1年後の現在:幼馴染との再会
「戻ってくると思ってたわ」
列車を降りて駅の北口から出ると、白いワンピースに日傘を差した、夏のお嬢さま然とした姿の女性に声をかけられた。
桜河葉月である。
彼女はすっかり変わってしまった。
以前のような、パンツルックにTシャツだけという身軽すぎる格好ではない。あのときの傷跡を隠すためなのか、夏でも薄い長袖を着用するようになった。
「ひさしぶり、文哉」
◆◇◆◇◆◇◆◇
行きつけだった――というほどの頻度で訪れていたわけではないが――喫茶店に足を運んだ。
カウベルを鳴らしながら店内に入る。
一時の避暑を目的とする客が増えるため、夏は書き入れ時のはずだが、その喫茶店はさほど混雑していない。知る人ぞ知る、といえば聞こえはいいが、あまり繁盛していないのは相変わらずだった。
「最初は帰省しないと思ってたわ。ゴールデンウイークも音沙汰なしだったから」
「じゃあなんで」
「おばさんが教えてくれたのよ。それで、あたしが、文哉が戻ってくることを聞いてないって言ったら、あらサプライズのつもりだったのかしら、あの子には黙っといてね、わざとらしくならないように驚いてあげて――だって」
葉月は夏の影のように軽く笑った。嫌味のない、寂しげな笑み。
文哉の母親は、文哉と葉月が付き合っているのだと、ずっと勘違いしている。
文哉はずっと、それを否定も肯定もしていない。
ちがう、と言ってしまえば、あの夏に崩れてしまって、でもぎりぎりのところで形を保っている何かを、決定的に壊してしまいそうな気がするからだ。
「帰ってくるつもりはなかった」
「あのCMを見たから?」
「……そうだよ。オレはあれを見るまで、『FOE』がまだ続いてることすら知らなかった」
文哉の言葉を聞いて、葉月は目を丸くする。
「それはまた……、パソコンもスマホも捨てましたってわけじゃないんでしょ? ほんっと、徹底的に避けてたのね」
「葉月は知ってたのか?」
「大学だと、ときどきあのゲームの話で盛り上がってるのが聞こえてくることもあったし。春先くらいから徐々にメジャーになっていったみたい」
「そうか」
「あたしはプレイしてないけど」
注文していたアイスコーヒーとアイスティーが運ばれてくる。
文哉はコーヒーにミルクを入れた。
葉月はアイスティーにシロップを入れなかった。
「あたしは文哉のことが好きよ」
コーヒーがむせた。
文哉は十数秒ほど咳き込み続け、その間、何かをごまかすように、テーブル上に飛び散ったコーヒーを拭いた。葉月はそんな文哉を手伝うでもなく、楽しげに、満足そうに見つめている。
「いきなり、何を……」
「メルクリウスのことは嫌いだったわ」
嫌悪を表明するにしては、さっぱりした表情だった。声音もカラッとしている。
「そう、だったのか?」
「初めて会った日、なんて言われたと思う?」
「学校に忍び込んだときだよな。さあ……」
「『男性型の方がよかったでしょうか?』ですって。どう思う?」
「今になってそんなこと言われても……」
葉月の目が鋭くなり、弁明を促す。
文哉の舌はよく回った。
「外見を自由に変えられるメルクリウスが、あえて女性の姿を選んだのには、そりゃもちろん明確な理由があったはずだ。ファーストコンタクト時には、その容姿が相手に与える第一印象にも気を使うようプログラムされてるだろうからな。これは性差別、ジェンダー的問題は抜きにして考えてほしいんだが、単純に、身体的特徴の違いとして、男性はゴツくて威圧的、女性は小柄で柔和だっていう――イメージがある。これはもう一般的なものだろ。そういうのは当然、あちらもリサーチ済みのはず。だから、メルクリウスの姿っていうのはルゥ・リドーの対地球のスタンスの表れなんだよ。威圧ではなく、協調から入る。そのスタンスに忠実に従った結果、女性型を取ることを選択したんだ」
「つまり?」
「若い男には若い女を
「素直でよろしい」
葉月はアイスティーのストローをどけると、グラスに口をつけて一気に半分ほど流し込んだ。昔の彼女を思い出させる、男らしい仕草である。
「文哉は、メルクリウスを探すために帰ってきたんでしょ」
「ああ、そうだ」
「
「それは……」
最後に見たメルクリウスは、まるで機械のようだった。
メルクリウスは無表情で声も平坦、動揺することもない、淡々とした気質だった。そう設定されていた。
それでも文哉は、その内面には精神が、心が、感情が、それに似たものがあるのだと信じて、メルクリウスと接してきた。
〝心〟を錯覚する程度には、メルクリウスは〝人間らしさ〟を備えていた。
だが、最後に見た彼女は、正真正銘の機械だった。姿は変わらず、あの銀髪黒衣のままだったが、内面が感じられなくなっていた。
空っぽなのだとわかってしまった。
人間とやり取りするための機能の一切を排除して、ただタスクを処理することに専念する機械装置。それが、メルクリウスの最後の印象だ。
だから『FOE』がサービスを継続していることは、メルクリウスが存続していることとイコールではない。
彼女の全
友人のように過ごしたメルクリウスには、もう二度と会えないことになる。
「わからないが、無視はできない」
文哉はまっすぐに葉月を見据えた。
こんなささいな意思表示すら一年ぶりだった。
この一年、言葉を交わしたことは皆無ではなかったが、それはデータのやり取りであって感情を交わすものではなかった。
葉月は口を尖らせる。
「でも、手がかりなんてないでしょ」
生物室の仮設サーバはもうない。
物理的にも電子的にも、メルクリウスの所在はわからないのだ。
「……これから考える。8月いっぱいはこっちにいるつもりだから」
「バカじゃないの?」
いきなり暴言を吐かれた。
「ええ……? そりゃまあ、バカなことやってるなとは自覚してるけど……」
葉月は乱暴な動作でグラスをつかむと残りのアイスティーを飲み干した。
ドン、とビールジョッキのようにテーブルに置いて、
「あたし、大学じゃ結構モテちゃうんだけど」
酔っ払いのように唐突に話題が切り替わる。
「サークルとかには一切参加してないんだけど、友達にどうしてもって頼まれて、一緒にコンパに行って……」
その友達のために詳細は省くが、と葉月は断る。
「そこのサークルの先輩たちにものすごく絡まれたのよね、入会しないかとか、お試しでいいからとか、オレと付き合わね? とか――もとからそういう目的だったわけ。集まって飲んだり遊んだりするだけの、くっだらない輪よ。
それを断ってその場から脱出したら、今度は友達がね、脅されてるとか言い出して、友達って行っても女の子で、でも女の子だからいろいろ都合の悪い――写真とか、弱みを握られてるらしくて。よくある手よ、ネットにばら撒くぞっていう。
警察に届けようって言ってもその子は嫌がるし……。
で、しばらくしたら今度はあたしのところに知らない相手からしょっちゅう電話がかかってくるようになったの。もちろん男で、複数で。……そう。
あたし、気持ち悪くて、それにやっぱり怖くて……」
そのときの恐怖や悪感情を思い出したのか、葉月の瞳が潤んだ。
文哉は知らず奥歯をかみ締める。
葉月はため息をひとつ。
「でも、ある日、そういうのが急になくなったの。それに、例のサークルの中心メンバーが、個人情報流出とか脅迫とか、暴行とか淫行とか……そういうので丸ごと逮捕されて、それから」
葉月はスマートフォンを取り出して画面を向ける。
「このメールが送られてきたのよ」
――『安心してください。すべて、抹消済みです』
件名なし、送り主不明の謎のメッセージ。
「これ……」
「あの子にしかできないでしょ、こんなこと。だからたぶん、メルクリウスは、まだどこかで生きてるのよ。……生きてるって言い方はおかしいけど」
そう言って葉月は苦笑いを浮かべる。
「いや……、そんなことはねぇよ」
あんな目に遭ってもなお、葉月がメルクリウスのこと一個の生命、人格として認めていることが、文哉はうれしかった。
嫌いだという言葉にしてもそうだ。
好きの反対は無関心である、という有名な言い回しがある。
それに従えば、嫌いというのは明確な意識の現われだ。嫌よ嫌よも好きのうち、と言うではないか。
あの夏、葉月とメルクリウスは確かに友達だった。
そして今も、葉月の窮地をメルクリウスは救ってくれた。
どこにいても、どんな姿をしていても、それは変わらない。
その事実は文哉を勇気づけたし、連絡を取るためのヒントもくれた。
「サンキュ、助かったよ。……葉月に会えてよかった」
別れの言葉と、千円札を置いて文哉は立ち上がる。一万円を出せないところが大学生の悲しい懐事情である。
「ちょっと、何これで終わりみたいな空気出してるのよ!」
「え?」
「え? じゃないわよ、あたしも手伝うって言ってるの!」
葉月は千円札をつかんで立ち上がり、文哉を追い抜いてさっさと会計を済ませる。
なじみの店員が、口元を上げてこちらを見ていた。
「なぁにが『会えてよかった』よ。メルクリウスの情報さえ手に入ればお払い箱ってこと? あんた、あっちの大学で女の子泣かせてないでしょうね」
「そういう意味で言ったんじゃねえよ」
「じゃあどういう意味かしら?」
「ささ再会っていうのは、喜ばしいものだろ」
「一般論というのは逃げだと思います」
「ただでさえ
喫茶店を出ても、言い合いは続く。
猛暑日に迫りそうな、この暑さのせいだろうか。
――自分はあの夏に帰ってきたのだと、汗を拭いながら実感していた。
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