第2話 光の庭

 「あなたは本当に月の君に似ている。」

 繰り返される帝の言葉に、輝子は曖昧に微笑む。

 月の君

 帝のかつての寵姫。

 光君の母君。

 帝と月の君の恋物語を、輝子はもう諳んじてしまった。

 その人は美しい月夜に入内して、冬枯れに儚くなったという。

 「水に映る月のように美しい人だった。」

 では、自分は何なのだろうと輝子は思う。

 水に映る月影の、更に、影。

 帝は輝子の姿に月の君の面影を重ね、輝子に月の君への変わらぬ愛を囁く。

 寵愛厚き女御。

 輝く若さに美貌、やんごとなき内親王という生まれ。

 人々にかしずかれ、讃えられる帝の現在の一の寵姫と呼ばれる立場。

 その内実が、これだ。

 帝の寵愛は今も、故人である月の君にひたむきに注がれていて、輝子はただその依代であるにすぎない。

 (そんなのってないわ。)

 自分は自分。誰かの身代わりであるのは嫌。

 勝ち気な輝子はどうしても、自分の立場に納得ができない。それでいて、自分が本当に帝をお慕いして、その寵愛を求めているのかといえば、それもどうなんだろうと思う。

 帝は輝子の背の君だ。

 それはもう定められたことだった。

 でも輝子には自分が帝を「お慕いして」いるのかどうかが、わからない。

 輝子と同じ年頃の鈴鹿という女房がいる。特に気が利くというのではないが素直な明るい娘で、輝子は気楽な話し相手にしていた。同じ年頃の娘同士のお喋りをするのにはうってつけの娘なのだ。

 その鈴鹿に、先ごろついに通わせる相手ができた。

 「なんといいますか、こう、きゅうううっという感じがするんです。」

 恋人のことを聞いた輝子に、鈴鹿は胸に手を当ててそんなことを言った。

 「痛いような、歯がゆいような、泣きたいような、すごく変な感じがして、なんだか苦しいのですけれど、それが嫌というわけじゃないというか。」

 輝子にはわからなかった。

 帝に抱きしめられ、同じ臥床で眠っても「ぎゅうっという感じ」がしたことはない。

 帝のことを思っても特に痛くも痒くも苦しくもない。

 歯がゆい気はしないでもないが、それは帝が輝子を月の君の身代わりとして扱うからで、鈴鹿が言っているのとは違う気がする。

 (主上だって、)

 輝子は思う。

 帝が「ぎゅううっと感じる」のは、輝子でなくて月の君なのだ。帝の心を縛って苦しめているのは輝子では、ない。

 輝く日の宮。

 お幸せな女御。

 (そうかしら。)

 月の君の形代でしかない日の宮。

 そんなのが本当に「輝く」「幸せ」だろうか。

 鏡をのぞく。

 そこに映るのは見慣れた自分の顔だ。

 帝が「月の君に似ている。」という、顔。

 せめて帝がこの顔が好きだというのならまだいいのに。

 こういう顔が好きで、それで召されたなら、前にそっくりの更衣がいたと聞いてもまだましであったのに。

 それなら顔以外の自分のことをいつかわかっていただこうと思えたから。

 華やかではあるけれど、空虚な生活。幸せの実感の得られない日々。それでも輝子は気を抜く訳にはいかない。ここは後宮なのだから。

 夜になると影が立つ。

 輝子の殿舎を取り巻き、帝のお召に上ってゆく道筋のそこここに揺らめく影が無数に立つ。

 月の君の命を縮めたのは、後宮の女性たちの嫌がらせと、数限りなく行われた呪詛の類であったという。

 内親王である輝子にそこまであからさまな嫌がらせはない。表向きは誰もが輝子への寵愛のめでたさを言祝いでくれる。

 それだけに思いが陰に籠もるのか、輝子に纏わりつく影は多い。

 影は輝子の周りの暗闇に巣食い、もしも輝子が隙きを見せればたちまち付け込んでくるだろう。

 後宮とは一度屈すれば二度と立ち上がれない場所。そうであれば輝子も、決して隙きを見せるわけにはいかない。

 空虚さと煩わしさ。

 それが輝子にとっての「帝の寵愛」だった。

 胸息に寄りかかり、壺庭を見る。殿舎の呼び名である藤壺の、名の由来ともなった藤の大樹が揺らめく枝に無数の若葉をつけている。そよぐ風に触れるたび、小さな葉が翻った。

 光に満ちた昼の庭にも影の気配は常にあって、薄雲が空にかかるように光を弱めてしまう。

 それが、ふわ、と明るくなった。

 輝子は微笑みを浮かべて来訪者を迎える。出会った頃より随分と背が伸びた。それでもまだ細い首筋や滑らかな頬はどこか幼い線を宿している。

 輝子と並んで帝に最も愛されていると世間に称されている、第二皇子。月の君の忘れ形見だ。

 月の君の縁であっても、輝子はこの皇子のことが好きだった。第二皇子、光の周りはいつも明るい。光の存在そのものが暗い怪しの影を払い、明るい美しいものだけを群がり寄せているからだ。

 「みやさま」

 御簾の外からの呼びかけに、輝子は直接答える。

 「いらっしゃい、光君。」

 皇子ではあっても親王としては立てられず、源の姓と光という名を約束された皇子を、人々は光君と呼ぶ。

 輝子が母である月の君に生き写しと言われるほどだから、光は輝子によく似ていた。弟のいない輝子は、兄の子供の頃もこんな感じだったのではないかと思うことがある。

 御簾越しではあっても間近に光を見て、輝子は違和感を覚えた。

 いつも満面の笑みを浮かべている光が、どこか沈んでいる。

 「どうなさったの? なにかあったの?」

 「みやさま、僕、元服するんです。」

 光はこの正月で十二歳になった。元服にはまだ少々早いがありえない話ではない。兄の東宮とけじめをつけるため、光の元服を早めて後宮より出すべしという意見が、朝堂に少なくないことは輝子も承知している。

 「まあ、お祝いをしなければなりませんね。」

 何がいいだろうか。朝服がいるだろうから仕立てて贈ろうか。それとも秘伝の香を合わせようか。

 「それで、二条のお祖母様のお邸を父上が直してくださっているんです。これからそこに住むようにと。」

 それも当然の流れだ。

 臣下に下ればいつまでも宮中に住むわけにも行かない。外に本拠となる邸が必要だった。

 「それで、あの、左大臣様の姫君が添臥になって下さるっていうんです。」


 ざわり


 輝子は不意に自分の中の深い場所が不気味にざわめくのを感じた。

 

 ざわわわわわ


 心の、今まで意識したこともない場所が、ざわめき、ふるえ、ゆれている。

 まるで暗がりに潜む影のように。

 「おめでとうございます。左大臣家の姫君は美しい方と伺っています。」

 そして左大臣家の姫君は輝子よりもたった一つだけ、年若のはずだった。光ではなく、東宮の添臥の候補に名前が上がっていたのではなかったか。

 「はい。それで左大臣様の北の方は父上の妹君なのですって。だからこれからは母代と思ってお仕えしなさいと言われました。」

 うつむいていた光がきっと、顔を上げる。

 「でも、父上は今までみやさまを母君と思いなさいっておっしゃってました。僕の母上に似ておられるからって。僕、みやさまが大好きなのに、左大臣様の北の方が僕の母代になってくださるなら、もうお会いしに来てはいけないのでしょうか。」

 帝は確かにそんなことをおっしゃっていた。そして輝子と光が親しむことを喜んでおられたと思う。年若い輝子に光を我が子と思うことはできなかったが、それでも光を愛しんではいた。

 「すっかりお会い出来ないということはきっとありません。でも、もう大きくなられたのですもの。しょっちゅう藤壺にいらっしゃったり、御簾の内まで入るのはそろそろおよしにならなければ。」

 御簾越しでよかった。

 しびれたような頭の隅で輝子は思う。

 言葉だけはなんとか普通に喋っているけれど、今、自分の顔はきっと普通の表情を浮かべてはいまい。御簾越しなら暗い部屋の中はほとんど見えない。

 「でも、そんなの寂しいです。」

 光はべそをかいている。

 輝子の中のざわめきは、痛いほどに激しい。

 「いつまでも子供なことを仰るものではありません。光君ならきっと素敵な公達におなりですよ。」

 その公達姿を、輝子は御簾越しにしか見ることはないのだろう。みずらを結った男童の姿であればともかく、大人の形に様を変えれば、光と輝子の年が対して離れていないことに誰もが気づいてしまうに違いない。親しみすぎることはお互いにとって、危険な落とし穴になってしまう。

 輝子は御簾の下から、そっと紅絹を差し出した。

 「さあ、それで顔を拭いて。涙でぐちゃぐちゃですよ。」

 輝子は今、十七歳。

 左大臣家の姫君は十六歳になるはずだ。

 輝子が早々に入内し、空虚な寵愛に倦んでいるというのに、たった一つ年若のその姫は、これから光に寄り添って人生に踏み出すのだという。


 ざわり

 ざわわわわ

 

 胸のざわめきがやまない。

 輝子は密かに歯を食いしばる。

 光の中に藤の枝が揺れる。

 影のない、光に満ちた昼の庭。

 光をまとった少年は赤い絹を握ったまま、まだべそをかいている。

 輝子はその明るい庭を、胸に刻みつけるように見つめていた。

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