第十一幕


 第十一幕     十二月二日 午前



 一ヶ月ちょい前にクリスを見舞って以来の、大隊本部基地の医療棟。その長く薄暗い廊下を、俺は一人で歩いていた。

 一人きりで病院に見舞いに訪れると言うのは、何だかすこぶる居心地が悪いのは何故だろう。おそらく、日常生活では病人や医者と言うのは大概の場合少数派だが、病院の中に限ってはそれが多数派に転ずるので、どこにも疾患を抱えていない自分がそんな場所にいる事に違和感を感じているのかもしれない。

 門外漢の違和感、と言ったところだろうか。今の俺は、いつか見た灰色の空に浮かぶ蛍光オレンジ色のバルーンの様に、場違いな存在なのだろう。

 とにかく、無駄に清潔な白い壁に囲まれ、人工的な消毒薬の匂いが漂うこの空間に、俺は子供の頃からどうしても慣れる事が出来ないでいた。幸いにも持病らしい持病も無い健康体に生まれたお陰で、この歳まであまり病院に縁が無い生活を送って来たのも原因の一つなのだろうが。

 『鈴原澄香様』。ネームプレートにそう書かれた病室のドアの前でゴクリと一度唾を飲み込んでから、軽く三度、ノックする。そして返事を待たずに、俺はドアを開けて病室内に足を踏み入れた。

「小隊長、田崎です」

 狭い個室の窓辺。簡素なパイプベッドに横たわり、天井を見上げていた病衣姿の鈴原小隊長は俺を一瞥すると、再び視線を天井に戻してから小声で呟く。

「……お前だけか?」

「はい……他の三人は現在勤務中なので、非番の俺だけ一足先に見舞いに来ました。皆も夕方頃には来るかと思います。……あ、見舞いの品はその時に、副小隊長がまとめて持って来る事になってますから……」

「そうか……」

 昨夜までICUで集中治療を受けていた小隊長が一般病棟に移されたのは今朝なので、第五小隊の中で見舞いに訪れたのは。俺が最初と言う事になる。

 長沖漁港でのアウトブレイク発生から、今日でもう六日目。

 死者六名、重軽傷者四十余名を出した我らが第四中隊は、現在大規模な人員改変を余儀無くされており、普段のパトロール業務にも多くの支障が生じている。近い内に、どこか別の大隊なり中隊なりから、相応の数の補充人員が送られて来る事になるだろう。勿論、殉職者を一名出してしまった第五小隊も、その対象に含まれている。

「具合は……どうですか?」

 ベッドの脇に置かれた丸椅子に座りながら、俺は尋ねた。病床の人間に対して、なんとも気の利かない事を聞くもんだなと、自分の語彙の無さが少しばかり情け無い。

「見ての通りだ。左腕が無くなっただけだよ」

 そう言うと鈴原小隊長は、肩まで被っていた毛布を捲り上げて、本来ならば左腕が在るべき場所が空白になっている事実を見せつけた。俺の胸が、少しだけズキンと痛む。

「お前が素早く切断してくれたお陰で、ゼイビーズウイルスへの感染も、破傷風菌への感染も無し。手術も無事に終わって、後は抜糸の日までじっと安静にしているだけだ。……鎮痛剤のせいで少し頭がぼうっとして気分が悪いが、それ以外は快適なもんだよ。暫くは入院生活を楽しませてもらうさ」

 そう言って小隊長は、軽く微笑んで見せた。若干十九歳の少女が片腕を失ったと言うのに、よくぞこれだけ強がれるものだと感心していいのか、同情していいのか、それとも悲しめばいいのか。俺にはどれが正解なのか分からない。

「ただ、な」

 気不味そうに沈黙する俺の姿から何かを察したのか、話を続ける小隊長の声色が少し変わる。

「どうにもバランスが悪いんだ。立ち上がっても、座っていても、今こうしてベッドに寝ていても、身体の重心が変な位置にズレてしまったようで、どうやっても違和感があって落ち着かない。昨夜、病室の中を試しに少し歩いてみたんだが、どうしても真っ直ぐ上手く歩けないんだ」

 小隊長はそう言うと、残された右腕で顔を覆った。

「ウイルスに感染して死ぬのに比べたら遥かにマシだったんだろうが、やはりその、何度経験しても辛いな。……ついこの間までは気に留める事も無く、ごく当たり前に持っていた自分の一部を失うと言うのは」

 声を押し殺して平静を装おうとはしているが、小隊長が腕の下で涙を流している事は、疑いようも無かった。そのか細い喉から漏れる小さな嗚咽以外には、ベッド脇に置かれた加湿器が霧状の水を吐き出すシュンシュンと言う音だけが、狭い病室内に、やけに大きく響いている。

 かける言葉が見つからない俺は、情け無くも、無言を貫く事しか出来なかった。

「……なあ田崎」

 暫しの間を置いてから、枕を濡らす涙を拭い、嗚咽で少しむせた呼吸を整えた鈴原小隊長が、病室の天井を見上げたまま俺に問いかける。

「お前はどうして防疫隊に入った?」

 突然の質問に、俺は上手く返事を返す事が出来なかった。だが小隊長が俺を無視して独白を続けた事から察するに、返事をする必要は、そもそも無かったらしい。

「私はな、『大流行』の半年後に、父と弟を同時に失ったんだ」

 それは過ぎ去った哀しい過去を語る時特有の、寂しげでありながら、同時に妙に冷静な口調だった。

「どちらも生まれつき、胸に遺伝性の難病を抱えていてな。『大流行』で医療機関が機能しなくなったら、あっと言う間に手遅れになったよ。……『大流行』が起きようが起きまいが、二人が長生き出来ないだろう事くらいは、中学生の私でもそれなりに覚悟はしていたさ。していた筈なのだが、いざ失ってみると余りにもあっけなさ過ぎて、悲しむ暇すら無いと言えばいいのかな。そんな感じだったよ」

 その言葉はベッド脇に座る俺に向けてではなく、過去の自分自身に話しかけているかのように、鈴原小隊長の口から淡々と零れ落ち続ける。

「更に半年後には、母も逝ったよ。自宅が火事で焼けてな。……乾燥した冬の夜に、消し忘れた電気ストーブの火が畳んであった洗濯物に燃え移ったんだ。私は軽い火傷だけで助かったが、逃げ遅れた母も、生まれ育った自宅も、父と弟の位牌と遺影と仏壇も全部燃えた。自分と家族の積み上げて来た人生の証明の全てが、一晩で灰になってしまったんだ」

 再び小隊長の瞳から涙が溢れ始め、枕を濡らす。

「だから私は別にな、防疫隊じゃなくても良かったんだ。天涯孤独で全てを失った私を受け入れてくれる場所であれば、全寮制で学費も何も必要とせずに、将来の働き口が保障されている進路であれば、何処でも良かったんだ。……実際、自衛隊と警察も、最後の最後まで進路の候補に入っていたしな」

 小隊長の口元に、少しだけ自嘲気味な笑みが浮かんだのが見て取れた気がしたが、俺の見間違いかもしれない。

「最終的に、何故防疫隊の士官学校を選んだのかは、はっきりとした理由があった訳じゃない。……ただもしかしたら、私から全てを奪って行った『大流行』と、その原因であるゼイビーズウイルスとに直接対峙してみたかったのかもしれないな。……とにかく私にはもう、何も失う物は無い。だからこの防疫隊で、自分に出来る事を精一杯やろうと決めたんだ」

「……俺は……」

 俺は何かしらの言葉をかけるべきかと思って口を開いたが、この状況で何を言っても彼女の慰めにはならないだろうと思うと、二の句が告げなかった。そんな沈黙し続ける俺に対して、鈴原小隊長は大きく息を吸ってから一言、腹の底に溜め込んでいたものを吐き出すかのように言い捨てる。

「だがまさか、ここに来て自分の身体と、大事な部下まで失う事になるとはな……」

 その声は、沈痛の極みだった。

 部下にこれ以上、泣き顔を見せる訳にはいかないと判断したのだろう。俺が座っているのとは逆の、窓の方角へと顔を向けた小隊長は、肩を微かに震わせながら嗚咽を噛み殺す。その姿はか弱く、そして痛々しい。

 ふと俺は、ベッド脇のキャビネットの上に置かれた、プラスチック製のトレイに目を向けた。そのトレイの中には、小隊長に処方されたのであろう各種の薬が納められている。錠剤、粉末薬、カプセル等々。それらの中に一つ、見覚えのある白い錠剤の薬包があった。それは確か以前、中隊基地本舎幹部階の第五小隊長室の、鈴原小隊長の机の上で見かけたのと同じ薬包。

 そして俺はその白い錠剤の正体を、やっと思い出した。かつて俺の父さんが、亡くなる以前の半年余りの間に、かかりつけの診療内科医から処方されていたのと全く同じ錠剤。それは鬱病の患者に処方される、抗鬱薬。

 防疫隊の日々の業務に苦しんでいたのは、小隊長も同じだったのだ。むしろ俺達以上に、職務の重圧に苦しんでいたのだ。それなのに俺は、彼女をずっと、冷徹な仕事の鬼だとばかり思って来た。クリスを初めとした部下に必要以上に厳しく当たる、規律に煩い人間味にかけた女だとばかり思って来た。彼女がいかに苦しんでいたのかに、気付こうともせずに。そして彼女が規律に煩いのは、部下を死なせないための彼女なりの心遣いである事を知ろうともせずに。

 俺は膝の上に置いた拳を、血が滲むほどギュッと握り締めた。

 どうしてこんな事になってしまったんだろう。どうして俺達がこんな目に遭い、こんな思いをしなければならないのだろう。鈴原小隊長も、クリスも、死んだ榊も、そしてこの俺自身も、皆が皆まだまだ十代の子供に過ぎないと言うのに。

 まさに今、俺の眼の前で声を殺して泣いている少女を見てみろ。国家の暴力装置の下士官に任命され、部下に人命を奪わせる重圧を背負わされたこの少女を。彼女だって『大流行』さえ無ければ、今頃はどこかの地方大学で能天気な学生生活でも送っていたであろう、遊びたい盛りの子供じゃないか。

 今ならあの夜、佐川中隊長が言っていた言葉の意味も理解出来る。鈴原澄香、彼女こそが一番無理をしている子供だ。規律に煩く、部下に厳しく、そして自分自身をも厳しく律し続ける事を心の拠り所にして、何とか己の存在意義を保ち続けている子供だ。上官として気丈に振る舞う事で、ともすれば壊れてしまいそうな己の心を誤魔化し続けている、か弱い子供に過ぎなかったんだ。どうして俺はその事実に、今まで気付いてやれなかったんだろう。

 鈴原小隊長だけじゃない。軍人の娘と言う点を差し引いたとしても、目の前で父親の頭が吹き飛ぶのを見せられたクリスだって、まだ十八歳の青臭さの抜けない子供だ。死んだ榊だって、この俺だって、そして行き場を求めて防疫隊に流れ着いた多くの若者達だって、許される事ならばまだまだ無責任な子供時代を謳歌したかったに違いない。いや、そうに決まっている。

 それなのに皆が皆、必死で背伸びをして強がっている子供ばかりだ。俺達は人生の中の大事な、掛け替えの無い時間をごっそりと奪われてしまった世代なのだ。

 では、誰がそれを奪って行ったのだろう?

 ゼイビーズウイルス? 『大流行』? 国家? 時代? それとも、大人達?

 そんな事は、考えても詮無い事だった。明確な一つの解答なんて、いくら探したって見つかる筈も無い。強いて言うならば、俺達の置かれた状況の全てが、子供らしく生きる事を許してくれなかったのだ。

 とにかく、全てが哀しい。

 いつの間にか俺の両眼からも、涙が静かに零れ落ちている事に気付いた。零れ落ちた涙が病室の床に、小さな小さな水溜りを作る。

願わくば、今の俺達が背負わされた苦悩の日々、死と隣り合わせの日々が、やがて訪れるであろう平穏な日々の礎にならん事を。せめて俺達の次の世代は、こんな哀しい思いをしないでも済みますように。俺は心の底からそう願いながら、静かに涙を流し続けた。

 時が止まったように静かな病室の中で、霧を吐き出し続ける加湿器の音だけが、それを否定していた。

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