第1話 はじめまして、珠美さん

第1話 その1


 彼女がトイレから出てきません。


 いや、わりとリアルな話でして。


 もうかれこれ、五分になるでしょうか。


 五分なら、まだどうということはないと思われるでしょうが、彼女は僕のアパートに遊びにくると、必ずトイレに入って、毎回ゆうに三〇分は出てこないのです。


 まあ、いつものことだと言ってしまえば、それまでなのですけれど、僕のアパートはアパートというくらいで、トイレがひとつしかありません。単身者用住宅というやつです。いや、ファミリー用でも二世帯住宅でない限り、トイレはひとつでしょう。トイレは家族につきひとつ、というのが、常識です。


 そう考えると、単身者にトイレがひとつ割り当てられているというのは、贅沢ではないでしょうか。税金がかかってもおかしくないのではないでしょうか。


 ひとりにつき、トイレは二分の一個まで。それを越えたら、トイレ税。


 そんな世界になったら、嫌ですね。税金を払うのが嫌だから、安アパートのトイレなんか、二部屋共同になったりしますよ、きっと。逆に近所づきあいが深まっていいのかもしれませんが。同じトイレを使った仲とかいって、共同体意識が高まるかもしれませんね。


 しかしあいにくと、僕のアパートにはちゃんとひとつトイレがあり、税金を取られることもありません。ラッキーなことです。


 それ故に、彼女がトイレを占拠することもできるし、僕さえ苦言を呈さなければ、彼女は一生トイレに入り続けることもできます。


 もちろん、そんなことは許しませんが。


 ならば、三〇分トイレにこもるのは許すのかというと、どうかなと思いながらも許しているのが現状で、それならば五分こもったくらいで何か言うのもどうかという話ではあります。


 責任の一端は僕にもあるのですし。


 僕はコタツ(今は初夏なので、コタツとして使っていませんが)から立ち上がり、トイレまで行ってドアごしに中の気配を伺って、再びコタツに戻りました。


 ふぅ、と溜め息をつきながら、コタツの天板をひっくり返します。


 そこには異世界がひろがっていました。


 パンゲアといいます。


 正確にはこちらの世界の言葉で、パンゲアといいます。パンゲアの言葉でパンゲアを表現することは、すこし難しいので勘弁してください。


 コタツの裏は、パンゲアを見るための窓になっています。この窓を通して、僕はパンゲアを観察します。基本的に介入するのは禁忌ですが、時には少しだけ手とか口とかを出したりします。


 何を観察するのかって?


 それはもちろん、僕の彼女——室伏珠美むろふし たまみです。


 だって彼女は、パンゲアで戦う女騎士であり、勇者であるのですから。




 申し遅れました。僕は、あっちの世界で言うところの神様みたいなものです。


 あっちの世界で神様だったからと言って、こっちの世界でも神様とは限りません。


 こっちの世界では、大学生で、仕送りとバイトでなんとか暮らしています。1DKの小さな木造アパートに住んでいます。


 あ、彼女はいます。大学生ですから。


 ——って、そこで毒を吐いたり、石を投げたりするから、モテないんですよ。やめてくださいよ、八つ当たりは。


 で、その彼女ってのが、室伏珠美という女性で、小柄でそれなりにおっぱいが大きいです。


 だから石を投げるなって言っただろッ!


 その小動物というか、草食動物みたいな顔をした彼女を、僕は吉祥寺で狩ってきたわけですが、そのあたりの経緯についてはまた話す機会もあるでしょう。


 問題は、彼女がパンゲアを救う女勇者であるということです。


 勇者であるからには、権利も持ちますが義務も生じます。大きなところでは、パンゲアを迫り来る魔の手(もし魔の手が来たら、という仮定ですが)から救うというものがありますが、日々の勇者業務というのもあります。この日々の業務というのは結構大切で、毎日実績を積み重ねることで、大きな作戦が発動される時に声をかけてもらえることがあります。


 僕の乏しいバイト経験からしても、日々の実績というのは重要視されると思います。バイトの話を始めると長くなるのですが、僕のバイト先の社員さんで、毎日朝早くに出社して、みんなの机を掃除して回っている人がいたんですよね。目立たない人だったんですけど。でも上司はこの人が毎日早くに出社しているのを知っていて、何かのプロジェクトでリーダーを任名されたんですよ。最初は無理なんじゃないかなって、みんな思っていたみたいです。バイトの僕らですら、どうなんだろうと思ったくらいだし。


 だけど、彼の中のスーザン・ボイルが目覚めたんでしょうね。


 彼は見事にリーダーの仕事をやってのけました。細かな気配りが評判でしたよ、バイトの間でも。


 毎日細かな仕事を積み上げていくと、いつか花咲く時もあるんですね、と思います。


 ちょっと良い話をしてしまいました。


 そんなことより、僕の彼女の、珠美さんです。


 珠美さんはパンゲアの勇者でして、時折依頼が舞い込むことがあります。


 より正確を期するのであれば、珠美さんは皇国騎士団に所属しています。騎士団の——こちらの言葉で言えば外国人傭兵部隊ですね。なにせ異世界人ですから。


 さてさて、今回舞い込んだのは、皇国首都からほど近いタニア村の村長からの依頼のようです。


 僕は、コタツの縁をきゅきゅとこすり、珠美さんの近辺にフォーカスを移しました。このコタツ、なかなかに便利です。


 珠美さんは村長と会話をしているようです。こういう時は、耳を天板につっこむのが早いです。この天板、表面は水銀の入った水槽のようになっていて、耳をつっこめば声が聞こえ、足をつっこめば事件に巻き込まれるという仕組みになっています。


「騎士殿には御足労頂き感謝しております」


「ああ、うん。へーき、へーき。騎士っていっても、私なんか異世界から来たようなものだから」


「強縮です」


「それよりも、私を呼んだ理由を聞かせて?」


「どうぞ、こちらへ。——実は娘が拐われましたのです」


「拐われたというのは確かなの? 自分から家出したとかじゃなくて」


「朝起きたら娘が寝室から忽然と消えておりました。あとにはこれが残されていました」


 村長は一枚の紙を取り出しました。こちらの世界の紙とは、材料も製法も違いますが、紙と表現するのが適切でしょう。四角くて白くて薄くて文字が書けるアレです。


 ——娘は預かった。返して欲しかったら、三〇〇〇〇Gを持ってトラスト山に来い。デルギット団。


「営利誘拐ね」


「左様です。騎士殿にお願いしたいのは、娘の奪還です」


「ところで、この紙の匂いをかいでもいいかしら」


「それは何卒、ご容赦を」


「騎士の情けね。イカ臭かったら嫌だものね。いいわ、娘さんを助けに行ってあげる。身代金はどうするの?」


「用意してあります。娘が無事に戻るのであれば、金を払うことはやぶさかではありません」


「娘さん優先ね。あなた、いい心がけよ」


「恐れ入ります」


 かくして、珠美さんは、村長の娘奪還作戦に旅立ちました。


 異世界の勇者も楽じゃないですね。


 僕としては、せっかくうちに遊びに来たのですから、もっとイチャイチャしたいのですが、彼女は異世界に旅立つ仕事も大切だと考えているようです。それはそれで、異世界の神である僕は感謝するべきなのでしょうが、少し寂しいです。


 彼女がトイレを通って異世界に行っている間、僕は部屋でじっとしていないといけません。


 出かけてもいいのかもしれません。だけど、トイレから出てきた時に誰もいなかったら、きっと彼女は悲しくなるでしょう。同じ家の中にいるのに、何の声もかけてもらえずにひとりにされてしまったのです。それは、寂しい。


 トイレの中にいる人に声をかけるというのも、どんなものかと僕は考えてしまいます。


 トイレの中は見えません。ノックをすることはできますが、ノックして少しドアを開けて「ヘイ、ユー。どんな感じだい?」と聞くことはできません。相手の返事を信じるしかないのです。


 対象を観測するために、何かしらのシグナルを送りその応答を計測するというのは極めて一般的な手法だと思われますが、その応答は相手に完全にコントロールされています。


 トイレというのは、観測対象としては不適切だと思いますね。


 ですので、トイレのことは知らんぷりをしておくのが一番です。


 つまり、トイレの中から、


「紙がなくなっちゃったー。取ってー」


 なんてことを言われたら、へいへいと言いながら助け船を出しはしますが、そうでなければないものとして扱うべきです。


 いまのところ、珠美さんからの助けを求める声は、あがってきません。


 どうなることやら。



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