哲学コント~「山月記」編

鵜川 龍史

哲学コント~「山月記」編

〈登場人物〉

客:冒頭で振りをするだけの単なるモブ

袁傪:天然(だか計算だか謎)の監察御史

李徴:虎になってしまった詩人志望の行動主義者



客:ねえねえ。いつもの話、やってよ。

袁:いつものってえと、あれかい。

客:そうそう。あの、お友達が虎になっちゃって、ってやつ。

袁:へいへい。みんな、あの話が好きだねえ。それではお話しさせていただきます。――「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。」

李:おい。

袁:「いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作にふけった。」

李:おい、って。話、聞けよ。

袁:「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

李:分かってるなら話を聞けよ。

袁:ちょうど、今、おまえの話をしてたところなんだよ。

李:知ってるよ。最近、あっちこっちで、俺の過去のあることないこと、講談調で語ってるやつがいるって。袁傪、お前だろ。

袁:「袁傪は恐怖を忘れ、馬から降りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。」

李:無視すんな!

袁:いやー、懐かしいな。

李:お、おう。

袁:李徴、お前、ほんと変わらないな。

李:いや、俺を見て! 俺のこと、ちゃんと見て!

袁:確かに、ちょっと毛深くなった?

李:そうなのよ。ほんとムダ毛の処理が大変で……って、違うわ!

袁:なんか、着るものも派手になって。

李:そやかて、百貨店に買いに行ったら、こないな服ばっかりやで。

袁:大阪のおばちゃんは、アニマル柄、好きだからな。

李:……って、服、ちゃうわ! 毛じゃ、これは! おま、なめとんか!

袁:「関西の李徴は迫力満点。天保山のすぐそば、若くして名を海遊館に連ね、ついてジンベエザメに補せられたが、性、ペンギン、イワトビ・オウサマすこぶるジェンツー、スナメリにアマエビをイワシとしなかった。」

李:怒ってごめんなさい。話を聞いてください。

袁:「袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。」「友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。」李徴は、友人の多かった袁傪にとっては、まあまあ親しい友であった。

李:うるさいよ。

袁:「袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった。」――袁傪、いいやつだな。

李:少しは怪しめよ。

袁:ええと、何を話すんだっけ。

李:ツッコミは無視かよ。

袁:「都のうわさ」――えーと、最近駅前にユニクロができた。

李:いや、俺、服着ないし。

袁:ふーん。あと、「旧友の消息」――お前、友達いなかったよな。

李:おい! 少なかったのであって、いなかったわけじゃないって。

袁:ふーん。「袁傪が現在の地位」――俺、監察御史になったんだ。

李:ふーん。

袁:「それに対する李徴の祝辞」――「まじで、すごくね、袁傪。その若さで監察御史とか、神ってる!」

李:言ってないし。

袁:褒めろよ。俺、褒められて伸びるタイプだから。

李:それより、俺の話を聞いてくれ。

袁:「袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを尋ねた。」

李:えっ? 虎になった理由? いきなり核心を突いちゃうわけ?

袁:ぜひとも、聞かせてください。

李:それがさ、ある日、気がついたら虎になってたんだよ。

袁:いやいやいや、それ、面白くないから。お客さん、帰っちゃうよ。そうだな――例えばさ、「かつての同輩はすでにはるか高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏々として楽しまず、狂悖の性はいよいよ抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、ついに発狂した。」みたいなのが欲しいわけよ。

李:やっぱり、あることないこと騙ってるの、お前だろ。

袁:でも、せっかく虎になったんだから、そういうドラマチックなの、欲しいじゃん。

李:そう言うけどさ、考えてもみろよ。理由もなく突然虎になるんだぜ。怖くね? 不条理すぎでしょ! その辺のホラーより、よっぽど怖いと思うけどなあ。

袁:「まったく、どんなことでも起こり得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、なぜこんなことになったのだろう。分からぬ。まったく何事も我々には分からぬ。理由も分からずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。」

李:そうそう。そういうこと。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」みたいにな。

袁:何それ。

李:ゴーギャンだよ。

袁:誰それ。

李:画家だよ! 知ってろよ! ほんと、お前、芸術にうといのな。詩も、からきしだったし。

袁:「自分はすぐに死を思うた。」――だな。

李:なんだ、ゴーギャン、知ってんじゃん。まあ、この絵の時は自殺未遂に終わったんだけどね。

袁:でもさ、ということは、ゴーギャンは人間の生に意味を見出せなかったってことだよね。それを引いてきたお前は、なんで生きてんだよ?

李:なんで生きてるの、って。また随分な言いぐさで。

袁:カミュも言ってるよね。不条理に対処するには「自殺」しかない、って。

李:自殺しかない、とは言ってないよ。

袁:まあ、そうなんだけどさ、お前の場合、「自殺」しか無理じゃん。

李:なんでそうなるんだよ。

袁:例えば、カミュは、第二の方法に「盲信」を挙げているが、これは不条理を超えた何らかの「理由」を信じることだ。例えば、「科学的・合理的な理由がある」とか「神の与えた試練だと考える」とか。でも、そんなもの信じられないだろ?

李:お前にそう断言されるとムカつくけど、まあ、そうだな。この俺が虎になるのに、どんな合理的な理由も考えることはできないし、神の試練だなんてまっぴらごめんだ。

袁:第三の方法は「反抗」だ。人生が不条理であることを受け入れて、それでもその不条理に「反抗」する。それこそ、カミュが「形而上学的反抗」として位置づけた方法だ。

李:それそれそれ! それ、俺じゃん!

袁:どこがだよ。

李:俺の能力に合わない仕事は、信念を曲げてまでやらず、芸術によって社会に抵抗しようとした!

袁:わがままだよな。

李:仕事に復帰した後、昔バカにしてたやつらに、嫌みたっぷりに命令されたとき、夜の役場の窓ガラスを壊してまわって、盗んだバイクで走り出した。

袁:犯罪じゃん。てゆーか、それお前だったのね。道理で、いくら調査しても犯人が分からないわけだよ。

李:そして、「今でも、こんなあさましい身となり果てた今でも、俺は、俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。」

袁:え、どういうこと? まだ詩人になるつもりってこと?

李:だから、そう言っている。そこで、折り入って頼みがあるんだ。

袁:嫌な予感しかしない。

李:「他でもない。自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩数百編、もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在ももはや分からなくなっていよう。ところで、そのうち、今もなお記誦せるものが数十ある。これを我がために伝録していただきたいのだ。なにも、これによって一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。」

袁:話が長いよ。要するに、どういうこと?

李:だから、俺が昔作った詩が、まだ発表されないまま眠ってるんだけど、その原稿がどこに行ったか分からないわけ。で、今から俺が覚えてる分を言うから、それを記録して伝えてくれ、ってこと。

袁:初めからそう言いなさいよ。これだから、詩人ってやつは。簡単に済む話をいたずらに複雑にして、「俺にはこんな風に世界が見えてるんだ。なぜなら、俺、詩人だから」みたいな顔をする。だから、嫌いなんだよ。

李:そうだった、お前はそういうやつだったな。お前にお願いしようとした俺が間違ってたよ。

袁:詩だとしても、それ自体が言語である以上、それが使われる場から自由ではない。言語は、客観的指示対象に対応する「論理形式」じゃない。社会集団の中でどのような形で使われるかに依存した「生活形式」なんだよ。

李:それ、「言語ゲーム」の話だろ。だから、俺が作ってるのは詩なんだよ。詩の言葉は、文化的に共有された詩の形式と、それまでに作られてきた詩を始めとした様々な作品との間に取り結ばれた間テクスト的な関係、そしてなにより、その詩の内部の言葉同士の関係によってその都度生まれる――まあ、お前の言い方に敢えて合わせてやるけど――ゲーム的な規則によって意味づけされるんだから、残念ながら、お前の批判は批判になってない。大体、言語が「論理形式」だったら、詩なんて不可能だろうが。

袁:ちくしょう。「博学才穎」だからっていい気になりやがって。詩が「言語ゲーム」に過ぎないっていうんだったら、詩の言葉がもたらす感動って、何なんだよ。

李:「言語ゲーム」はお前が持ち出したんだろ。と言っても、俺自身、感情なんてものの存在、信じてないんだけどな。

袁:どういう意味だよ。

李:人間の感情的変化をはじめとした「心的過程」は、外界からの「刺激」に対する「反応」でしかない、ということだ。逆に言えば、「心」っていうのは、ある特定の身体的変化や生理的反応に対して名付けられた名称に過ぎず、「内面」はあくまで虚構でしかないということだ。

袁:そんなはずがあるか! 心は確かにここにある。俺自身が感じるんだから、間違いない。

李:全く、論理性の欠片もないな。そんなことで、官吏の検察・弾劾をする監察御史が務まるのかね。

袁:いつでも俺の裁定は「大岡裁き」だ。公平なうえ、人情味もある。みんなの人気者。

李:なんか、間違ってる気がするが。

袁:そんなことより、さっきの話だよ。

李:……そうだな。例えば、ヒトは、外界から一定の刺激を受けると副腎から血液中にアドレナリンが分泌され、身体中を循環する。その結果、心臓の鼓動が速くなり、身体中の筋肉が緊張し、手の平が汗ばむ一方で口の中は乾き、血圧が急激に変化して呼吸が荒くなる。そして、脳は、その場から逃げ出す行動を取るように身体に命令するんだ。

袁:それは「恐怖心」の問題だろう。外界からの刺激に対して、心が「恐怖心」を感じたから、その影響で「アド街ックなんとか」が分泌されて、そういう身体の状態に変化したんだ。順番が逆だろ。

李:もう、なんていうか、そこまで言ったなら、ちゃんと「天国」まで言ってくれよ。

袁:天国まで行けって、俺に死ねって言ってるのか! おー、こわ! 虎、こわっ! アドレナリン、出まくっちゃうよ! 分泌されまくっちゃうよ!

李:アドレナリンって分かってんじゃねえか。まあ、分かってるなら話は早い。要は、「恐怖心」イコール「アドレナリンの増加」ってことだ。

袁:イゴール?

李:「北の最終兵器」(注:ウクライナの格闘家、イゴール・ボブチャンチン)でも、フランケンシュタイン博士の助手でもない! アドレナリンは哺乳類が共有する最も原始的なホルモンなんだ。だから例えば、ウサギがヘビに睨まれた瞬間や、シカがライオンに見つけられた瞬間にも、身体には急激にアドレナリンが分泌され、ヒトと全く同じような緊張状態に陥り、即座に逃げ出す。

袁:それは「ウサギがヘビに恐怖心を感じた」ってことなんじゃないのか。

李:その言い方は擬人的な表現に過ぎない。実際の動物には「恐怖心」なんてないだろう。むしろ逆に聞きたいのは、人間の「恐怖心」が何か、身体変化や逃走欲求といった行動科学の概念を用いずに、明確に定義することができるか?

袁:いや、だから、「何かを恐ろしいと思うこと」だろ。

李:それじゃ、「恐怖心」の意味を説明したことにしかならない。「恐ろしいと思う」ってどういうことだよ。

袁:それは「傷つけられるのを怖がる」――「怖がる」って言ったら同じことなのか。じゃあ、「何かから逃げ出したい気持ち」――。

李:それは逃走欲求と同じことだ。結局、「恐怖心」というのは、ヒトの脳内で実際に生じている、一定の刺激に対するアドレナリン分泌量の増加という、完全に物理的な反応でしかないということだ。

袁:だったら、お前と再会したこの俺が感じた「恐怖心」は何だったんだよ! 「アド街」の神回を見て興奮したのと同じだったっていうのか!

李:とりあえず「アド街」関係ないし、それ「恐怖心」でもないし、そもそもお前、俺に対して「恐怖心」なんて感じてないよな。

袁:はい。丁寧なツッコミ、ありがとうございました。

李:はあ。お前、そんなキャラだったっけ? まあいいや。俺はあくまで聞かれたことに答えたまでだし。――とはいえ、考えようによれば、その辺りが虎になった理由なのかもな。

袁:どういうことだよ。

李:「人間であった時、俺は努めて人との交わりを避けた。人々は俺を倨傲だ、尊大だと言った。実は、それが『感情というものを信じられないからだということ』を、人々は知らなかった。」「俺はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる『行動主義』を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも『哲学者』であり、その『哲学』に当たるのが、各人の性情だという。俺の場合、この『行動主義』が『哲学』だった。虎だったのだ。これが俺を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、俺の外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。」

袁:そっかー。大変だったなー。

李:「天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人俺の気持ちを分かってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、俺の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。」

袁:ふーん。大変だったなー。

李:「ちょうど、人間だった頃、俺の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。」

袁:なるほどねー。

李:お前のことだよ!

袁:そろそろ、行くわ。

李:ちょっとちょっとちょっと、待ちなさいよ。よく、この話の流れで出発できるな。

袁:まだ何かあるのか?

李:あ、ああ。「お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼らはいまだ虢略にいる。もとより、俺の運命については知るはずがない。君が南から帰ったら、俺はすでに死んだと彼らに告げてもらえないだろうか。決して今日のことだけは明かさないでほしい。厚かましいお願いだが、彼らの孤弱を哀れんで、今後とも道塗に飢凍することのないように計らっていただけるならば、自分にとって、恩幸、これに過ぎたるはない。」

袁:ほら、また分からない言葉で話す。

李:だから、うちの奥さんと子供の面倒を見てやってくれないか、って話だよ。

袁:えっ! いいの?

李:「いいの?」って、どういう意味だよ。

袁:公認、ってこと?

李:何がだよ。

袁:でも、「すでに死んだ」と告げてくれってことは、どのみち、死別によって婚姻関係が解消されるんだから、再婚は自由か。よかったー。行方不明だと、離婚成立まで三年も待たなきゃいけないんだよ。お前がいなくなったのが、ちょうど一年前だから、あと二年も待たなきゃいけないところだった。

李:待て待て待て。話が見えないぞ。

袁:いやー、実は、今回の出張の直前にさ、初めて「お父さん」って呼んでくれたんだよね。

李:えっ!

袁:「妹が欲しいな」とか言われちゃったし。

李:お前、ちょっと待てよ。どういうことか説明しろよ!

袁:「叢中から慟哭の声が聞こえた。」

李:泣いてねーし!

袁:「袁傪もまた涙を浮かべ、よろこんで李徴の意にそいたい旨を答えた。」

李:そんなこと頼んでねーし! 何だってんだよ。(上を仰ぎ見て、涙をこらえる)

袁:「虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。」

李:ちくしょうめ。これがほんとの「寝トラれ」か。

袁:おあとがよろしいようで。

李:後味、最悪だけどな。

(幕)


〈参考文献〉

中島敦「山月記」

高橋昌一郎『哲学ディベート――〈倫理〉を〈論理〉する』(NHKブックス)

高橋昌一郎『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』(講談社現代新書)

高橋昌一郎『知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性』(講談社現代新書)

高橋昌一郎『感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性』(講談社現代新書)


〈一言〉

内容的には「哲学落語」として上演することも可能かと思われます。

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