第十幕


 第十幕     十一月二十八日 午後



 がらんとした広い工場の中央に、やけに大きな業務用ミキサーと、それの投入口へと続くベルトコンベアが一台ずつ鎮座している。長沖漁港のすり身加工工場に在った物と比べると、高さも幅も軽く二倍はありそうなそのミキサーは、ゴゥンゴゥンと言う重低音と共に、腹の底から震えるような震動を響かせていた。その荘厳な姿はまるで、工場の入り口にポツンと独り立つ、制服姿の俺を誘っているかのように見えなくもない。

 するとベルトコンベアの上を、見覚えのある何かが運ばれて来た。

 それは中年の、ゼイビーズの男。

 確かあれは、今から半年ちょっと前に、俺が人生初の駆除業務で射殺した筈の男だ。生まれて初めて人を殺さねばならない状況に立たされた記憶から、その顔から服装まではっきりと覚えているので、見間違えようも無い。

 そしてそいつは一切抵抗する事も無く、ゆっくりとベルトコンベアで運ばれて投入口に吸い込まれると、ボリボリミチミチと言う音と共に生きたままミンチ肉となってミキサーの排出口からボトリと練り出された。

 銀色に輝く特大の金属トレイの上に盛られた、元は人間だった真っ赤なペースト状の塊。一体これは何なんだと考える暇も無く、ベルトコンベアの上を、次の人間が運ばれて来る。

 これもまた見覚えのある、一人目に比べると若干印象は薄いが、多分俺が二番目に駆除した筈の男。やはりこいつも、抵抗する素振りも見せずに投入口へと運ばれて行く。そして一人目と同じくミキサーの中に消えて行ったその男もまた、髪の毛と衣服の切れ端が大量に混ざった真っ赤なミンチ肉と化して、金属トレイの上にボトリと排出された。

 若い男。

 中年の女。

 太った男。

 髪の長い若い女。

 立ち尽くす俺の眼前で、これまでに駆除して来た老若男女が次々と運ばれて来ては、グロテスクな練り物へと変貌して金属トレイの容量を埋めて行く。コンベアの上を流れて行く男女は、一見する限り、別に身体を拘束されている訳でもない。だから逃げようと思えば簡単に逃げられる筈なのに、誰一人としてそんな素振りは見せず、素直に投入口の中へと消えて行く。

 やがて見覚えのある中年男性の次に運ばれて来たのは、やけに大柄な、軍服を着た白人の男だった。

 あれは確か、クリスの父親だ。

 俺はその男に向かって何かを言おうと口を開いたが、何故か声が出ない。

 口を拡げ、力の入らない喉を必死で震わせながら声を出そうと奮闘する俺の眼前で、クリスの父親もまた、ミキサーの投入口へと吸い込まれて行った。そして他の男女同様、骨と髪の毛が混じった真っ赤なミンチ肉へと成り果てる。やがて気付けば、ミキサーの排出口の下に置かれた小さ目のコンテナ程もあるトレイが、もう殆ど赤黒い液体と毛の生えた挽き肉で満たされてしまっていた。

 俺は僅か七ヶ月余りの期間で、これだけ多くのゼイビーズを――生きた人間を――殺して来たと言うのか。頭では分かっていた筈なのだが、こうして改めて見せ付けられるととんでもない量だなと俺が驚嘆している間にも、ベルトコンベアの動きは止まらない。

 そして予期していた通り、次の犠牲者がゆっくりとコンベア上を流れて来た。防疫隊の制服に身を包んだ、榊が。

 榊、そっちに行っちゃ駄目だ。

 俺は声の出ない口を必死でパクパクさせながら、無表情のまま直立不動でコンベア上を流されて行く榊に向けて懸命に叫び続けるが、勿論それで何が変わろう筈も無い。とにかくこのままでは、榊が生きたまま挽き肉にされてしまう。そんな光景は見たくもないし、認めたくもない。

 俺はベルトコンベアから力ずくで榊を引き摺り下ろすために、工場の中央で回転し続けるミキサーに向かって、一歩踏み出した。その踏み出した足の裏に、あの感触が蘇る。鈴原小隊長の左腕を切り落としたナイフの硬く鋭い刃が、肉と骨の反発力で僅かに押し戻される、あの感触。それが足の裏に生々しく伝わって来るのを感じて、俺は踏み出した足を急いで引っ込めた。だが、足の下には当然ナイフも、小隊長の腕も無い。硬いコンクリートの床があるだけだ。

 念のために俺はブーツの裏も確認するが、こちらの方も、当然ながら何も異常は無い。ただの防疫隊から支給された、分厚いゴム底の編み上げブーツだ。では一体何が、あのおぞましい感触を生み出していると言うのだろうか。

 いや、今はそんな事に気を取られている場合では無い。早くしなければ、榊が生きたまま挽き肉にされてしまう。そう焦った俺は、ミキサー目指しての前進を再開する。

 だが改めて一歩踏み出すと、足裏にはまたしてもあの感触が。

 もう一歩踏み出せば、逆側の足裏にも同じ感触が。

 まるで見えない何かが俺を責め立てるように、小隊長の腕を切り落としたあの不気味な感触に取り憑かれながら、俺は走り続ける事を余儀無くされる。果たして求められているのは贖罪か、それとも懺悔か。一体何を為せば、この感触が俺を責め苛む事は無くなるのだろうか。

 それでもなんとか足裏に伝わるナイフの感触に耐え切り、やっとの思いで俺は、ミキサーの傍にまで駆け寄る事に成功した。だが遠くから見ていた以上にコンベアもミキサーも巨大で、その投入口は遥かに高い位置にあり、どう頑張っても俺の手は届かない。

 俺は必死で榊に、そこから降りるよう手を振って訴えかける。だがあの馬鹿はこちらに目もくれず、ただ静かに、動じる事無くコンベア上を流されて行くだけだった。

 行くな、榊。死ぬぞ。

 自分では喉が張り裂けんばかりに声を張り上げているつもりなのだが、いくら顔を真っ赤にして叫べども、ただ口をパクパクさせるだけの徒労に終わる。そして遂に、俺の目の前で、榊はミキサーの投入口へとその姿を消した。


   ●


 全身をビクリと震わせて、俺は眼を覚ました。呼吸は荒く動悸は早く、目尻からは涙が一筋流れて、枕に小さな染みを作っている。

 昼食後の満腹感がもたらす怠惰な空気と、快適な空調の暖かさが原因だろう。昨夜もグッスリと熟睡した筈なのに、俺は予定外の昼寝と洒落込んでしまっていたらしい。ベッドから半身を起こして窓の外に目をやれば、地平線に沈みかけた夕暮れの太陽が、眼下の駐車場を紅く照らし出していた。

 もちろん今現在俺が居るこの場所は、業務用のミキサーとベルトコンベアが鎮座する、すり身の加工工場ではない。白塗りの壁に囲まれた、第七管区国境防疫隊第一大隊本部基地隔離棟の経過観察室だ。故に当然、紅く染まる駐車場を臨む窓には鉄格子が嵌まり、出入り口は外から厳重に施錠され、『感染疑い』である俺の退室を固く拒んでいる。

 それにしても俺は、なんて夢を見るんだか。

 両足の裏には夢の中で感じたナイフの背の感触が生々しく残っており、人肉ミンチの血生臭い匂いも、鼻の粘膜にこびり付いて離れない。一昨日に漁港で見せ付けられた光景を、全てごちゃ混ぜにしてフラッシュバックしたかのような、奇怪で悪趣味なシチュエーションの夢。特に人肉ミンチに至っては、俺自身が直接見た訳でもないのに、想像とは思えないほどのリアルさだった。

 それにしても、俺は思う。もし仮に、本当に全てが性質たちの悪い夢だったとしたら、どれほど多くの人が救われた事だろうかと。しかし残念ながら、そして残酷な事に、全ては疑いようの無い事実なのだ。俺が数多くの人間を殺して来た事も、鈴原小隊長の腕が切り落とされた事も、榊が死んだ事も。


   ●


「うーっ! うぅーっ!」

 工場の床に寝転がった鈴原小隊長が固く歯を食いしばり、断末魔の絶叫を噛み殺したかのような苦悶の声を上げ続ける。

「大丈夫ですか! 小隊長!」

 俺は反射的に叫ぶが、どう考えたって大丈夫な訳が無い。たった今しがた、左腕をバッサリと切り落とされた所なんだぞ。それも、この俺によって。

 そう、誰でもないこの俺が、俺自身が、鈴原小隊長の左腕を切断した。その逃れようの無い事実に、俺の手も、膝も、小刻みにガクガクと震えて力が入らない。だがそれよりも今重要なのは、彼女の傷の具合を確認する事だ。

 改めて患部を見遣ると、その白い骨が露出した切断面からは絶え間無く鮮血が溢れ出し、小隊長の着ている支給品のシャツがみるみる内に鮮やかな赤色へと染め上げられて行く。とにかく早く止血をしなければ、たとえゼイビーズウイルスへの感染が回避出来たとしても、このままでは失血死してしまう。そう危惧した俺は自分の腰からベルトを外すと、それを小隊長の、長さが半分になってしまった左上腕に巻き付け、きつく縛り上げた。

 蒼白の顔に大量の脂汗を浮かべた鈴原小隊長が、震える右手を自分の口に当てると、顔を横に向けて寝転がった体勢のままゴボゴボと盛大に嘔吐する。その綺麗な顔も黒髪も眼鏡もシャツも、全てが吐瀉物まみれになってしまったが、今はそんな事を気にしている場合では無い。

「小隊長! ここをグッと押さえて! 立ち上がりますよ!」

 そう叫ぶと俺は小隊長の震える右手を取り、それを彼女自身の左脇の下に当てて、止血のために動脈を圧迫するよう促した。それから一旦背後に回り込むと、彼女のズボンのベルトを掴み上げて、強引に立ち上がらせる。

 彼女の左腕は骨まで完全に切断されていたが、腕と一緒に切られた長袖シャツの袖はまだ僅かな繊維で繋がっていたらしく、小隊長が立ち上がると、シャツの袖と一緒に中の腕も持ち上がった。そして一拍の間を置いてから、切断された腕だけが自重で袖口からずるりと滑り落ち、コンクリートの床を転がる。

 俺が切断した、鈴原小隊長のか細い左腕。

 何故か俺にはその腕が酷く恐ろしい物に思えたが、とりあえず今は気にしないよう努め、抱え上げた小隊長に手を貸しながらフロアの出入り口へと向かう。とにかく一刻も早く、救護班に合流しなければ。そう考えた俺は、無線インカムの設定をローカルからオープンへと切り替えた。

「こちら第五小隊所属、田崎です! すり身工場で重傷者一名発生! 救護班の車輌を、至急こちらまで回してください!」

「こちら救護班。緊急車輌は全てコンテナ置き場の増援に回っているので、今すぐそちらに向かえる車輌は無い。漁港の正面ゲート前に医者が待機しているので、何とかそこまで来れないか?」

「第五小隊田崎、了解しました! 負傷者の出血が酷いので、輸血の準備をお願いします! 血液型は……A+です!」

「どうした田崎! 重傷者だと? 小隊長か? 一体そっちで何が起こってる!」

 俺と救護班の間に葉山副小隊長が割って入り、無線は混乱状態に陥る。

「葉山先輩! 小隊長が奴らに咬まれて、緊急対応で左腕を切断しました! 今からそちらに向かいます! 主班のバンは脱輪して動かせないので、副班のバンで救護班の所まで運んでください!」

「ちっくしょう! 何てこった……」

 副小隊長が怒りに任せて何か近くにある物を叩いたのか、ガコンと言う鈍い音が、無線インカム越しに耳に届いた。

 緊急対応。それは感染を回避する、最後の手段。

 国境防疫隊の隊員ならば誰でも知っているその行為が、実際に行われる現場に立ち会うのは、これが初めての経験だった。しかもそれを、他ならぬ俺自身が行なう事になろうとは、夢にも思わなかった。

 ゼイビーズウイルス感染者に咬まれた場合でも助かる、現状では唯一無二の方法。それは咬まれた箇所から見て、より脳に近い箇所を、ウイルスがその神経系を犯す前に切断する事のみである。故に、脳に近過ぎる頭部や、切断する訳にはいかない体幹部から感染した場合は絶望的であっても、手足の末端部からの感染であれば、まだギリギリで助かる可能性は残されている。

 だが、ゼイビーズウイルスの感染速度は極めて速い。

 手足の指先を咬まれた場合でも、ウイルスが脳神経系に達して大脳が完全に破壊されるまでに要する時間は、せいぜい十分程度。早ければ、五分以内。発症を免れるには、その僅かな時間内に決断を下し、迅速に手足を切り落とす他に方法は無い。当然、医者に麻酔を打ってもらうような時間的猶予など有る筈も無く、苦痛と恐怖に耐えながら、その場でパートナーによって切断してもらう事になる。

 先程俺が実践したナイフの背を踏み込んでの切断方法は、防疫隊のマニュアルにも記載され、訓練校でも二人一組になって何度も反復練習させられる、正式な感染の回避方法だ。これを防疫隊内では『緊急対応』と呼び、対ゼイビーズ戦の最後の手段として、隊員ならば誰でも熟知している。だがそれが実際に駆除業務の現場で行われる事は、極めて稀だ。何故なら大抵の場合、ゼイビーズに咬まれた隊員は動揺と混乱で取り乱し、右往左往している内に脳神経系へと感染が進行して、手遅れになってしまうから。

 今回は鈴原小隊長の生き残る事への執念が、即断即決を可能にした珍しいケースであった事は、疑いようが無い。極めて残念で残酷な結果ではあるが、同時に今はこれが、最善の結果でもあった。

 いや、果たして本当に最善の結果だろうか? 俺の頭に、疑問がよぎる。

 そもそも小隊長がゼイビーズに襲われなければ、こんな事態には陥らなかった。そして彼女がゼイビーズに襲われたのは、危険を承知で武装バンの外に飛び出した事が原因だ。では何故、彼女はバンの外に飛び出した? それは、ゼイビーズに襲われた俺を助けようとした結果に相違無い。

 そうだ、全て俺の責任だ。自分の責務から眼を逸らしていただけの、ただの卑怯者でしかない、この俺の責任だ。俺が銃の引き金を引き、あの小男を殺す事が出来ていれば、鈴原小隊長は無傷のまま生還する事が出来たに決まっている。クリスが言っていた、「生かすために殺す」と言う言葉を改めて思い出した俺は、己の不甲斐無さに唇を噛み締めた。噛んだ唇が切れて、鉄っぽい血の味が口中に広がる。

 小隊長を生かすために、俺が俺自身の手を汚して、人を殺さなければならなかったのに。今更悔いても仕方の無い事だが、いくら悔やんでも悔やみ切れない。

「田崎……私は……大丈夫だよな……?」

 俺に支えられて歩く小隊長が、痛みに耐えながら吐瀉物のこびり付いた口を開き、腹の底から搾り出したような弱々しい声で尋ねた。怯え切って虚ろなその眼からは、普段の彼女から発されている覇気がまるで感じられない。

「私は……感染していないよな……?」

「大丈夫です! 感染していたら、とっくに兆候が現れている筈です! だから、感染している訳がありません!」

 自分が全ての元凶だと言うのに、根拠の無い励ましを、俺は恥ずかしげも無く口から垂れ流した。実際には未だ予断を許さない状況だが、気休めでも言ってあげなければ、彼女は今すぐにでも気を失ってしまいかねない状況だったから。

「そうか……そうだよな。私はこんな所で感染する訳には、こんな所で死ぬ訳には、駆除される訳にはいかないんだ……絶対に、絶対に死んでたまるか……」

 鈴原小隊長の口から漏れた、鬼気迫る言葉。心なしか、そう呟く彼女の口元が、微かに笑っているように見えなくもない。

「とにかく今は、救護班の所まで向かうのが先決です! 気を確かに持って、しっかり歩いてください!」

 鈴原小隊長のベルトを掴み上げる手に再び力を込め直し、俺はとりあえずこのフロアの外に向けて歩くよう、彼女を促す。

 その時突然、無線インカムから聞こえて来たのは、榊の悲痛な叫び声。

「ああああああああああああっ! そんなっ! そんな馬鹿なっ! そんな馬鹿なあああああああっ!」

 鼓膜を破らんばかりに耳に突き刺さる、恐怖と動揺に満ちた絶叫。その余りのやかましさに、俺はとっさに絶叫から逃れるべく顔を背ける。だが耳にはめ込んだ無線インカムから直接聞こえて来るのだから、当然そんな事をしても意味は無い。小隊長を支えるために両手が塞がっている今の俺に出来る事は、榊に絶叫の原因を問いただす事だけだった。

「どうした榊! 一体何があった!」

「どうしたんだ榊! 報告しろ!」

 俺と葉山副小隊長が、ほぼ同時に叫んだ。

「大変です! 榊くんが、榊くんが奴らに咬まれました!」

「なんだと福田! 本当か!」

「畜生っ! 畜生っ! 畜生っ! お前らよくもやりやがったなっ!」

 福田さんが応答し、副小隊長が問い、榊が再び怒りに満ちた声で叫ぶ。それと同時に、散弾銃のものと思われる発砲音が頭上から連続して轟き、工場の内壁に反響した。どうやら怒りと恐怖で我を忘れた榊が、八七式散弾銃を乱射しているようだ。

「やめろ榊くん! そんなに撃つと、また弾切れするぞ!」

「あああああっ! 畜生っ! お前らみんなぶっ殺してやるっ!」

 轟いていた銃声も、すぐに止んだ。福田さんが止めるまでも無く、抗い難い理由で。

「くそっ! 弾が……弾がもう……」

「榊先輩危ない!」

 弾切れを起こした榊の援護にクリスが向かったのか、再び散弾銃の銃声が、先程までとは違う位置から聞こえて来た。

「榊くん! 今はそんな事をしている場合じゃないだろ! 早く、早くその腕を切り落とさないと……」

「嫌や……こんなん……こんなん嘘や……こんなっ、こんなんっ、嘘や……こんなん嘘や……」

 焦る福田さんの声に続いて、絶望に打ちひしがれたような榊の悲痛な嗚咽が、耳に届く。無線インカム越しに聞こえて来る各人のやり取りから、二階で何が起こっているのか、その大体の状況は飲み込めた。だがしかし、負傷した鈴原小隊長に手を貸して撤退中の俺には、どうする事も出来ない。

 それにしても一体何故、防護スーツを着用していた筈の榊がゼイビーズに咬まれたと言うのか。

 まず考えられるのは、唯一防刃プレートが入っていない指先を、ピンポイントで噛み千切られた可能性だろう。だがそれにしたって、ゼイビーズに対してよほどの接近戦を挑みでもしない限り、三人がかりでそんな事態はまず有り得ない。……いや、榊の不精な性格と過去の戦いぶりから鑑みれば、おそらくはその「よほどの接近戦」とやらを、奴はやらかしてしまったのだろう。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、あまりにも残酷過ぎる。

「榊っ! とにかく切るんだっ! それしか助かる方法は無いんだぞっ!」

 俺も他の隊員達に混じって、無線インカムから榊に向けて叫んだ。

「嫌や……出来でけん……そんなん出来でけへん……」

 嗚咽混じりに呟く榊の声は、もう完全に、恐怖と絶望に支配されてしまっていた。

「榊……やれ……私はやったぞ……それしか生き残る術は無いんだ……」

 俺の腕の中で、顔から血の気を失わせた鈴原小隊長が消え入りそうな声で助言するが、それも榊の心にまでは届かない。無線インカムからは只空しく、榊の嗚咽だけが聞こえ続けている。

「クリス! 二階には未だかなりの数がいるのか?」

 葉山副小隊長が叫び、それにクリスが応える。

「数はそれほどでもないんですが、とにかく狭い上に邪魔な障害物が多くて、いくら撃っても弾が当たりません! それにその弾も、もう残り僅かです! なんとか事務所のドアをロッカーで塞いで押さえ込みましたが、それも突破されそうです!」

「分かった! お前達は一旦、一階のエントランスまで退け! 階段で待ち伏せして、奴らが出て来た所を、こっちの六二式で全員蜂の巣にするぞ!」

「了解しました、葉山先輩!」

 戦闘高揚でテンションが上がっている筈のクリスの声にも、もはや余裕は感じられない。一方で、残る二人の状況は更に緊迫していた。

「おい榊くん! 僕が、僕がやってやるから、早くそのスーツを脱ぐんだ!」

 焦りながらも榊に、感染した腕を切り落とすよう促す福田さんの声。その声も震えて舌がもつれ、普段の低く落ち着いた、ゆっくりと喋る優しい声とは全く違う。

「出来ん……無理や……」

「今はそんな事を言っている場合かっ! とにかくもう、これしか方法が無いんだ! 早く、今すぐ、そのスーツを脱げっ!」

 遂には福田さんの声も、怒声へと変わる。だがそれすらも、榊を心変わりさせるには至らない。

「無理や……無理……あ……ああああ……あああああああああっ!」

 情け無い泣き言を繰り返していた榊の声が、突如として断末魔の絶叫へと変貌し、遂には聞いてはいられないような大音量の咆哮へと変化して行く。既にそれはもう、まともな人間の喉から発される声ではなかった。人が人でなくなる瞬間の、地獄の挽歌そのものだった。

「榊! 福田! どうした! 早く撤退しろ!」

 工場のエントランスに停められた武装バンから叫ぶ、葉山副小隊長。

 俺は鈴原小隊長に肩を貸したままフロアの出入り口を押し開け、エントランスで警戒待機していた副班の武装バンまで、ようやく辿り着いた。バンの傍らには、俺達の到着を待っていた葉山副小隊長が、二階に侵攻した面子と無線交信を継続している。

「榊くんが! 榊くんがもう駄目です! 手遅れです! 手遅れなんです!」

 意識が朦朧としている小隊長をバンの助手席に座らせた俺の耳にも、福田さんの悲痛な叫び声が届いた。

 思えば、榊と福田さんは小隊内でも特に仲の良い、コンビの様な存在だった。歳も離れているし外観も対照的だが、どちらもプロ野球観戦が何よりの趣味で、会えばいつでも楽しそうに野球の話ばかりしていた。そんな二人だからこそ、相棒を目の前で失いつつある福田さんの心中は、察するに余りある。

「糞っ! 遅かったか! こうなったら仕方無い、福田、クリス、とにかくお前達だけでも早くここまで撤退して来い! 早く!」

「了解です!」

 葉山副小隊長とクリスが交信し、福田さんも何かを言っているようだが、今やゼイビーズと化してしまった榊の放つ咆哮が無線インカム越しに耳をつんざき、何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。

 そして、交信からほんの数秒後。階段に続く通路の先にある事務室のドアが勢い良く開くと、防護スーツに身を包んだ人影が一つ、足をもつれさせながら飛び出して来た。俺の立っている位置からではヘルメットの表面に光が反射して顔は見えないが、背の高さからして、おそらく福田さんだろう。

 その人影はそのまま階段まで駆け寄ると、半ば転がり落ちるようにして一階まで下り切ってから、床に倒れ伏した。少し遅れてもう一人、防護スーツの人影が事務室のドアからエントランスへと飛び出して来ると、階段へと続く通路を転がる。果たして今度の人影は榊か、それともクリスか。

 後から飛び出して来たその人影は、転倒した体勢のまま身体を捻って背後を振り返ると、事務室のドアの方角に向けて手にしていた自動拳銃を三発ほど発砲した。道具を扱えるだけの知能を有しているのならば、あれはゼイビーズと化した榊ではなく、クリスなのだろう。

「葉山先輩! お願いします!」

 二人目の人影の防護ヘルメットの中から発された、女性の声。やはりこちらを向いて叫ぶあの人影は、クリスで間違い無いようだ。見たところ彼女が手にしているのは自動拳銃だけだが、どうやら弾切れを起こした散弾銃は、どこか途中で捨てて来たらしい。

「クリス! 無事か!」

 彼女の身を案じて、俺も反射的に叫んだ。

 そこにゆらりと、音も無く三人目の人影が現れる。三人目の、防護スーツに身を包んだ人影。

 現段階で福田さんとクリスの二人は、既に二階の事務室から脱出し終えている。と言う事は消去法で、たった今しがたドアをくぐって出て来た小柄な人影は、ゼイビーズと成り果ててしまった榊に間違い無い。

 俺も初めて眼にする、防護スーツを着たゼイビーズ。その全身は接近戦で仕留めた感染者の返り血で真っ赤に染まり、クリスの撃ち込んだ自動拳銃の銃弾を脚に受けたのか動きは鈍く、ヘルメットは一面びっしりとヒビだらけになっている。

 しかし九㎜口径の拳銃弾程度では、頑強な防護スーツを着込んだ人間に致命傷を与える事は出来ない。確かにその動きは鈍重になってはいるが、それでも元は榊だったゼイビーズは一歩一歩、通路に倒れたクリス目指して確実に歩を進める。

「田崎!」

 背後から、葉山副小隊長が俺の名を呼んだ。振り返れば、副小隊長は鈴原小隊長に鎮痛剤の経口モルヒネを飲ませながら、俺を険しい眼で見つめている。そして頭上を指差し、口を開く。

「お前がやれ」

 副小隊長が指差した先に在った物。それは副班の武装バンの銃座に据え付けられた、六二式軽機関銃。その黒く冷たい銃身が、威圧的に俺を見下ろす。

 眼前には片腕を失った小隊長が苦痛に息を荒げ、背後では、クリスが今にも榊に襲われんとしている。俺の胸中に渦巻くのは、鈴原小隊長を腕を切り落とす事態に陥らせてしまった事に対する自責の念と、後輩であるクリスを助けねばならないと言う義務感。もうこれ以上、俺のせいで状況を悪化させる訳には行かない。大事な人達を生かすために、殺す覚悟を決めなければならない。たとえ殺すべき相手が、同期の仲間だったとしても。

「……分かりました。俺がやります」

 こくりと頷く俺。副小隊長もまた、頷き返す。

「待て田崎!」

 銃座へと続く、バン内部のステップに足をかけた俺に、誰かが声をかけた。それは、助手席に腰を沈めた鈴原小隊長。腕を失った痛みによるものか、それとも経口モルヒネが過剰に効いているのか、彼女の眼は視点が定まらずに朦朧としている。だがその混濁した意識の中で、小隊長は俺に要請する。

「駄目だ田崎……榊を殺すな……」

「しかし小隊長、他に方法は……」

 俺は異議を申し立てようとしたが、どうやら彼女には既に俺の言葉は聞こえていないらしく、うわ言の様に語り続ける。

「駄目だ……私は部下を一人も殺す訳には行かないんだ……もう、誰も……失う訳には行かないんだ……」

 もはや要請と言うよりは、懇願に近い鈴原小隊長の言葉。困惑する俺は、彼女の肩を支えている葉山副小隊長に視線を移した。副小隊長は無言で顎をしゃくり、銃座を指し示す。俺も無言で、頷き返した。そして銃座へのステップを駆け上ると、そこに鎮座していた六二式軽機関銃を構えて、引き金に指をかける。副小隊長が一度使用しているので、既に薬室には弾丸が装填済みだ。

「よしクリス、もっと下がって姿勢を低くしろ! 掃射するぞ!」

「クリス! 下がれ! 榊と距離を取るんだ!」

 俺と副小隊長が、ほぼ同時に叫んだ。姿勢を低くして身体を丸めたクリスが床を転がり、咆哮を上げながらゆっくりと近付く榊から離れる。そして軽機関銃の銃口を、元は榊だったゼイビーズに向けて照準を合わせた俺は、最後に小声で呟く。

「……許せ、榊」

 次の瞬間、俺の指は引き金を引いた。フルオート射撃の連続した銃声が工場中を反響し、マズルフラッシュに照らし出された俺の影が、壁面に薄く浮かび上がる。唸りを上げる軽機関銃の排莢口からは金色に輝く真鍮製の空薬莢とベルトリンクが次々と吐き出され、それらがコンクリートの床に散らばって不規則に跳ね回り、金管楽器の様に軽快な音楽を奏でる。そして俺の眼前で、七・六二㎜ライフル弾の初弾が榊の被るヘルメットを貫通し、ミキサーにかけられたトマトの如く中身が真っ赤なゲル状のジュースになった。

 次いで、銃弾の雨を全身に受けた榊の身体が防護スーツごと、赤インクを詰めたズタ袋の様に真っ赤な大輪の花を咲かせて爆ぜる。人間は所詮、血の詰まった皮袋。そんな言葉を思い出しながら、俺は静かに涙を流して引き金を引き続けた。

 俺の心を縛っていた枷は外れ、クリスの命を救い、職務を全うすると言う義務は成し遂げられたのかもしれない。だがその代償は余りにも、余りにも大きかった。

 足元の助手席からは、鈴原小隊長のすすり泣く声が聞こえる。


   ●


 経過観察室の窓から差し込む紅い夕焼けの陽射しは、時間の経過と共にその濃さを次第に増して、初冬の空に宵闇の訪れを告げていた。

 さっきから部屋の中に、何かの音楽が小さく鳴り響き続けていて鬱陶しいなと思った俺は、ベッドに寝転んだまま首を左右に巡らす。そしてその音楽が、点けっ放しになっている液晶テレビのスピーカーから流れて来る、ビデオゲームのファンファーレである事に気付いた。液晶画面には、昼寝によって中断されたままのゲームの続きが映っている。

 冒険の旅に出た三人パーティーの主人公達の中で、二人の仲間が死んでいた。

 二人の仲間が、死んでいた。

 二人。死。

 俺はベッドからのそりと起き上がると、ゲーム機とテレビの電源を落としてから、再度ベッドに寝転がる。おそらくもう二度と、このゲームをプレイする事は無いだろう。次回からは何か別の、新しい暇の潰し方を考えなくてはならない。

 足の裏にはまだ微かに、硬いナイフの背の感触が残っていた。

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