七森の汽水域

双子椅子

七森の汽水域

 暑いんだか寒いんだか、とにかく微妙な朝だった。日陰はひんやりしてて、日向に出ると体の芯まで熱される。それがストロボのように連続する住宅街を走り抜け、ぽっかりと開けた河沿いを道なりに進んでいく。

 ここは瀬戸内海に繋がる河川の一つで、下流に進むにつれて空が広がり川幅も立派なものに変化していく。

 対岸にいくつも架かる小さな橋の一つを渡り、加賀絋汰は中央で自転車を止めると、肺がいっぱいになるまで深呼吸をする。絋汰は河と海の混じりあう、このささやかな潮風が好きだった。


 欄干に自分の影が伸びていたが、橋脚下の河川敷にもう一つ低い人影が見えた。誰かが橋の真下にいるらしい。自転車はすぐにその影を追い越した。渡り終えたあとも絋汰は少し気になって、影を作った人物の見える位置まで漕いだ。適当な道端で止まり、スマートフォンを手に何気なくメールの着信を確認するような格好で、横目で人影の主を探した。

 同じ学校の生徒だった。正確に言えば、隣のクラスの女子生徒だった。学年集会で前に出ていたのを見たことがある。たぶんクラス委員だったはずだ。列の前に出て点呼をしていて、担任に報告している姿をよく見る。名前までは覚えていない。点呼を終えて担任に話しかけるときの、後背にまっすぐ下りた長い黒髪をよく見る。

 何か用があるわけでもなく、ただ立ち尽くしていた。川面を眺めているように見えたが、視線は真っ直ぐに絋汰のいる対岸のほうに向いていた。視線をたどって対岸の河川敷を振り返ってみても、そこは舗装されたランニングコース用のアスファルトと道脇に草が少し生えているくらいだった。

 河下からの潮風が女子生徒の長い髪をくすぐって、彼女は風に乱れないように手ですくった。そこで外界への意識が戻ったのか、視線の外れた先に自転車を止めていた絋汰のほうを見た……気がした。なんとなく恥ずかしくなり、気まずくなった絋汰はスマホをポケットにしまい、再び自転車を走らせた。


 不義の報いは必ず起こる。けれど遠くから盗み見ただけなのに、それほど悪いことだったのか。

 朝のHRが終わると、授業の前に抜き打ちの服装検査が行われた。先日の授業中に携帯電話を弄っていた生徒がいたからだそうだ。校則ではスマホ類の持ち込みは禁止されていないが、利用は休憩時間に限られていた。チェック自体はポケットの中を見せるだけのもので、ただ電源を切って鞄に仕舞っていれば良かっただけの話だった。

「加賀、反省文は放課後になったら生徒指導室へそのまま持っていけ。スマホはそれと引き換えだ」

 教室を出ていく担任教師にそう言われ、渋々はいと頷くしかなかった。


 反省文は昼休みにそれらしい内容にして書き終えた。来年の受験に向けての小論文対策の授業が昨日あったばかりで、中身のない文量を増やすコツを心得ていたのが幸いした。放課後、同様に反省文の刑を受けたらしい他の生徒とすれ違いながら、校舎棟の端にある指導室に行った。扉は閉まっており、プレートに「入室禁止」の改札がかかっていて、まだ誰かと面談中のようだった。

「七森さんらしくなかったですね。体調不良ならそう言って、そのまま保健室にでも行けば、誰もあなたを遅刻にはしませんでしたよ」

 生徒指導の女性教師の声だ。絋汰には直接関わりがない教師だが、朝礼で黙らない生徒がいると超音波のようなよく響く声で吠えている。

「今日はただの遅刻ですから。すみませんでした」

 扉の向こうから硬い声が聞こえた。反抗的ともとれる、およそ教師を前にした生徒の喋り方ではなかった。

「あなたがそう言うなら……。本当に大丈夫?」

 その拒絶は予想外の言動だったらしい。扉越しに聞く教師のうろたえぶりに絋汰は少し笑った。 

「次からは気を付けます。そろそろ塾の時間があるので。失礼しました」

 扉が開かれる気配がして、絋汰は廊下の窓際に離れた。数秒もしないうちに引き戸が開く。伏せていた目がつと持ちあがり、その生徒は絋汰を見つめた。

「あっ」

 声をあげたのは同時だったか。相手を認めるのが早かった分、絋汰の声が少し廊下に響いた。

 こんなに近い距離で見たのは初めてだった。遠くで見ていた印象では、すらりとした背の高さを想像していたが、実際は絋汰より少し低くて普通の女子という感じだった。不機嫌そうな顔をしている以外は、他の女子よりも目を引く容姿だった。

 切れ長の黒い瞳に射すくめられ、絋汰はたじろいだ。指導室の教師も同じ気持ちだったのではないだろうか。睨まれているわけでもないのに緊張して、ひどく惨めな気にさせられる。

「加賀絋汰! 早く入りなさい」

 指導室の奥から呼ぶ声がして、張りつめていた空気が解けた。七森は絋汰の存在を視界から外すと、すれ違って指導室を出ていった。絋汰が扉を閉めたとき、視線を感じた気がした。

 七森の反抗的な態度に威厳を傷つけられたのか、とばっちりで絋汰は長めに叱責を受けることなった。



「今朝見てたよね、わたしのこと」

 駐輪場で急に声をかけられ、振り返ると昇降口の階段に座った七森がいた。

「わたし視力2.0だから、知らないふりしても無駄よ。それに指導室で会ったとき気づいたでしょ」

 七森はスカートを静かに払うと近寄ってきた。

「たまたま、自転車を止めたときに見えただけだよ」

「そうなんだ」

 七森は動こうとしない。話を切り上げるつもりで、絋汰は自転車を押して正門を出ることにした。

 学校を出てからも七森は絋汰についてきた。一緒に歩いてるように見えない距離感で、それでも話ができるくらいには近い。あの橋のところまではたぶん同じ帰り路だから、それは別におかしいことじゃない。

 橋の真ん中くらいにさしかかると、後ろから呟くような声がかすかに聞こえた。

「見たのよ」

 七森の視線は海へ伸びる下流に向けられていた。

「だからそれは」

「夢を見たの。昔の夢」

 遮られた言葉に、呆気にとられて自転車を止めた。

 絋汰を追い抜いて橋を渡り終えた七森は、そのまま土手の階段を下りていった。

 七森の後ろ姿はふらふらと頼りなく見えて、絋汰は自転車を道脇に止めて、あとを追って河川敷へ下りた。

 静かな河の流れに、夕陽の長い赤光が水の上で震えている。水が近いせいか、橋の上より一段冷たくて潮風も少し濃い。ずっと居ると制服に染み付きそうだった。

「ここだった。わたしが見たのは」

 反射した夕陽が揺れながら橋の裏側で波打っていて、間接照明のような奇妙な明るさがあった。

「犬を飼ってたのよ。結構前に死んじゃったけど、小学校の頃はいつもここを通って散歩してた」

 夢か過去か、その時の自分をなぞるように、橋脚にかかった影を踏み越えて、七森は続ける。

「わたしが小さい頃からウチで飼ってたゴールデンレトリバーで、両親の言うことはちゃんと聞くのに、わたしの言うことは全然聞いてくれなかった。下に見られてたんでしょうね。リードも無視して自分勝手に走るからずるずる引っ張られてた。だから散歩は嫌いだった。庭で遊んだり、散歩に出る前のそわそわした素直さは可愛かったけど」

 歩くたびに影の幕が少しずつ上がり、橋脚から七森の姿をした影が形作られていく。

「ここのジョギングコースなんか、上の道路で大きな車が走ってると興奮して追いかけようとするから大変だったな。わたしまで走らされて……」

 立ち止まった七森の手の影が揺れていた。

 あるとき七森は、いつものように走ろうとする飼い犬に引きずられて、石につまづいて転んでしまった。その拍子に右手のリードを離してしてしまい、涙がにじむ痛みに泣きかけ、河川敷の上の車道を大型トラックがエンジンをうならせて走り抜けていく音を聞いた。自分の手を離れ、橋脚の陰から飛び出していった飼い犬。小学生だった七森でも想像のつく結末に血の気が引いた。

「もう言わなくていい」

 止めようとした絋汰に、少女は首を横に振った。

「違うのよ。別にそれで轢かれて死んだわけじゃないから」

 ふり返った七森は笑っていた。

「顔をあげたらね、目の前にいたの。甘えた声で鼻を鳴らして、心配そうに寄ってきたりして。手なんか真っ赤に擦り剥けて泣きたいのはこっちなのに。本当に怒って、しばらく散歩は両親にやってもらった」

 あちらへご案内のようなポーズで右手の側面を見せるのが少しだけ面白かった。

「それが七森の見た夢なのか」

「それだけ」

 河口から吹き寄せる潮風に七森の黒髪が躍る。

「本当に、急に夢で見ちゃって。目が覚めて、ずっと散歩してなかった気がして。慌てて部屋から出ようとして気づいたの」

 もういないのだと。その直前まで、七森の中ではたしかに生きていたのに。

「寝惚けてただけだって納得してるのに、どうしようもなくて。結局ここまできてた」

 そうやって、夢の名残りを追って立ちつくしていたのだろうか。 

「後悔しているのか?」

「後悔してるから夢をみたのかな? もっと世話をしてあげれば良かったとか」

「俺に聞かれても困る」

「加賀くんなら、知ってると思ってたんだけどな」

 絋汰は動物を飼った経験がなかった。せいぜい小学生の夏休みに虫を飼っていた程度のことで、家族と同等の存在が傍らにいた感覚はわからない。近しい人を亡くしたこともまだない。

「思い残してることなんてないのに」

 七森はぽつりと言って、七森は河の中に点々と置かれた飛び石に跳んだ。しゃがみこみ、ここからは見えない海へ繋がる下流をみていた。水は途切れることなく飛び石の間を縫って、ほつれながら、決して逆らうことなく河口へ流れていく。明確な境界線などなく、河はやがて海と溶けるのだろう。

 七森の見つけた夢が、悔いや願いだとしたら、それはもう流れてしまったのだろう。すり抜けて、流されて。溶けあって記憶の一つになったのだろう。

「俺は、ここで匂う潮風が昔から好きなんだ」

 何を言おうとしているのかわからないまま、絋汰は思わず口を開いていた。。

「この河って、そのまま海に繋がってるよな。それで淡水と海水が混じりあう場所のことを汽水域って言うんだよ」

「汽水域」

 七森はぼんやりした表情で、繰り返した。

「雨の後でもないのに河が綺麗なまま水位があがるときがあるだろ? あれって潮が満ちはじめると、海水がこの辺りまで上がってきてるからなんだ。そのとき一緒に遡ってくる潮風の匂いが好きなんだ。浜辺と違って潮気でベタベタしないし、澱んで煮詰まった匂いでもないしさ。今朝もそうだった」

 向き直った七森の目はきっと絋汰を見てない。ただ言葉を待っている。

「七森は今、潮の匂いがわかるか?」

 たずねると、ゆるゆると首を振った。「何も」

「そうだよな。潮の干満はだいたい半日おきだから、この時間に戻ってくると海水は引いて残っていないんだ」

 橋脚の陰に銀腹を光らせた小魚が音もなく潜った。

「自分だけが置いてかれたみたいで、寂しいよな」

 はっとしたように、七森は目を見開いた。何度かの瞬きのあと、ぎゅっと目をつむって俯いた。絋汰は自分が目の前にいたことで彼女の感情を隠しとどめてしまったと思った。

 ふいに、七森のすぐ後ろでちゃぷんと音をたてて魚が小さく跳ねた。橋が屋根のかわりになっていたので、それは思ったより大きく響いて七森を驚かせた。足場の狭い飛び石の上でぐらついて、踏み外した片足が宙に浮いた。反射的に、前のめりに水面へ落ちそうな手を絋汰は掴んだ。

 とっさのことだったので踏ん張りがきかず、絋汰は七森を岸へ引っ張ると入れかわるように河に落ちた。

 息がかかるほど間近ですれ違った瞬間、繊細に揺れる長い黒髪の甘い花のような香りがした。

 溺れるほどの深さではなかったが、それでもずぶ濡れになるには充分だった。一、二度水を掻いて立ち上がると、腰から下は完全に浸かっていた。普段よりも近い水面は土手で匂うよりも生臭い。水気の張り付いた服が重たく、絋汰は這い上がろうとしてコンクリの護岸に手間取っていると、手が差し出された。

「早く上がってよ。私が突き落としたみたいだから」

 今度は七森から差し出された手を取ろうとして、絋汰のシャツの胸ポケットから小魚がドジョウのようにぐねぐね踊りながら逃げていった。

 それを見ていた七森がたまりかねて吹きだした。両手でお腹を抱えて、くすくすとよろめきながら後ずさりした。絋汰が掴みかけた手は空振りして、上がりかけた足は水底にずり落ちてしまう。七森の笑い声がさらに響いた。

 結局、絋汰は自力でへばりつくように岸へ上がった。

「加賀君、面白すぎ」

「それが助けて貰って言う台詞かよ」

 服の端を握って絞ったり靴を脱いだりして水を切りながら、絋汰は憮然として言った。

「だってあんな良いこと言った顔して落ちて。しかも上がり方がダサすぎるから」

 七森は笑い続けている。

「そんなに笑う必要……」

 反論しようとした絋汰の言葉がそこで途切れた。

 乾いた笑い声に、七森の眼は潤んでいた。

「ばかみたい」

 絞り出すようにそういって、ぽろぽろと涙が流れていく。

「もう会えないなんて当たりまえのこと、分かってるのに。寂しいなんて」

 それが涙を溢れさせる機関であるかのように、震えていた右手を七森は指先が白くなるほど強く左手で押し包んで、胸にあてる。体中に広がっていく軋みがこみあげてきて、嗚咽に変わる。

 しゃくりあげるような荒い息遣いが少しずつ、やがて平静を取り戻すまで絋汰は見守っていた。

 

 雲がかった夕焼けに、光が褪せていく。

 河口から吹き上げた風に絋汰がくしゃみをすると、小さく笑った七森が言った。「帰ろっか」

 夕刻の陰が濃くなった土手の階段を七森と登って、絋汰は鞄から使いかけのタオルで頭を拭いた。頭にかぶったまま、生乾きの制服を着たまま自転車を押す。

 道幅の狭い道路にトラックがやってきて、いつの間にか横を歩いていた七森が道を譲って絋汰の隣に寄った。肩の触れそうな距離に揺れた長い黒髪から、潮風とは違う甘やかな匂いがかすかに届く。鼓動が速くなっていく。

「そういえばさ……」

 誤魔化すように、絋汰は急に思いついたことを口にした。

「なんで俺なら知ってるって、言ったんだ?」

「あの子に似ていたから」

 犬に? 清々しいくらいためらいもなく返された言葉に、しばし絋汰は茫然とした。もしかしすると、彼女にとって今は散歩の帰り道なのかもしれない。ちらりと見た七森の横顔は、吹っ切れた明るい表情をしている。

「どんな犬だよ」

 ふてくされたように言ってしまって、七森が違う違うと頬を緩めて否定した。

「名前。加賀君と似てたの」

 ふと笑みが広がりかけて、今度は頬が紅潮していた。そこでちょうど十字路にさしかかって、七森は住宅街へ繋がるほうへ足を向けた。絋汰はもう少し先の道で折れるつもりだった。右手には交通用の橋がある。

 遠く視界の端で、斜面にしなやかに伸び並んだ葦草が下流から波打って迫っているのが見えた。

「ガーコ。アヒルの人形がお気に入りだったから」

 加賀絋汰、カガコウタ。

「……それだけ?」

 ちょっと無理があるんじゃないのか。

「それだけ!」

 駆け出した彼女の背中を追って、街灯が瞬きはじめた。

 一度だけ振り返った彼女の唇が動いたように見えたが、絋汰は背後を通り過ぎていく葦草のざわめきで聞き取ることはできなかった。

 


  了

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