藤の庭

真夜中 緒

第1話 藤の庭

 「世が世なら、お方様もあんなに早くお命を落とされるようなこともなく、ときめいておられたのでしょうに。」

 始まった乳母の繰り言に、光はそっと局を抜け出した。

 桐壺にある母君がもとは使っていた部屋を、光はそのまま父帝から賜っている。

 もっともそれは単に寝る場所が桐壺だと言うだけで、昼間の光は後宮中を好きに走り回っていた。

 局々に異母兄弟の数は多く、後宮の女君たちも母のいない光には優しかったので、遊び相手には困らない。父帝の腰巾着になってどこにでも出入りしていたおかげもあって、光はどこの局にも好きに上がり込んでしまう。

 中でも弘徽殿は兄皇子や姉皇女、妹皇女にお付きの童も多く、良い遊び場になっていた。

 光は乳母の繰り言が苦手だった。

 嘆きばかりの繰り言は、ひどく重くて、暗くて息が詰まりそうだ。

 母なし子の境涯を感じさせないほどに、光は屈託のない子供だった。

 容姿の愛らしさ、仕草の可憐さもさる事ながら、人見知りをしないその屈託のなさこそが、光が誰にでも愛される理由のひとつだった。

 天性不思議なほどに人を引き込む光輝を持った子供だった。

 あるいは微笑んでさえいれば世界が自分に優しいことをしっているのかもしれない。

 だとすれば、それこそが母のない子の知恵なのかもしれなかった。

 後宮を仕切る垣根の下を抜け、殿舎の隙間を通って、子供や猫の他に通る者のない道を抜けてゆく。

 春はたけなわ。

 八重桜や藤、山吹などの鮮やかな色彩が後宮の壺庭を彩っていた。

 中に一つ、壺庭に大きな藤の木を据えた殿舎がある。

 その藤にはことさら長い花房が垂れるので、光はそれを折りに行くつもりだった。

 弘徽殿の下仕えが老いた猫を飼っているのだが、その首から幾房か垂らしてやろうと思ったのだ。老猫は子供の少々の狼藉などは気にも留めずいつも端然と座っているから、まるで藤の花の衣を着たように見えるに違いない。

 目当ての壺庭にたどり着き、そっと花房に手を伸ばす。

 ひとつ、ふたつ

 折り取っていると、人の気配がした。

 「花盗人は誰?」

 すぐ近くの御簾の端が上がり、誰かが覗いている。

 たっぷりの黒髪が柳の細長に打ちかかり、朱の表着の下からのぞく指はどこまでも白く、細い。御簾を掲げたのと反対の手に握った扇は閉じられていて、顔を隠してはいなかった。

 誰かに似てる。

 そう、光は思う。

 その人は少し前まで泣いていたように見えた。

 「私は光です。あなたはどなたですか。」

 物怖じしない光の様子に、その人が微笑む。

 「第二皇子でいらっしゃいますね。私はこの度この局を帝より賜りました。」

 その言葉に光はちょっと驚いた。

 父帝がまた女御を迎えられたのは聞いていたけれど、まさか目の前のひとがその新しい女御だとは考えつきもしなかったのだ。その人はとても若くて、弘徽殿の姉君とたいして違わないように見えた。後宮の他の女君たちに比べれば、まるで子供のようだ。

 「あの、猫に藤の花衣を着せるんです。一緒に見に来ませんか。」

 だからつい、光はそんなことを言ってしまった。

 「まあ、そんなもの猫がじっと着るんですか?」

 女君も興味をそそられたようだ。

 「弘徽殿の猫は着るんです。もう年寄りなんですが、とっても大人しいんですよ。」

 女君はちょっと残念そうな顔をした。

 「多分そういう遊びに加わると、叱られてしまうと思います。乳母はこちらに来てから本当にうるさいんですもの。」

 乳母がうるさいものだということは光にもよくわかった。

 「でもそれなら遠慮なさらずたっぷり花を持って行ってください。どうせ咲いたら散るだけですもの。」

 それで光は大きな花房を選んではたっぷりと摘み取った。

 「花をたくさんありがとうございます。また来ますね。」

 花を抱えて走りながら、光はなんだかわくわくした。

 

 ぼんやりと光を見送って、藤壺の君はため息をついた。名前は輝子内親王。先帝の第四皇女といえば何やら厳めしいが、まだたった十四歳の少女だ。光とも五つしか違わない。

 御簾を掲げた手に握った紅絹はしとどに濡れている。

 御簾の陰に半ば隠れているのと、そもそもほとんど白粉を塗っていなかったので目立たなかったが、光がそう思ったように、輝子は泣いていたのだった。

 輝子が光の父である帝の女御として入内して数日、儀式や儀礼に振り回され、泣いている暇もなかったのだ。

 入内に反対していた輝子の母がなくなると、喪が明けるのを待ちかねるように輝子は後宮に送り込まれた。

 帝のたっての思し召し、などとは言うけれど、帝は輝子から見れば明らかにおじさんで、年が離れすぎている。

 恋をすれば年齢は関係ないものなのだとしても、十四の少女が三十をいくつも越えた相手に都合よく恋心を抱く筈もない。

 まして思し召しの理由が故人となったかつての寵姫に似ているからというのでは、輝子でなくともちょっと考えてしまうだろう。

 光は、その寵姫の忘れ形見のはずだった。

 (似ているかしら。)

 確かに綺麗な顔をしていた。輝子自身も美しいと言われて育った。似ていると言われればそんな気もする。

 (弘徽殿の猫に藤衣を着せるのだと言っていたっけ。)

弘徽殿に住まうのは第一皇子の他に姫宮を二人まであげたもっとも威勢の強い女御だ。光を産んだ御息所を虐め殺したとかいう風説もある。

 (でもあの子は、恐れているようには見えなかった。)

 さっきの様子だけ見れば、光は弘徽殿を日頃から遊び場にしているのではないかと思えた。

 輝子の母は弘徽殿の方や、その他の女君の数が余りに多いのを恐れて、輝子を入内させる事を拒んだ。結局入内することになってついてきた乳母も、やはり弘徽殿の方や他の女君たちを恐れているらしい。けれども輝子自身の気持ちで言えば、毎夜上り参らせる夜の御殿の方がずっと恐ろしかった。

 帝と大殿籠もる夜。

 それ自体にも違和感と嫌悪があったし、一歩御殿を出れば渦巻くあやしの気配もおぞましい。

 影のように揺らめきたつそれが、妬み故に人から離れ飛ばされてきた悪念だとまでの想像はまだつかず、そもそも自分が他人に妬まれる身の上であるという実感がない。他人が妬み羨む寵愛は、輝子にしてみれば代わってもらえるものなら代わってほしい苦行でしかなかった。

 でも、泣いてはいけないのだ。

 少なくとも他人の前で、無防備には。

 少女ながら輝子にも、朧げにその事がわかってきている。

 宮中で生きていくなら表面はいつもにこやかに、晴れやかに笑っていなければいけない。

 だから輝子は人前では笑って、やっと一人になれて静かに泣いていたのだった。

 ひとつ、深呼吸をする。

 とりあえずは、泣いてしまった。

 また泣きたくなれば泣くかもしれないけれど、どうせずっと泣いているわけにはいかない。

 壺庭の藤の木。

 光りをいっぱいにうけて立っていた男の子。

 輝子の胸に痛みが走る。

 輝子にはその明るさが自分の失ってしまったものに思えたのだ。ただ先帝の内親王として無邪気に光りを受けていた自分が、宮廷で殺されてしまったような気さえ、する。

 どれぐらいそうして庭を眺めていたろうか。

 ふと庭の隅に、輝子は再び光を見つけた。

 腕にありえないほど大きな花房を抱えている。

 「どうしたの?」

 思わず御簾の内から声をかけると、光はにっこりとわらった。

 「よかった、まだいらっしゃって。せっかくだからお見せしようと思って。」

 よいしょ、と掛け声をかけて高欄にのせられたのは老いた一匹の猫だった。首に巻かれた赤い紐におびただしい数の藤の花房をさされている。垂れ下がる花房に包まれてお行儀よくすわっている様子は、着飾った女官のようだ。

 「まあ。」

 たまらず、輝子は吹き出した。

 「よくまあ、ここまで花房を落としもせずに運べましたね。」

 澄ましかえった猫も、ちょっと得意気な光も、なにもかもがおかしい。

 笑って、笑って、笑って。

 光が猫を運んでいってしまうと、輝子は支度のために立ち上がった。

 夕べになればまた、きっとお召があるだろう。

 あやしの気配の立つ廊下を渡って、輝子はまた上り参らせなければならない。

 (帝に猫の藤衣の話をしてみよう。)

 帝は面白がってくれるだろうか。

 そうだといいなと、輝子は思う。

 とにかく帝が輝子の背の君と決まってしまったのだから、いろんなお話をできる方がいい。

 たくさんお話をしてみれば、輝子が誰かの代わりではない、輝子なのだとわかってくださるかもしれない。輝子の方だってちょっとは帝をお慕いするようにならないともかぎらない。

 誰もいなくなった壺庭には、なお数多い藤の花房が揺れている。

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