第4話 陰の庭

 辺りをとよもす読経も、庭の隅からはうねるざわめきにしか聞こえなかった。ざわめきは強く、弱く、波打ちながら、対屋に近づこうとするものどもを、ゆるく押し返してくる。

 読経が守っているのは一人の女人。淡い輝きを胎内に宿した、この対屋の主だ。

 なぜ、こんなところに来てしまったのだろう。

 輝子は呆然とその光景を見ていた。

 いつも藤壺の庭に湧くのと同じようなあやかしが、輝子の周りに揺らめいているが、彼らが取り巻くのは輝子ではない。彼らが取り巻き、ひたすらに見つめているのはこの対屋の主、左大臣家の大姫だ。輝子より一つ年下の、光の正妻。彼女は今臨月で、今晩にも子供が生まれるはずだった。 

 うねる読経、それを押して進むいくたりかのあやかし。ふと、読経以外のざわめきが対屋におこる。

 (ああ。)

 耐えられず、後ずさる。

 読経よりもはるかに清浄で強いものがあやかしを押し戻す

 (なんて、眩しい。)

 その眩しさはあまりに耐え難く輝子を焼き、なのに惹かれずにはいられない輝きに満ちていた。

 光だ。

 光がまさに出産を迎えようとしている妻を訪れているのだった。

 同時に輝子は悟る。

 今、自分は庭に揺らめくあやかしであるのだと。

 妬み、嫉み、無念、恨み。

 そんな暗い感情に縛り上げられた魂は、ときに身体を離れて漂い出す。

 確かに輝子は妬んでいた。

 堂々と光の子を、光に見守られながら生むことのできる左大臣家の大姫を。世にも光源氏の子供として披露されるその子供を。

 輝子は皇子を産んでいた。

 前帝の第十皇子。

 実際には光の子。

 その子は帝の愛を一身に受け、大切に育てられている。

 皇子を産んだ輝子は立后し、中宮と呼ばれる身分になった。前帝の女御の中ではもともと最も身分の高い内親王ではあったが、東宮の御母女御が長々と女御に留め置かれていたのを飛び越しての立后はさすがに異例だ。結局、前帝の譲りを受けて今上が即位遊ばしたのと同時に、母君の女御も立后して皇太后の尊位を得、輝子所生の皇子が新しい東宮と定められた。

 輝子の居場所はもう、袋小路ではない。

 上り詰めた女性としての至尊の位にいるのだから。

 けれど、それでも。

 輝子の抱えた虚ろは埋まることはなかった。

 皇子を産んだ輝子に降り注ぐように与えられる様々な恩恵は、結局代償行為なのだとわかっていたから。

 輝子の背の君、先の帝を皆が桐壺の院と申し上げる。御位を降りた太上天皇がまさか後宮の桐壺に住まわれているわけではない。

 かつての寵姫、今も院の御心の中心を占める御息所がかつて住んだのが、桐壺であるからだ。

 かつての寵姫になし得なかった立后。

 愛児をつかせることのできなかった東宮位。

 輝子と皇子はそのなし得なかった夢の名残のようなものなのだ。

 光のつくことのできなかった位に、隠された光の子がつく。

 その一見順当とも思える、あまりにぞっとする事実は、輝子の心を一層冷やした。

 今、生まれようとしている光の子供は、姫であれば后がねと噂されている子供だ。この場合誰の后かといえば、年の近い東宮の后だろう。事情をわかっている光が、まさかそんな入内をさせはしまいとは思うが、桐壺院の強いお声がかりでもあれば、兄の后に妹が配されるようなこともないとは言えない。

 その子が今、生まれようとしている。

 なのに、輝子はその子が男の子であってくれと心から願うことはできないでいる。その子が男児であったなら、輝子は自分の子とひき比べてしまうだろうと思うからだ。比べて、一層妬むだろう。誰に隠れることもなく子の父と、一緒に子供を育ててゆける左大臣家の大姫を。

 本当になんて、眩しい。

 あの輝きに守られた清浄の中で、子供は生まれようとしている。それはどれだけ心安らかなお産であろう。

 自分とひきくらべて、そう妬んで、輝子はふと気がついた。

 輝きの中に陰がある。

 目も眩む輝きの中に確かにある陰。

 女だ。

 輝子と同じように妬み、嫉み、恨む無念の気持ち。その気持ちに縛られ誘われるままにあやかしとしてさまよい出たのであろう女の念が、ひたと大姫に取り付いている。

 なんて、なんて

 輝子は目を見張る。

 あの場所にいることは苦痛でしかないはずなのに。いかに惹かれても慕わしくても、あの清浄さはあやかしと化した女を焼く。それこそ魂を削られるような苦痛を、女は味わっているはずだ。

 その陰を見つめながら輝子は思う。

 あれが人を恋い、慕い、愛した結果というのなら。愛とはあまりにおぞましい現象なのではないかと。

 とよもす読経はいっそう高く、光の眩い輝きの助けを得て、あやかしたちを押し戻し、弾き出す。耐えられず、はじき出されて。

 

 輝子は我に返った。

 いつもの、御帳台の内。

 今宵、院のお召はない。

 愛児の初児の出産のために、院は一人静かに祈っておられるのだろう。

 身体を起こし、息を整える。

 「どうかなされましたか。」

 宿直の女房が遠慮がちに声をかけてくる。

 「いいえ。夢を見て、目を覚ましただけよ。」

 いや、夢ではない。

 輝子は確かにあの場にいた。左大臣家の大姫が暮らす対屋の庭に。

 あの女は誰だったろう。

 ふと、そんなことを考える。

 あれはただの女ではない。光と、読経に守られた大姫にひしと取り付いていた女。あんなことは誰にでもできるということではない。おそらくは高貴な、名のある女だろう。

 わかっている。

 そんなことにいちいち思いを巡らすのは、輝子が自分のことから目をそらしたいからだ。あの女が誰であれ、輝子もまた肉体を離れ、あやかしとして漂っていたのは間違いない。しかも輝子は気づいてしまったのだ。あやかしとしての自分は、あの女に遠く及ばないのだと。

 あの女ほどの執着を、愛執を、輝子は抱いたことはない。それは光に対してだけではなくて、そういう意味では輝子は淡々と、生きてきたように思う。

 それで、良かったのに。

 輝子の肌を知った光は、間遠に通ってくるようになった。

 勝手知りたる素早さで、隙きを見て忍び込んでくる。間近に忍び込まれてしまえば、周りに知られるわけには行かないことが、輝子を縛った。あまりにあからさまに逃げれば、周囲に感づかれてしまう。光のことは命婦のような心きく者以外には女房にも秘密にしなければならないのだから。

 いや、そうだろうか。

 それを言い訳に光に許した輝子ではなかったか。

 光の手に触れられるとき、その腕に強く抱きしめられるとき、震えるような喜びが、確かに輝子の側にもあった。

 滅多にない、あってはならないはずの光の訪れを、息を殺すように待つものが、輝子の内側に巣食っている。

 辛いのはそれだけではない。

 光が、輝子の身体に刻み込んだもの。

 それは院との夜においてさえ輝子を苦しめた。

 「急に、大人びられたな。」

 後朝の院のそんな言葉を、どれほどに身の置きどころない気持ちで聞いたことか。

 そして、懐妊。

 そのころ輝子は身体を壊しがちになり、院のお召を受けてはいなかったので、光の子である事は確実だったが、身体の異常に気づいてすぐに院のお召があり、子は院の皇子となった。

 なんて、あさましい。

 輝子は自分の事をそう思う。

 父と息子の情をともに受け、孫を子と偽って院の腕に抱かせている。

 けれど、同時に。

 院を、光を、恨めしく思う気持もある。

 寵姫の形代に輝子を迎えた院。

 父の寵姫を望んだ光。

 その狭間でこうなる以外のどんな道が輝子にあったというのだろう。

 眠れぬまま夜明けを迎え、鈍い頭の痛みと、消えない懊悩に憂鬱な気持ちのまま過ごした一日がそろそろ暮れようかという頃、輝子は光の嫡男の誕生と、正室の逝去の知らせをうけた。


 左大臣の大姫の訃報は宮廷を驚かせはしたが、動揺させはしなかった。所詮は臣下の妻であると言うだけで、なんの位も持たぬ女性であったし、残した子も男とあっては、入内という形で宮廷に絡んでくることもない。

 それはただ光の弔事であり、左大臣家の弔事だった。

 光はしめやかに喪に服し、しばらくは女人の噂も聞かなかったが、喪が開けてしばらくすると、奇妙な噂が広がった。 

光が二条院で姫君の着裳の儀を執り行うという。

 輝子は兄からその詳しい話をきくことになった。その姫君は光の子ではなく 、ほかならぬ兄の子供なのだという。

 「母を早くに亡くしてな。母方のばばぎみに預かって貰っていたんだが、ばばぎみの亡くなられた時に乳母もろとも行き方知れずになったのだ。まさか光の君のもとにいるとは。」

 兄は決して悪い人ではないが、強い人でもない。兄の正妻はきつい人で、脇腹の姫をだまって引き取るような人では決してないから、姫君が行き方知れずになった時、兄は心を痛めつつも、多分ホッとしたのだろう。

 まして今をときめく光の君のもとで育てられ、その妻になるというのなら、なんの憂いがあるだろう。光の君は姫君を日陰の身にすることはせず、兄に着裳の腰結を頼むことで姫君の出自を整えるつもりらしい。

「親の目から見ても、幼いながらにろう長けて美しい姫だった。お前の幼い頃によく似ていてな。これは先が楽しみだと、思ってはいたのだよ。」

 兄は機嫌よく話をして帰っていった。

 始終にこやかに兄に対していた輝子だったが、心はひどく乱れていた。

 本当に、なんと似た父子なのだろう。

 院がかつて輝子を迎えたように、今度は光がその姫君を輝子の替りに娶るつもりなのだ。

 「中宮様。」

 命婦が気遣わしげに話しかける。そんな心配はいらない。今更、光の婚姻に傷ついたりなど、しない。

 ただ、あまりにおかしくて、情けなくて、切ないだけだ。

 身代わりであることに倦み、苦しみ続けた輝子の、さらに身代わりになる少女がいることが。

 「姫君は私にとっても縁の浅からぬ方。何かお祝いを差し上げましょう。何が良いかしらね。」

 ようこそ、このどうしようもなくあさましい因果の中へ。

 姫君もいつか気づくだろうか。

 それとも、気づかずに済むのだろうか。

 妬み、嫉み、無念、恨み。

 あやかしは無数に揺らめき、何より自分の心に湧く。暗く、おぞましく、愛しい思いを抱いて、それでも生きてゆくしかない。

 自分は今、その姫君の前途を、祝いたいのか、呪いたいのか。あるいは祝うことも呪うことも、結局は同じことなのかもしれない。

 「本当に、何がいいかしらね。」

 庭から吹き込んできた風が几帳をゆらし、輝子の髪を撫でてゆく。命婦が痛ましいものを見る目を輝子に向け、そっと目を伏せるのを、不思議な気持ちで見やりながら、輝子は着裳の祝いの事を考えていた。

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