第10話 ゴマ豆腐

 何年か経ったある日、蛸佐沢さんからメールを受け取った。蛸佐沢さんというのは、日本の料亭で働いていた時の先輩である。


 「おっす!俺、ついに仕事辞めたぞ。ヒマができたからお前んとこ遊びに行こうと思ってる。スペインに行く時ってマラリアなんかの予防接種とかしなくていいのか?」 


 困った、と思った。 仲が良い友達が遊びに来てくれるのは大歓迎だが、相手はウマが合わなかった元先輩である。仕事以外ではなるべく付き合いを避けていた人だ。スペインに来るのなら勝手に来ればよいのに、と思う。私を訪ねてくるなんて、何か魂胆がありそうだ。嫌な予感が働いた私は、知らん顔を決め込んだ。メールに返事もしなかった。ところがある日、蛸佐沢先輩から電話がかかってきた。


 「お前ねぇ、人からメ-ルを受け取ったらちゃんと返事しろよな」


 と言うのが第一声であった。「元気か?」も「久しぶり」も何もない。蛸佐沢先輩は、昔から自己中心的な人なのである。


 「で、いつバルセロナに来られる予定なんですか?」


 「今バルセロナの空港に着いたところだ。なんだか外は真っ暗だし、案内板は何書いてあるかわかんねぇし。そんでもって人相の悪い奴がうろちょろしてっからさ、なるべく早く迎えに来てくれよ」


 カルメンに事情を話すと、「どうしてあなたが行かなければ行けないの?その人ひとりでバスにも乗れないの?」と声を荒げられた。

 カルメンの疑問はもっともである。しかし、スペインに行きたいと打ち明けて色々と相談に乗ってもらった原田さんから、

 「もしも俺の知り合いがバルセロナに行く事になったら、お前の連絡先を渡しても良いか?」

 と聞かれた事を私は覚えていた。「いいですよ」と言った以上は原田さんへの義理がある、と思った私は反論した。

 

 「気に入らない物事は、そうやって何でも一刀両断に切って捨てるのは、欧米独特のせっかちさだね。日本人は、もっと穏やかに、そして相手の面子をつぶすことなく物事を丸く収めていくのさ」


 「『わび、さび』っていうわけ?」


 「それはちょっと違うと思う。いや、普通の人が嫌がるような物にも人にも敬意を表して共存して行こう、という考え方は一緒かもしれないけどね」


 「だから日本人はいつまでたっても、嫌いなものは嫌い、って素直に言えないのね」


 「まぁそう怒るなよ。ああ見えても、けっこう面倒見が良いところもある人なんだから」


 カルメンがムキになるので、私もつい好きでもない先輩の弁護などしてしまった。


 しかし、まさか蛸佐沢先輩が来るとは想定外であった。私の知り合いの中では一番来て欲しくない人であった。しかし、放ってもおけないので、私は空港まで迎えに行くことにした。先輩は私を見るなり「しばらくバルセロナにいるつもりだ」、と言った。


 「今回の旅行は、気分転換ってわけですか?」


 「まぁ、そういうことだ。しばらく厄介になるよ」


 けれども先輩は、いつまでいるかは考えていないようであった。とりあえず一杯行こう、とバスの終点であるカタル-ニャ広場にあるバ-につき合わされた。そして、昔のように愚痴を聞かされる羽目になった。


 「面白くねぇことがあってな」

 

 と言いだした先輩は、店や親方の悪口を並べ始めた。突然呼び出されてそんな話を聞かされるのは、とても苦痛である。先輩は昔から気に入らない事が多い人であった。先輩によると、彼の周りにはいつもろくでなしの人間しかいないのである。


 「俺は痔が悪化しても休むことなく、けつが痛ぇのに仕事に出続けたぜ。だけど、親方も社長もそんな事は全然評価してくれないんだ。当たり前って顔で、自称常連客たちが品書きに載ってないもんばっか「あれ作れ、これ作れ」ってわがままな注文すると、全部俺に回してくるし。そしたらそのうち「店の売り上げが落ちたので、人を減らす」なんて言い出すんだからまいったよ。給料は減らされるし、俺の負担は増えるしで、もう我慢の限界だったのさ」


 先輩はしきりに「お前だってそう思うだろう?」と同意を求めてくるが、「そうですねぇ」位しか返す言葉がない。

 

 先輩は、日本で仕事を続けるのはもうこりごりだ、と言った。海外で私みたいにのんびりと(私のような人間は、どこにいてものんびりとマイペースで生きているように見えるのであろうか?)仕事をしたいらしい。とりあえずはどこの国が自分にあっているかあちこち旅行するのだと言う。先輩がどこに住もうがどんな職に就こうが勝手だけれど、頼られるのはごめんだ。同じバルセロナに居続けて欲しくなかった私は、


 「スペインよりもドバイのほうが稼げるみたいですよ。いつも板前募集しているみたいですし」と他の国を推薦してみたが、


 「あの国は酒飲めないんだろう?嫌だよそんなの」と一蹴されてしまった。


 バーが閉店の準備を始めたのを潮時に、先輩はやっと席を立った。


 「宿はどこですか?」


 「何?お前の家に泊めてくれないの?」


 先輩は昔と同じように無茶を言い、昔のようにすぐ不機嫌になった。ホラよとばかりに自分のカバンを投げてよこす先輩にとって、私はいつまでも後輩であり、永遠に敬意を表する必要のない人間なのであろうか?そんな先輩を何とか納得させてピハマさんの経営するペンションに向かったのは、我ながら好判断であったと思う。直感で、カルメンに先輩を紹介するのはなるべく避けて先延ばしにした方が良いと思ったからである。そういった私の危惧は、後日見事に実証されることになった。


***

 

 先輩に市内の観光名所を案内したが、市場以外は何を見ても興味を示さなかった。先輩はミロもガウディも知らなかったし、もともと料理と博打と女以外、興味のない人である。蛸佐沢先輩は、行き交う女の人たちをじろじろ見たり振り返ったりしていた。道路で工事をしている人達のように声をかけたりはしないけれど、思いつめたようにじっと観察する先輩の視線は、道行く女性たちから気味悪がられていた。


 「スペインはいいな!美人が多いよ。お前のかみさんも美人か?」


 「いいえ、美人の部類には入らないと思います。でも、僕にとっては大事な」と言いかけたとき、先輩がまたもや嫌な事を頼んできた。


 「今度、お前のかみさんに友達を紹介してもらえるように頼んでくれないか?」


 もちろん、私は先輩のお願いなど無視するつもりであった。しかし、そのことをカルメンに言うと、


 「私の友達にひとり、日本おたくの子がいるからその子に声かけてみるわ。恋人にするなら日本人がいいって言っていたからいいかも」


 と、意外に乗り気であった。ただ、私が


 「かわいい子?」と聞くとムッとされてしまった。


 「何であなたがそんな事聞くわけ?あなたには関係ないでしょう?」


 先輩は昔から女性を口説くときには必ず料理を振舞ってきた。彼の伝統的な作戦である。女性に「すごい」と言わせなければ意味がない、というのが先輩のポリシ-なのだ。そういうときに彼が作る料理は、とても気合が入っている。さすがは、だてに20年以上も調理師として飯を食ってきた人間だけのことはある。


 食事会は『寿司BAR・カルメン』定休日の日に行われることになった。私は先輩の料理を手伝った。


 「ろくな器がねぇなぁ」


 先輩はまず、店の備品にケチをつけた。それから冷蔵庫の中に入っている機械で切ったツマを捨てられ、「板前だったら、毎日ちゃんとかつらむきくらいしろよ」と訓示を頂き、食品棚にあった保存の利くブリックパック入りの豆腐をけなされ、味噌や醤油まで、「スペインじゃあこんな物しか手に入らないのか!」とあきれられた。結局、


 「しゃあねぇ。あるもんで作るか」


 と不平をもらしながらもやっと料理を始めたのだった。先輩は、市場で活イセエビ、キャビアや、ペルセベス、はたまた高級生ハムにフォアグラ(これらの大半はパーティ-に出されることもなく、先輩の夜のつまみになった)などの高級食材を値段も見ずに買い漁り、私にその代金を立て替えさせていた。


 「蛸佐沢さん、あのぅ、市場で買い物したお金なんですが」


 と返済の催促をすると、先輩は

 

 「心配すんなよ。そのうちな。それよりこうしていると、なんだかお前と厨房に一緒にいた頃を思い出すなぁ!」


 などとのんきに思い出に浸っている。


 そのうちにカルメンが、私達の息子ハジメの乳母車を押しながら店にやって来た。カルメンを初めて見た先輩が「うわぁ、でけぇ」とつぶやくのが聞こえた。先輩は日本からのお土産として、日本では手に入りにくい濁り酒を持ってきてくれた。


 「まぁ、大した酒じゃあないんだけどな。お前と久々に杯を酌み交わそうと思ってよ」


  私が二言三言先輩と話していると、カルメンが耳打ちをしてきた。カルメンは肥満体型である。「子供を産んでから太っちゃった」と言っているけど、妊娠前からかなりどっしりとはしていた。カルメンも自分が太っている、という事は自覚しているし、コンプレックスも持っている。だから、私たち夫婦の間では、私の頭髪が薄くなったことと、カルメンの体型のことはお互いに触れないという暗黙のルールがあった。


 「ねぇ、あの人何て言ったの?私を見た時、何かビックリしてたみたいだけど。ちゃんと私が分かるように訳してよ」


 「あぁ?いゃ、なんでもないよ。ところで、酒はすごく上等なものじゃあないけどお土産だそうだ。君が日本酒を好きだって先輩に言ってあったからね」


 「これ濁ってるわ。腐ってるんじゃないの?」


 「これはそういう酒だよ、カルメン。濁り酒っていうんだ」


 「おい、キタオ。奥さん何だって?」


 「いえ。何でもないっす。ただ、濁り酒は見たことがないんでびっくりしたみたいです。雪みたいできれい、って言ってますよ」


 「なぁ、キタオ。俺はスペイン語なんて分からないけど、お前の奥さんはそんなこと言っていないってことくらいは分かるぞ。何だか気持ち悪い物を見る様な顔してたじゃねぇか」


 「まぁ、蛸佐沢さん。とりあえず乾杯といきましょうよ。再会を祝して」


 酒瓶をカルメンに手渡すと、彼女はしばらく眉をひそめながら一升瓶の底に沈んでいる白い沈殿物を見ていた。そしておもむろに瓶を振り始めた。先輩は慌ててカルメンを止めた。


 「だめじゃねぇか、この酒は振らずに飲むものなんだから!」

 

 「すいません。今度ちゃんと言っておきます」


 「ちょっと、キタオ!」


今度はカルメンが私に突っかかった。


 「私がお酒のビンを振ったくらいで何?あの人は?そしてあなたは慌ててあの人なんかをなだめたりして。一体あの人に何て言ったの?」


 「いや、別に」


 「別にじゃないでしょう」


 「まあ、些細なことさ。こっちの人は嬉しい時に酒のビンを振る習慣があるんですよ、F1のドライバーが優勝した時みたいに、って言っただけさ」


 「うそよ」


 「本当さ」


 「私は日本語がわからないけど、あなたがそんなことを言っていないってことくらいは分かるわ。どうみても、「こいつ、何もわかってないんですよ」とか何とか言って、先輩のご機嫌とっていたんでしょう?そのくらいは想像はつくのよ」


 「それは考えすぎだよ」


 私がカルメンに詰め寄られて怯んでいると、この時ばかりは蛸佐沢先輩が良いタイミングで話題を変えてくれた。

 

 「なぁ、キタオ。かみさんの友だちってホントウに来るんだろうな?随分と遅ぇじゃねえか」


 「そう言えば遅いですね。ちょっと電話させます」

  

 しかし、来ると言っていた友達は、私達との約束をすっかり忘れていたのである。


 「えぇ?来週だと思っていたのに!」


 と言う彼女には、なんと最近彼氏が出来ていたたらしい。その彼氏と週末のアムステルダム旅行に出かけていたのだった。スペインでは、約束の日を間違えたり、時間に遅れたり、約束したことさえ忘れて「来る」と言っていた人が来ないなんてことは日常茶飯事である。この国に住んでいる限りこういった肩透かしを食う事はよくあることなのだ。けれども、先輩の怒りは収まらない。「代わりにお前の知り合いの女の子を呼べ」と言う先輩をなだめなければならなかった。


 結局、息子のハジメを加えた4人で食事をしたけれど、会話のないしらけた晩餐になってしまった。その上、カルメンが色々と余計な事を言うので、私はいつ言い争いが始まるかと気が気でなかった。

 

 カルメンはゴマ豆腐を口にして、「何この食感!気持ち悪いわ」と眉をひそめた。そして、活け作りのイセエビを「子供がいるのに残酷で悪趣味だわ」と非難したりした。エビは活きが良かったから、ひげや足が動いていたのである。先輩は一人で黙々とイセエビを食い、持ってきた濁り酒をほとんど飲み干して帰っていった。


 この晩はかなり後味が悪かったが、その後しばらくの間、先輩は私の店にも家にも寄り付かず、電話もかけてこなくなった。そう考えると結果オーライかもしれない、立て替えた食材費は返してもらえなくなるかもしれないが、これでもう先輩に振り回されることもなくまた平穏な生活に戻れる。と私は胸を撫で下ろした。そして安堵のため息をついたのであった。

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