第12話 蜂の子

 警察署では、簡単な身元照会といくつかの書類にサインさせられた後、安っぽいチョコパンとブリックパックのココアを渡されて簡易ベッドのある留置所に入れられた。歯医者さんの戒めを全く無視したような、とても甘そうな晩飯である。留置所はホテルと違い歯ブラシも用意されていないだろう。食べた後に歯磨きをすることもできなそうである。そういえば長らく歯の点検をしていない。これが済んだら歯医者に行こう。ちょうど良い機会だ、などと考えた。


 留置所には先客が一人いた。アフリカ系黒人で、もちろん男性である。私が部屋に入ると、半身を起こしてニヤリと白い歯を見せた。部屋中に彼の強烈な体臭がこもっている。自己紹介をされたけど、名前が難しいのと彼のもごもごする話し方のせいで覚えられなかった。ずいぶんと顔を近づけて話す人であった。


 「何をしたんだ?」


 「公道で許可なく刃物を持ち歩いていた事と、身分証明を持っていなかった事でしょっ引かれた」


 ハハハ、しくじったなと彼は快活に笑った。


 「つまり、持っていなければいけない物を持っていなくて、持っていてはいけない物を持っていたんだな」


 「まぁ、そういうことだ」


 「俺もそうさ。もっとも所持品なんて何も無かったけどね。お前はスペインの居住許可証を持っているのか?」


 「まぁ一応、、」


 「じゃあ、たいした事ないよ。すぐに元の生活に戻れる。しかもあんたは日本人じゃないか。こっちの警察も日本人なら丁寧に応対してくれるだろう。日本のパスポートを見せて嫌な顔されたことなんて無いだろう?俺たちのパスポートなんか警察官や入国審査官に見せるたびに睨まれるんだぜ。おい、ネグロ(黒人)何しに来やがった?てなもんさ」


 「あんたはこれからどうなるんだ?」


 「俺はビザもないしパスポートも切れているから、すぐに強制送還になるらしい。だけど、飛行機代はこの国の人が払ってくれるらしいから、こちらは痛くも痒くもないんだ。此処にいられるうちは雨風もしのげるし食い物にも困らないし。まぁ要するに、あんたも俺も幸運だってことだよ。あんたはまたこの街の生活に戻れるし、俺もまたここに戻れるチャンスが与えられるわけだ。もしも、あんたが俺の国に、俺があんたの国に飛ばされるような事になったらそれこそ大変だけどな。あんたは芋虫なんか食えないだろうし、俺も日本語みたいなあんなに難しそうな言葉なんて一生覚えられないだろうからね」


 「芋虫はないけど、蜂の子なら食った事がある」


 「本当か?うまかったか?」


 「いや、あんまりうまいとは思わなかった」


 男性は楽しそうにゲラゲラと笑い、ひじを枕にごろりと寝転んだ。刑務所ではなくこんなに居心地の良い留置所で(道路で寝るよりよっぽどましだ、と彼は言った)処罰を待っているのだから、極悪人に下るような罰が科せられる訳ではないとはいえ、将来のことを不安に感じている気配など微塵も見せない見事な楽天家ぶりである。

 彼は一度故国に送られても、またどこかのヨーロッパの国に密入国する気でいた。パスポ-トには「スペイン国に向こう五年間の入国を拒否する」と判子を押されているにもかかわらずである。


 「パスポ-トなんて捨てちまえばいい。パスポ-トを使わないで密入国する方法だってあるんだから」


 貨物船のコンテナにまぎれたり、漁師の船でジブラルタル海峡を越えて来る方法がその一つらしい。無事に海峡を越えらない場合も多い危険な方法である。

 密航に使われる船は、たいていおんぼろである。転覆したり、エンジンが止まって漂流する危険といつも隣り合わせだ。私はそんな船で密入国をもくろみながらも、途中で船が沈没して溺死したアフリカ人青年の生々しい写真を新聞で見たことがある。


 留置所で一緒になった彼は、そんな密航がどれだけ危険であるかよく知っていた。それでも彼は、どんなに身を危険にさらしても、また今回のように不法滞在で捕まって何度国に送り返されても、必ず故国から出て行くと決めているのである。自分の母国に留まってつつましく暮らす事など、彼は少しも望んでいないのだった。


 ***


 私は蛸佐沢先輩よりも先に釈放された。家に帰るとカルメンは予想通り怒り狂っていた。こんな事件に巻き込んだ蛸佐沢先輩と、そんな先輩にNOと言えずにへらへらついて行った私に対して憤懣やるかたなし、といった感じであった。


 「今まではあなたの元同僚ということで我慢していたけど、今度はひとこと言わせてもらうわ」


 カルメンは「先輩」と言う言葉を使わない。自分よりも何年先に産まれた相手だからというだけで、特別な敬意を表する必要などないというのが彼女の持論である。もっともだけれど、今回はそう単刀直入に絶縁を言い渡さないほうが良い。蛸佐沢先輩の根に持つ性格を考えると、慎重に対処しなければならない。と私は彼女をなだめた。


 「あなたがそう言って甘やかすから、あの人はつけ上がったのよ!あなたはもう大人なのに小学生みたいなことを言うのね」


 侮辱的な言葉を浴びせられて頭に来たが、この時はぐっと堪えた。ここで感情的になっては、カルメンとの泥仕合になってしまう。


 「わかってる。だけどここは少しばかり我慢してくれないか?あの人はもう少しで日本に強制帰国させられるんだから、それまでの辛抱じゃないか。それにね、こういう厄介事はおしまいが肝心だ。いくら相手が憎いから、といって尻を蹴っ飛ばしたり中指を突き出すような事をするとさらに問題がこんがらがるぞ。仕返しなんかされたらたまらないからな。ここは一つ辛抱して先輩を送り出そう。日本の武道では、どんなに憎い相手と戦った後でもちゃんと試合の後に礼をするじゃないか」


 「何が悲しくて私がそこまでしなければいけないの?あなたたち日本人は、本当に辛抱が好きなのね」


 こりゃダメだ、と思った。あの先輩とは後で怨まれないような分かれ方をしたほうが良い、と長い付き合いで思い知らされている。そうカルメンを説得するつもりであったが、噴火寸前のカルメンには取り付く島がなかった。


 後でこっそりと、先輩に今までの給料とともに手切れ金の意味で退職金を渡すことにしよう。そんな考えをカルメンに打ち明けようものなら、反対されるに決まっている。だから内緒で実行することにした。私の思惑では、これで万事丸く収まるはずであった。


 ***


 その朝も、私はいつも通りの時間に店に来て仕込みをしていた。そこに蛸佐沢先輩がやって来た。神妙な顔つきで現れたのでお別れの挨拶に来たのかと思った。


 「実はお前から貰った小切手なんだけどな、現金を下ろせなかったんだ」


 そんなはずはない、と私は言った。あの小切手は口座振込みだけではなく、現金でも下ろせるはずだ。


 「で、お前の家に電話したらお前がいなかったんで、カルメンさんに聞いたのよ。どうしてお金が下ろせないか知っていますか?って」


 嫌な予感がした。


 「うちのは何て言ってました?」


 「小切手を止めた、って言ってた」


 「何で?」


 「さあ、俺もそれを聞きに来たのよ。あれから何度電話しても留守電だし」


 カルメンが勝手に銀行へ通告したのだ。


 「なぁ、キタオ」


 先輩は怒りを抑えるように呼吸を整えた。目が充血していた。


 「こんなに侮辱されたのは生まれて初めてだよ」


 「銀行に行ってお金を引き出してきます。少し待っていてもらえますか?」


 「わかった。お前がそう言ってくれるなら待とう。ただその間、ちょっと厨房を貸してくれ。その間にお前に伝授しようと思っていた秘伝のタレの仕込みを終わらせて、そのレシピを書いておくからよ。お前には世話になったからな。まぁ最後のご奉公だ」


 「先輩が日本に帰るのは明日でしたっけ?」


 「この国を出なくちゃいけない最終期限が、明日だ」


  とげのある言い方であった。先輩はよほど腹に据えかねて何かよからぬことを企んでいるのかもしれない。しかしよからぬ事といっても、それは今までの経験から推測すると、せいぜい店の皿を割るとか包丁の刃を欠くくらいのことだろう、と私は高をくくっていた。それでも、先輩の出国期限が明日ならば、銀行が閉まる前に現金を引き出さして約束の金を渡したほうが良い。小切手の件も確認したかった。幸い、厨房のスタッフはもう出勤していたので、先輩がよからぬ行動を始めないように監視をたのんだ。そして、「すぐに戻る」と言って店を出た。


 「大変です。お役所の人が来て、こんな物を!」


 店に帰ると、イサベルは真っ青な顔をしていた。私が銀行に行っている間に誰かが来て、勝手のわからないスタッフがどう対処してよいかわからずに慌てる、なんてことは珍しいことではない。しかし、その時のイサベルは、今まで見た事がないようなパニック状態に陥っていた。


 しかも彼女は非常に気になることを言った。「お役所の人が来た」と。


 「責任者はいないのか?って怒鳴られました。怖かった、、、」


 「セニョ-ル・蛸佐沢はどこにいる?」


 「そのお役所の人が連れて行ってしまいました」


 黄色い複写紙には、ミミズが這ったような汚い字の羅列があった。ひどいくせ字で判読不可能である。しかし、書類の見出しには訪問書と印刷されていてその訪問先には間違いなく私の店の名前と住所が記入されていた。


 「ここの自分の名前のところにサインしろ、って言われたのでサインしてしまいました。いけなかったでしょうか?でも、そのお役所の人はここの従業員の名前と各自の身分証明番号、そして社会保険番号が記されたリストを持っていたんです。ただ、店の判子も押せと言われましたけど、万一のことを考えて判子がどこにあるか知らないととぼけておきました」


 「そう、、、わかった、、、ありがとう」


 こう言うのが精一杯であった。目をそらすと、イサベルが私の顔を覗き込むように言った。


 「私は恐ろしくてビクビクしていましたけど、あの日本人の人は笑ってました」

 

 「蛸佐沢が?」


 「はい、どうしてか理解できませんけど、あの人はニヤニヤしてました。気味の悪い笑顔を浮かべていました。あの人は友達ですか?」


 「いや、友達なんかじゃない」


 「そんな気がしていました。何だかあの人、本当に感じの悪い人なんですもの」


 「でも安心していいよ。もうここに戻って来る事は絶対にないから」


 こうして『寿司BAR・CARMEN』は前代未聞の苦難にみまわれることになったのである。


 ***


 その晩、カルメンと私が派手なののしりあいを繰り広げたのは言うまでもない。もちろん、今までにも夫婦喧嘩は多いほうだったと思う。それでもカルメンがむきになって声を荒げたり、それに私が口答えする程度のことであった。私たちからすれば、多少は大きい声であったとしてもただ会話をしているつもりなのだが、周りの人から見ればハラハラするような夫婦喧嘩に見えたかもしれない。そして、一通り文句を言い終わると、私の方から折れるのが常であった。カルメンをなだめたり、あるいは何を言ってもだめだ、と感じたときは黙り込んだりした。周りの空気を刺々しくしてまうのが耐えられなかったからである。夫婦の険悪なムードを世間にさらす事は恥ずかしい事だし、何よりも息子を悲しい気持ちにさせてしまう。


 「でも、もしかしたら脅しだけで、罰金の通知なんか来ないかもしれないじゃない。お役所の仕事なんていい加減だから」

 

 そんなカルメンの淡い期待もむなしく、そのわずか一週間後に役所から書留が届いた。お役所の仕事は、こういう場合に限ってとても迅速なのである。それは、やはり罰金の通知であった。それも大変な額の罰金であった。罰金の理由は、不法滞在者を(しかもスペイン内務省から国外退去命令を受けているにもかかわらず)上記の住所の飲食店において労働に不法な条件で従事させていたからである。その通報者として名前が載っていたのは、蛸佐沢その人であった。その額をいついつまでに支払わなければ、営業許可を剥奪し、実刑を科するなどと書いてある。通知を読んだカルメンは蒼ざめた。私は頭の中が真っ白になった。その罰金たるや『寿司BAR・CARMEN』位の規模の店なら、数年間の家賃に匹敵するほど莫大な額だったのである。


 全身の力が抜けた。思わずその場にへたへたと座り込んでしまった。 


 「だから言ったじゃないか!あのろくでなしの蛸佐沢が僕たちをを密告したのは、君がさんざん挑発したせいだぞ。どうしてくれるんだ?」


 カルメンが私の言う事を聞かなかったせいだ。カルメンの仕打ちに蛸佐沢は怒り、復讐のためにこんな嫌がらせをしたのだ。私はあいつのそんな性格を知っていたから穏便に済ませようとしたのに。

 おかげで今までせっせと貯金したお金を吐き出さなければならなくなってしまった。こっそり暖めていた2号店の夢も、子供部屋の改装も、住宅ロ-ンの早期完済も当分お預けだ。しかし、営業許可を剥奪される事態になったりしたら、この家さえも失うことになる。


 カルメンも黙っていない。


 「あなたは今でこそ「あのろくでなしの蛸佐沢」なんて呼んでいるけど、それまでは飼い犬みたいに、どこに行くんでもあの人に尻尾を振って付いて行ってたのよ。あの人が酔っ払って私のお尻をさわったりした時でさえ、あなたは一言も注意せずに知らん振りしていたくせに!そもそも、あんな厄介な人を連れてきたのはあなたなのよ」


 その後はお互いに感情の爆発に歯止めが効かなくなってしまった。顔を合わせれば口喧嘩の毎日である。何気なく発せられた言葉も、部屋のドアが閉まられる音もお互いの神経を逆なでするようになった。家庭の空気はすっかり冷え切ってしまった。険悪なム-ドは幾日も続き、やがてお互いに口を利かなくなった。気の毒に幼いハジメは脅えきっていた。

 

 ある晩、私はとうとう切れてしまった。


 きっかけは大したことではない。仕事から帰った私が何かひとこと言おうとしとして、それをカルメンがヒステリックにさえぎっただけである。何を言われたかも覚えていない。とにかく、信管に着火してしまったのだった。

 私は回れ右をして自分の家を後にした。自分は一線を越えてしまう、という自覚はあったが、引っ込みがつかなくなってしまったのである。

 私はタクシーに乗って、友達がやっているバーに向かった。そして彼の店で深夜まで酒を飲んだ。


 バーの窓越しに深夜の通りを眺めていると、ふとカルメンが走り過ぎていくのが見えた。髪を振り乱し、顔色は真っ白に見えた。その顔が街灯の明かりを受けてぬらぬらと輝いてる。彼女は泣いていた。そして、頬を伝わる涙を拭いもせずに走り続けていた。私が友達と酒を飲みながらバカな話をしている間、彼女はずっと私を探して走り回っていたのであろうか。だとしたら、幼いハジメをどうしたのだろう?一人家に置きざりにして来たのだろうか?


 「あれ、キタオの奥さんだったんじゃないの?」


 友達も気がついたらしい。


 「声かけなくていいの?」


 「いいんだよ、ほうっておけば」


 友達は驚いて私の顔を伺い見たが、それ以上何も言わなかった。


 明け方に家に帰ると、ハジメは安らかに眠っていた。カルメンもベッドにいた。寝ていたか起きていたかは分からない。私のスペースであるダブルベッドの右側を半分あけ、壁に向き合っていたからである。私は何も無かったようにベッドにもぐりこんだ。そしてそのまま眠った。


 翌朝、カルメンの様子が変わっていた。彼女はもう怒らなくなった。とげとげしく声を荒立てる事もしなくなった。その代わり、私と目を合わせようともしない。突然何事にも興味が消えてしまったかのように無表情であった。


 「おい、いつまでふくれているんだ?いい加減にしろよ」


 するとカルメンは突然、私の目をみつめて「別れましょう」と言った。目にはうっすらと涙がたまっていた。


 「何だって?どうして君はいつだってそんな極端な考えしか思い浮かばないんだ?ちょっとしたトラブルから僕たちの関係はぎくしゃくしてしまったけど、こんなことくらいで君は分かれ話を持ち出すのか?確かに今回のことでは君に随分ときつく当たってしまった。そのことは謝る。だけど、僕たちは10代のガキじゃない。子供がいる夫婦じゃないか。そんな一時の感情で早まった事は言わないでくれよ」


 カルメンは首を振った。


「一時の感情なんかじゃないわ。私は今まで気づかなかったけど、今ははっきり分かったの。あなたは私のことなんか愛していないんだもの。そんな人とこれ以上一緒にいる理由が無いわ」


 なにが不満なのかと理由を聞いても、「私はもうあなたと分かれることに決めた」と同じことを繰り返すばかりあった。


「もういい。そこまで言うんなら君が出て行け」


「どうして?普通出て行くのは夫の方でしょう?この前喧嘩した時だってあなたが出て行ったじゃない」


「あれは弾みって言うか、勢いでそうなっただけだ。それよりも今日いきなり別れ話を持ち出されて、すぐに出て行って、て言うのはあまりにも身勝手じゃないか」


「わかった。しばらくハジメをつれてママの家に行くわ。あなたはなるべく早く住む家を探してね」


「ふざけるな!」


「ふざけてなんかいないわ」


「もういい。俺が出て行く」


 私は荷物をまとめて友人が経営しているペンションに行くことにした。一晩すればカルメンも頭を冷まして、自分が犯しかけた間違いに気付いてくれるだろう。私は本気でそう考えていたのだった。


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