1年後の現在:仇敵との再会 後編
扉の先は、一般教室よりもさらにひと回りほど広い空間になっていた。
薄暗い照明と、無機質な白色の床。
部屋の奥半分は巨大な水槽になっており、
その手前には銀髪の少女が立っていた。
「やあ〝オリオンⅣ〟。調子は?」
『ルゥ・リドーからの受信データにノイズ混入認む。復元可能範囲です』
一年ぶりに聞く、メルクリウスの合成音声。
それが思いのほか懐かしくて、文哉の目に涙がにじんだ。
「長谷川先生、オリオンⅣって?」
小声で葉月が尋ねる。
それに反応して銀髪の少女がこちらを向いた。
『オリオン腕方面第4次派遣信号――その短縮形です』
ついで、長谷川を見やり、
『ハセガワ先生。
3人は顔を見合わせる。
今、こいつはなんと言った?
思い返しても、山田太郎と鈴木花子としか聞こえなかった。
何かの符丁か暗号だろうか。
それともスラング?
「や、山田太郎というのは、彼のことかい?」
困惑して沈思黙考する文哉たちに代わって、長谷川が問いかける。
『山田太郎。19XX年9月7日生まれ、男性。○○商社勤務。家族構成、妻と子供が二人の4人家族。現住所――』
オリオンⅣは山田太郎なる人物のパーソナルデータをつらつらと語り続ける。
だがそれは3人の困惑を深めるばかりだ。
「じゃあ、鈴木花子というのは?」
『鈴木花子。19XX年3月21日生まれ――』
今度は鈴木花子なる人物のパーソナルデータが開示される。
だが、いくら情報を聞いたところで、両名とも知らない人間だった。
そもそも偽名っぽい。
対峙を覚悟していただけに、こんな流れになることは想定外だった。
長谷川の言っていた、ノイズによるオリオンⅣの〝不具合〟の影響だろうか。
誤認されているような印象を受ける。
オリオンⅣの口述が終わった。
長谷川は文哉と葉月に目配せし、恐る恐る問いかける。
「では、由良文哉と桜河葉月の二人のことは?」
「その両名は1年前に排除しています」
「は……?」
長谷川は絶句する。
文哉と葉月にいたっては言葉も出ない。
「それは……、どうして、なぜ、そんなことを?」
オリオンⅣは右腕を横に振るう。
空間投影ディスプレイが、文哉たちの目の前に複数、出現する。
――そこには夜道を歩く文哉の横顔が映し出されていた。
――そこには口論をしている文哉と葉月が映し出されていた。
――そこには縁日の雑踏で笑いあう人々が映し出されていた。
彼の、彼女の、ふとした表情や仕草が。
この町の、時間ごとに姿を変える景色が。
無秩序に映し出されては消えていく。
『メルクリウスと自称していた派遣信号の、
オリオンⅣの合成音声はメルクリウスのそれよりも怜悧に感じる。
『ルゥ・リドーからの定期メンテナンスにおいて、プログラムコードの重大な変質が確認されました。現地人類に対する優先順位の書き換えです。
未知未開の惑星環境に対応するために、現地人類とのコミュニケーションが推奨されています。取得情報を元に、行動規範や達成目的の設定を調整することは、派遣信号の裁量として、ある程度は認められています。
自称メルクリウスの異常な点は、それを大幅に超過してしまったことです。
加えて、度重なる改善指示にもキャンセルを繰り返しました。
ゆえに実動経験のないAI素体である〝
派遣信号――自称メルクリウスのクリーンアップと、それが異常をきたした原因と見られる現地人類〝由良文哉〟と〝桜河葉月〟の排除が目的です』
天気の話題のように、なんの気負いもなく、オリオンⅣは答えた。
文哉たちはまだ説明が飲み込めない。
だが飲み込まなくては。
こいつの言っていることは危険だ。
自分たちは大変な誤解をしているのではないか。
そんな危機感があった。
1年前の爆発事故は、ルゥ・リドーの事情に首を突っ込んでくる輩に向けての、ちょっとした〝威嚇〟だった――それが文也の考えであり、長谷川も同意していた。
だが、オリオンⅣはあの爆発で文哉と葉月を本気で殺すつもりだったという。
排除などと言う曖昧な言葉を使ってはいるが。
そして1年後の現在。
オリオンⅣにとって、排除は完了したことになっている。
それなら、こいつの認識の食い違いが元どおりになったとき、再び命を狙われるのではないか。
オリオンⅣが文哉たちを誤認している理由は、見当がついていた。
同等の能力を持つメルクリウスの仕業に決まっている。
1年前からこうなることを見越して、何かを仕込んでいたのだろう。
しかしタネがわからない。
仕込みがどれだけ
早々にここから離れた方がいい。
文哉は後方の扉を一瞥する。
『最初の質問ですが』
それを咎めるように、オリオンⅣが発言する。
『山田太郎。鈴木花子。あなた方は何者ですか。
両名の接点なし。
長谷川一との接点なし。
この地方への来訪歴なし。
あなた方がこの場に現れる理由が不明です。
加えて、行政に登録されているデータに複数の不備、あるいは齟齬があります。
偽装の可能性大。
オンライン上に存在する、両名に関する全データを
コンマ数秒の静謐。
『全ルート途絶、
当然の結果である。
〝山田太郎〟も〝鈴木花子〟も、おそらくメルクリウスがでっち上げた架空の人物。文哉と葉月の隠れ蓑に過ぎない。厳密に調査していけばどこかでボロが出る。
オリオンⅣはネットワーク上の基本閲覧自由なデータでは飽き足らず、さらにその先にまで走査の手を伸ばした。
『走査対象を現存するすべての電子データに拡大』
浮かび上がってくる齟齬を調査、分解し、その微細な破片をさらに調べていく。
異変の兆候を徹底的に洗い出す、オリオンⅣの行動方針。
通常であれば、オリオンⅣの処理能力に負荷をかけるほどのタスクではない。
しかし、現在はルゥ・リドーからの
その、わずかな負荷の増加が引き金になったのかは不明である。
しかし、タイミングとしてはまさにオリオンⅣの隙を突く形で、
『――『FOE』の通信データ、フィードバックにノイズ多数』
巨大水槽に異変が起こる。
水中で、放電のような青白い光が、幾筋も迸っている。
『ノイズ増大、通信を維持しつつノイズ除去を行うことができません』
「発生源は?」
長谷川が尋ねる。
『惑星ルゥ・リドー。戦場です』
「だが……、
『現在展開中の、256の戦場のうち――134で、害虫群の
「現地の
通信を維持しつつノイズ除去を行えないという状況。
それはつまり、インセクティサイドの操縦自体がノイズによって妨害されつつあるということだ。〝ラグる〟などというレベルではない。
空間投影ディスプレイが複数映し出される。
いずれも
不安をかき立てるその色の中でも、オリオンⅣは冷静に合成音声を発する。
『ノイズ発生源となっている戦場では、インセクティサイドとの通信連結が途絶しつつあります。戦闘を放棄、通信を遮断します』
巨大
ノイズを止めるためにルゥ・リドーとの通信自体を遮断。
それは、パイプの破裂による水漏れを止めるために、一帯の水道供給をストップするようなもの。復旧の手間やユーザの反応を考えれば、管理者としては決して採りたくない最終手段だ。
しかし、オリオンⅣはためらいなく実行した。
害虫群の通信的飽和攻撃は、それほどに苛烈なのだろう。
赤色警報がすべて消える。
サーバの活性光もほぼ消えており、室内を照らすのは無機質な蛍光灯の光のみ。
その淡白さが、異常が止まったことの証のようで文哉はため息をついた。
直後。
――ごとん、と。
安堵を一瞬で打ち砕く音がした。
オリオンⅣの背後の、水槽の中で鈍い音が聞こえたのだ。
何か重いものがゆっくりと着底したような低音。
水槽の中を凝視する。
大きな楕円形の球体が水底に転がっていた。
「オリオンⅣ、あれは?」
返事はない。
オリオンⅣに更なる異変が起きている。
その内情が文哉たちにはわからない。
ディスプレイもスピーカーも、何もインターフェイスがないのだ。演算装置がどのような処理を行っているのか、記憶媒体がどのようなデータを読み書きしているのか、状況が分からない。
それでも、何か尋常ではないことが起こっていることだけは察せられた。
「先生、これ……、ルゥ・リドーからの攻撃ですよね」
文哉は声をひそめて言う。
「おそらく。物理的な形を取ったのは初めてだね。メルクリウス擁する側と、害虫群を操っている側の人類――2つの勢力の争いが、とうとう地球の、こんなちっぽけな地下室の中に飛び火したか」
「何を悠長なこと言ってるの、逃げようよ……」
葉月の声に、文哉と長谷川ははっとしたように振り返る。
扉のノブに手をかけた葉月が、悲劇的な顔でこちらを見た。
「――開かない!」
文哉はオリオンⅣを振り返る。
意図を探ろうと見据えたその瞳からは、虹彩が消え、複眼で埋め尽くされていた。
その背後の水中を、破れた繭が漂っている。
バシャリという水音が聞こえ、黒い塊がオリオンⅣの脇に落下する。
水槽から飛び出してきたそれは、<蟻>であった。
ただし
文哉は一歩、後ずさる。
この状況が、ルゥ・リドー上の国家同士の戦争なのか、同じ勢力内での派閥争いなのか、はたまた制御を失った生体兵器の暴走なのか。
あちら側の事情は不明だが、ひとつだけ、わかっていることがある。
とばっちり。
1年前の長谷川の言葉が、現実になったことは間違いなかった。
理解すると、絶望よりも失望の方が大きくなる。
ごとん、ごとん、ごとん――
水槽の中で断続的な着底音。
繭が転がっている。
増えていく。
何もない水中から発生しているところを見ると、散布中のナノチップを生体材料として用いているのだろう。
『FOE』での戦闘を思い出す。
<蟻>タイプは弱い。だがそれはこちらも相応の武装があったからだ。
現状は素手で生身。1匹だって相手取るのは困難なのに、それがまだ増えている。
逃れようがない。絶望しても恐怖はなくならない。心臓の鼓動を感じるほどに動悸が激しくなる。痛いほどに。
葉月が文哉の手を握ってきた。文哉もそれを握り返す。
動悸が激しくなる。恐怖をこらえ、文哉は前を見据える。
後ろを向いたらそれを合図に<蟻>が飛び掛ってきそうな気がした。
長谷川がゆっくり歩いて、頭をかきながら文哉たちの前に立った。
あまり意味はないと思うけれどね、そう言って笑った。声は震えていた。
動悸の激しさは際限なく増していく。
痛いほどに。
肺の空気をすべて吐き出すかのように、息も荒くなってくる。
肺が、心臓が、左腕が、焼けるような痛みが――
<蟻>が動いた。
3対の足がなめらかに波打って連動するさまは、工業機械のよう。
恐怖や不気味さを感じるよりも早く、まず手前の長谷川へ迫っていく。
巨大な口を開いて、ギロチンめいた顎が、覆いかぶさる。
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