同士だからと言っても、そんな風に素肌をさらけだすことはないじゃないですか!


 暑くなったのか、珠美さんが湯船のへりに腰かけました。腰のあたりにタオルを置いてはいますが、上半身は丸見えです。いや、湯気のせいで見えません。


 なんで見えないんだッ!


 ああ、珠美さんの豊かな胸の膨らみが。


 珠美さんの肉感的な肩が、背中が、そして腰から臀部に向けてのラインとか。


 ああっ!


 いかん、我慢するのも厳しくなってきました。むしろ、僕がトイレに入りたい。


 違う違う。


 珠美さんに対して、変な想像をしてはいけません。本命の彼女には、そういう邪な感情は抱かないのが紳士というものです。


 露天風呂の中の女子会に、視点を戻しましょう。


 女風呂は、何人もの女性騎士が入れ替わり出たり入ったりしていて、とても盛況のようです。珠美さんたちは、そろそろのぼせないのでしょうか。


「マリはさ」


「ん?」


「合コンした男子部の中で、気に入った騎士はいなかったの?」


「んー。ショーンとは、メッセージ交換が続いているけど。気に入っているのかなあ」


「嫌いではないのでしょう?」


「まあね。今は楽しい友達って感じかな」


「ケケケケケ結婚するのっ?」


 珠美さんは、先走り過ぎです。


「はぁ?」


「タマミさん、そんなに恋バナに飢えているのですか?」


「するわけないじゃん。騎士なんか、危なっかしくて」


「そ、そう」


 一気に意気消沈する珠美さんでした。同年代の女子に、結婚の話をしても、みんなピンとこないのではないでしょうか。


 ——ガサッ


 突如、みんなの会話が止まりました。


「今、草の音、したよね」


「しましたね」


「奥の方だった」


 アルルさんが手で合図をしました。『会話を続けよう』そう言っています。


「ああ、そろそろ暑くなってきちゃった」


「あがりましょうか?」


「タオル置いてきちゃった。ま、いいや、このままで」


「ちょっとマリちゃん。身体隠したほうがいいよ」


「へーきよ、誰も見ていないから」


 ——ガサガサッ


「それなら、私も付き合おうかな」


「私もー」


「みなさん、ちゃんと隠してください」


 ——ガサガサガサッ


 女騎士たちは、二手に別れました。会話を続ける珠美さんとセレナさん。マリさんとアルルさんは、一旦左右に展開したのち、ゆっくりと草むらの音がするあたりに接近します。


「じゃああがろうかな」


「タマミさんったら」


 ——ガサガサッ!


「そこだーっ!」


 マリさんとアルルさんが、草むらに飛び込みました。太い声の悲鳴と高い声の叫びが混じり、土を蹴る音、何かを殴る音などが交差します。


 数分後。


 三人の騎士団男子部の騎士が、ロープでぐるぐる巻きにされて、女湯の洗い場に転がっていました。


 それを取り囲む、一〇人以上の女騎士。みんな既に服は着ています。


「女湯を覗くなんて、さいっていの騎士だな」


「そうよっ! 私たちの身体は、神様にだって見せてあげないんだから」


 ああ、なるほど。


 納得してしまいました。


 彼女たちが「神様にも見せない」と規定した以上は、神様である僕はとことん邪魔されることになります。湯気とか、そういうもので。


 神様は女子の身体を見れない、という宣言は、その通りに世界のルールになって実行されるのです。


「ショーン・チェック……。君もなんだ……」


 マリさんが言いました。その声に、はっと顔をあげる男子騎士のひとり。


「ち、違うんだ、マリ。これはその……俺はみんなを止めさせようとして」


「言い訳するんだ」


「違う! 弁解だよ! 俺は君に嫌われたくない!」


 ははあ。この男子騎士が、マリさんとメル友になっているというあいつですね。さっきの会話だと、マリさんはまんざらでもない様子でしたが、この事件で、フラグへし折って終了ってところですかね。


「ショーン。決闘よ」


「決闘だって?」


「剣を持ちなさい。私と戦って、白黒つけましょう」


 これはいきなりのバトル開幕。どうなってしまうのでしょうか。



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