天狗の森

やさぐれ太郎

天狗の森

 あの日見た光景がどうしても忘れられない。

 もう何十年も前の話になる。子供のころは、毎年、夏休みに祖父母の家に預けられていた。私の両親は共に働いており、私が夏休みで毎日のように家にいると、世話をするものがいないので、不都合があったのだろう。祖父母の家は、遠く離れた自然豊かな田舎にあり、子供の時分、夏休みごとに祖父母の家に預けられるのは、子供ながら理由はわかっていたのだが、大変な不満であった。せっかくの長い休みに漫画を読んだりゲームをしたりと好きなことをすることも許されず、何故あんなに辺鄙な田舎へと送られるのかと思うと、子供心に残念な気持ちを感じるのであった。

 飛行機を降りて、車で二時間ほど走った山の麓に祖父母の家はあった。毎年、道中は不満な気持ちで過ごしても、祖父母の家について車を降りると、あの田舎特有の土の香りに包まれて、祖父母が笑顔で迎えてくれると、なんだか温かい気持ちになり、それまで感じていた不満が、すうと、どこかに消えてしまったように感じられたのだった。

 田舎での日常は、今に思えば、つまらないものである。毎日朝早くに起きて、朝飯を食い、祖父に連れられて畑へ行く。基本的には、これの繰り返しである。祖父が畑で仕事をしている間はすることがなく、近くに流れている小川へ行き、魚を追いかけたり、また、あぜ道で跳ねているバッタを捕まえようと追いかけたりと、毎日が新鮮な体験に満ち溢れていた。

 子供時代は、両親に将来を心配されるほど、内気な少年であった。友人がいないわけではなかったのだが、他人といると、特に大勢の場合に顕著に現れたのだが、途端に何もしゃべることができなくなるといった性質を持ち合わせていた。楽しそうに笑い合う友人たちが、テレビを見るような、窓の外を見るような、何か自分との間に薄い膜が張っているような感じがして、疎外されているように思い、孤独を感じたのだった。

 人間相手にはそんな調子で、自分をさらけ出すことができなかったのだが、相手が昆虫や魚など、人間以外のものであれば、あふれる感情をむき出しにして接することができ、都会の生活では感じることのできなかった、開放感を感じることができた。そうやってストレスのない毎日を送るということにおいて、子供なりに自然を満喫していたのである。

 あの夏の日もそうして自然の中で過ごしていた。いつものように、祖父に畑に連れられ、自然の住人である昆虫と戯れていた。

 蟻の巣を見つけ、そこに水を流し込み、逃げ惑う蟻たちを拾った木の棒で突き回していたとき、ふと、小川の向こう側に気配を感じて目を向けると、あれは狸だったと思うが、森の奥へ走り去っていくものが見えた。畑の周りには、昆虫は嫌というほど沢山いたが、野生の動物ともなると、あまり人前に出てくることがない様子であり、動物はいないのかと興味本位で祖父に尋ねてみたこともあったのだが、長年その土地に住んでいる祖父でさえも最近はあまり見かけないと話していたことを覚えている。

 子供というものは、何か好奇心を刺激されると、とても盲目になってしまう生き物である。目の前に見つけた、格好の好奇心をぶつける対象を逃すはずがなかった。狸を見つけたことに興奮を覚え、好奇心のあるがままに、それを追いかけて森の中へと入っていった。

 祖父はことあるごとに、森には天狗が住んでいるから入ってはいけないと、私を脅かすのだった。過疎の影が迫りつつある、祖父の村にも、少ないが、子供はいた。そして、村から出た人間も、盆や正月など、子供を連れて帰省してくる。あとから聞いた話ではあるが、森の中に子供が入り、迷子になると面倒だからと、村のルールとして、祖父だけでなく子供が家に来た際には、作り話をして脅かしておくと、決められていたそうだ。その通りに祖父に何度も脅かされていたが、好奇心によって、目の前の世界には狸と自分しかいなくなってしまい、どんどんと狸を追って森の奥へと進んでいくのであった。

 森の中は、もちろん道が舗装されているわけではない。木の根が入り乱れ、ところどころにこぶし大の石が落ちており、苔の生えているところもあり、足場は最悪の状態であった。それに加えて、木々の枝が道を遮り、木の葉が視界を奪い、見たこともない羽虫が宙を舞い、狸を目で追うのさえ困難であった。それでも、どうにかこうにか、必死で狸を目でとらえ、森の中を突き進んだ。

 狸を追いかけ始めたときは、好奇心により他の感情を忘れて体を突き動かされていたが、そう長くは続かなかった。森の中の空気は畑の周辺に比べて、冷たく澄んでおり、その静寂さは背筋に寒いものを落とすようであり、そのうちに、好奇心を忘れて、何度も足が止まり泣き出しそうになった。しかし、偶然であると思われるが、先を行く狸が私の心を見透かしているかのように、時折こっちを振り返り、ついてこいといったようなそぶりを見せた。そのたびに忘れかけていた好奇心が再び燃え上がるような感覚があり、心に体が突き動かされているかのように、力強く歩を進めるのであった。

 歩いているうちに何度もこけた。大人であれば、歩きづらいだろうが、こけずに歩くこともできよう。しかしながら、子供の短い脚では、木の根を乗り越えることが難しく、また、苔の上でバランスを取ることも難しかった。何度もこけ、膝に擦り傷を作り、ジンジンする足の痛みに襲われ、大変なさみしさに晒された。それでも、不思議と泣いたりはしなかった。さみしさの中にあっても、先を行く狸の存在がとても大きかった。それは、言わば父の背中のようであり、ある種の逞しさに起因する、安堵感や安らぎ、といった感情を狸の後ろ姿から与えられたからであった。

 狸を追いかけていた時間は今になると、どれだけの時間だったか思い出すことはできない。ほんの数十分の出来事のようにも思えるし、何時間も森の中を歩いたようにも思える。この時間の曖昧さは、経験からの時間がたったことによる忘却という側面ももちろんあるが、それ以外にも理由があった。

 何か違う世界に入り込んでしまったかのような、感覚があり、その世界と外界の時間の流れが違うように感じた事である。ただただ、夢中になって狸を追いかけていたのであるが、いつの間にかに、異世界に迷い込んでしまったのではないかとも思われた。

 澄んだ、冷たい空気が非現実感を浮き彫りにして、現実との隙間を作る。またそこに、子供ならではの好奇心が加わり、一層のこと、時間の感覚を曖昧にしたのではないかと、今になって思うのである。

 途中で川を渡った事を覚えている。足場の悪い道を進み続けて出会った川。川幅は大きいものではなく、子供でも渡れるような大きさの川であった。その川を見つけた瞬間に、ふと、我に返るのであった。この川を下っていけば、森の入り口の小川に出るのではないかと、考えたのである。子供の知識でよくも、そんなことを思い付いたなあと感じるが、どこか心の片隅で、これ以上先に進むとまずいことになるといった、危機感のようなものを感じていたのかもしれない。

 小川を渡るのを躊躇していると、狸がこちらを見ているのに気が付いた。その目線は、まるで私のことを試すかのようなものであり、父親が、何か新しいことに挑戦しようとするわが子に向けるそれに近いようなものであった。その川を飛び越えて来い。なぜだが、狸に見守られているような感覚に陥り、動物相手ではあるが、何か信頼感のようなものが出来上がっていることに気が付いたのである。

 その信頼感は親友同士の敬意に起因するような類のものではなく、やはり、父親が子供に対する、無償で、当たり前に注がれる、愛情に起因するようなものに近かった。揺るぎない信頼感に気が付き、川を越えて狸と共に行くことに、もはや躊躇はなかった。私は川を飛び越えたのである。

 川を越えてからは、不安感や孤独感を感じることはなかった。今まであった好奇心から、狸が自分にどんな世界を見せてくれるのだろう、といった気持ちに変化したのだった。

 狸の足取りは軽く、木の根をものともせず、生い茂る草の隙間を巧みに通り、一定のリズムをもって先に進んでゆく。ふと、狸と同じ道筋を行けば効率的に進めるのではないかと思い立ち、狸と同じ道筋を進んでみた。自分の庭を悠々と行く狸の通った道筋は、私にとっても最適解といえるような道筋であり、これまでと比べて幾分か楽に進めるようになった。

 狸のリズムを感じ、自分のリズムを感じる。付かず離れず、一定の距離で狸とともに進む。時々、いたずらに狸と距離をとってみたり、また、距離を縮めてみたりと試してみたのだが、一定の距離を合わせるよう狸が進む速度を加減した。それはまるで、二人で音楽を奏でるようであり、何か心地よい気持ちで満たされていくのだった。

 川を越えてからというもの、狸との距離感を楽しんでいたのだが、ある瞬間から、周辺の空気が変わったのを感じた。目の前に広がる風景には何ら変わりはないのだが、自分の周りを包む空気が一層、冷たく静寂さを増したのであった。まるでそこを境に、周りを形作る真理が変化したかのようであった。いや、真理自体が、別の世界のものと入れ替わった、といった方が近いのかもしれない。

 聞こえていた木々のざわめき、虫の声、そういった音が浮き彫りになる。また、目の前の緑色、足元の茶色、視覚から読み取れるものが、色の濃さを増し、はっきりと見えるようになった。息を吸えば、酸素の濃度が増したように思える、そこは聖域といった類の性質を持った場所だと直観的に理解したのであった。

 空気が変わってからは、先へ進む速度を落とし、慎重に歩を進めていた。なぜだか、これまで狸を追っていたように、無邪気さを振りまいて走り回るのが、この場所ではとても恐れ多いことだと感じたからである。それは、やはり、静寂な空気感によるものであった。

 慎重に歩を進め始めたことにより、今まで見えなかった周りの景色を注意深く観察することができた。そこで気が付いたのだが、ここには昆虫が一切いないのである。昆虫だけではない。野生動物の気配もせず、あるのは木々をはじめとする植物だけなのである。生命の気配がしない。ここで生きているものは自分と狸だけだと悟ったのであった。

 荘厳な空気感の中を歩き続けると、開けた空間が目の前に広がっていた。広さでいえば四畳半ぐらい、といったところであろうか、子供一人が寝転んで余裕がある、その程度の広さであった。その一角だけ木々が生えておらず、背の低い雑草が、まるで絨毯のように敷き詰められていた。

 森の中は薄暗く、十分な光が入らないのであったが、その一角にだけ、夏の日差しが降り注いでいた。夏の日差しではあるが、頭上に生い茂る葉が光を適度に遮り、カーテンの役割をしており、まるで、春の日差しのような柔らかさを持っていた。

 その場所は、やさしい場所であった。神様がいるのであれば、神様の慈悲に満たされた場所、といった表現が正しいのかもしれない。

 聖域を形作る真理。この場所が、この森の真理なのだと直観的に理解した。この場所に満たされるやさしさが、この森を駆け巡り、山の麓の里まで下りてくる。そして、周辺の村をそのやさしさで包み、田畑が潤い、作物を実らせる。やさしさの中で新しい命が生まれ、その命を繋いでいく。命の源がこの場所にあるということを実感した。いや、子供にそのことを実感させるほどの説得力が、この場所はあったのだった。

 ふと、狸の様子が気になり、狸のいた場所へと目を向けてみると、狸が森の奥へと走り去っていくのが見えた。これまでの、ついてこい、といった後ろ姿ではなく、自分の役目は終わったから立ち去るといった後ろ姿であった。

 狸の後ろ姿を見送った後、木漏れ日のさす中心に立ってみた。上を見上げると柔らかな日差しがさしている。冷たい森の中で、柔らかな温かさを持っていた。

 ふいに、どこからか疲れがこみ上げてくることに気が付いた。思えば、森に入ってからというもの少しの休憩もせずに、気持ちを張り詰めさせて、この場所まで来たのであった。

 立っているのが億劫になり、腰を下ろしてみた。今頃になって、転んだ傷が痛み始めているのに気が付いた。どうにも、膝が曲がっている体勢だと、膝が痛みが強い。その場で寝転んでみることにした。仰向けに寝転んでみると、膝の痛みがいくらか軽減された。

 柔らかな日差しがさす。冷たい森の中で下がっていた体温を上げていく。温かさに包まれて瞼が落ち、思考が鈍っていくことに、どうにも抗えなかった。

 柔らかい光は、いわば母の腕の中にいるような温かさ、心地よさを持っており、聞こえてくる木々のざわめきが、優しい声で紡がれる子守歌のように聞こえたのだった。体の中の疲労感が、まどろみの快楽へと昇華されていく。

 ふと、目の前の光景をもう一度見ておかなければという気持ちになり、目を開けてみた。変わらず木々の間から柔らかな光がさしている。目を開けていてもまぶしいと感じることはなかった。目の前の光景を頭の中に記憶して、目を閉じた。やさしさに包まれ、意識が遠のいていくのであった。

 長い夢を見ていた気がする。どんな内容であったかは今となっては定かではないが、何かやさしさに包まれて、ふわふわと浮いていた感覚だけを覚えている。何か大切な夢であったように感じるが、そうではなかったかのようにも感じられる。

 祖父の私を呼ぶ声により目を覚ました。どれだけ眠っていたのか、あたりは薄暗くなり、遠くの空はオレンジ色に染まっていた。目が覚めてもその場所にいたのだが、眠る前とは空気が別のものとなっていた。それまでの静謐で神聖なものではなく、世俗的で慣れ親しんだ普段感じられる素朴な空気に変貌していた。

 祖父が私の顔を心配そうに覗き込んでいた。周りを見ると、そろいの法被を着てライトを持った大人たちが、十数名、こちらを見ていた。どの人も顔には安堵の表情を浮かべていた。

 帰りの道中は、祖父の背中に背負われていた。木漏れ日に包まれていた時の安心感とは別の種類の安心感にとても落ち着いた気持ちでいたことが思い出される。

 家に帰りつけば、心配そうな顔をした祖母に出迎えられた。膝の傷を見つけるとすぐに、消毒液と絆創膏をもってきて、手当てをしてくれた。そして、その夜は祖父にこってりと絞られたことを覚えている。夜遅くまで、普段はではとうに寝ている時間まで、それはもう、こってりと絞られた。祖母の、子供のしたことですから、という言葉により、祖父に解放され、床に就いたのである。

 次の朝に、祖父の怒りが持ち越されることはなかった。祖父の普段との変わりなさに面食らうほど、いつもと変わらない朝であった。

 ただ、その日から変わったこともあった。祖父と畑に行くことは変わりないのであったが、祖父の畑仕事を手伝うようになったのである。それは、私が余計なことに気を奪われないようにしよう、といった意図があったことには気付いていたのだが、何よりも、祖父の畑仕事を手伝える自分が、少し大人になったような気がして、妙にうれしかったことを覚えている。

 祖母に、あの場所についての話を聞いたことがある。祖父に聞かなかったのは、また怒られると、そんな気がしたからである。祖母は、天狗に誘い出されたのね、などと何処か遠い表情をして教えてくれた。言葉では、子供をからかい、煙に巻いているかのようであったが、その表情の裏には何か意味がありそうな様子であったが、今となっては確認する術はない。

 ここまでが、私の忘れられない光景にまつわる、一連の夏の出来事である。

 数年前に、祖父が他界した。その少し前に、祖母が他界しており、祖母なしでは何もできなかった祖父が、祖母の後を追ったのだと、親戚中での語り草であった。祖父が他界したことにより、夏のたびに訪れていた家は主を失ったということになり、しばらくの間は放置されていたが、諸々の事情により、手放すことになったのである。

 家の整理があるからと、母が田舎の家へと帰る際に、一緒に付いて行く事にした。もう見ることがなくなってしまう田舎の家を最後に見ておきなさいという、母の一言により、決心したのである。

 飛行機を降り、空港の外へ出ると、風景は様変わりしていた。田舎は田舎なりに発展を遂げ、あのころから時間がたったのだなあと、思わせるのであった。

 車に揺られ、田舎へ着くと、そこでも驚くような光景が広がっていた。前々から聞いていた話ではあるが、あの場所のあった山に、高速道路が通っていたのである。あの頃と自然の豊かさは相違ないが、人工物であるコンクリートの塊は、その異物感を隠しきれることもできず、美しい景色の中で、歪んだ存在感を示すのであった。

 家の整理をするといっても、その家の主から見て孫の立場である私には、何もすることがなかった。あまりにも暇であったので、あたりを散歩することにした。

 家の周辺は、以前と変わらないように感じられたが、手の加えられていない、荒れた畑が目立っていた。この村も過疎により、十数年、早ければ数年後にはなくなってしまうと母から聞いたことがある。

 舗装のされていない道を歩いていると、二人組の老婆が話をしていた、特に聞き耳を立てていたわけではないが、会話が耳に入ってきた。今年の野菜は味が落ちている、年を追うごとに落ちている、といった内容であった。

 そんな話を聞きながら歩いていると、祖父の畑が見えてきた。やはり、この畑も荒れており、祖父が亡くなってから月日が経ったのだなあと、感じられるのであった。

 畑の隣は変わらずに小川が流れていた。のぞき込んでみると、あの夏と変わらず魚が泳いでいた。

 小川の向こうを見ると、あの日と変わらない森が見えた。狸の事を思い出し、入ってみようかという気持ちが沸き上がってきた。しかし、ふと、今日はおろしたての靴を履いていたことを思い出した。森に入っていったのでは靴がよごれてしまうと思い、森へ入ることをやめた。

 そして、昔に祖父と歩いた道をたどり、祖父の家へと、一人、帰るのであった。

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