思考の樹海

シアン

第1話思考の樹海

 はらりはらりと季節外れの雪が舞っている。僕は溜息を一つ吐いた。だからといって、ここまで来たのだから雪が降った程度で帰るわけにはいかない。ある決意を胸に、僕は顔にかかる雪を払いながら進み出した。

 兄が亡くなった五月に僕は、樹海に来ていた――



 僕達兄弟は双子だった。外見上の違いは眼鏡ぐらい。僕が眼鏡をかけていて、兄は眼鏡をかけていない。僕の視力が低下した原因は多分、本の読みすぎだ。そんなわけで僕に対するクラスメイトの印象は、双子のもっさりとした方、らしい。別にどう思われたってよかったし、どのように区別されていようと関係はなかった。それは僕が、外見なんて些細なことだと思っているからだ。だから、僕達が双子だからといって他の人に比べて似ているだけ。そう考えるようにしていた。ただそれは、そう考えようとしていただけに過ぎなかった。


「――がもう少し明るかったらねえ。それと、お兄ちゃんにもう少し落ち着きがあれば。本当に貴方達は足して割ってちょうどな性格よね」

 母が昔、僕達に言った言葉。何ともはた迷惑な言葉だ。そんなことで均一化を図ろうとされても困りものだ。個性があっていい、そう肯定してくれればよかったのに。ましてや僕達の母親なのだから、なおのこと双子というオプションに振り回されず個性を尊重してほしかった。


 ヤマアラシのジレンマ。要するに、付かず離れずの距離感が大切だということだ。僕と兄もそうだった。お互いが傷付かない距離というのを両方が分かっているからこその付き合いをしていた、と思う。過干渉は互いのためにならないことぐらいは理解できていたからだ。

 しかし、僕は思い違いをしていた。理解ができるのは理性的に判断ができた場合であり、無意識下での干渉には気付けないということに。



 五月のはじめ、兄が事故死した。歩道を歩いていた買い物帰りの兄に、赤信号を無視したトラックが突っ込んだそうだ。居眠り運転だったらしい。兄とトラックの運転手は即死だった。

 酷くあっけない兄の死を、僕は全く受け入れられなかった。先ほどまで笑っていた兄が、もう帰らぬ人になってしまったなんて、誰が信じられようか。いや信じられまい。当然のごとく僕は取り乱した。その時の周りの様子など視界にも入らなかったが、その取り乱しようは両親よりも激しかったかもしれない。兄の葬儀中もこらえられず泣いてしまった。焼き場へいってしまう兄の棺に、僕は泣いて縋った。その後両親は、少し休んでいなさいと優しく言った。学校にも行く気が生まれなかった。


 一つ、兄が死んで露呈したことがある。それは僕が兄に依存していたということだ。気付いていなかったけれど、僕達は互いに干渉しすぎていた。言葉を交わすことは少なかったけれども、確実に心の拠り所にしていた。精神面で、無意識に僕は兄に依存していた。

 本が友達と言っていいほどの幼少期に、兄だけが構ってくれた。兄は僕の、一番の理解者でもあった。困った時に頼りになるのも、いつも兄だった。両親は肝心な時にはあてにならない。根底に信用できる人物は兄だけなのだという考えが染みついていたのだ。だから、そんな兄に依存をしてしまうのも、よく考えれば必然的なことだったのかもしれない。

 そんな兄がいなくなってしまった穴は思っていたよりも大きく、ぽっかりと暗い穴を空けていた。そして、心の中のその穴から、隙間風のようなものが終始吹き荒れていた。

 すでに蝕まれてしまった心を、僕はどうしたものかと持て余していた。虫食いだらけになった醜い僕の心。こんなもの、どうしようもない。だから捨てるしかない。

 ぽいっと投げ捨ててしまえばいい。そしたら巣からでる蜂のように、虫がブワーンと飛び出してくるかもしれない。そんな気味の悪い光景を想像して僕は呻いた。まだ正常な判断はできるようだった。



 死ぬのが怖い?――いいや、ちっとも。

 それは嘘だろう?――まあね。

 認めるのかい?――誰だって死ぬのは怖いさ。そうだろう?だけど、それよりも生きる方がつらいのだから仕方がないじゃないか。

 リストカットの痕を包帯で隠す。ぐるぐると巻いてある白い包帯は、どこか歪で不格好。まるで僕の心の中を代弁しているようだった。もう血は止まっているはずなのに、どばり、と出てきそうな落ち着かない気持ちになる。気味が悪い。出てきたらどうしようか。そのまま放置していたら死ねるのだろうか。そんな死にざまは無様だと思う。

 ああ、でも。それはそれで愉快だなと思うから、僕にとってはそう悪くはない死に方なのだろう。

 くつり、と嗤った。

 包帯を見やる。結局、傷口から血は出てこなかった。全て僕の杞憂に過ぎなかったのだ。それが良かったのか悪かったのか、正確な判断はできないけれど。

 窓の外の新緑は、眩しいほどに生命力を主張してくる。目に映る全てが輝いている五月。そんな五月に僕は、どうして生きているのだろう。僕が生きる理由なんて何一つないのに。

 兄が死に、僕は気力というものを失っていた。

 いっそ死んでしまおうか。リストカットみたいなお遊びではない、死ぬ確率が高いやり方で。

 一瞬、そんな悪い考えが頭をよぎった。まだそれが、悪いと感じているうちは正常なのかもしれない。大丈夫。僕はまとも、僕はまともだ。そう繰り返して呟く。

 僕はまとも。

 僕はまとも。

 僕はまとも。

 しばらくそうしていると段々と変な気持ちになってきた。まともって何だろう。その答えを僕は探したが、ぐるぐるとした思考の中には手掛かりすら見つかりはしなかった。



 段々と記憶は風化していくものなのだから、自然に身を任せてしまえばいい。そうすれば深い傷だって癒えるだろう。そのまま、兄のことさえ忘れてしまうだろうか。存在すら覚えていられなくなってしまうのだろうか。兄という一人の人間がいた事実を消し去ってしまえば、僕の心も平安を取り戻すのだろうか。

 それとも、敬虔な信者のように十字架に祈れば、兄は戻ってくるのだろうか。いいや、そんな事はないだろう。理を外れた願いは神様なんかには聞き届けられないはずだ。それでもなお祈ってしまうのは超次元的な力をどこか信じているからなのかもしれない。それも今日で終わりだ。十字架をゴミ箱へ捨てる。そこらへんにポイ捨てしないだけましだと思ってもらおう。

 単純なこと。兄がこの世に戻ってこないのであれば、僕が兄のいる場所へいけばいいだけの話だ。こんな簡単な事に何故気付かなかったのだろうか。いや、気付かないふりをしていただけだ。兄が死んだと聞かされたときから、その答えは心の中にうずくまっていた。



 この先が樹海だ。木々は深く生い茂っており、とても薄暗い。ここに入ってしまえばおそらく、二度と戻ってこられないだろう。果てしなく続く樹海を死ぬまでさまよい歩くのだ。そう思うと、足がすくんだ。怖い、のだろう。自分でもコントロールできない感情に僕は戸惑った。先ほどまでは意気揚々――とまではいかないにしろ、少なくとも樹海に入る勇気は持ち合わせていた。それがどうしたことか、今更になって樹海に入りたくないと体が拒否している。情けない。思わず泣き笑いの顔になる。ここまで来て、ここまで来て。これ以上足が進まないなんて。信じられなかった。

 ある意味当たり前の反応かもしれない。心だけ先走ってしまって、ようやく頭が追い付いてきたのだろう。

 そう、今までが正常ではなかったのだ。だから今、僕は本当の意味でまともだ。そんな風に考えたら少しは気持ちが軽くなった。ほんの気休め程度でも、僕にとっては大切な現状把握だった。そして思い直す。僕は死ねない。死ぬことが怖くて仕方がないから。兄は、そんな意気地なしの僕を許してくれるだろうか。

 さようなら、死のうとしていた今までの僕。僕には死ぬ勇気がない。先ほどまでの僕はもういない。僕の心を飛び出して、ひとりでに樹海の中へ消えていってしまった。灰色の雪雲を映した視界には、死にたがりの僕の姿も兄の姿も見えていなかった。



 それから。

 僕は眼鏡を外し、コンタクトになった。理髪店に行き、髪の毛をさっぱりとさせた。

 鏡を見れば、兄がいた――まあ、僕だけれど。

 死んだ兄に瓜二つの僕。これからは鏡を見る度に兄を思い出すだろう。そして、兄そっくりな姿を見て、虚ろな幻に想いを寄せる。兄はもういないという事実と鏡の中に存在するという誤認識。ああ、依存は断ち切ることが出来なかった。兄という大きな存在を消し去ることなど、できやしなかった。僕という存在も同じく。たとえ命を奪うのは一瞬だとしても、存在ごと人ひとり消すのは一生だ。その一生の中で僕は、幻影を追いかける。鏡の中の兄を見て、そこで確かに生命が息吹いていると思い込ませていくのだ。

 兄は決して喜びはしないだろうと、良心が訴えている。その、小さいようで大きな罪悪感から、僕は目を逸らした。

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