†


 くもの巣キャンディー、今日はあるかい?

 そう聞かれて陸はビンの中を確かめた。くもは巣を作っている。

「ちょっと待ってね」

 陸はビンの蓋を開けようとして、ふとその手を止めた。

「ねえ、なんか甘い香りがしない? まるで飴みたいな……」

 吸い寄せられるように、陸は打ち捨てられた傘に目を向ける。ところどころ穴があき、人に使われることなく放置され、傘はボロボロになっていた。

 その、ひっくり返ったボロボロな傘の内側に大きなくもの巣がはりついている。陸はそっと巣に触ってみた。

 甘い香りのするくもの巣は、固く、陸が軽く触っただけでは崩れない。

「これ、くもの巣キャンディーだよ」

 くもの巣キャンディーはあるかと陸にたずねた人も、つられてくもの巣に触れる。袖の下からチラリと、上品そうな金の腕時計がのぞいた。

「そういえば、飴売りの子が言ってたな。一匹、くもの巣キャンディーを作るくもが逃げてしまったって。たぶん、そいつがこのくもの巣キャンディーを作ったんだ」

 ぱきりと音がした。

 金の腕時計の人が力を入れすぎて、傘の内側にできていたくもの巣キャンディーを割ってしまったのだ。


          †


 陸のくもの巣キャンディーを作るくもは少しずつ元気をなくしている。

 以前ほど活発に動かなくなったくもを、陸はガラス越しに見つめた。

「小さいくもの巣キャンディーしか作らないのは、小さなビンの中にいるからなのかな?」

 ひとり言のようにも、くもに向かって語りかけているようにもとれるふうに言うと、陸はガラスのビンの蓋をそっと開ける。そして小さなくもの巣キャンディーを取り出すと、隣の男の子に渡してビンの蓋をしっかりと閉める。

 くもの巣キャンディーを手にした男の子は残念そうに、くもを外に出さないんだ? と言った。

「外に出したら逃げてしまうよ」

 でも、大きなくもの巣キャンディーを作るかもしれないよ?

「あんまり大きいと、食べきれないだろう?」

 リクは夢がないなあ。

 言って、男の子はくもの巣キャンディーを口に入れる。

「おいしいかい? ソラ」

 めちゃくちゃうまい。ガムとは比べ物になんないよ。

 満面の笑みで飛び跳ねる。

 陸は空という名の男の子がはしゃぐのを見て、軽く肩をすくめた。


          †


 まもなく、街のあちこちで甘い香りがするようになった。

 もともと少なかったけれど、陸にくもの巣キャンディーのことを問い掛けてくる人はさらに減り、通りがかりの人にくもの巣キャンディーを分けることもなくなった。

 ねえ、リク。やっぱり変だよ。

 空はくもの巣キャンディーを舌で転がしながら、隣でガムを噛む陸に言った。

「変?」

 だってほら、歩いてる人たちさ、みんなぼんやりしてるし。

「ふうん」

 なんか、さ。甘い香りに誘いだされましたって感じ? 足元ふらふらしてるし。絶対、変。

「ふうん」

 空は少し黙る。大きなため息をひとつすると、リクはきっと大物になるよ、きっとね、と言った。

「ふうん」

 陸は無関心に相づちを打つと、ビンの中を確認する。

「ところでソラ、くもの巣キャンディーが出来てるけど、食べる?」

 食べる。後で食べる。だから取っておいて。

「はいはい」

 陸は肩をすくめた。


          †


人だかりができているのを、陸は見つける。

「これは一体、なんのさわぎ?」

 人だかりに近づいてたずねると、飴で出来たくもの巣に人がひっかかっているみたいなんだと答えが返ってくる。

 陸は人と人の間から覗き込もうとしたが、あまりにも人が多すぎてうまくいかない。

 強く甘い香りが立ち込めていた。陸がかろうじて見ることができたのは、だいぶ大きくはられているらしいくもの巣と、それにからめとられている、上品そうな金の腕時計のはめられた手だけだった。


          †


 くもの巣キャンディーを食べながら、陸は路かたで街の人々を眺める。

 行きかう人々の中で陸のことを気にとめる人はいないし、珍しく空もやって来ない。

 街中にはうっすらと甘い香りがただよっていた。

「……退屈だな」

 どこかぼんやりとした様子で歩く人たちを眺めながら、陸は小さく呟く。くもの巣キャンディーは口の中でじわじわと溶けていき、なつかしい余韻を残しながら消えた。

 ――何やってんの?

 唐突に空の言葉を思い出す。ガムを噛むとなつかしい余韻は消えて、かわりになじみ深い味が広がる。

「……何やってるんだろう、ね」

 呟いて、軽く肩をすくめた。


          †


 空に手招きされ、陸は人気のない路地裏へ入っていく。

「どこまで行くのさ?」

 陸が聞くと、空はいたずらっ子の笑みを浮かべて答えた。

 もう、すぐそこだよ。すぐそこにさ、すっごいのがあるんだ。

 甘い香りが濃く漂っている。陸はくらくらとする頭を軽く押さえながら空に続いて行き、それを見た。

 空は、それをよく見ることもせず、すぐに振り返って胸を反らせる。

 どーだ、驚いたか。

「……」

 陸は口を半開きにしたまま、何も言えなかった。

 得意げな空の背後には甘い香りのするくもの巣が、道いっぱいにはり巡らされ、通路をふさいでいる。

 巨大なくもの巣キャンディーをよく見ずに、すぐこちらを振り返った空はおそらく気が付いていないが、陸は大きな大きな巣にへばりつく、空よりも一回りほど大きいくもに目を奪われていた。

 巨大なくもは音も無く巣の上を移動して、空に接近する。空のすぐ後ろまで来るとピタリと止まり、ゆっくりと体を縮めた。

 巨大なくもが何をするつもりなのかわかった陸は、思いっきり空を横に突き飛ばしてから、あわてて反対側に飛ぶ。

 突き飛ばされた空が驚いた顔で陸を見た。陸には空がゆるりゆるりと地面に吸い寄せられていくように見える。倒れた途端に、なにするんだよと怒り顔になったけれど、二人の間に割って入ってきた巨大なくものせいで陸から空は見えなくなってしまう。

「こっちだ」

 陸は言った。しかし空の悲鳴にかき消され、誰にも届かない。巨大なくもは空に狙いを定めたようだった。

 落ちている壊れた傘をつかむと、陸は背を向けている巨大なくもに全力で振り下ろす。

 ばきん、と音がした。巨大なくもはあっさりと割れて、動かなくなった。

 陸も空も、割れて動かなくなった巨大なくもを呆然と見つめる。


          †


 巣を全くはらなくなってから間もなく、陸の小さなくもは動かなくなった。

 なじみ深い味のするガムを噛みながら、陸は街の人々眺める。

 くもの入ったビンを軽く振るとカランコロン、ガラスと何か固いものがぶつかり合うような涼しい音がした。くもはやっぱり動かない。

 それ、どうするんだよ?

 空の言葉に陸は考えるそぶりを見せる。

「うーん、もうくもの巣キャンディーは作らないしなあ……。ソラ、これ、欲しいかい?」

 リク、いらないからって押し付けようとしてないか?

「いや、そんなことはないよ。ソラがいらないんだったら捨てておくけど」

 空は陸に手のひらを出して、言った。

 いる。欲しい。ちょうだい。

 陸は軽く肩をすくめると、くもの死骸入りのビンを空に手渡し、思いついたように呟いた。

「くもが巣をはるように、私はキャンディーを売るの」

 何それ?

 空はキョトンとして、それから吹き出す。

 リクは別に、キャンディーを売ってるわけじゃないじゃん。

「このくもを譲ってくれた飴売りの女の子が、よく言ってたんだ」

 へー。

 ビンをくるくる回して動かないくもを夢中で観察する空は、どことなく気の抜けた声を出す。いろいろな角度からくもを観察してから、思い出したように口を開く。

でもさあ、リクって飴を売ったり巣をはったりするタイプじゃないと思うよ?

「え?」

 あ、なんとなくだよ? なんとなくなんだけどね、もしリクがくもだったとしても、巣なんかはらないでうろうろと動き回るタイプなんじゃないかなーって思う。たぶんさ。

「……ふうん」

 無関心そうに相づちを打つ陸に、空はニカリと笑った。


          †


 行きかう人々の足取りに迷いはない。

 陸はガムを噛みながら、ゆったりと道行く人々を眺めていた。

「ガム、食べるかい?」

 陸の隣でじっとしていた空は、ガムを受け取って口に入れる。

「どう?」

 やっぱりまずい。

 顔をしかめるが、今回は吐き出さずに噛み続ける。

 陸は軽く肩をすくめると荷物の詰まったリュックを背負い、行く先を見すえて歩く人々の中にまじった。

 大きく手を振る空を後ろに、陸は街の出口へと向かう。

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くもの巣キャンディー 洞貝 渉 @horagai

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