第3話 夜の庭

 ゆらりと、うつ伏せの半身を起こす。

 傍らでは規則正しい寝息をたてて、男が寝ている。

 輝子は暗闇の中で男の輪郭に目を凝らす。(男というものは、誰もこういうものなのか。)

 輝子はいつもの共寝の床の、背の君に思いを巡らす。

 (あの方も、いつもぐっすりと眠ってしまう。)

 輝子の戸惑いにも、ためらいにも気づくことなく。

 男というものは、誰もこういうものなのか。

 それとも。

 二人があまりに似ているのは、父子であるがゆえなのか。

 今、輝子の傍らで寝息をたてているのは、臣下に下された帝の第二皇子。輝子はその帝の第一の寵姫とうたわれる女御だ。今宵のことが世に知られたなら、もちろんただではすまない。

 そもそも、輝子にはこの男、光とこんな関係になるつもりなどなかったのだ。

 光君と呼んで親しんできた帝の愛児は、輝子よりも五つ、若い。

 もちろんその程度の年の差は、光を拒む理由にはなるまい。光の正妻は輝子よりも一歳年下なだけだし、夜に聞こえた光の通い所には、輝子よりも年嵩な者もいる。

 光はとても魅力的な男だ。

 輝子とよく似ていると言われる端正な顔立ち。

 甘く、心地の良い声。

 何をやらせてもよくこなす指は、すらりと長く優美で、身のこなしは舞を思わせる美しさだ。

 光の周りは、いつも明るい。

 それは光が誰にでも好まれる魅力的な人間であるということだけではなくて、光があやかしを寄せ付けない人間だからでもあった。

 光がまだ童姿であった頃、輝子は光が子供だからあやかしを寄せづらいのかと思っていた。輝子自身が皇族であったので、そんなものだと思っていたということもある。

 皇族の血筋はあやかしを寄せにくい。

 反対に精霊を惹きつける。

 その力の強い者の周りは結果的にいつでも明るい清らかな場所になる。

 輝子自身、後宮に上がるまではあやかしに怖い思いをさせられたことはない。

 ただ、宮廷に渦巻くあやかしは余りにも数多く、その恨みつらみはあまりに深い。そうでなければ帝の住まう場所がこれほどに、あやかしの跋扈する場所になるはずもないのだから。

 でも、光は違う。

 この宮廷の中にあってすら、光の周りは、明るい。

 光はきっとあやかしに触れたこともないだろう。どんなあやかしであろうとも、光に触れられる筈がない。

 まさに、ひかる、きみ。

 光から目をそらし、その向こうの闇を見る。立てまわされた几帳の向こうには御簾が、その向こうの御格子はおそらく下ろされているだろう。月の光はごく淡く、几帳に揺れているに過ぎない。

 しんとした、あまりに静かな闇。

 後宮の夜にうごめく醜いものどもは、今宵、この藤壺を煩わせはしない。

 再び、光を見る。

 冠も外れ落ち、もとどおりも半ば解けた寝姿はそれでもとても美しかった。幸せそうな寝顔は、満ち足りた幼子のようなあどけなささえ感じさせる。

 今宵、この光の幸せを、多くのモノが感じ取っているのに違いない。

 そう思うとあまりの身の置きどころのなさにどうしたらいいのかわからない。今宵のことが世に露見までしなくとも、今宵の藤壺の清浄と光の幸せを多くのモノが知っている。

 重い身体を、そっと起こした。

 肩から滑り落ちようとする単の前を手で合わせ、身体を引きずるように几帳の影からにじり出る。

 「宮さま。」

 控えていたらしい女房の命婦が、輝子の身体を支えて御帳台の内まで導いた。

 「目立たないようにお起こしして。夜の深いうちにお帰りねがうように。」

 輝子の短い密やかな指示に、命婦が音もなく去る。一人になると輝子は崩れるように伏した。

 身体が重い。

 気怠いなどという生易しいものではない。まるで水を吸ったように全身が重かった。

 その重い身体に生々しい感触が刻み込まれている。仕草も、振る舞いも、力強さも、今まで輝子が慣れてきたものとはあまりに違う。鮮やかすぎる刻印は一度刻まれてしまえば決して消えはしないだろう。

 光とこんな事には、決してなるまいと思っていたのに。

 自分が今上の寵姫だからというのではなく。

 光が今上の愛児だからというのでもなく。

 冷たい感触に、輝子は自分が泣いていることに気がついた。涙が、頬の下で乱れた髪をしとどに濡らしている。

 あれは何年前だったろう。光の添臥に左大臣家の姫君が立つと聞いた時だったか。あの、ざわりと波立った気持ちを輝子は今も鮮明に覚えている。その気持ちはどうやら消えることなく輝子の中にあったようで、今、うち伏す輝子の中で膨れ上がり、苦しいほどだ。

 帝にとっての輝子は、亡き人の面影の依代でしかない。どれほどの寵愛を受けようと、それは本当に輝子が寵愛されているというのとは違う。そんなことは輝子にもとっくにわかっていることで、だから輝子がこれまで光と今宵のような関係になることを避けていたのは、帝のためではなかった。

 世間で許されることではない。世に知られれば身の破滅だ。

 そのことを恐れないわけではもちろんないのだけれど、それが一番の理由というわけでもない。

 輝子が恐れていたのは、光を受け入れることで、自分の惨めさに気づいてしまう事だった。

 年の離れた今上の女御に配され、身代わりとしての寵愛に倦んでしまっている自分。その惨めな現実は、今、研ぎ澄まされた刃の鋭さで輝子に迫ってくる。

 どれだけ寵愛が厚くとも、御子のいない輝子は結局帝の一の人にはなり得ない。いまだ立后はなっていなくとも、弘徽殿に住まう東宮の御母女御こそが実質帝の一の妻であるのは明らかだった。

 輝子の居場所は袋小路なのだ。

 内親王という身分故に尊ばれはしても、立后の目などありはしない。

 帝に今更「輝子として」寵愛されることなど思いもつかない。

 虚ろで、空虚な輝く日の宮。

 わかってはいてもそこ以外に輝子のあるべき場所はない。

 こんな事は決して起きるべきではなかったのに。

 今更自分の居場所の空虚さを、自分の立場の惨めさをこんな風に突きつけられて、一体どうすればいいのだろう。

 重い身体の中で、輝子の思考もまた重い。

 ぐるぐると回る混乱した意識は吸い込まれるように沈んでいき、いつの間にか途切れた。


 目が覚めたのは、もう日が昇ったあとだった。

 目が腫れぼったく、頭が痛い。

 重たい身体を引きずり起こすと、ふと香りがした。

 昨夜の出来事が輝子の脳裏に蘇る。

 単を羽織っただけの身体が、ひどく生々しいもののように感じられた。

 身じろぐたびに輝子の身体から光の香りがほのかに立つ。それは単に愛用の香が移ったというよりも、昨夜の光の体温や、息遣いを感じさせる香りだった。

 「そこに命婦はいる?」

 命婦は答えるとさり気なく替えの衣装を捧げて御帳台の中に入ってきた。輝子が無言のまま肩から単を滑らせて落とし、差し出された新しい長袴を身につける。命婦はやはり無言のまま、輝子が脱ぎ捨てた単を畳んだ。

 「すでに去られました。」

 新しい単を着せかけながら命婦が囁く。

 「汗をかいたから、湯浴みの支度を。髪も洗いたいわ。」

 単を替えても、光の移り香は消えない。髪にも染みているのか、そうでなければ輝子の体内から香っているのではないかとさえ思えた。その香りを落としてしまわなければ息をつくこともできない。

 念入りに汗を流し、洗い上げた髪には香を焚き染める。髪に香を焚きしめるために香炉をすぐ身近に引き寄せているというのに、ふとした弾みに光の香が立つ。

 それが本当に香っているのか、昨夜自分に刻み込まれてしまった感触の一部なのかは、輝子にももうわからない。

 その夜、帝のお召はなく、輝子は女房たちを相手に時を過ごした。

 身体も心も疲れ果ててはいても、一人で御帳台に伏すのはためらわれたのだ。一人、伏していれば昨夜の記憶に苦しめられる事はわかっていた。

 いや、こうして女房たちと笑いさざめいていても。

 言毎に記憶は輝子を苦しめる。いつまでも感触が、香りが、まつわりついて離れない。

 女房が草子を読み上げるのに聞き入るようなふりをしながら、輝子は御簾の外に意識を向ける。

 今宵も庭にはあやかしが立つ。

 妬み、嫉み、無念、恨み。

 昨夜は庭に近づくこともできなかったものどもが壺庭を埋め尽くす。

 きり、と胸が痛んだ。

 妬みも、嫉みも、今まで輝子には縁のない感情だった。輝子は帝の寵姫だが、帝の他の女御に嫉妬した事はなかったので。

 無念も、恨みも。輝子は知らない。内親王として生まれ、女御となった輝子は、自分が恵まれた境遇であることを十分にわかっていた。

 だから今まで後宮のあやかしは、輝子にとって薄気味悪いだけのものだった。

 なのに、今宵は胸が痛い。

 庭を埋める人の暗い感情が、どうしようもない業として、輝子の胸に迫る。

 そう、それは業だった。

 人がどんなに嫌っても、そうはありたくないと願っても、人の心からどうしようもなく立ち上ってしまう暗い陰。

 はじめて輝子は本当にそのことを理解したのだ。自分で自分の心を扱いきれない、そんな夜があるのだと。

 きりきりきり

 痛む胸にそっと手を当てる。

 いくつもの明かりを灯し数多の女房が集い、笑いさざめく部屋の外に、無数のあやかしの立つ夜の庭。

 半ば目をそらしながら、それでも見ずにはいられない醜い傷跡を見るように、輝子は夜の庭の気配を聞き続けていた。

 

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