第11話 穴子

 図らずも蛸佐沢先輩との交流が再開してしまったのは、あの晩餐から一月ほど後のことだ。いつもの朝よりも早く店に入って仕込みをしていると、先輩がひょっこりと顔を出した。

 

 「よぉ!実は頼みがあってな」 


 また金の無心だろうか?と私は身構えた。


 「心配するなって。今日は金を貸してもらいに来たんじゃねえよ。お前に借りてる金もちゃんと覚えているから安心しろって。実はなぁ、本を貸してもらいに来たんだ。お前、スペイン語の会話帳みたいなの持ってただろう?」

 「ああ、ありますよ。スペイン語を勉強する気になったんですか?」

 「まぁね」

 「彼女でもできたんですか?」

 「いや、そんなんじゃねぇよ。友達だよ友達」

 

 先輩はいつも行くバーで友達ができたらしい。それは良い事だと思った私は、その本を先輩に贈呈することにした。私が仕込みをしている間、先輩はカフェ・コン・レチェ(カフェオレ)を飲みながら熱心に会話帳を読んでいた。

 

 仕事の合間にちらりと見ると、ずいぶんと長い間(30分くらいだろうか?)第一ぺ-ジを開いたままだ。何度も同じところを指先で繰り返しなぞっている。そしてしきりに頭を傾げているのであった。そのぺ-ジには、「はじめまして」とか「おはよう」といった簡単な挨拶が書いてあるだけで、それほど難解な言葉はないはずであった。

 

 「どうしたんですか?何かわからないことでもあるんですか?」

 

 と聞くと、先輩は「これ、おかしいよなぁ」とカウンター越しに本を差し出してきた。会話帳の左ページにはスペイン語、右ぺ-ジには日本語が書かれている。

 

 「Buenos días, señor José というのは、おはようございます、ホセさんという意味ですよ」

 「バカ!そんなことくらい俺だってわかるよ。わかんねぇのはこっちだ」

 

 バカはないだろう、と思ったが、見ると先輩が指差す日本語訳のところに、「ホセさん、今日は」と書いてある。

 

 「<ホセさん、今日は>って何だよ?その後に続く<良いお日和で>なんてのをスペイン語では略すのか?それとも、<ホセさん、今日はどういったご用件でいらしたんですか?>と言おうとして相手に遮られとか、相手がホセのいつもと違う様子に言葉を失ったかのどっちかな?」

 

 「それ、<きょうは>じゃなくて<こんにちは>って読むんじゃないですか?」

 「何言ってんだよ?フツ-は漢字なんか使わねぇよ。それに<こんにちは>じゃなくて<こんにちわ>って書くだろう?出版社に問い合わせてみろよ!」

 「何言っているんですか?嫌ですよそんなこと」

 

  すると先輩は、私が一人で仕込みをしていることに気づいた。

 

 「あれ?もう一人の板前は?」


 『寿司BAR・CARMEN』もさらに繁盛するようになったので、伊藤君という日本人の調理師を雇うようになっていた。その彼が2週間ほど前に目の治療の為に日本に帰ると言い出した。もちろんこちらでも治療できる病気だから本来は帰る必要もないのだが、彼は「言葉の不自由な異国では不安です」とか何とか言ってとりあえず休職ということにして日本に帰ってしまったのだった。

 その伊藤君は、バルセロナに友達もいないようであった。孤独の殻に閉じこもってホームシックにかかっていた気配があったから、きっと故郷が恋しくなったのだろう。もうバルセロナには帰って来ないかもしれない、と踏んだ私は<日本食調理師募集>の広告を出したところであった。

 

 「何だよ水くせぇなぁ!そんなことなら俺に言ってくれよ」

 

 先輩は今日から手伝うよ、と言い出した。その日は仕方なく先輩の好意に甘えることにしたが、翌日からは何とか言い訳を作って断る気でいた。しかし、カルメンの考えは違っていた。

 

 「何言っているの?誰か一人雇わないと忙しくって大変、なんて言っていたんだから丁度良いじゃない!あの人は色々と私たちの世話になってるんだし、あなたから借りたお金だってまだ返していないんでしょう?そのくらいして当然だわ。イトウが帰ってくるまで働いてもらったらいいのよ。もちろん、お給料は払えませんけど、って言ったんでしょう?」

 

 「当たり前じゃないか」

 

 とっさに、嘘をついてしまった。本当は、先輩と給料の取り決めなどしていなかった。カルメンに言われるまでもなく、人に仕事を頼むにあたって、細かい取り決めをしておく必要があるのは常識だ。しかし、先輩には何を言ってもはぐらかされたのである。

 

 「あぁ、日給の額?そんなの気持ちでいいよ。俺とお前の仲じゃないか。困った時はお互い様だろう?」

 

 これはいかん、と先輩の口調に不安を感じはじめた。もともと二人の間には、信頼関係に基づいた友情など存在しなかったはずである。あったとすれば先輩後輩という名の主従関係だけで、何を言われてもぐっとこらえていた後輩の忍耐が、勝手に友情と勘違いされているだけだ。雇われていた者同士であった昔ならともかく、今の立場ではそんな友情など成立し得ないことを、この自分勝手な先輩はわかっていない。判ろうともしない。

 とにかく、蛸佐沢先輩の言うように「お金の話は後でいい」などと放っておくのは良くないことだ。きっと、後で面倒が起きるに違いない。あせった私は、大至急人を雇う必要を感じた。先輩の申し出を断るには伊藤君の代わりを補充したほうが断り易いだろう。何度か人を紹介してもらった人材派遣会社に催促の電話をかけたら、翌日に一人、寿司経験者という調理師を送ってよこした。スペイン人の青年であった。

 

 「こんなデブが厨房にいたら邪魔だよ。動きも鈍そうだし」

 

 先輩は、面接に来たスペイン人青年を頭のてっぺんからつま先までにらみつけながら、日本語で言いたいことを言っている。先輩は、「どんな奴か俺が見てやる」、と言って無理やり面接に同席したのである。

 

 「この魚を2分でさばけ」

 

 先輩はいきなりそう命じて、小さいアナゴを(と言っても日本のアナゴよりかなり太い)丸ごと一本渡した。レリダという街の日本料理店で働いたことがある、と応募してきたスペイン人は、どう見ても魚よりも肉ばかり大食いしてきた太っちょで、鼻息の荒い汗っかきであった。着ている白衣のボタンがぷっくらと膨れた腹の下で一つ外れている。本人は、出すぎたお腹のせいでボタンがあることさえ見えないのかもしれない。とにかくずいぶんとだらしない着こなしであった。魚をさばけと言ったら、こちらの人はたいがい輪切りにする。まさかとは思ったが、念のため「フィレテ(3枚おろし)にしろ」、と訳してやった。

 青年はいきなりアナゴの頭を落としにかかった。しかし、彼の持参した薄っぺらのステンレス包丁では、いくらのこぎりのようにゴリゴリ押し付けても、アナゴの頭は簡単には切り落とせない。青年は、いよいよ額に青筋を立てて肩に力を入れた。そして落ちない頭に向かって、闇雲に包丁を振り落としている。なかなか思いどうりにならずに苛立つ彼は、額に汗のしずくを浮かべながらフンガフンガと息を切らせた。どうにも見苦しい魚の取り扱いである。

 

 「どけ!」

 

 見かねた蛸佐沢先輩は、青年を押しのけた。

 

 「お前に魚を扱う資格などない!お前はこのアナゴを乱暴に扱って使えない代物にしてしまった。いいか、見てろ」

 

 先輩はうなぎ裂き包丁の切っ先を向けて、(先輩は日本から自分の包丁一式を持って来ていた)そこをどけとに向青年に向かって振って見せた。私は先輩を止めて「この国でそんな乱暴なことをしたら、速攻で訴えられますよ」と忠告したけれども、そんな話を聞く先輩ではない。それよりも先輩のあまりの包丁捌きの美しさに思わず見とれてしまった。

 

 青年のアナゴは、力任せの包丁に身も骨も砕かれてぐったりとしていた。虐殺ともいえるような無残な有様である。対して先輩のそれは、見ていて実に気持ちがいい。あれほど身に食い込むようにしがみついていたように見えた背骨が、スーッと力なく引き離れていった。まるで、先輩の包丁はしっかり絡み合っている骨と身にも、実は離れ離れになりたい欲求があるのを知っているかのようであった。先輩の引く刃先が彼らを優しく引き離している。身に走る銀の一筋には、青い空に真っすぐ白い飛行機雲が引かれていくような爽快さがあった。中骨を切る音も、静かな境内の玉砂利の上を歩いているようにリズミカルで小気味よい。青年がいくら悪戦苦闘してもとうとう落ちなかったアナゴの首も、シシオドシのようなトンという音と共にあっけなくシンクに落ちた。骨の断面が、磨かれた真珠のように白く輝いていた。

 

 さすがは先輩である。こんな職人技を見せつけられると、つくづく日本料理は世界に誇れる宝だと思う。魚のさばき方一つとってもこんなに美しい。また、魚に限らず自然の恵みである食材を無駄なく美しく調理できることは、我々日本食料理に携わる者の誇りと言えよう。やっぱり日本料理は世界一だ。その時、なぜか知らないが、私は蛍の光のメロディーを口ずさんでいた。(この曲は、てっきり日本生まれだと思っていたのだ)

 

 面接に来た青年が肘を突付いて、なれなれしい口調で質問してきた。

 

 「あれはなんという魚だ?」

 「コングリオだ」

 「フーン。で、スペイン語では、何という魚だ?」

 「だから、スペイン語でコングリオだ。日本語ではアナゴという」

 「アナーゴ!鮪の稚魚か?」

 

 冗談で言っているのではないようである。青年は真顔だ。

 

 「お前は一体どういうところで働いてたんだよ?本当に寿司を作っていたのか?」

 「本当だ。ただ、俺がいた店は魚のことを教えてくれる人なんかいなかったし、レリダ郊外のいなかだったからな。魚はすべて寿司ネタ用に切り分けられた冷凍パックを使ってたんだ。だから、寿司に使われる魚の元の形なんか見たこともないんだよ。俺はもともと魚なんて好きじゃないしね」

 

 度胸がいいというか、向こう見ずというか、よくそんな男が「寿司の経験者」と称して応募できるものである。そんな人にいきなりアナゴをおろせなんて、先輩もずいぶんと無理難題を吹っかけたものだ。

 

 「よし、キタオ。俺とどっちがアナゴを早くおろせるか勝負しよう」

 

 よーいドンで、私たちは昔のようにアナゴおろしを競い合った。私がもたついているうちに、先輩の包丁はどんどん早くなっていく。それでいて正確で丁寧であった。私が1本を下ろし終わる前に、もう2本目のアナゴを下ろし終わりかけている。その差はどんどんと開いていく。結局私は、ギャラリーのいる前で完璧に打ち負かされてしまった。

 

 「ここの社長さんは、凄腕だね」 

 

 青年は、蛸佐沢先輩を『寿司BAR・CARMEN』のオーナ-と勝手に決め込んでしまっていた。

 

 「どうだ、見たか!お前もまだまだだな」

 

 と言われて私はハッとした。どうして先輩は、必要もないアナゴを20匹も買ってきたのか、その理由がわかった気がしたからだ。先輩には、自分の腕を自慢したがる癖がある。きっと先輩は、誰よりもアナゴを鮮やかに下ろすところを私に見せ付けたかったのだろう。先輩にとって私は、何十年経っても新米の調理師であり、永遠に対等の立場には並べえない後輩なのだ。

 

 「それにしても、こっちのアナゴは日本のと違って骨が硬いな。こりゃだめだ。使えん」

 

 先輩は、私に一泡吹かせたのが気持ち良いのか上機嫌である。こりゃだめだ、と言いながら(そのうえ自分の懐はちっとも痛んでいないから)ちっとも残念そうでない。

 

 「後は任せた。俺は帰る」

 

 と言って後片付けもしないで帰ってしまった。

 私は、散らかしっぱなしの厨房から出て行く先輩の後姿を見送った。そして、これは何とかして先輩を見返さなくては腹の虫が収まらない、と思った。

 

 少々店が軌道に乗ったからといって、安定した生活のうえで胡坐をかいているような横着さがあったことは認めよう。骨切りする手がもつれているようでは板前としての精進を怠っていた、と言われても仕方がない。しかし、だからといって先輩にデカイ顔をされるのは癪である。それが尊敬する親方ならともかく、気分しだいで(とても正当とは思えない理由で)私らをどやしていた蛸佐沢先輩なのだからなおさらである。

 それならば、と私もむきになった。

 あなたの馬鹿にしている後輩が、異国の地でどれだけ奮闘してきたかも見てもらおうじゃないか。悪戦苦闘と試行錯誤の末、『寿司BAR・CARMEN 』がどれだけ地元の人に受け入れられるようになったかを認めざるを得なかったら、先輩も少しは敬意を表してくれるであろう。

 

 こうしたつまらない自尊心から蛸佐沢先輩を引き止めたことが、私の最大にして最悪の過ちになった。つまらない見栄から滅亡した戦国大名がたくさんいたということを学校の日本史で習っていたはずなのに、引くに引けなくなってしまったのである。


***

 蛸佐沢先輩と『寿司BAR・CARMEN』で一緒に仕事をするようになってから数ヶ月ほど経った。始めの頃は、先輩に対して気疲ればかりしていたが、先輩の出す料理はお客さんに好評だったし、何よりも社会保障を払わないで人を一人雇うという不法行為のウマミを手放せなくなっていた。どうりで労働契約も交わさずに働かせる飲食店が後を絶たないわけである。

 

 夜遊びの好きな先輩は(というより、彼も一人きりの部屋に帰りたくなかったのだろう)仕事帰りに新市街にあるバーに通うようになった。グランビア大通りから一本裏通りに入ったところにある薄暗い店である。あの界隈は、同性愛者が集まる店が多い所として有名であった。店の人と仲良くなったらしい。

 

 「友達になったのは、ホモの人達ですか?」

 「違うよ。サッカ-ゲームをしたり、ビリヤ-ドをしたりしてるんだ」

 

 ホモの人たちだってそういう遊びをするだろう、と思ったが、何も言わないでおいた。すると、それからさらに一月ほど経ったある日、先輩は私に頼みがあると言ってきた。何だか冴えない顔をしている。

 

 「お前さ、悪いけど今晩ちょっと付き合ってくれないか?」

 

 先輩は自分のお尻をさすりながら近づいてくる。私は反射的に後ずさりをしながら聞いた。

 

 「お尻どうしたんですか?」

 

 と聞くと、実はな、と夕べ起きたことを話はじめた。

 

 「実は昨日、喧嘩になっちゃってな。口論、と言うよりも俺は日本語でわめきたててたんだけど、そしたら店の客までが相手に加勢し始めてさ。すごまれたんで走って逃げたら階段を滑り落ちてさ。尾てい骨打っちゃった。まあそんなことよりも、今晩飲みに行こうよ。おごるからさ」

 

 とは言うものの、一緒に楽しく酒を飲もうという明るさがない。おごるからさ、というのも気になった。何か嫌な役を押し付けられるのではないか?と思ったが、まさに悪い予感通りになってしまった。

 

 「お前は店に入ってただ聞いてくれればいいんだ。ビリヤ-ド台に俺の財布はなかったか?って」

 

 その役を承諾しない訳にはいかなかった。というのも、その財布の中には、市場にある魚屋への支払い分として私が預けていたお金が入っていた、と先輩に言われたからである。(そういう先輩の話も今となっては甚だ怪しいが、、、)

 

 「財布だと?」

 

 店にいたおじさんに聞くと、とたんに嫌な顔をされた。先輩はこの店のおじさんをスペイン人と言っていたが、どうも違うようであった。彼のスペイン語は、スペイン語を母国語とするスペインおよび中南米のどのイントネーションとも異なっていた。その上一語一語吐き捨てるような、怒っている様な話し方である。よほど私の印象がよっぽど悪かったのか、実にとげとげしい。

 

 「ええ、友達が昨日ここに忘れていったらしいのです」

 「誰だって?」

 「友達、っていうか仕事の仲間です。日本人の」

 

 窓越しに先輩の姿が映った。駐車してあった車が動いてしまったものだから、そこに隠れていた先輩が丸見えになってしまった。こちらと目が合って慌てて隠れている。どうしてそんなに慌てて隠れるのだろう?と訝しがっていると、店のおじさんは意味不明の言葉を怒鳴りながら店の奥に走って行った。

 

 「逃げろ、キタオ!」

 

 訳が分からないでおたおたしていると、奥の扉から肌の浅黒いお兄さんが1人、ものすごい勢いで飛び出してきた。北アフリカ系の青年のようである。非常に痩せていて、中学生ではないかと思われるほど背が低かった。

 飛び出してきたお兄さんと店のおじさんの2人は、私をほったらかして一目散に先輩を追いかけて行った。特に店の奥から出てきた青年のダッシュは恐るべき速さであった。先輩の逃げた方向をおじさんが指差すと、その最短距離を行くために店内に並んだテ-ブルの間を縫い、椅子をジャンプして飛び超えながら外に飛び出して行った。

 青年は身も軽かった。通行人や車道を行く車にぶつかりそうになっても、軽やかなステップでそれらをかわして行った。そのたびに身につけている花柄のシャツが、ひらひらと闘牛のカポ-タのようにあざやかに翻る。まるで全身バネのようなしなやかさである。どうりで日本のサッカーが世界の舞台で苦戦するはずだ。地球の反対側には、このように生まれつき身体能力がずば抜けている人たちがごろごろいるのだから。

 

 先輩はあっという間に追いつかれてしまった。青年は、逃げようともがく先輩の首元に腕を巻きつけて動きを封じ込めた。その後からおじさんが腕を広げながらムササビのように手を広げて後ろから飛び掛る。先輩は惨めにも道路に組み伏されてしまった。その様子は、昔テレビのキュメンタリ-で見た、肉食動物の狩りのようであった。

 二人にのしかかられている間、先輩はだんご虫のように体を丸めながら、頭と顔を守っていたが、ガードの空いたわき腹や太ももにイヤというほど蹴りや拳骨をお見舞いされていた。

 

 「大丈夫ですか?」

 

 二人が引き上げてから、恐る恐る先輩の様子を見に行った。

 

 「大丈夫じゃねぇよ。お前なんで助太刀しないんだ!俺がやられているのを黙って見ていたのか?」

 「無茶言わないでくださいよ。そもそも、こんな危ないことに人を巻き込んでいるなんて、先輩は何も言わなかったじゃないですか」

 

 さすがに私も頭にきて反論すると、先輩はもごもごと口ごもっている。

 

 「そりゃあ俺はスペイン語なんてわかんねぇし、お前だったらうまくまとめてくれるんじゃねぇかと思ったんだけど、、、くそ!あいつらは許さねぇ。キタオ!来い」

 「やめてくださいよ、もう!」

 「冗談じゃない。俺の金を取り返すんだ」

 「先輩の金じゃないですよ。もともとは店の金じゃないですか!」

 

 しかし、何を言っても無駄であった。先輩はすっかり常軌を逸してしまっている。ふと見ると、なんと内ポケットから黒光りするピストルを取り出していた。

 

 「先輩!どこから手に入れたんですか、そんな物」

 「バカ、モデルガンだよ。お前はこれを持ってこい」

 

 と言って私に鞘に入った柳刃を渡そうとする。慌てて手を引っ込めると、包丁はカランと歩道に落ちた。それを拾いながら先輩の後を追おうと走り出した瞬間であった。

 

 「武器を捨てろ!今すぐ」

 

 制服の警官が二人、私たちにピストルを向けていた。誰かが通報したのだろう。抵抗する気はさらさら無いので、すぐに柳刃を投げ捨てようとしたが思いとどまった。先輩は自分のではなくわざわざ私の柳刃を持ってきていたのであった。職人に特注した自慢の包丁である。刃が欠けたり曲がったりしては困るので足元にそっと置くことにしたのだが、その柳刃はピストルを構えた警官に手荒く蹴っ飛ばされてしまった。

 

 「うつぶせになれ。早く!」

 

 私は警官の命令に素直に従ったが、先輩は日本語でなにやらわめいている。このピストルはおもちゃだとか、もともとは俺の金を盗ったあいつらがあいつらが悪いんだなどと言っては、警棒で尻を叩かれていた。

 

 「キタオ、お前ちゃんと説明してくれよ。何で黙ってるんだよ」

 

 やはりこの先輩には係わり合いになるんじゃなかった。と後悔しても後の祭りである。私たちはスモ-クフィルムの張られたシトロエンのパトカ-の後部座席に乗せられて、ポリシア・ナシオナル(警察署)に連行されたのだった。

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