第九幕


 第九幕     十一月二十六日 午後



「遅いぞ! 田崎! クリス!」

 制服の上着を羽織りながら走る俺とクリスに向かって、駐車場に停められた武装バンの助手席の窓から顔を出した鈴原小隊長が叫び、檄を飛ばした。頭上では、着任以来初めて聞くサイレンの音がけたたましく鳴り響き、緊急事態が発生している事を中隊基地の周辺一帯に警告している。

「急げ! もう装備は全部積んである! 他の小隊に後れを取るな!」

 小隊長の叱咤を背景音に、俺達二人は駐車場から次々と出動する各小隊のバンの間を縫って走ると、我らが第五小隊首班の武装バンの元に到着した。そして俺は運転席に、クリスは後部座席に腰を下ろして呼吸を整えながら、着込んだ制服のジッパーを引き上げる。

 繁華街の定食屋前で緊急招集命令のメールを受信してから、この中隊基地までの道中。途中で運良く同じ基地に向かう隊員の自家用車に拾ってもらえたので正味一㎞程度だが、それでも久々に全力で走らされたので、俺もクリスも相当に息が上がってしまっていて苦しい。全身の筋肉が熱を発し、心臓は早鐘を打ち、この寒さでも額からはボタボタと玉の汗が滴り落ちている。

 訓練校に居た頃は、この何倍もの距離を毎日走らされていたと言うのに、この短期間で随分と体が鈍ってしまったものだと実感せざるを得ない。これは早々に基地内のジム施設で自主トレーニングを開始しなければ、そう遠くない未来には、訓練校以前のレベルにまで体力が落ちてしまうだろう。

「小隊長、それで、何が、あったんです、か?」

 俺は荒い呼吸も整い切らないままに、助手席で既にシートベルトを締め、相変わらずの小難しい顔をしている鈴原小隊長に尋ねた。一体全体何処で何が起きた結果として、緊急招集命令が発令されたのか。駆けつけたばかりの俺とクリスは、まだ何も知らされていない。そんな俺達二人に、小隊長はいつもの冷徹な口調で語る。

「私もまだ詳しい事は知らされていないが、海保の巡視艇が漂流中のゼイビーズに襲われて、多数の感染者が出たそうだ。更に悪い事に、その巡視艇が長沖漁港に突っ込んだらしい。現在はこの付近一帯の防疫隊と海保で漁港を封鎖して、大規模な駆除作戦を準備中だ。すぐに上の方から、正式な作戦説明があるだろう。……状況によっては、陸自が出動する可能性もある」

 鈴原小隊長の説明を聞いている最中、バンのフロントガラス越しに俺の眼前を、オリーブドラブ色のスプリッター迷彩模様で塗られた八二式指揮通信車が通過する。中隊基地内では『ガレージの守り神』の異名を与えられ、普段は屋根付きガレージの奥に鎮座している、八二式指揮通信車。陸上自衛隊から譲り受けた、あの装甲車輌が出動している場面に遭遇するのは、訓練校での大規模演習以来だ。

 これは只事じゃ無いぞと肌で感じながら、装甲車輌の威圧的な雄姿を眼で追う俺に、隣に座る小隊長がバンの駆動キーを手渡しながら付け加える。

「あれだけじゃないぞ田崎。ガレージを見てみろ」

 そう言われた俺が背後のガレージに眼をやると、そこには何も無かった。

 そう。文字通り、何も無い。普段はそこに鎮座している筈の八二式指揮通信車も、UH-1H多用途ヘリも、既にその姿を消している。ガレージはまさしく、もぬけの空だった。

「もう前線部隊は総員出動しているんだ。お前もボーッと見ていないで、早く発進させて後に続け。このままじゃ、全小隊で我々がドンケツになるぞ」

 鈴原小隊長が痺れを切らしている事に改めて気付いた俺は、急いで駆動キーを回してバンのモーターを始動させると、アクセルを踏み込んで発進させた。

「で、どこに向かえばいいんですか? 俺達は」

「我々第四中隊は、全小隊が長沖漁港に直行だ。前の車輌の尻を追って行けばいい」

 ふと見れば、葉山副小隊長が指揮している筈の副班のバンは既に、『5副』と路面に書かれた駐車場の隣のスペースからその姿を消している。

「副班は、もう出たんですか?」

「葉山の副班は、招集がかかった時点でパトロール業務中だったからな。今頃は長門市の方から直接漁港に向かっている筈だ。とにかく、我々も急ぐぞ」

「了解です」

 小隊長の指示に従い、他の小隊のバンに追従して、俺達の乗ったバンも中隊基地のゲートを抜けた。すると、長沖漁港方面に続く街道上に、防疫隊の紺色に塗られたバンが一本の帯の様にずらりと並んでいるのが眼に止まる。こんな壮観な、そして不気味な光景は着任以来初めて眼にした。

 すると車内に、若干のノイズが交じった音声が流れ始める。

「あーあー、あー。こちらは第七管区国境防疫隊、第一大隊第四中隊長の、佐川だ。これから第四中隊所属の全隊員に、状況を説明する」

 車載の端末と耳にはめた無線インカムから、佐川中隊長の低く落ち着いてドスの効いた、それでいて少し優しそうな声が聞こえて来た。

「今から二時間ほど前、海上保安庁の巡視艇が対馬沖を漂流する韓国籍の漁船を発見し、これに対して制圧行動を採った。だが制圧行動中、船内に潜んでいたゼイビーズウイルス感染者に襲撃され、海保職員内に複数の感染者が発生。漁船の制圧には成功したが、時間の経過と共に巡視艇内で感染が拡大した模様。これを受けて、船長以下コントロールルームに立て篭もった数名の海保職員が巡視艇を陸地に向け、萩市の沖合いにおいて海保と防疫隊との合同部隊で船内に乗り込み、感染者の駆除を行う作戦を立案した」

 一呼吸置いてから、尚も中隊長の話は続く。

「しかしその途上でコントロールルームへの感染者の侵入を許し、乗組員は船長も含めて全滅した模様。巡視艇は漁船を曳航したまま制御を失い、予定の航路を外れ、長沖漁港近くの岸壁に漂着した。これが、今から三十分ほど前の話だ」

 ゴホンと一度、咳払いする中隊長。

「その後、巡視艇内に居たゼイビーズウイルス感染者は漁港内へと侵入し、一般市民に多くの死傷者・感染者が発生している模様。これに対して、萩市の大隊本部基地と長門市の第三中隊基地から出動した各部隊は、それぞれ沿岸から長沖漁港を挟む形でローラー作戦を展開し、感染者を一体たりとも外部に漏らさず駆除する事に努めている。我々第四中隊はこれより、内陸から長沖漁港を包囲し、漁港内に潜んだ感染者を駆除する包囲作戦を敢行する。総員、長沖漁港に集結せよ。以上、諸君の奮戦を期待する」

 中隊長からの通信が切断され、俺にも状況の概要は飲み込めた。

 それにしても口調は平静を保っていたが、佐川中隊長の声には何時に無く力が入っていた。確か中隊長は海上保安庁の出身の筈だから、元身内から相当な被害が出ている事とその失態に、色々と思う所があるのだろう。年代的には犠牲になった巡視艇の船長が顔見知りだという事も、充分に考えられる。

「漁港で一般市民に被害って、漁港と海を塞ぐフェンスの閉鎖はしてなかったんですか?」

 背後の後部座席からクリスの疑問が聞こえ、それに助手席の鈴原小隊長が答える。

「海保が立てた当初の作戦では、萩市の沖で駆除する予定だったからな。まさかそれが直前で、こっちの方に流れて来るとは思ってもいなかったんだろう。……まあそれでも、連絡が遅れたせいで被害が拡大したのは否定出来ないだろう。その点をマスコミに追求されでもしたら、重大な責任問題にまで発展しかねん。ひょっとしたら上層部の人間の首が一つか二つ、飛ぶかもしれんな」

 小隊長の返答はともかく、クリスの抱いた疑問には俺も同意見だ。

 現在、日本海側の海岸線はぐるりと隙間無くゼイビーズ侵入防止用の防護フェンスが張り巡らされており、民間人が許可無くこれを通過する事は出来ない。だが漁業や海運業に関わる港湾に限定すれば、その事情は大きく変わって来る。

 一般市民は原則立ち入り禁止になっている防護フェンス周辺も、港湾事業従事者に限っては、比較的自由に行き来する事が許可されている。それに肝心の防護フェンスも、荷揚げを行う港の部分だけは開閉式になっており、無用心にもこれがほぼ常時開放されてしまっているのが現状だ。

 一応は港湾を囲むようにもう一枚開閉式の防護フェンスが張られており、ゼイビーズが浜辺に漂着した際などには、海と港と市街地とのそれぞれを完全に遮断する事が可能だ。だがそれでも、そもそも防護フェンスに安易に開閉出来る箇所が存在する事自体が、保安面の大きな懸念である事は過去に度々指摘されて来た。 

 それでも連絡系統さえしっかりしていれば、事前に防護フェンスを二重に閉鎖するなどして、事故を未然に防ぐ事も出来たのかもしれない。だが今回は予定外のアクシデントが続いたために、その辺りの対応が後手後手に回ってしまったのだろう。どう考えても完全に、防疫隊の大失態だ。小隊長の言う通り、幹部クラスの隊員数名が辞任に追い込まれても不思議は無い。

「……二人とも、今日は非番か?」

「え? あ、はい」

「あ、あたしは明日から復帰の予定でしたから」

 鈴原小隊長の問いに、俺とクリスは揃って肯定した。そう言えばクリスが入院していたのもあるが、この三人の組み合わせで出動するのは久し振りだ。

 クリスの見舞いに行った日の夜に反抗的な口を利いてしまって以来、正直言えば、鈴原小隊長とは顔を合わせ辛い。勿論あれをきっかけに、小隊長の俺に対する態度が変化するような事は無かったが、それでもやはり同じ空間に居ると気不味くて仕方が無かった。

 もっとも、あの一件以前から小隊長は誰に対しても機械的で冷徹な態度しか取って来なかったので、今も昔も、どんな感情を抱いて俺に接しているのかさっぱり分からない。もしかしたら内心では怒りで腸が煮えくり返っているのかもしれないと思うと、少し背筋がゾッとする。単に俺が決死の思いで口にした意見具申が、新米隊員の戯言と切り捨てられただけなのだとしたら、それはそれで情け無い話なのだが。

「……あれは何だ?」

 不意に助手席の小隊長が前方に何かを発見したのか身を乗り出し、バンのダッシュボードから取り出した双眼鏡で、進行方向のその先を見遣る。やがて俺の視界に飛び込んで来た漁港の前には、赤い車列がウジャウジャと蠢いていた。

「あいつら、また面倒臭い事を……」

 俺には最初、双眼鏡を覗いた鈴原小隊長が呟いた言葉の意味が理解出来なかった。だが赤い車列の正体が判明する距離まで近付くと、彼女と全く同じ感想を抱かざるを得なかった。

 漁港の入り口を取り囲んでいるのは、パトライトを賑やかに点滅させた、警察車輌の団体様御一行。そのパトライトの赤い光がパトカーの車体に断続的に反射して、遠くからは密集した真っ赤な塊の群れが蠢いているように見えていたのだ。

「うわ、何あれ」

 後部座席から頭を覗かせたクリスも、ウンザリするような呆れ声を漏らした。

 国家の安全に関わる緊急事態だと言うのに、アイツら警察関係者は、こんな時でも縄張り争いがお好きらしい。呆れ果てた俺は深い溜息を吐くと、運転席のヘッドレストに後頭部をボフンとぶつけて、天を仰ぐ。もっともバンの車内なので、実際には天は見えなかったが。

 とにかく、前に進む事が出来ない。まだ目的地である漁港の入り口までは距離があったが、俺達も加わっているこの防疫隊の車列の先頭が、そこで警察の連中と揉めているのだろう。立ち往生した車輌が詰まって、防疫隊の武装バンだけで渋滞が出来てしまっている。

 すると、俺の運転する武装バンの三台前を走る八二式指揮通信車の上部ハッチが開いて、防護スーツに身を包んだ佐川中隊長が上半身を乗り出すのが見えた。そして車載の拡声器を使い、警察車輌に向けて何かを怒鳴っているのが確認出来た後、再び防疫隊の全隊員に向けて無線通信が入る。

「中隊長の佐川だ。俺が警察の連中と直接話をつけるから、前の方に詰まっている小隊のバンは一旦前進して、道を空けろ。俺の乗っている指揮車が、漁港の入り口に辿り着ける所まででいい。以上」

 淡々としてはいるが、明らかに怒りの感情を含んだ佐川中隊長の声。

 中隊長の命令を受けて、前方で詰まっていた車輌が前進したのか、それとも道の脇に車を寄せたのか。どちらにせよ間を置かず、指揮通信車の進路を確保するために、防疫隊の車列が前進を再開した。我らが第五小隊のバンもそれに追従するが、漁港の入り口へと続く街道沿いは警察車輌と防疫隊車輌、更にそれらに乗って来た大人数の警察官と機動隊員と防疫隊員でひしめき合い、まさに大混乱の様相を呈していた。

 こちらに睨みを利かせる警察官達の視線と、点滅するパトライトの攻撃的な赤い光が鬱陶しい。単純な奴らの考えている事など、容易に察しがつく。

 海岸線をぐるりと囲む、防護フェンスより外。つまり海側は国境防疫隊の管轄なので、どう頑張っても警察は手出しが出来ない。だがフェンスより内陸側の港湾内であれば、警察も治安維持を名目に、一応の権利を主張出来る。それを利用して、普段はゼイビーズ絡みの事件に口出し出来ない鬱憤を、ここぞとばかりに晴らそうと言う魂胆なのだろう。

 加えて、権威を傘に着た縄張り争いが大好きな警察の事だ。防疫隊よりも早く漁港を封鎖し、管轄内で起きた事件は全て自分達で解決して、手柄を独占しようと考えている事は疑いようも無い。だがはっきり言って、そんな事は不可能だ。ウイルスへの感染を防ぐ防護スーツも、人体の急所を一撃で確実に破壊出来るだけの威力を備えた銃火器も、そして何より問答無用で感染者を射殺する覚悟も無い奴らに、一体何が出来るものか。何も、出来はしない。

 こんな時にまで我が物顔で出張って来る警察の連中も腹立たしいが、それはとりあえず置いておいて、俺は付近の状況を冷静に確認する。

 俺達が進んでいる街道沿いの片側には、漁港を囲むコンクリート製の高い塀がそびえ立っている。更にその向こうは、背の高い建造物の壁面が視界を遮っているために、今現在漁港内がどうなっているのかを視認する事は出来ない。この視界を遮る建造物は倉庫か、もしくは水産加工品の工場だろう。プレハブ造りと言うほど簡素ではないが、それでも薄い鋼板製と思われる壁は、お世辞にも頑丈と言える代物ではない。

 そんな事を分析している間にも次第に車列は進み、やがて漁港の入り口が見えて来る。

 高さ六mほどの、赤く塗られた鉄柵製のゲートが下ろされた漁港の入り口。そこにはポリカーボネイト製の盾を構えた警察機動隊の一団が横一列に並んで、明らかにゼイビーズと化している漁港で働く民間人と思しき集団と、ゲートを挟んで対峙していた。

 ゲートの向こう側には、いかにもハリウッド映画に出て来そうなゾンビの群れを彷彿とさせる、ゼイビーズウイルス感染者の一群。片やこちら側では碌な装備も揃えていない警察機動隊員達が、ゲートをよじ登ろうとするゼイビーズ共の手足を柵越しに警棒でぶっ叩いて応戦している。ゲートの頂上部が登攀不可能な鼠返しの形状になっているので難を逃れているが、これが普通の鉄柵だったならば、とっくの昔に乗り越えられていただろう。

 当然だが機動隊員達は、ウイルス感染を防ぐための防護スーツなど着用していない。一応は顔全体を覆うガスマスクを装着し、その上から保護シールドの付いたヘルメットを被ってはいるが、どちらも密閉構造ではないためにウイルスが侵入出来る隙間だらけだった。仮に密閉構造だったとしても、ゼイビーズとの接近戦になれば、あんな物は簡単に剥ぎ取られてしまうだろう。それに首から下の装備にしても、どう見ても普通の機動隊の制服の上から、胸部と腹部を守るためのボディアーマーとサポーターを着用しているだけに過ぎない。とてもじゃないがまともにゼイビーズ駆除が行なえる装備とは考えられず、むしろ未だ警察側に感染者が出ていない事実の方が、不思議なくらいだ。

 そんなお粗末な装備に身を包んで、文字通り狂ったように咆哮を上げながら漁港のゲートに殺到するゼイビーズウイルス感染者を、警棒で殴りつけているだけの警察機動隊員達。何だこの、どうしようも無く間抜けな茶番劇は。警察はゼイビーズの駆除を、暴徒の鎮圧か何かと勘違いしているのだろうか。高圧放水なり警棒での殴打なりで意気消沈させれば、蜘蛛の子を散らすようにどこかに退散してくれる、反社会勢力の類と同列だとでも思っているのだろうか。そして最後は大人しく、逮捕させてでもくれると思っているのだとしたら、これ以上は無いお笑い種だ。

 かつて福岡奪還作戦の際にも、ゼイビーズウイルス感染者の駆除に限定すれば、警察は全くの役立たずだったとは聞いていた。だがまさか、ここまで状況が飲み込めない愚か者の集団だとは、思ってもみなかった。俺の予想の、遥かに斜め下を行く。もはや警察組織は上から下までの全構成員が、防疫隊に対する嫉妬心と対抗意識で正気を失い、目の前に転がった身の丈に合わない手柄を求めて無謀な愚行を繰り返し続ける狂信者の群れのように思えた。

「本当に、本当に使えない連中だな」

「ええ、全く」

 助手席に座る鈴原小隊長も流石に呆れたのか、前髪をかき上げながらボソリと本音を呟き、俺も無意識の内にそれに同意した。

 そんな俺の視界の片隅で、八二式指揮通信車の上部ハッチから上半身を覗かせた佐川中隊長が、警察側の責任者と思しき男達と何やら怒鳴り合っているのが見える。中隊長は口元の無線機のマイクをオフにしているらしく、何を怒鳴り合っているのか、その内容までは聞こえて来ない。だが機動隊の隊長だかと喧々諤々やり合っているその姿は相当に苛立っているらしく、指揮通信車の屋根をひっきりなしに拳で叩く事で、その怒りを表現しているのが見て取れた。

 不意にパンパンパンと、突然の銃声。

「あ」

 その光景を傍観していた俺は、思わず間抜けな声を上げてしまった。佐川中隊長が腰のホルスターから自動拳銃を抜くと、空に向けて三発ほど威嚇発砲したのだ。威嚇の相手は勿論ゼイビーズではなく、警察機動隊。

 不意に背後から発砲音を聞かされた機動隊員達は一斉に振り返り、そこに鎮座する見慣れぬ装甲車輌と、その上部から拳銃片手に半身を覗かせたいかつい男に視線を向けて、静まり返る。

 まだ銃口から紫煙が漂う、九㎜自動拳銃。それをホルスターに戻した中隊長は間髪を容れず、八二式指揮通信車の固定武装であるM2ブローニング重機関銃をゲート前の機動隊員達に向けて構えると、短く何かを怒鳴った。おそらく、「邪魔だ、退け」とか何とか、そんな事を怒鳴ったのだろう。しかし機動隊員達も、乗りかかった船からそうそう簡単に降りる訳にはいかないのだろう。隊員同士で互いに顔を見合わせて動揺しながらも、なかなかその場を動こうとはしない。

 尚も怒鳴り続ける佐川中隊長は、遂に重機関銃のコッキングレバーを引き、初弾を薬室に装填した。五十口径の銃口が、警察機動隊員達を睨み据える。そこから発射される鉛の塊をまともに喰らえば、生身の人間の手脚など簡単に弾け飛ぶ対物兵装アンチマテリアルウエポン

 流石にこれが脅しではない事を悟ったのか、機動隊員達が我先にと、蜘蛛の子を散らすかのようにゲート前から退避し始める。そして今まではゲートに群がるゼイビーズに向けていたポリカーボネイト製の盾を、流れ弾や跳弾を恐れてか、今度は中隊長の構えた銃口の方角に向けて距離を取った。

 邪魔な機動隊員達が一人残らず射線上から姿を消すや、佐川中隊長は躊躇わず引き金を引き、指揮通信車に据え付けられた重機関銃の銃口が火を噴く。

 窓を閉め切っている、俺の乗った武装バンの中にまでも響き渡る五十口径ライフル弾の咆哮と、鮮やかに輝くマズルフラッシュ。ド素人の様な威力に任せためくら撃ちのフルオート連射ではなく、タタタンッタタタンッと断続的に聞こえる、指切りでのバースト撃ちによる銃声。その銃声が鳴る毎に、ゲートをよじ登ろうとしていたゼイビーズ達が、直径十二.七㎜の鉛球をその身に受けて次々と弾け飛んだ。

 排夾口から排出されて地面に転がり落ちる空薬莢の量に比例して、周辺一帯は見る間に、真っ赤な血と臓物で染め上げられた地獄絵図と化す。時折金属同士が激しくぶつかり合う不協和音を響かせながら、鋼鉄製のゲートをかすめた銃弾が、派手な火花を散らした。事前に分かってはいた事だが、至近距離からあんな物をまともに喰らえば、柔らかい人間の身体などあっと言う間に血まみれのボロ雑巾だ。

 万が一にも、跳弾がここまで飛んで来たら危ないなと思った俺は、とっさに頭を下げて車内で姿勢を低くする。よく見れば、隣の助手席で鈴原小隊長も、同じく姿勢を低くして跳弾に備えていた。小隊長の性格からすれば、もっと毅然と、動じる事無く座り続けているかと思っていたので、少し意外に感じる。

 それにしてもゲート越しに重機関銃を乱射とは、流石は佐川中隊長。やる事が一々豪胆かつ無茶苦茶だ。真偽のほどは定かではないが、海保時代に越境して来た北朝鮮の不審船に向かって、二十㎜機関砲を撃ち込んだと噂されているだけの事はある。

「第五小隊の隊員へ、こちら葉山。さっきから聞こえる、この銃声は一体何だ? 何が起こっているんだ?」

 突如耳の無線インカムから、葉山副小隊長の声が聞こえて来た。

 先行した副班のバンが居るであろう防疫隊の車列の最前線付近からでは、ゲート前で一体何が起こっているのか見当もつかないのだろう。突然轟いた重機関銃の銃声に、状況の説明を求めている。

「葉山先輩、こちら田崎です。今、漁港のゲート前ですが、佐川中隊長が警察の機動隊を追い払ってますよ。機関銃を乱射して」

「なんだそりゃ」

 俺の返答に、副小隊長が頓狂な声を上げた。

 それもその筈。実際に現場に立ち会っていなければ容易には信じられない無茶苦茶な光景が、俺の眼前で繰り広げられていた。

 周辺一帯の建物の壁に反響しながら轟く重機関銃の発砲音に加えて、鋼鉄製のゲートがライフル弾で削り取られる不快な金属の切削音と、弾け散る火花。それにマズルフラッシュの閃光と、銃弾の雨を全身に浴びて無残に砕け散るゼイビーズどもの血と肉と臓物が、周辺一帯を赤く染め上げながら眩く輝いている。

 その迫力に、周囲を取り囲む警察機動隊員達も腰が抜けたように身を屈めてビビッているのが、容易に見て取れた。いい気味だと思った俺は、少しだけほくそ笑む。

「佐川のヒゲオヤジ、相変わらず無茶苦茶してやがんな」

「ええ、無茶苦茶ですよ」

「無茶苦茶ですね」

 呆れ声の葉山副小隊長の呟きに、俺とクリスが応えた。対して助手席の鈴原小隊長は無言で、屈めた身を硬くしたままピクリとも動かない。何故だかその事実に、俺は妙な違和感を感じる。

 不意に、静寂が訪れた。

 一通りの掃射が終わったのだろうか。初冬の空に轟いた銃声は唐突に止み、少しの間を置いてから再び無線通信が入る。

「佐川だ。第四中隊所属の、全隊員に告ぐ。ゲート前を制圧し終えたので、これから我々第四中隊は漁港内に進攻し、包囲作戦による駆除業務に従事する。各小隊の各班は、指揮官を除いて全員防護スーツを着用し、可能な限りの重装備でこれに臨め。……それから、今現在俺の姿が見える範囲に居る隊員は、スーツを着用し終えたら外に出て漁港のゲートを開けろ。そして、転がっている死体を脇にどけてくれ。……いくらゼイビーズに成り果てているとは言え、このまま指揮車のタイヤで轢き潰すには忍びない。以上、総員作業を急げ」

 通信の後半は、あの豪胆な中隊長ですらも、やや沈痛な声色だった。ゲートを突破するために仕方無く乱射したとは言え、誰だって出来る事ならば、あんな真似をしたくは無い筈だから当然だろう。

「田崎、クリス、今の命令は聞いていたな? 二人とも防護スーツに着替えたら直ぐに出動し、ゲートを開けて、遺体を片付けるのに手を貸せ」

「了解です」

「了解」

 いつの間にか、屈めた身を起こしていた鈴原小隊長。彼女の指示を了承した俺とクリスはシートベルトを外すと、各種装備の収納されたバンの後部に移動した。代わりに小隊長が、助手席から運転席に移動する。指揮官である小隊長がバンの運転手も兼任するのは、異例の事態だ。

 武装バンに常備された、二人分の防護スーツ。それを急いで装着した俺とクリスは、装備を入念に点検する。一度戸外に出てウイルスに汚染されてしまったら、そうそう気安くバンの中に戻る事は出来ないので、どうしても慎重にならざるを得ない。

「クリスは散弾銃を、田崎はミニミを持って出ろ。二人とも弾は充分にな。特に散弾銃は装弾数が少ないんだ、持てるだけ持って行け」

 小隊長の指示を受け、クリスは八七式散弾銃を手に取ると、詰め込めるだけの十二番ゲージショットシェルを自身のガンベルトのポーチに詰め込んだ。対して俺は、疑問を呈する。

「構わないんですか、小隊長。俺がミニミを持って出ても? そうすると、バンに残す装備が小銃しか無くなりますが?」

「いいんだ。今回は多数の目標を相手にする可能性が高いから、拳銃だけでは対応し切れないだろうしな。……それに私の体格では、ミニミは手に余る。バンに残しておいても、無用の長物にしかならん」

 国境防疫隊正式採用の、M二四九軽機関銃、通称『ミニミ』。これはいざとなれば武装バンの屋根に固定して簡易銃座としても使用可能になっている、防疫隊の主力装備の一つだ。だが同時に、小隊長の言う通りその重量とサイズは、小柄な女性の手に余る代物である事もまた事実。加えてバンに残るのは、指揮官である小隊長一人だけ。部下への指揮とバンの運転に重点を置けば、そもそも彼女が使う機会も無いだろうし、それならば俺が持って出た方が確かに使い道もあるだろう。

「了解しました。ミニミを持って出ます」

 得心した俺は車体の固定具からミニミを外すと、箱型弾倉を装着して機関部を開け、ベルト連結された弾帯を装填する。こいつを手にするのは久し振りだが、普段使っている七〇式や八七式に比べて、ズシリと重い。

 防疫隊の各小隊の武装バンには、陸上自衛隊からのお下がりである七.六二㎜口径の六二式か、五.五六㎜口径のミニミかの、どちらかの軽機関銃が配備されている。我らが第五小隊の場合は、首班がミニミで、副班が六二式だ。

 五.五六㎜口径のミニミは、六二式に比べると口径が小さい分だけ、一発の威力はどうしても劣る。だが武装していない人間相手ならばこれで充分だし、六二式よりも軽い分だけ取り回しに優れている上に、同じ容積なら口径が小さい方がより多くの銃弾を携行出来る。そのミニミですら、スリングで肩掛けにしてもこれだけ重いのだ。副班の方の六二式でなくて良かったと、俺は心の底から思う。弾丸を除いた本体重量だけでも、あっちは十㎏、こっちは七㎏。たった三㎏とは言え、その差は大きい。

「よし出るぞ。クリス、ついて来い」

「はい、先輩」

 防護スーツを着用し終えた俺は、同じく準備を終えたクリスの肩を軽く叩いてからバンの後部ハッチを開けると、車外に降り立つ。漁港のゲート前には既に、各小隊の隊員達が防護スーツを着込んでわらわらと集合し始めており、ある種異様な光景を形作っていた。全身をゴテゴテとした装備で膨らませた、異様に頭の大きな生き物の群れ。それは何だか、巨大な芋虫の集団がひしめき合っているようにも見えて、生理的な嫌悪感すらも生む。

 一方で完全に場の主導権を奪われ、街道脇で苦虫を噛み潰したような顔をこちらに向ける、警察機動隊員達。彼らを尻目に集合した、俺とクリスも含む防護スーツに身を包んだ防疫隊員達が一斉に、漁港入り口の赤いゲートに手をかけた。

「開けるぞ!」

 芋虫の集団の中央付近に居る誰かが、そう叫ぶのが聞こえた。そしておそらくそれと同一人物であろう隊員が、ゲートを閉じていた太い鎖をワイヤーカッターで切断する。それを合図にして全員で左右に引くと、ゲートは横にスライドして、いとも簡単に開いた。

 間髪を容れず、開放された漁港内に侵攻した隊員達の半数が、素早く銃を構えて周囲を警戒しながら安全を確保する。それと同時に、残りの隊員達はゲートの内側一帯に転がっている、先程の佐川中隊長の重機関銃による掃射で一掃されたゼイビーズの死体を壁際に寄せ始めた。だがなにぶんその殆どが臓物を周囲にぶちまけて四散しているので、その全てを拾う事は出来ない。

 見渡してみれば、ゲート前とその周辺一帯は文字通り真っ赤に染まり、千切れた人間の手足や生首がそこかしこに転がる猟奇的な光景を晒している。肋骨を剥き出しにして破裂した人間の腹からは、中に詰まっていた汚物ごとぶちまけられた大腸が、寒空の下で温かそうな湯気を立てているのが妙に生々しい。同じような光景を、昔どこかで見たような気がした俺は記憶の海を探ってみたが、まず脳裏に思い浮かんだのがマグロの解体ショーで見た真っ赤な血に染まる魚屋のタイルの床だったので、それ以上は考えるのを止めた。

 バラバラ死体の片付けに従事した隊員達の防護スーツはあっと言う間に人間の血と脂にまみれて、妙にヌルヌルとした赤色に染まる。一方俺は、自分があの役でなくて良かったなどと不謹慎な事を考えながら、漁港内への車輌の進入に備えて周囲の警戒に努めた。

 そこに三度みたび、佐川中隊長からの無線通信が入る。

「第四中隊の総員に告ぐ。これより各小隊は俺の後に続き、漁港内に進入を開始する。第一から第六小隊は左翼、第七から第十二小隊は右翼に展開し、まずは壁際に並んで周囲の安全を確保せよ。全車輌が進入した後は一旦ゲートを封鎖し、処理班がゲートとその周辺を消毒。防護スーツを着ていない警察の連中の中に感染者が出たら面倒だ、消毒は入念に行え。以上、各員行動は迅速、かつ正確を期すように」

 通信の終了と同時に、中隊長を乗せた指揮通信車が先陣を切って、血だまりを踏み分け漁港内へと進攻する。更にその後を追って、背後で渋滞を起こしていた防疫隊の武装バンが次々とゲートをくぐると、左右に展開した。血だまりを踏み締めた車輪で、真っ赤な轍を漁港の路面に描きながら。

 眼前で繰り広げられる、常軌を逸した猟奇的な光景。それを目の当たりにした俺は、何故か妙に冷静に「なかなかの地獄絵図だな」などと考えながら、鈴原小隊長が運転する武装バンに随伴して漁港内を左翼に展開した。そして手にしたミニミ軽機関銃を構えると、壁際に積まれた資材や魚を詰める木箱の陰にゼイビーズが潜んでいないか索敵しながら、少しずつ制圧範囲を拡げる。決して焦らず、慎重に。

「田崎先輩は、こんな作戦の経験はあるんですか?」

 耳の無線インカムから、やや鼻息を荒くしたクリスの声が聞こえて来た。

「いや、俺もこんな大規模なのは初めてだ。……これまでは一対一か、せいぜい同時に二体を相手にした駆除業務しか経験が無いからな」

「あたし、さっきからもうずっと、心臓がバクバク言ってるんですけど」

「落ち着けクリス。周りには仲間が大勢居るんだから、ビビる事は無い。訓練校でやった集団演習を思い出せばいい」

 口ではそう言ってみたが、正直言えば、俺自身もかなりビビッていた。ただし早鐘を打つ心臓に反して、脳は妙に冷静と言うか、落ち着いて物事を考える事が出来ている。だが同時に足元は妙にフワフワしていて、膝にしっかりと力が入らない。これが脳内麻薬が出過ぎている時に起こる、いわゆる『戦闘高揚』と言うヤツなのだろうか。

 とにかく何だか、頭と身体が乖離したような奇妙な感覚と、異様な興奮を覚える。作戦行動を遂行する上では、余り良い兆候とは言えない。

 それにしても、広い漁港だ。勿論全国に名の知れた大型港湾に比べれば、この程度の港は玩具の様に小さな規模だろう。だがそれでも視界の端から端まで、コンクリート造りのビルからトタン屋根のプレハブに至るまで、様々な建屋が立ち並んでいる。それはつまり、ゼイビーズが潜める場所はいくらでもあると言う事に他ならない。視界の開けた浜辺で行われる駆除業務とは違って、ここでの戦闘は、格段に危険が伴う事が予想される。

 再び、中隊長からの無線通信。

「佐川だ。全隊員、漁港内に入ったな? それではこれよりゲートを一旦閉め、感染者の流出を防ぐ。各小隊で負傷者が出るなどした場合は、ゲート前に停車した指揮車の所まで、一時後退するように。これから端末に作戦の概要を送るので、全員注目せよ。以上」

 無線インカムから聴こえて来た佐川中隊長の指示に従い、俺とクリスはバンの運転席の鈴原小隊長が手にしたタブレット端末の画面を、サイドガラス越しに注視する。

 そこに表示されたのは、漁港の見取り図。とは言っても、ハリウッドのSF映画に出て来るような、立体的で詳細な図面ではない。おそらく中隊長自身が手元の端末にペンで手書きしたのであろう、フリーハンドの不細工で雑な見取り図が展開された。この辺りの技術は、『大流行』以前から殆ど発達していない。フィクションの世界と違って、現実はまだまだ泥臭いアナログ技術が幅を利かせている。

 見取り図の精度はさて置いて、今はその内容に注視する。防疫隊が進入した南ゲートから見て右翼にあたる東側には、貨物用の荷下ろし場とコンテナ置き場、それにハマチや牡蠣の養殖に使われる生簀が多数点在する。正面の北側には、漁船の船着場と魚の競り場が存在。そして俺達第五小隊が展開している左翼の西側には、製氷棟と水産加工品の工場が、漁港の末端までずっと続いているらしい。

 なるほど、この眼前にそびえ立っている背の高い建造物は、その加工品工場か。

 俺が納得している間にも、タブレットの液晶画面にはリアルタイムで各小隊の進攻方向を示す矢印が書き込まれながら、中隊長が口頭でも指示を出し続ける。

「各員、漁港の見取り図は確認したな? それでは第一から第三小隊は、左翼奥の缶詰工場。第四から第五小隊は、同じく左翼のすり身工場。第六小隊は製氷棟。第七・第八小隊は、正面の船着場とその周辺。第九から第十二小隊は、右翼のコンテナ置き場と養殖場に展開せよ。展開後はそれぞれ持ち場をくまなく探索して制圧し、潜んでいるゼイビーズウイルス感染者を即時駆除すると同時に、生存者を発見した場合は保護してゲート前の指揮車まで誘導せよ」

 大きく息を吸い、一呼吸置く中隊長。

「いいか、決して広い漁港ではないが、単独行動は可能な限り取るな。必ず二人以上で行動し、点ではなく面で押して行け。それから海岸線の制圧に関しては、我々だけでは人手が足りないので、萩市の大隊本部基地と長門市の第三中隊基地からの増援に任せる。我々第四中隊は、あくまでも漁港内の制圧に特化して行動する。海に逃げた感染者まで、深追いする必要は無い。総員、無線はローカルに設定。上に報告がある場合にだけ、オープンにしろ」

 俺達第五小隊の持ち場は、左翼正面のすり身工場か。

 佐川中隊長も人手が足りないとは言っていたが、確かにこの規模の漁港を六人編成の小隊が十二部隊、総員七十二名で制圧するのは正直言って物理的に無理がある。おそらくは前線配備の小隊員以外の、いわゆるデスクワーク組も増援として駆り出されているのだろうが、それでも充分な頭数とは言えないだろう。

 嫌な予感をひしひしと感じる俺の耳に、中隊長の更なる指示が届く。

「尚、この件は指揮官権限において感染拡大、アウトブレイクと規定する。駆除においては、通常業務の様な警告や体温観測は必要としない。各小隊長・副小隊長の指示に従い、各自が現場の判断で任意に発砲せよ。責任は、全て俺が持つ。水平射も許可するが、射線上に仲間、及び生存者がいない事を充分に確認してから撃て。誤射だけは避けろ。そしてこの長沖を、福岡の二の舞にだけは絶対にするな。以上、各員の奮闘に期待する」

 感染拡大、アウトブレイク。着任して以来、初めて遭遇する事になった緊急事態。それにしても、こう言う緊迫した現場で聞く横文字は、何故か現実味が薄くて間抜けに聞こえる。日常的に使わない単語を耳にすると、漫画や映画の中の様な作り話に感じるからなのだろうか。

 何にせよここから先は、これまでのような駆除業務前の形式ばった手続きは、一切必要とされない。ゼイビーズウイルス感染者を発見次第、それが顔見知りの漁師だろうと漁港で働くパートのオバちゃんだろうと、たとえ幼い子供であったとしても、任意に射殺しろと言う事だ。口で言うのは簡単だが、その殺伐とした状況に、俺は深い溜息を吐く。

 そしてもう一つ気になるのが、佐川中隊長の口から発された『福岡』の二文字。この二文字は、国境防疫隊内では特別な意味を持つ。

 今を遡る事三年半余り前。俺がまだ千葉の一高校生に過ぎなかった、二〇二二年三月二日。詳細な経路は不明だが、おそらくは韓国から漂着したと思われるゼイビーズウイルス感染者が福岡県の博多港に侵入し、そこに従事していた港湾関係者を次々と襲った。これを発端に、この国を震撼させた感染の拡大は始まる。

 港の警備員からの通報を受けた警察は即座に、福岡県のみならず、その周辺の他県にも跨る広範囲の住民を緊急避難させた。だが感染者駆除と制圧のために、発足間も無い国境防疫隊と陸上自衛隊の合同部隊が到着した頃には、既に福岡市中央区を中心とした直径二十㎞を越える範囲がゼイビーズウイルスによって蹂躙され、手が付けられない状況となっていた。

 徘徊する感染者で埋め尽くされた街路。炎と黒煙を巻き上げて燃える家屋。パニック状態で逃げ惑う市民達に、獣の様な咆哮を上げるゼイビーズ達が次々と襲い掛かっては、生きたまま食い散らかす狂気の沙汰。一夜にして福岡の中心部は、さながら悪鬼で満ち溢れた阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 この惨状に対して国境防疫隊と陸上自衛隊は国道と河川を封鎖し、感染区域をぐるりと一週囲むようにバリケードを設置する事で、感染者の流出を制御。更にそこから市街中心部に向けて行なわれた散発的な包囲攻撃によって、半年がかりで感染者の殲滅に成功した。

 これが日本国内で初めて発令された、ゼイビーズウイルスによるアウトブレイクの実例。そしてこの感染拡大の発生から半年間に渡って行われた掃討・浄化作戦こそが、国境防疫隊の内部では伝説の如く語られ、同時に甚大な被害をもたらした事により忌み嫌われた過去でもある『福岡奪還作戦』に他ならない。

 結果としては包囲攻撃の成功によって、この事件は一応の幕を下ろしはしたものの、政令指定都市でもある福岡の中心部が曝露したためにその被害は凄まじく、死者・行方不明者は確認出来ただけでも軽く二十万人を突破した。当然だが現地の経済・産業も完全に破壊し尽くされ、特に感染が酷かった地域は発生から三年経った今も尚、広範囲に渡って封鎖されたまま復興の目処は立っていない。

 当時福岡の市街地で繰り広げられた、群れを成して襲い来るゼイビーズどもを女子供の区別無く機関銃の掃射によって殲滅する、血みどろ肉みどろの戦闘。自衛隊の戦闘ヘリや戦車も投入され、大火力の火砲によって生身の人間を蹂躙する、一方的な殺戮劇。いつ終わるともなく連日繰り広げられたそれは、さながら地獄の様相を呈していたと、俺達国境防疫隊の新米隊員達は伝え聞いている。そしてその現場の最前線で、我らが第五小隊の副小隊長である葉山晴臣が、臨時の前線指揮官として激闘を繰り広げていたとも。

 とにかく佐川中隊長の口から長沖の名が福岡と並んで語られたと言う事は、今現在この漁港で発生している事態が、一歩間違えればあの国家的大惨事の再現となってもおかしくは無いと言う事だ。たとえこの身を盾にしてでも、一体たりとてゼイビーズを長沖の市街地に出す訳には行かない。与えられた任務の重責を再確認しながら、俺は手にしたミニミのコッキングレバーを引いて、初弾を薬室に送り込んだ。つい先程までは忌避していたズシリとした重さが、今はむしろ頼もしくすら感じる。

 間を置かず、耳の無線インカムからは佐川中隊長に代わって、鈴原小隊長の声が聞こえて来る。

「鈴原だ。第五小隊各員、佐川中隊長の作戦指示は理解したな? それではこれより我々は、前方の水産加工品工場に進攻し、ここに潜伏するゼイビーズの探索と掃討を開始する。主班・副班共に、防護スーツを着用した隊員はバンから離れ過ぎず、単独行動は避けてチームで行動するように。射撃は任意。各自現場の判断に任せる。以上、無理はするな」

 そう言うと小隊長は、主班の武装バンをゆっくりと徐行で、工場内へと侵入させる。その左右に、防護スーツを着て散弾銃と軽機関銃を構えた俺とクリスが随伴。後ろからは、少し遅れて漁港の正面ゲートをくぐって来た副班のバンと、その左右を歩く榊と福田さんが続いた。当然副班の二人も、防護スーツにその身を包んでいる。

 指揮官を乗せたバン二台と、武装した四人の隊員が無事、工場内に侵入を果たす。シャッターの上げられた水産加工品工場の入り口は、軽トラックの二・三台くらいなら充分な余裕を持って入れるだけの間口があった。

「二階建てか……面倒やんな」

 背後で榊が呟いた。

 背後でとは言っても、声自体は耳元の無線インカムから聞こえて来るので互いの位置関係が把握し辛く、軽く混乱してしまう。かと言って、いつどこからゼイビーズが襲って来るとも知れないこの状況下でヘルメットを脱ぐ馬鹿は居ないので、如何ともし難い。

 とにかく、前方に鎮座する上階へと続く階段が示すように、この工場は少なくとも二階建て以上らしい。そして一階分の天井がやけに高く、ところどころは構造体である鉄骨が剥き出しになっている。

 入り口から進入したばかりの俺達が今居る場所は、建物のエントランス兼作業場にあたる、三十メートル四方ほどの広く四角い部屋。部屋の東の壁沿いには、上階へと続く金属製の階段。奥の壁際には細長いステンレス製の作業台が並べられ、どうやらここで荷下ろしされた魚をすり身にするために、一旦捌いて皮や内臓を取り除いているようだ。その証拠に、作業台の上や周囲の床には、捌いている途中の魚や出刃包丁などが散乱している。

 そんな魚の切り身や内臓に混ざって床に転がっている、ゴム長靴姿の人間の死体が一つ。それは誰がどう見ても、間違い無く死んでいた。何せ、腹部が真っ二つに千切れて上半身と下半身が分離してしまい、一見すると三m近い身長を有する異様に胴長な人種の様になってしまっているのだから。それが床に広がる真っ赤な血だまりの中央に、ゴロンと転がっている。

「酷いな」

 俺がボソリと呟いた。対して鈴原小隊長が、バンの運転席から命令する。

「田崎、それはもう死んでいるのか? 死んでいるのなら、車輌の侵入の邪魔になる。脇にどけろ」

「了解。完全に死んでいます」

 俺はそう返答すると死体に近付き、一応ミニミの銃身で二・三度その死体を突いて、改めて死んでいるのを確認してみた。それから死体の着ている作業着の襟首を掴み上げると、まずは上半身を、横手の壁際まで引き摺って移動させる。エントランスの床に死体を引き摺った一本線の痕が、真っ赤な鮮血で描かれた。

「あ、田崎先輩、手伝います」

 珍しく気を利かせたクリスが、残された下半身の履いているゴム長を掴んで移動させると、俺が壁際に寄せた上半身の上に重ねた。こうして上半身と下半身があり得ない角度で重なった、奇妙な人間の死体が出来上がる。

 普段は人体を粉々に弾き飛ばす散弾銃で駆除業務をこなしている俺が言うのもなんだが、それにしても酷い死体だ。上半身と下半身が分断されているだけではなく、全身の生皮が剥がされて骨と筋繊維が剥き出しになり、内臓も筋肉も、その半分以上が失われている。眼球が抉り取られた頭部は特に激しく皮膚と肉が剥ぎ取られ、殆ど白骨化したその顔からは、果たしてこの死体が男なのか女なのかの判別も付かない。

「これはまた激しく食われてるな……。食った奴は、相当腹が減ってたんだろう」

 そしておそらく、俺がそう評したゼイビーズはすぐ目の前にいる。

 エントランスの奥。俺達の前方、北側の壁際。加工の準備を終えた魚が詰め込まれたステンレス製の業務用大型トレイの前に、十体前後の作業着姿の人間が寄り集まっていた。そしてそいつらが一心不乱にトレイの中の魚を貪り食っているのがさっきからずっと視界に入っているのだが、向こうは魚を食うのに夢中で、進入して来た俺達には何の興味も無いらしい。分厚い素材のヘルメット越しにも奴らが魚を食い散らかすクチャクチャと言った咀嚼音が耳に届いて、俺は少し気分が悪くなる。

 しかし何と言うか、それは実に異様な光景だった。ゴム長靴を履き、白い作業着の上からゴムの前掛けを着た中年女性の集団が、口元から真っ赤な鮮血と内臓を滴らせながら気が狂ったように生魚を丸かじりしているのだ。こんなもの、ホラーでなかったら出来の悪いギャグにしか見えない。

「俺がやる。構いませんね、小隊長?」

「ああ、構わん」

 無線インカムから副班のバンに乗る葉山副小隊長の問いかけと、それに応える鈴原小隊長の声が聞こえた。その直後に今度は車載のスピーカーから、副小隊長の声が大音量で聞こえて来る。

「これより我々は、ゼイビーズウイルス感染者の掃討作戦を行う。ゼイビーズと判断された者は、理由の如何を問わず、即時駆除する。まだ人間としての理性が残っている者は両手を頭の後ろに組み、床に伏せるように」

 工場中に響き渡ったであろうその声を聞いて、前方の熟女ゼイビーズどもの半分ばかりがこちらに顔を向けた。生気が無く虚ろで、それでいて真っ赤に血走った眼が俺達をじっと見つめる。だが警告に従って床に伏せる者は、当然ながら誰一人として居ない。そんな事よりも彼女達は今、生魚を貪り食うのに忙しいようだった。

「そりゃそうか」

 そう呟く葉山副小隊長の声が無線インカム越しに小さく聞こえた、その直後。地を震わせるような激しい銃声が連続して轟くと同時に、生魚を咥えていたオバちゃん達は豪雨の様に降り注ぐ銃弾を全身に浴びてバラバラに弾け飛び、無言のまま次々と床に崩れ落ちた。ビチャビチャと水音を立ててコンクリート製の床に散乱する、真っ赤な血と骨と肉片の雨あられ。室内を断続的に明るく照らし出す、銃口から発される鮮やかなマズルフラッシュ。人体を貫通した銃弾によって建物の壁には小さな丸い穴が幾つも穿たれ、そこから屋外の光が漏れ差込み、幾本もの光の筋を作る。

 不謹慎だが俺は、その光と真っ赤な血飛沫が作り出す光景を、少し神々しくて綺麗だなと思ってしまった。

 やがて一通りの機銃掃射が終わると、銃声は止んだ。訪れた静寂の中で、最後に全身を蜂の巣にされた熟女ゼイビーズの、上半身が殆ど砕け散った死体が床に崩れ落ちてベチャリと不快な水音を発する。

「終了っと」

 無線インカムからは嘆息交じりに吐き出された、副小隊長の声。

 背後を振り返った俺の視界には、武装バンのトップルーフから上半身を覗かせ、軽機関銃の銃口から漂う紫煙に霞む葉山副小隊長の姿があった。防護スーツは各班に二着までしか配備されていないので、それを榊と福田さんに譲った副小隊長は、無防備な制服姿のままである。

 副小隊長がバンの銃座から掃射したのは、佐川中隊長が漁港のゲート前で使ったM2ブローニング重機関銃よりも口径の小さい、六二式軽機関銃。だがこちらの方が狭く暗い室内で使った分だけ音が反響して銃声は大きく聞こえ、マズルフラッシュも眩しく見えた。それにかなりの乱射だったので、一体何発撃ったのかも分からない。

 ふと見ると、虹色に焼けて紫煙漂う真鍮製の空薬莢が一つ、コロコロと俺の足元まで転がって来た。踏んで転ぶと危険なので、俺はそれを壁際に向けて蹴り捨てる。

 とにかく、この建物に潜んだゼイビーズどもへの手荒い挨拶第一弾は、つつがなく終了したようだ。

「よし榊、駆除漏れが無いか死体を確認して来い。残りの三人は手分けして、このフロアをくまなく調べろ」

 鈴原小隊長の指示に従って、散弾銃を携えた榊が荒いミンチ肉と化した死体の山に歩み寄り、それ以外の隊員三人――俺とクリスと福田さん――は、部屋の隅々まで撃ち漏らしが居ないか索敵する。作業台の陰、台車の下、業務用大型冷蔵庫の中までくまなく調べたが、人影は見当たらなかった。

 このエントランスを見渡してみた限り、東側の壁沿いの階段を除けば、北西の壁に隣のフロアへと続く大きな観音開きの扉が一つ在る以外には、これと言って目ぼしい物は見当たらない。

「田崎、その扉はこのバンでも通過出来そうか?」

「ギリギリ……行けそうです」

 鈴原小隊長の問いを受けて、俺は隣のフロアへと続く扉の幅を、目測でバンの車体幅と比較した。

 この観音開きの扉は、こちら側とあちら側のどちらからでも軽く押しただけで開く扉の、車輌でも通れるサイズの奴だ。おそらく普段から、このフロアで捌かれた魚の切身を乗せた大型の台車を、そのままぶつけて押し開けているのだろう。その証拠に、フロアの隅に置かれているモーター駆動の台車のバンパーがちょうどぶつかるくらいの高さが、傷だらけになって少し凹んでいる。

「よし、全員このフロアの探索は終了。これより私と田崎、それとクリスの主班はこのバンごと西の工場奥へと進む。葉山のバンはここに残り、周囲への警戒を続行。福田と榊の二人は、階段を上って二階を探索せよ。何かあった場合は、無理せず無線で仲間を呼べ。以上」

「了解」

 鈴原小隊長の指示に、全員で応える。

「田崎、クリス、扉の向こうを確認して来い」

 東の階段を二階へと上る榊と福田さんを視界の隅に捕らえながら、無線インカムから聞こえて来た小隊長の指示に従って、銃を構えた俺とクリスは素早く北西の扉を挟んだ左右の壁に張り付いた。そして観音開きの扉をゆっくり押し開けると、その隙間から中の様子をうかがう。

 扉の先に広がるのは、今俺達が居るフロアよりも、ずっと広い空間。奥行きは推定で七十mか、それ以上。フロア内には捌いた生魚をすり身に加工する機械が所狭しと立ち並び、視界が悪く、奥の方まではっきりとは見通せない。銀色に輝くステンレスの壁面には、何を流しているのかまでは分からないが、何本ものパイプが血管の様に張り巡らされている。特筆すべきは駆動したままになっているベルトコンベアと業務用の大型ミキサーで、これらが発する音と震動がやかましく、集中力を阻害する。

「クリス、まずは俺が行く。お前はすぐ後に続け」

「了解です」

 通信を終えた俺は素早く扉をくぐると、左手に回り込んで壁を背にし、警戒態勢を取った。

 その瞬間、息を呑む。

 俺の眼前には、焦点の合わない虚ろな眼をこちらに向け、木の洞の様にぽっかりと開いた口の端から白い泡交じりの涎を垂らす中年男性の顔面が迫っていた。

 扉のすぐ脇で、何故か棒立ちしていたゼイビーズが一体。それが今、誰も居ないものとばかり考えて突入した俺の至近距離に、じっと立ち尽くしている。虚を突かれた俺も、俺と鉢合わせした白い帽子と作業着を着用した中年男性も、互いに一歩も動けない。

 いや、動けなかったのは俺だけだった。

 中年男性のゼイビーズは、千鳥足の酔っ払いの様にふらりと一歩前進すると、その汚染された体液まみれの顔面を、俺の被った防護ヘルメットの表面にベチャリと言う不快な音と共に押し付けて来た。厚さ五㎜の強化ポリカーボネイト越しに、気色の悪い涎まみれの男の顔面が、視界一杯に広がる。

 一体何を考えていやがるんだ、こいつは。

 襲って来る訳でも、助けを求めて来る訳でもない。まるでヘルメットの中に納まった俺の顔を覗き込むように、もしくは押し付ければ自分もヘルメットの中に入れるとでも思っているかのように、頭を左右に揺らして涎を塗りたくりながら、グイグイと男の顔面が押し迫って来る。あまりにも顔が近過ぎて、男が呼吸する度にヘルメットの表面が白く曇り、吐く息の生暖かさすらも伝わってくるかのようだ。

 予期せぬ急接近と吐き気をもよおす光景に俺は混乱し、頭の中では様々な考えが駆け巡っているのに、身体は痺れたように硬直して動いてくれない。

「田崎先輩! 危ない!」

 突如無線インカムから届いた、俺に続いて扉をくぐって来たクリスの緊迫した声に、ようやく我に返る。俺は素早く手にしたミニミの銃口を中年男性の腹に押し当てると、引き金を引き絞り、飛び散る血飛沫と共にその身体を後方に吹き飛ばす。そのつもりだった。

 だが現実には、引き金にかけた指が動かない。動いてくれない。石の様に固まったまま、ピクリとも。

 俺は思い出した。今日は召集されてから今に至るまで、真っ赤な血と臓物がぶちまけられて人間が生きたまま肉片と化すのを散々目撃して来たが、この俺自身はまだ一度も引き金を引いていない事を。いや、厳密に言えば今日一日に限らず、一ヶ月も前にクリスの父親を射殺して以来、俺は誰一人として殺していない事を。

 やはり俺の危惧していた事は、現実となった。今の俺には人が殺せない。銃の引き金を引いて、人の命を奪う事が出来ない。

 今まさに俺の眼前に立っている、この中年男性。こいつもウイルスに感染してゼイビーズに成り果てたとは言え、元はこの漁港で働いていた地元民に過ぎない。もしかしたら過去にもどこか街中で俺とすれ違い、その声を聞き、同じ空気を吸ったかもしれない一般市民ではないか。これまでの駆除業務で相手にして来たような、身元不明の漂着者とは訳が違う。

 もし俺がここで、この中年男性を殺した場合。その時はこの事件が一段落してからその身元は照合され、しめやかに葬儀がとり行われた後に、残された遺族は悲しみに暮れる事だろう。勿論こうしてウイルスに脳を破壊されてしまった以上は助かる術は皆無であり、誰かが早急に駆除する以外に対処方法は無く、その駆除する役目を誰が果たすかはさして重要な点ではない。だがそれでも、俺が殺したと言う事実は残る。残り続ける。たとえ記録には残されなくても、俺の記憶には残り続ける。

 言うまでも無く、俺達防疫隊がゼイビーズウイルス感染者を駆除する事は、この国の法が認めている職務であり、また同時に義務でもある。そうである以上は、それを法で処罰される事も無いし、人道的に責められる筋合いも無い。そんな事は重々承知している筈なのに、引き金にかけられた俺の指は固く硬直してしまい、いくら力を入れようとしても一向に動いてくれない。

 そして俺はミニミを構えたまま、空しくその場に立ち尽くす。

 眼前のヘルメットには相変わらず、中年男性がベチャベチャと涎を塗りたくりながら顔面を押し付けて来て、視界を埋め尽くす。今すぐにでもこの男を排除してしまいたいのに、それが出来ない。今や引き金にかけた指だけでなく、銃を支える俺の腕全体が痺れてしまったかのように、その感覚を失っていた。

 怖い。とにかく、怖い。これまでに数十体のゼイビーズを駆除して来たこの俺が、今更こんな感情を抱く事自体が笑い話にもならないのだが、今は只、人を殺す事が怖くて怖くて仕方が無かった。

 額から、汗が一滴頬を伝い落ちるのを感じた。やがて一滴だけでなく、次々と汗が頬を伝い落ちる。いや、それは汗ではなかった。俺は自分でも気付かない内に、泣いていた。ただ静かに、過去の過ちを懺悔するかのように、涙をこぼし続けていた。

「田崎先輩! 動かないで!」

 涙を流す俺の耳に、鼓膜を突き破らんばかりの叫声が届くのとほぼ同時に、一発の銃声が轟いた。次の瞬間、俺の眼前に在った筈の人間の頭が、バシャッと言うバケツの水をぶちまけたような音と共に、高所から落下したスイカの如く砕け散る。そして一拍の間の後、首から上を失った中年男性の身体は、首が在った筈の場所から大量の鮮血を噴出しながら床にドサリと崩れ落ちた。

 工場内に轟いた銃声の出所は、クリスが構えた八七式散弾銃。観音開きの扉の脇の、俺とは反対側の壁に張り付いた彼女が俺を助けるために、至近距離から発砲したのだ。

 見ると、俺の防護ヘルメットの表面には飛び散った男の頭部の残骸がべったりとこびり付いているのと同時に、かすめた散弾によって付けられた線状の痕が二本ほど、引っ掻き傷の様に残されてしまっていた。

 助けられた身の上でこんな事を言うのも何だが、仮にクリスの狙いがもう数㎝左に逸れていたとしたら、潰れたザクロの様に砕け散っていたのは俺の頭の方だったのかもしれない。それにたとえ頭を直接吹き飛ばされないにしろ、散弾でヘルメットが割れでもしていたら、それだけで俺は駆除する側からされる側に回っていたのかと思うと、背筋にゾッと冷たいものが走る。

 そんな悪寒に襲われながら俺は、ふと足元を見遣る。するとそこには、ぶちまけた脳髄と共に身体のコントロールを失った中年男性の首から下が、僅かに残された頚動脈の断面から真っ赤な血を噴出しながらビクビクと痙攣していた。

 この中年男性は果たして、一体何がしたかったのだろうか。その答は、今となっては確かめようも無い。だが少なくとも、俺を攻撃するつもりは無かったように思う。

 ゼイビーズウイルス感染者の行動パターンは個体差が激しいため、時々こうした、不可解な挙動を取る個体が存在する。重度の脳炎によって理性的な思考も記憶も失った感染者は、野性的な本能と共に、その根底の部分にある人間性が如実に表面化するらしい。つまり粗暴だった人間はより一層粗暴になる一方で、逆に温和だった人間は、ウイルスに発症してもその性格が維持される可能性が高いと言う。

 もしかしたら首から上を失って俺の足元に転がるこの中年男性も、生前はそんな、虫も殺せないような性格だったのかもしれない。

「田崎先輩! 無事ですか? 怪我は!」

「なんだ今の銃声は! 何があった! 田崎! クリス! 報告しろ!」

 無線インカムから届いたクリスと鈴原小隊長の声に、俺はにわかに現実に引き戻される。

「あ、ああ、俺なら大丈夫だクリス、怪我は無い。……小隊長、報告します。扉をくぐったすぐの所に、ゼイビーズが一体待ち構えていました。今の銃声は、それをクリスが駆除した音です」

 俺は平静を装いながら、二人に応えた。至近距離から浴びた銃声のショックによるものなのか、頬を伝い落ちていた涙は、いつの間にか止まっていた。

「そうか、田崎。お前もクリスも無事なんだな? ……よし、他に障害物が無ければ、このままバンをそちらのフロアに進入させるぞ。問題は無いな?」

「はい、小隊長。他に障害となりそうな物は確認出来ません」

 通信の終了と共に、観音開きの扉をバンパーで押し開けながらこちらのフロアに進入して来る武装バンと、それを運転する鈴原小隊長の姿が見えた。普段は部下に任せてばかりで運転は不慣れなのか、彼女は妙にキョロキョロと周囲をうかがって、動きがぎこちない。

「おいどうした田崎。すごい血だが、大丈夫か」

「え? あ、ええ、大丈夫です。全部返り血ですから」

 クリスが駆除した中年男性の返り血を浴びて真っ赤に染まる俺の姿を見た小隊長が、武装バンの運転席から珍しく心配してくれている。

「田崎先輩、一体どうしたんですか? あたしが助けたからいいものの、あんな状態でボーっとしてたら危ないじゃないですか」

 心配そうにそう言いながらこちらに駆け寄って来たクリスは、その左手で、中年男性の血と脳漿まみれになった俺のヘルメットを拭う。強化ポリカーボネイトの表面にべったりと付着した体液と肉片で真っ赤だった視界が、少しだけクリアになった。

「ああ、スマンスマン。いきなり鉢合わせしたもんだから、ちょっと面食らってたんだ。……大丈夫、問題無い」

 既に涙は止まっていたが、未だ赤く充血しているであろう瞳と涙の痕跡を悟られないように、故意に顔を逸らしながら俺はクリスに応えた。まさか今更怖気付いて引き金が引けなかったなんて、後輩であるクリスの手前、口が裂けても言えない。そんな真正面から眼を合わせようとしない俺を、彼女が少し訝しむ。

「それにしてもクリス、お前今のはちょっと危なかったぞ? ほら見ろ、ヘルメットに弾がかすって、傷が付いてるじゃないか。たとえ俺の頭をふっ飛ばさなかったとしても、少しでもヘルメットに穴が開いたら、体液からウイルスに感染していたかもしれないんだからな?」

「大丈夫です。ちゃんと狙いましたから」

 彼女の注意を逸らすために、あえて大仰に文句を言ってみせる俺。それに対して当のクリスは、床に転がる死体のポケットから引き抜いた布巾だかハンカチだかで俺のヘルメットの返り血を拭き取ってくれながら、何の根拠があるのか随分と自信有りげに応えた。呆れた俺は、軽く引き攣った笑いを返す。

「……田崎先輩、今のがあたしの初仕事なんですよ」

 唐突にクリスが、感慨深げに呟いた。

 言われてみれば、確かにそうだ。一ヶ月前の初出動は不本意な結果に終わっているので、クリスが防疫隊の駆除業務を達成したのは、今のが初めてと言う事になる。

「前回は、あたしが田崎先輩と葉山先輩に助けてもらいました。けど今回は、あたしが先輩を助けてあげましたからね。これで、貸し借り無しですよ」

 そう言うと、褒めてくれと言わんばかりに、防護ヘルメット越しに歯抜けの笑顔を向けて来るクリス。だがその手は微かに震えており、そのせいで俺のヘルメットに残る彼女が拭き取った血の痕が、綺麗な直線にならない。クリスもまたクリスなりに、恐怖や緊張と戦っている事に気付かされる。

「ああ、よくやったな」

 色々と指摘したい不備はあるものの、今はとりあえず後輩を褒めてやる事にした俺は、クリスのヘルメットをポンポンと叩いて激励してやった。すると改めてその可愛らしい顔に、満面の笑みを浮かべるクリス。釣られて微笑み返す俺。俺達二人の間に、同じ苦境を共に乗り越えた仲間としての信頼関係が生まれかけた、次の瞬間。耳をつんざくような大絶叫が突如として俺とクリスを襲い、全身がビリビリと震えて、一瞬にして鳥肌が皮膚を泡立てる。

「ひっ!」

 クリスがビクリと身体を震わせて、驚きの声を上げた。

 絶叫の正体。それは、このすり身加工工場の通路の奥からこちらに向かって迫り来る、若い男の喉から発される咆哮だった。

 俺の足元に転がる中年男性と同じ服装をした、二十歳そこそこの、体格のいい若い男。限界までカッと見開いた両目を真っ赤に充血させ、皮膚には血管がびっしりと浮かび上がり、大きく開いた口の端からは大量の泡交じりの涎を垂れ流すその姿は、見間違えようも無くゼイビーズウイルス感染者。それがおよそ五十mの距離を、鼓膜が破れんばかりの壮絶な咆哮を上げながら、全力疾走で駆け寄って来る。

「危ない!」

 俺は男に背中を向けているクリスを、反射的に脇へと突き飛ばした。バランスを崩して、床に倒れるクリス。男と正面から対峙した俺は、片膝立ちになって素早くミニミを構えると、アイアンサイトで男の顔面の中央に照準を合わせる。そして引き金を……引けなかった。

 やはりどう足掻いても、最後の最後で指が動いてくれない。それどころか、人を殺す恐怖に怯える俺は歯の根が合わず、ガチガチと下顎を震わせる。

 そんな俺めがけて、脇目もふらず一直線に駆け寄って来る男。鈴原小隊長の乗ったバンにも、無防備に床に転がったクリスにも、まるで目もくれない。俺の全身に塗布された中年男性の血の匂いに興奮し、砂糖水に群がる蟻の如く、本能的に吸い寄せられてでもいるのだろうか。引き金が引けず狼狽する俺を尻目に、男は見る間に接近して来る。

 突然ドンと、銃声。それと同時に、走る男の左足首が文字通り弾け飛んだ。次いでシャコンと散弾銃のフォアエンドを引き戻す音の後に、再びの銃声。今度は男の右膝が、赤く爆ぜる。更にフォアエンドを引き戻す音、そして銃声と続く。

 最終的に発された散弾銃の銃声は、計五発。撃ったのは言うまでもなく、クリス。俺に突き飛ばされて床に倒れた彼女が、なかなか男を撃たない俺に痺れを切らして、自らが直接駆除を試みたのだ。だが重くかさばる防護スーツは、一度倒れてしまうと体勢を立て直すのに時間を要する。起き上がり切れていない無理な体勢から放たれた散弾は、男の下半身に集中して着弾しており、急所である脳神経系を破壊出来ずにいた。

 そして腰から下の大半が砕け散り、ボロ雑巾の様に引き裂かれた腹から血と臓物をまろび出させながらも、男は止む事無き獣の咆哮を上げて腕の力だけで俺の元まで這い寄って来るのを諦めない。信じられない速度で、痛みを感じさせる素振りを微塵も見せる事無く。

「田崎先輩! 早く撃って!」

 クリスが俺に向かって叫んだ。八七式散弾銃に装填されていた六発の散弾を撃ち尽くした彼女は、体勢を立て直して再装填するまで発砲出来ない。

「どうした田崎! 早く撃て!」

 クリスに次いで、武装バンの中から鈴原小隊長も叫ぶ。

 だがミニミの引き金にかけられた俺の指は、それでもやはり動かない。いくら力を込めようとしても、まるで言う事を聞いてくれない。やがて指だけではなく、腕全体から痺れたように力が抜け、そして遂に、俺の手から工場の床へとミニミが取り落とされた。重量七㎏の鋼鉄の塊がコンクリートの上を転がり、ガランガランと空しい金属音を響かせる。

「……畜生……」

 俺は、再び泣いていた。下唇を噛み締め、喉の奥から小さな嗚咽が漏れる。鼻頭を伝い落ちた涙が、防護ヘルメットの内側にポタポタとこぼれ落ちる。そして膝を落としてがっくりと項垂れた俺に、今や上半身だけとなったゼイビーズの男が、腕の力だけとは到底思えない勢いで激突した。その強烈なタックルにより、俺はもんどり打って床に押し倒される。そんな俺に覆い被さった男は、防護スーツを引き裂かんとその歯で噛み付き、爪を立て、力任せに殴打し始めた。

 俺は必死に抵抗するが、向こうはこちら以上に必死であろうし、理性のタガが外れている分だけその腕力は常軌を逸して強い。情け容赦無く振り下ろされる男の拳が、俺の胸を、腹を、そしてヘルメットをガンガンと殴り付ける。本来ならば駆除業務のマニュアルに反する、防護スーツの弱点である手先による防御を試みながら、俺は尚も泣いていた。人を殺すだけの覚悟も無いくせに、殺されるだけの覚悟も無く、この期に及んで助かろうと足掻き続けている。そんな中途半端な自分が情け無くて、両の瞳から溢れ出る涙を止める事が出来ない。

「先輩! 耐えてください、今すぐ助けに行きますから!」

「逃げろ田崎! 早く立て! 死ぬぞ!」

「どうした! 田崎に何があったんだ! 応答しろ田崎!」

「田崎くんがどうしたんだ! 援護に向かうか?」

「たっつぁんどないしてん!」

 無線インカムから聞こえて来る、クリスと鈴原小隊長、それに葉山副小隊長と福田さんと榊の声が、どこか遠い場所からの幻聴の様に思える。果たしてそんな仲間達なんて最初から存在していたのか、それすらも確信が持てなくなって来た。たとえ仮に仲間達が実在していたとしても、人を殺す覚悟を失った今の自分には、彼らに合わせる顔が無い。

 自分が情け無くて、不甲斐無くて、どうすれば良いか分からなくなった俺は、不意に抵抗するのをやめた。

 仰向けに倒された俺の胸の上には、血と涎にまみれながら鬼の形相を浮かべ、その歯でもって防護スーツを食い破らんと奮闘しているゼイビーズが一体。こいつを殺す事が出来ないのであれば、俺の防疫隊での存在意義は無いに等しい。自分のなすべき事を見失った今の俺は、只呆然と、男に蹂躙されるがままだった。そしてぼんやりと、死を覚悟した。

 だが次の瞬間。分厚い皮手袋に包まれた小さな手が男の頭髪を鷲掴みにすると、俺の胸の上から力任せに引き剥がした。

 鷲掴みにした手の主は、またしてもクリス。咆哮を上げながら抵抗するゼイビーズの頭を左手で掴み上げ、近接戦闘用のタクティカルナイフを右手に握った彼女は、躊躇う事無くそのナイフの切っ先を男の首後ろに突き刺す。次の瞬間には脊髄を断裂したナイフの先端が、首をブツリと貫通して、男の喉元から顔を覗かせた。その穴の空いた喉からは、コポッと言う奇妙な音と共に大量の唾液が漏れてボトボトと零れ落ち、コンクリートの床に大きな染みが広がる。ナイフの刃がギリギリで頚動脈を傷付けていないのか、首を刺されているにもかかわらず、傷口からの出血量は意外なほど少ない。散弾銃に弾薬を再装填している暇は無いと判断したクリスによる、一瞬の刺殺劇だった。

 間を置かず、男の頚椎から冷静にナイフを引き抜くクリス。彼女はぐったりと力の抜けた男の上半身を無造作に放り捨てると、その場に屈み込んで、仰向けに倒れたままの俺の顔を心配そうに覗き込みながら口を開く。

「田崎先輩、一体どうしたんですか? さっきからおかしいですよ? こんな至近距離で二度もゼイビーズに接近を許して、しかも銃まで落として。一体何があったんですか? 体調でも悪いんですか?」

 違う、そうじゃないんだクリス。そうじゃないんだ

「ほら先輩、早く立って」

 俺の背後に回り込んで腋の下に手を入れ、抱え起こそうとするクリス。だが今の俺にはもはや、立ち上がる気力さえも残されていなかった。それでも何とか彼女に上体だけは起こしてもらったものの、俺はそのまま、膝を抱え込むようにして座り込む。後輩であるクリスが見ている事も厭わず、がっくりと項垂れて、無気力に身を任せるかのように。

「本当に、一体どうしちゃったんですか先輩……」

 心配げに気遣うクリスに対して、俺が出来る事は只一つ。

「クリス……許してくれ……」

「は?」

 突然の俺の懺悔に、クリスは頓狂な声を上げた。だがそんな彼女に構わず、俺の懺悔は続く。

「クリス……俺はお前の大事な父親を、この手で殺してしまったんだ……。しかもお前の父親を殺しておきながら、俺はその事を知らされるまで少しも後悔せず、罪の意識も抱かなかった。いや、お前の父親だけじゃない。俺はこれまでに何十人もの人間を殺して来た、人殺しなんだ……。それは決して、許されるような事じゃない筈だ……許されちゃいけない事なんだ……」

 今の俺に出来る、唯一の事。それは只ひたすらに、贖罪の言葉を並べる事だけだった。勿論そんな事をしても、俺の罪が許される筈も無い。だがそれでも、俺に出来る事はそれしか無かった。そして贖罪の言葉に続いて、最後にボソリと本音が漏れる。

「もう俺は、人を殺すのが怖くて怖くて仕方が無いんだ……どうしても、どうしても引き金にかけた指が動いてくれないんだ……」

 項垂れた俺は後頭部に、クリスの視線を感じる。果たして彼女は今何を思い、俺にどんな視線を投げかけているのだろうか。無能で役立たずな先輩だと、さぞや軽蔑している事だろう。

 思えば小一時間ほども前に、定食屋の店内で、クリスは自分が父親を殺すべきだったと訴えて俺を責める事は無かった。だがあの場で語られたのは、彼女自身が如何に在るべきか、その決意と覚悟だけに過ぎない。俺自身が、俺自身の決意や覚悟を持って如何に在るべきかは、まだ決着が付いていない問題なのだ。そして情け無い事にその決意と覚悟は、人を殺す事に対する恐怖の前には完全に無力だった。

 だから無力な俺は、懺悔する事によって少しでも心の負担を軽くしようと足掻いている。それがみっともない行為である事は重々承知しているが、それ以外に出来る事が無いのだから仕方が無い。恥を忍んで、クリスに許しを請うしか方法が無いのだ。

 だがそんな俺の懺悔に対する彼女の反応は、あまりにもあっけないものだった。

「……何を言ってるんですか、田崎先輩」

 クリスが呆れたような声で呟いた。俺は項垂れていた顔をゆっくりと上げると、恐る恐る彼女を見遣る。そこにはちょっと困ったような、それでいて愛しむような、泣いて謝る我が子を優しく見守る母親にも似た微笑を浮かべたクリスの顔が、俺を見つめていた。

「許すも何も、あたしは先輩の事を、これっぽっちも恨んでなんかいませんよ。今も、今までも、ただの一度だって。恨むどころかむしろ感謝してるんだって、ついさっき言ったばかりじゃないですか。もう忘れたんですか?」

 そう言ってクリスは、歯を見せて微笑む。右上の犬歯が一本抜けた、いつもの間抜けな笑顔。

「田崎先輩は確かに、あたしの父さんを殺しました。あたしの、大事な大事な、大好きな父さんを。ううん、あたしの父さんだけじゃなくて、沢山の人間をこれまでに殺して来ました。それは、紛れも無い事実です。でも先輩は決して、殺すためだけに殺したんじゃない筈です。殺すために殺したんじゃなくて、生かすために殺した筈です。えーと……あれ? ちょっと待ってください。うーん……ちょっと今、自分で自分が何を言おうとしているのか、こんがらがって来た……。伝えようとしている事があるのははっきりしてるんですが、どう言ったらいいのかが良く分からない……ニホンゴムズカシイネ……」

 自分の言わんとする事を上手く纏めて言語化出来なくなったらしいクリスが、防護ヘルメットの中で眉間に皺を寄せて、小首をかしげる。俺に伝えたい事はまだまだあるようだったが、既に彼女の脳の言語野は、その能力の限界に達しているようだった。

 しかし少なくとも彼女の言を信じれば、クリスは父親を殺した俺の事を、少しも恨んではいないらしい。少なくともそれは理解出来た。だがその後に続く、彼女の言う「殺すために殺したんじゃなくて、生かすために殺した筈」との言葉の真意を、俺はまだ得心し切れてはいなかった。

「おい、バカップル」

 唐突に耳の無線インカムから、隣のフロアに停まる武装バンで警戒待機中の葉山副小隊長の声が届いた。その口ぶりからすると、「バカップル」と言うのは、どうやら俺とクリスの事を指しているらしい。

「随分と仲良くお喋りしちまってるけど、言っとくが、全部ローカル無線で小隊内には丸聞こえだからな? それにやっぱりお前ら、デキてんじゃねえか。もう単なる先輩後輩の仲じゃ誤魔化せない親密さだぞ、お前ら」

「いやいやいや、葉山先輩。だからあたしと田崎先輩は、そう言うんじゃないんですったら」

「そうか? 俺にはそんな風には聞こえなかったがな。……ま、どっちにしろその辺りに関しては、今はどっちでもいいか。今問題になっているのは、そこじゃねえからな」

 副小隊長とクリスが交信し合っているその間も、俺は「生かすために殺した」と言う言葉の意味するところを理解しようと努めた。そんな俺に、葉山副小隊長が語りかける。

「おい田崎。お前、顔に似合わず随分とデリケートな悩みを抱えているようだな。まあ確かに、こんな仕事をしていたら人を殺すのが怖くなる事も珍しくは無いだろうさ。だからちょっとだけタメになる昔話を聞かせてやるから、よく聞け。少しばかり長くなるが、お前の悩みを解決する手がかりにぐらいはなるかもしれないからな。我慢して、最後まで聞いとけよ」

 前置きを終えた副小隊長は、コホンと小さく咳払いしてから続ける。

「昔、とある男が、まだ出来たばかりの国境防疫隊に所属していたそうだ。その男は陸上自衛隊での経験を買われた結果、防疫隊の前線指揮官として福岡奪還作戦に初日から参加する事になった。そして福岡の街を包囲するバリケードに駐屯して、包囲網の外に出ようとするゼイビーズどもを殺しまくっていたそうだ。毎日毎日、来る日も来る日も、ずっとな」

 俺は静かに、副小隊長の言葉に耳を傾ける。

「そんなある日、男に直々に命令が下った。命令の内容は、救出作戦の現場指揮だった。アウトブレイクの中心地である福岡の繁華街まで装輪装甲車で威力偵察を強行した部隊の一つが、よりにもよって人口密集地帯で立ち往生しちまったから、それを助けに行けだとさ。聞けば、現場には少なく見積もっても数千体のゼイビーズどもが集まっていて、それが立ち往生した装輪装甲車を包囲しているって話だ。……で、その現場まで行って、装甲車の中でガタガタ震えている間抜けな隊員達を助けて来いってのが作戦の概要ときたもんだ。全くもって、狂気の沙汰だね。そんな無謀な命令を了承する馬鹿が、居る筈も無い」

 副小隊長は深く一回溜息を吐いてから、尚も続ける。

「だがな、その男は命令を了承し、現場指揮官の任を引き受けた。理由は単にそいつが無謀な馬鹿だったからかもしれないが、救出作戦と聞かされたら無視する訳にも行かなかったのもある。何せ、連日連夜人を殺すばかりの毎日だ。たまには人を助けてみたくもなるさ」

 人を、助ける。

「それでその男は、まだ碌に経験も積んでいない防疫隊の新人隊員達を装輪装甲車に乗せて、現場に向かったそうだ。その先は、まさに地獄だったってよ。……角砂糖に群がる蟻の如く、立ち往生した装輪装甲車に群がっていた数千体のゼイビーズの大群と、真っ向から殺り合う破目になってな。雪崩の様に襲い掛かって来る猛り狂った獣の群れに対して、装甲車に積み込んだありったけの銃火器で応戦するんだが、これが殺しても殺しても一向に減りやしない」

 再び溜息を吐く副小隊長。

「随伴していた陸自の戦車と戦闘ヘリの助けも借りて、やっとの思いでゼイビーズどもを壊滅させた時には、周辺一帯は文字通りの意味での死体の山が築かれていたそうだ。人間の血と肉と内臓で道が埋め尽くされていて、そこを歩くと膝の高さまで埋まるんだってよ。脚が、血の海に」

 そう語る葉山副小隊長の声は、ほんの少しだけ笑っていた。自虐的で自嘲的で、それでいて少し哀しげな、そんな笑いが。

「で、男はやっとの思いで、立ち往生していた隊員達を助け出す事に成功した。まあ無傷では済まずに身内からも多少の被害が出たし、途中色々あったが、それでも救出作戦は一応の成功でその幕を閉じた訳だ」

 三度みたび、今度は深く長い溜息を吐いた副小隊長は、暫しの間を置いた。

「なあ田崎。その男はその救出作戦で、何を得たと思う? そして作戦に参加させた新人隊員達に、何を与えられたと思う?」

「え? あ、えっと……それは……」

 葉山副小隊長から突然問いかけられた俺は、なんと答えたら良いのか分からずに口ごもった。だが最初から、明確な答が返って来るとは思っていなかったのだろう。その証拠に、俺の返答を待つ事無く副小隊長は語るのを再開する。

「俺達防疫隊の仕事は、一見するとただ人を殺しているだけだ。そして俺達は、ただの人殺しだ。だがな、実際にはその殺しのおかげで助かっている人命もまた、確実に存在するんだ。……さっき話した救出作戦の際には、立ち往生した隊員と言う、分かり易い助かった命があった。だが普段の駆除業務でも、防疫隊の仕事は確実に市民の安全と命を守り、助けている。その事実を、その男は救出作戦を通して再確認すると同時に、参加した全ての新人隊員達に身をもって伝える事が出来たと信じている……らしい」

「葉山先輩……」

 俺の眼から零れ落ちていた涙はいつの間にか止まり、その痕跡は既に乾き始めていた。

「とまあ、何だ。長ったらしい話になっちまったが、おそらくクリスが言いたかった事も、似たようなもんだろう。俺達は殺す事自体が目的で殺してるんじゃない。守り、助けるべき命のために、仕方無く殺しているんだ。ま、要するに今のお前は、手段の正当性に固執するあまりに目的を見失っているって事なのさ。全てが全てとは言わないが、正しい目的のためならば、ある程度は手段にも正当性が生まれる。例えば暴力を振るうのは悪い事だが、目の前でレイプされかけてる女がいたら、まずはレイプ犯をぶん殴ってでも女を守るのが先決だろ? 要はそれと同じ事だよ。他に有効な手段が無いのなら、尚更な。……詭弁かもしれないが、そう割り切って、今はただ自分の為すべき事を為せ。そう言う事だ、田崎。……それでいいんだよな? クリス?」

「ええそうです。あたしが言いたかった事を、見事に代弁してくれましたね。流石ですよ、葉山先輩。褒めてあげます」

「おいおいおい、何だかそこまであっさり全肯定されると、逆に信憑性が薄れて来るなあ。クリス、お前本当は、自分でも何が言いたかったのか分かってなかったんじゃねえのか?」

「いえ、そんな事は無いですよ? ちゃんと分かってましたってば」

 葉山副小隊長とクリスが、無線通信でやり取りしながら互いに軽く笑い合う。流石に釣られて笑う事は無かったが、二人が伝えたかった事を漠然とだが理解し始めた俺も、少しだけ気分が軽くなった。殺すために殺してるんじゃない、生かすために殺しているんだ。確かにそれは、詭弁に過ぎないのかもしれない。だがそれでも、今にも倒れてしまいそうな俺の背中を少しだけ支えてくれる、そんな魔法の言葉に思えた。

 涙も嗚咽も今は止んだ俺は、葉山副小隊長に改めて質問する。

「葉山先輩、一つだけ教えてください」

「ん? 何だ?」

「……その福岡で救出作戦の現場指揮を執った「とある男」は、今はどこで何をしているんですか?」

 暫しの間の後、副小隊長は少し照れたような、それでいて昔を懐かしむような口調で答える。

「その男は救出作戦の命令を下したヒゲオヤジと一緒に、今は地方の小さな中隊基地で、相も変わらず防疫隊の隊員をやってるって話だ。そこで半人前の後輩達の相手をしながら、そこそこ退屈で、そこそこ充実した毎日を満喫しているとさ」

 俺の口端にもようやく、小さな笑みが戻った。ついさっきまでは死を覚悟していたこの俺が、微かにとは言え笑っている。何とも言えない不思議な状況に立たされた俺は、どうしたらいいのか自分でもよく分からなかったが、少しだけ心が軽くなった気がした。

「おい、田崎」

 無線インカムから、今度はまた別の声が割り込む。若い女性にしては低く落ち着いたその冷徹な声の主は、言うまでもなく鈴原小隊長その人。俺とクリスの立っている位置からそれほど離れていない武装バンに乗る彼女が、俺の名を呼んで、語る。

「随分と悩んでいるようだが、職務放棄は認めんぞ。ここで任務を果たせないと言うのなら、その場合は懲戒処分が待っているものと思え」

 やはり、如何なる状況下であろうと、彼女の冷徹さは揺るがない。だがそんな小隊長であっても、決して人の心が無い訳ではなかった。

「田崎。お前は忘れているようだが、お前にとっての私の様な上官と言う立場の者は、何のために存在していると思う?」

「え? あ、それは……」

 突然の鈴原小隊長の問いかけに、俺は頭の中で正解を探した。だが俺が答える前に、小隊長は自らそれを語り始める。

「上官は、責任者は、部下の責任を取るために存在しているのだ。つまりお前が為すべき事の責任は、同時に全て、この私の責任でもある。お前がゼイビーズどもを殺す事に罪の意識を感じていると言うのなら、その罪も罰も、全てこの私が引き受けてやる。だからお前が思い悩む必要など、初めから一切存在していない。……まったく、そんな下らん事で悩んでいる暇があったら、少しは上官や同僚を信用しろ。私の立場と責務を否定するつもりなのか、お前は」

 その口調は相変わらず高圧的で、厳しい。いやむしろ、いつも以上に厳くすら感じられた。だが同時に、その言わんとする所は、今の俺にとっては救いでもあった。一人で悩み、苦しむ必要なんて初めから無かったのだ。俺の感じている罪の意識を、共に分かち合ってくれる人達の存在に気付かなかった俺自身が、どうしようもない馬鹿なだけだったのだ。

 そして小隊長は、少し声のトーンを下げて小声で俺に告げる。

「……田崎、すまなかったな、お前が悩んでいる事に気付いてやれなくて……。私は上官失格だ。部下には信頼されず、その心情を察してやる事も出来ない。お前が以前、私の部屋で言った通りだな。本当に、すまなかった。自分で自分に恥じ入るよ」

 あの冷徹な鈴原小隊長が、よりにもよってこの俺に謝罪するなど、考えられない事だった。俺は今自分が聞いた事は全て幻聴なのではないかと、我が耳を疑う。だがチラリと武装バンの方角に目をやれば、サイドガラス越しに、小隊長が俯いているのが見て取れた。深くこうべを垂れたその姿は、一見すると泣いているように見えなくもない。やはり、先刻の言葉は幻聴ではなかったようだ。

「さあ田崎先輩。覚悟が決まったのなら、先輩の為すべき事が待っていますよ」

 未だに膝を抱えて床に座り込んでいる俺の頭上から、クリスが声をかけて来た。見上げると、彼女は俺が取り落としたミニミ軽機関銃を拾い上げており、それを右手に持って俺に差し出しながら歯を見せて笑っている。そして、すり身加工工場の通路の少し先を、空いている左手で指差した。

 指し示されて気付いたが、通路に転がっている、クリスのタクティカルナイフによる一撃で止めを刺されたと思われた若いゼイビーズの男は、未だ死んではいなかった。死んではいないと言っても、頚椎を断裂されているので首から下の運動機能は完全に失われており、大きく開いた口からコヒューッコヒューッと微かな呼吸音が聞こえて来るだけの、物言わぬ死に損ないでしかなかったが。

「さあ、やっちゃってください」

 クリスの言葉の意味する所を理解した俺は、防護スーツの動き難さに手間取りながらも何とか立ち上がると、彼女から受け取ったミニミを構え直した。アイアンサイトで狙う標的は、ほんの五mばかり先に転がっている男の頭部。この距離での動かない標的など、普段の俺の腕前ならば外す道理も無い。

だがしかし、ミニミを支える俺の手は小刻みに震える。まだ僅かにではあったが、人を殺す事に対する恐怖は完全には拭い切れていなかった。怖い。とにかく怖い。震える箱型弾倉の中で薬莢とベルトリンクが触れ合って、カチカチと小さな金属音を立てる。

「駄目だ……」

 今ならもう引けるかと思った引き金は、想像以上に重かった。俺の右手の人差し指は、子供でも簡単に引き絞れる筈の引き金に乗せられたまま、どうしても動いてくれない。

「やっぱり……やっぱり俺は駄目です……人を殺せません……」

 喉の奥から搾り出すような悲痛な声でそう呟いた俺は、ミニミの銃口を男から逸らすと、再び項垂れる。自分の不甲斐無さと情け無さに、打ちひしがれながら。

 クリスの赦し、葉山副小隊の激励、そして鈴原小隊長の懺悔が俺の心を軽くし、自分の為すべき事を再認識させてくれた事は間違い無い事実だった。だがそれでも、最後の一歩がどうしても踏み出せない。俺に引き金を引けなくさせた心の枷が既に無くなっている事を、頭では理解出来ていても身体はそれを未だ完全には受け入れてくれていないらしく、喉の奥にはまたあの重くドロドロとした吐き気が蘇る。

 以前、葉山副小隊長は、俺には足りないものがあると言った。今ならそれが何なのか分かる。俺には圧倒的に、覚悟が足りない。人を生かすために、人を殺す覚悟が。

「駄目……ですか」

 俺の隣に立つクリスが呟いた。その声色が、決して俺を卑下するものではなく、むしろ無力な俺を優しく受け入れてくれるかのような温かさに満ちている事が、逆に辛い。

「そうか……駄目か。ま、こればかりは仕方が無いさ。言葉だけをいくら並べ立てられても、最終的には心を突き動かす何かが無けりゃあ、身体は動いてくれないもんだからな」

 小さく嘆息しながらそう言う葉山副小隊長もまた、俺を責める事は無い。

「ま、何かきっかけさえあれば、意外と簡単に悩みなんてのは解決するもんだ。焦らずに、今はそのきっかけが訪れる事を祈っておけ。なあ、田崎」

 副小隊長がぶっきらぼうだが、それでいて優しく俺を擁護してくれている事が嬉しくもあり、同時に自分の不甲斐無さを再び自覚させた。再び俺の目頭から、涙が静かに溢れて頬を伝い落ちる。

「大丈夫ですよ、田崎先輩。きっとすぐに、元の先輩に戻れますから。だから今は、あたし達に任せておいてください」

 優しく俺の背中を支えてくれるクリス。彼女は父の死を乗り越え、一人前の防疫隊員となるべく見事に蘇ったと言うのに、そんな彼女に先輩風を吹かせていた自分の方がこんな醜態を晒す結果になってしまうとは。俺は恥ずかしくて、クリスの顔をまともに見る事すら出来ない。

 突然パパンと、乾いた銃声。その音と共にクリスの自動拳銃から吐き出された二発の拳銃弾が、通路に転がっていた男の左側頭部から進入して、右側頭部から抜けた。床に飛び散る血と脳漿と、皮膚と髪の毛の張り付いた頭蓋骨の破片。脳幹部を完全に吹き飛ばされた男の呼吸音が止まり、静寂が訪れる。

「鈴原小隊長、指示をください。田崎先輩の分もあたしが働きますから、多少の無茶でも平気です」

 気丈な口調で、クリスが指示を仰いだ。その声からは、以前の彼女には無かった力強さすら感じられる。それに比べてこの俺は何も出来ず、何も語れず、ただ無言で項垂れているだけの役立たずそのものだった。一体どこで彼女と差がついてしまったのだろうかと、益々もって俺は、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。

 そんな俺を尻目に、指示を仰がれた鈴原小隊長は自分の職務を果たす。

「ではクリス、お前はこのフロアの探索を再開しろ。本来ならば単独行動はさせるべきではないのだが、状況が状況だ、今は仕方が無い。充分に周囲を警戒し、決して無理せず慎重に行え。……榊、福田、二階の様子はどうなっている?」

「こちら、福田です。二階は事務室だか何だかで……とにかく机とロッカーが、大量に並んでいるだけですね。部屋数が多いのと積まれたダンボールなどで視界が悪いので、細部まで見て回るとなると、かなり時間がかかりそうですが」

「了解した。焦る事は無い。安全第一で、注意して二階の探索を続けろ。以上」

 無線インカム越しに小隊長と福田さんのやり取りを聞いていた俺は、自分だけが忙しなく働く仲間達からポツンと取り残されたような気持ちで、酷い孤独感に襲われた。そんな俺の心情を察してか、鈴原小隊長は再び口を開き、補足する。

「……田崎、お前は私の警護をしろ。バンに随伴して、周囲を警戒していればいい。今は、お前が出来る事をやれ」

 警護。それが無能な俺に下された指示だった。一聴しただけでは聞こえは良いかもしれないが、要はバンの傍に突っ立っていろと言われたのに等しい。随分と楽な仕事を回されたもんだなと、俺は少し自嘲気味に笑う。

「田崎先輩、それじゃあ小隊長とバンの警護、よろしくお願いします! 頑張ってください!」

「おう田崎、まあ世の中、なかなかそう上手くは行かないさ。とりあえず今は自分の任務をしっかり果たして、来るべき時のために英気を養っておけ。それに小隊長の警護だって、立派な仕事だ。なあに、すぐに立ち直れるさ」

 クリスと葉山副小隊長の励ましが、優しさが、むしろ今は心に痛い。銃の引き金が引けない今の俺に、一体何を警護出来ると言うのだろうか。その明確な答が分かった上で、二人は俺を励ましてくれているのだ。その事実がむしろ俺を、より惨めな気持ちにさせる。

「たっつぁん……その……まあ……元気出しいや、な?」

「ああ……」

 口下手な榊の不器用な励ましにも、今の俺にはそう言って返すのがやっとだった。

 福田さんは、特に何も語らない。あの人は元々聞き手に回るタイプの人だし、他の仲間達には悪いが、かえって何の声も掛けられない方が今はむしろ気が楽ですらあった。

「じゃあ気を取り直して、探索を再開します」

 気合いを込めてそう言うとクリスは、弾丸を再装填し終えた散弾銃を構えて俺の前を歩き出した。彼女の少し後ろに付いて、鈴原小隊長が運転する武装バンと俺が、すり身加工工場の通路をゆっくりと前進する。俺は歩を進めながら、改めて周囲に視線を巡らせ、このフロアの構造を確認した。

 まず眼に止まるのは、おそらく隣のフロアで捌いた魚の切り身を運ぶためであろう、長く大きなベルトコンベア。そしてそのコンベアの続く先には、切り身をすり身に加工するための業務用ミキサーらしき大型機械が鎮座している。今現在はそのどちらももぬけの殻だが、電源を落としてくれる人間が居ないために、モーターの機械的な騒音と震動を鳴り響かせながら飽きる事無く駆動し続けていた。

「どうだクリス、何か見えるか?」

「いえ……ここからではあのミキサーが邪魔で、何も見えません」

 鈴原小隊長の問いに、クリスが応えた。

 フロアの中央に鎮座する大型ミキサーと、そこで生成されるすり身に調味料だか添加物だかを混合するための機械らしきパイプ類が視界を遮っていて、先行するクリスにも工場の奥までは見通せないらしい。俺も周囲に気を配りはするものの、工場の壁と言う壁に反響するミキサーの音がやかましくて、ゼイビーズどもの気配はまるで読めなかった。どうやら、危険を承知で奥まで分け入るしか方法は無いようだ。

 だがそれは、俺の役目ではない。

「では、行ってきます」

 一旦俺達の方に振り返ってからそう言ったクリスは、散弾銃を構えて、機械郡とパイプの海の中へと消える。ヘルメット越しに見えた彼女の表情は、使命感に満ち溢れていて頼もしく、妙に大人びていた。

 クリスの背中を見送りながら、輸送用の台車を通すために敷設されたと思われる、北側の壁面に沿って工場を横断する幅の広い通路に残された俺は、武装バンの傍らで酷い疎外感に襲われる。肩からスリングで吊り下ろしたミニミの重量が、実際以上に重く感じられた。引き金が引けない今の俺にとっては、こんな軽機関銃はただの糞重い鉄パイプに過ぎない。

「前方、ミキサーの陰!」

 無線インカム越しに、今はその姿を消したクリスが叫んだ。そして次の瞬間に、ドンドンと散弾銃の発砲音が連続で二度鳴り響く。

「何があったクリス! 車輌ではそこまで入って行けないんだ! 状況を逐次報告しろ!」

「ミキサーの陰にゼイビーズが六体か七体、トレイに盛られたすり身を手掴みで食べていました! 二体は駆除出来ましたが、残りはまた機械の陰に逃げて……これからミキサーを迂回して追います!」

「了解した! 深追いして接近し過ぎるなよ!」

 無言の俺を尻目に、鈴原小隊長とクリスが無線でやり取りを繰り返す。その内容から察するに、やはりこのフロア内にも未だ複数のゼイビーズが徘徊しているようだったが、本来であればそれらと対峙する筈だった俺は、通路でボーッと突っ立っている事しか出来ない。己の無力さに恥じ入り、奮戦するクリスに申し訳無いとすら思うと同時に、彼女が発見したゼイビーズどもがこちらに流れて来やしないかと、俺は気が気ではなかった。

 不意に、機械の奥の方から凄まじい声量の咆哮が上がる。次いで三発分の、散弾銃の銃声。そして僅かに間を置いてから、改めて一発、銃声が工場内を反響した。

「追加で一体、駆除完了しました!」

 無線インカムからは、クリスによる報告。その声は心なしか、いつにも増してテンションが高い。鼻息も妙に荒くなっているようだが、それは果たして緊張によるものなのか、それとも血を見ると興奮する性分なのか。どちらにしても、あまり良い兆候とは言えなかった。

 再びドンと、先程とは少し離れた位置から散弾銃の銃声。そして同時に、工場北側の通路に立ち尽くす俺とバンの傍の太い鉄パイプのバルブが、凄まじい金属の切削音と共に眩い火花を散らした。俺は驚いて、反射的にビクンと身をすくめる。

「小隊長! 四体目駆除しました!」

 クリスが叫んだ。それに対して無線インカム越しに、鈴原小隊長がやや怒りを込めて怒鳴る。

「クリス、この状況で無闇に水平射をするな! 私達に当たる! 今もお前が撃った散弾が、こちらにまで飛んで来たぞ! ゼイビーズを発見したら、まずは脚を狙って動きを止めろ!」

「すいません小隊長! 以後、気を付けます!」

 信憑性に欠ける、クリスの返答。軍人の娘としての矜持は確かなようだが、どうやらその決意に反して、射撃の腕前の方はまだまだ半人前もいい所のようだ。だがその腕前ですらも、そもそも銃の引き金を引く事すら出来ない今の俺にとっては、喉から手が出るほど羨ましかった。

 俺が歯噛みしながらそんな事を考えていると、またしても無軌道な散弾銃の銃声が四発連続で鳴り響いてから間を置いて、意気揚々とクリスが叫ぶ。

「五体目、駆除完了しました!」

 完全に、戦闘高揚トリガーハッピーだ。クリスのテンションが、常軌を逸して上がり過ぎている。無線インカム越しにもはっきりと聞き取れるほどに荒くなった彼女の鼻息と、興奮を隠し切れない口調が、それを裏付けていた。やはり、血を見ると興奮する性分なのだろうか。

 さておき、クリスによればこれで駆除したゼイビーズは、合計五体。最初に奴らの群れを発見した時に、彼女は六体か七体のゼイビーズを発見したと言っていたから、新手が加わっていなければ残りは一体か二体と言う事になる。本来であればこの駆除業務には俺も加わって、クリスと共に互いの死角を援護し合いながら、協力してゼイ

ビーズどもを冥土へと送り届けていた筈だった。

 だが今の俺は、戦場から距離を置いた通路でバンの傍らに立ち、いつ戦火がこちらに飛び火して来やしないかとヒヤヒヤしながら怯えている。自分の立たされた境遇があまりにも口惜しくて、俺は唇を噛み締めながら両手をギュッと握り締めた。分厚い革手袋が、ギリギリと音を立てて締まる。肩に吊り下げたミニミの無駄にズシリとした重量が、空しさに拍車をかけた。

 不意にミキサーの方角からガランガランと、金属の皿が硬い床に落ちたような、甲高い反響音がした。次いで、同じ方角のやや高い位置から、今度は金切り声の様な甲高い咆哮が上がる。その声色から推測するに、どうやら女のゼイビーズが叫んでいるようだ。

 そして次の瞬間、咆哮の声色が変わる。

 今しがたまでは敵を威嚇するように攻撃的な調子だった咆哮が、まるで断末魔の悲鳴の様な、壮絶で悲痛な絶叫に変化した。と同時に、ミキサーが立てるゴゥンゴゥンと言った駆動音に、硬い金具同士が擦れ合うようなガリガリと言った不快な金属音が混ざる。

「うわあ」

 クリスが無線インカム越しに、驚愕とも絶句とも取れる頓狂な声を上げた。

 やがて女ゼイビーズの絶叫が止むと同時に、ミキサーの音もまた小さくなる。それでもまだ、モーターの動くウゥンウゥンという低い唸り声と震動は続いているので、ミキサーの機械そのものが止まった訳ではないらしい。だがその唸りと震動も、すぐに停止した。ミキサーがその気配を消した工場内では、未だ駆動し続けているベルトコンベアの駆動音だけが、壁に反響し続けている。

 遠く離れたミキサー脇で何事が起きているのかと訝しむ俺の耳に、鈴原小隊長からクリスへの無線通信が届く。

「おいクリス、一体今の音は何だ? 報告しろ」

「……小隊長、えー、報告します」

「何だ?」

 応えるクリスの声色が、何かおかしい。

「若い女のゼイビーズ一体が……その、何と言うか、自分からミキサーに巻き込まれて挽き肉になりました」

「はぁ? 何だと?」

「ぷっ」

 鈴原小隊長が頓狂な声を上げ、その背後でクリスが小さく噴き出したのが聞こえた。最初は吐き気で噴き出したのかとも思ったが、その後、小さく笑うのも聞こえたので、どうやら彼女にとってはゼイビーズが生きたままミンチになったのが相当に面白かったらしい。先程声色がおかしいと感じたのは、どうやら笑いを堪えていたのが原因のようだった。

「ミキサーの上に登った女が着ていたゴムの前掛けが回転する刃に巻き込まれて、その女が今は排出口に下に、ピンク色の人間のすり身に加工されて練り出されました。トレイに盛られたすり身からはまだ湯気が立っていて、長い髪の毛が大量に混じっていて、すごく気持ち悪い光景です」

 クリスがグロテスクな現場実況を行なった。それを受けて絶句する俺と鈴原小隊長を尻目に、彼女は実況している間もその後も、何度か噴き出しながら笑うのを必死に堪えている。興奮と緊張で一時的に笑いのツボがおかしな事になっているのか、それとも生来そう言った性分なのか、どちらにしてもクリスの新しい一面を見せられた気分で、むしろそちらの方に俺は驚く。

「そりゃ、すげえな」

 流石の葉山副小隊長も、無線インカム越しに驚嘆の声を隠せない。

「……それはそれとして、急に静かになったのは、ミキサーが壊れたのか?」

 小声で笑い続けるクリスに対し、気を取り直した鈴原小隊長は、更なる報告を求めた。

「いえ、ミキサーはあたしが手動で電源を落としました。とは言っても、止める前から女が着ていた服の金具か何かが中で引っかかって、壊れていたみたいですが……それにしてもこのミキサーも他の設備も、もう使えませんよねえ、これ」

「当たり前だ。そんな人間を丸ごと一体挽き肉にしたような機械で作った物が、食える訳無いだろう」

 小隊長がクリスの素朴な疑問に呆れたように答え、その背後では一際大きく、噴き出し笑う声が聞こえた。その笑い声を敢えて無視した小隊長は改めて気を取り直し、話題を変える。

「とにかくだ、クリス。これでこのフロアに居たゼイビーズは、全て駆除し終えたのか?」

「あ、いえ、未だ分かりません。これで最後か、それとももう一体居たか……。引き続き、このフロアの奥まで探索を続けます」

「了解した。……ところで榊、福田、二階の方はどうなっている?」

 先程から状況報告の無い二階の二人に、応答を求める鈴原小隊長。それに対して、福田さんが応える。

「小隊長、こちら福田です。二階の事務室を一通り探索しましたが、特に人が居る形跡はありません。ただ、奥にも扉が続いていて、未だ幾つか部屋があるようです。これからそこを探索しますが、扉が開けっ放しになっているので、中に誰か居るのかもしれません。……感染者か生存者かは、分かりませんが」

「了解した。引き続き、二階の探索を続行しろ。充分に注意して挑め」

 小隊長による探索続行の指示。どうやら、二階はハズレだったらしい。

「二階は楽そうで良いですね。こっちの方は、なかなかお眼にかかれないような、ものすごい状況になってますよ?」

「そりゃどーも、クリス。こっちはこっちで狭い上に物だらけで、防護スーツを着たままだと何かと大変なんだがね」

 戦闘高揚のせいか、ややもすれば礼を欠いた侮蔑とも取られかねないクリスの皮肉を、福田さんが大人の対応でそつなくあしらった。するとオープン無線で、全隊員に向けた通信が入る。

「こちら、上空の第四中隊所属ヘリ。漁港東部のコンテナ置き場周辺にて、百体近いゼイビーズを目視で確認。現在第十一小隊が対応しているが、数が多過ぎて苦戦している模様。以上」

 間髪を容れず、無線が切り替わる。

「……指揮車の佐川だ。全員、今のヘリからの報告は確認したな? それでは担当箇所の探索が終わった各小隊は、順次東部コンテナ置き場に移動して、第十一小隊の援護に回れ。以上」

 回転するローターの立てる爆音を背景にしたヘリからの報告を元に、佐川中隊長が中隊総員に新たな指示を下した。どうやら本当の大当たりは、貨物の荷下ろしが行われる、港のコンテナ置き場周辺だったらしい。だがそれにしても、百体近いゼイビーズの大群とは。向こうはここよりも、遥かにとんでもない惨状になっているようだ。

「第五小隊、全員今の通信は聞いたな?」

 今度は鈴原小隊長の声が耳に届いた。こちらはローカル無線なので、第五小隊の内部にしかこの声は聞こえていない。

「この工場の探索が終了次第、我々も第十一小隊の援護に向かうぞ! 時間は無い! 総員、探索のピッチを上げろ!」

「了解!」

 小隊長の覇気溢れる指示に、隊員全員が了承の意思表示でもって応えた。ただし、俺だけはその頭数に入っていない。小隊長とバンの警護と言う、ゼイビーズの探索とは全く関係の無い、事実上の閑職に追いやられた俺には身の置き場がどこにも無かった。こうして俺が何もせずに突っ立っている間にも、後輩であるクリスは残り一体の、居るか居ないかも分からないゼイビーズの探索を再開していると言うのに。

「ふふっ」

 俺は小さな声で、自分でも気付かない内に笑っていた。笑いながら、ぽろぽろと涙を零して泣いてもいた。その事実に気付いた俺は、笑いと涙の両方を押し留めようと、悪戦苦闘する。そして今自分達が置かれている状況で、そんな事に注力している自分の情け無さに、頬を伝い落ちる涙はむしろその量を増す。

 とにかく、内向的になって自分の事ばかりを考えていては益々暗澹たる気持ちになると気付いた俺は、気を紛らわせるために周囲の状況に意識を集中させた。出来るだけフラットな感情で、何も考えないように努めながら。

 ミキサーの駆動音が止み、工場内が若干静かになったお陰で改めて気付いたのだが、どこか遠くから散発的な銃声がひっきりなしに聞こえて来る。最初は無線で伝えられたように、コンテナ置き場の方が激戦になっているのかとも思ったが、聞こえて来る方角が一定ではない。どうやら漁港内のそこかしこで、ゼイビーズと防疫隊との戦闘が繰り広げられているようだった。これは結構な数の被害が中隊内にも出るのではないかと、俺は他人事の様に心配する。

「小隊長、工場一階の奥まで探索しましたが、隠れているゼイビーズは発見出来ませんでした」

 探索の終了を告げるクリスの報告が、無線インカムから聞こえて来た。

「そうか、分かった。どうやらお前が最初に発見したゼイビーズは、全部で六体だったようだな。それでは一旦我々と合流した後、コンテナ置き場に向かって第十一小隊の増援に……」

 鈴原小隊長がクリスに指示を下していた、まさにその時。俺の頭上と耳の無線インカムから突然、盛大な怒声と銃声、そして咆哮が鳴り響く。

「糞っ! 糞っ! どこにこんなに隠れていやがった!」

「駄目だ榊くん! 一旦下がれ! 下がって距離を取れ! 糞っ! こいつら!」

 それは、榊と福田さんの怒声。

「どうした榊! 福田! 報告しろ!」

「小隊長! 二階奥の部屋に、奴らがぞろぞろ居ました! ぞろぞろ居て、ゼイビーズ同士で共食いしてましたっ! 糞っ! 駄目だっ! 狭くて当たらない!」

「弾が残り少ない! 一旦バンまで下がり……うわああっ! 糞っ! 邪魔やねんなこん糞ダンボールがっ!」

 榊が転倒したのだろうか。工場の二階から天井越しに、何か重い物が倒れるようなドシンと言う音と震動が、散発的な銃声に混じってここまで伝わって来た。

 不意に俺は、頭上から聞こえて来る銃声が、全て単発である事に気付く。そう言えば副班に配備された六二式軽機関銃は、武装バンに銃座として据え付けて、今もエントランスに残っている筈の葉山副小隊長が使っていた。と言う事は、二階で戦っている二人が持っているのは単発式の散弾銃と小銃か、もしくは拳銃しか無い。これらの装備では多人数を相手にするには連射力不足だし、装弾数も少ないので、弾幕を張ってゼイビーズの侵攻を押し留める事も出来ないだろう。明らかに、榊と福田さんの置かれた状況は、分が悪過ぎる。

「クリス!」

「は、はい!」

 鈴原小隊長の鋭い声に、名前を呼ばれたクリスが噛み気味に応えた。

「一階の探索はもういい! お前は急いで上の二人の援護に向かえ! 早く!」

「はい! 了解しました!」

 小隊長に負けない声量で返答するクリス。俺の居る位置からではその姿は見えないが、彼女が二階に向かうために走っている息遣いが、無線インカム越しに漏れ聞こえて来る。

 頭上からは相変わらずの散発的な銃声と咆哮、そして無線インカムからは鼓膜を突き破らんばかりの榊と福田さんの怒声が、耳に届く。銃声の種類から察するに、やはり多人数相手の接近戦では狙撃用の小銃は役に立たず、散弾銃と拳銃のみで応戦しているようだった。二階は楽そうだなどと言ってしまったクリスも、今頃は自分の発言を後悔している事だろう。

 そしてふと気付けば、すり身加工工場の一階には鈴原小隊長が運転する主班の武装バンと、警護と言う名目でその脇に立つ俺だけがポツンと残されていた。場所は、北側の壁面に沿った通路の奥。南側の機械郡からは、ベルトコンベアの駆動音だけが小さく唸り続けている。

「田崎、少し車から離れろ。エントランスに戻るために、一旦切り返す」

 小隊長が助手席の窓をコンコンと叩いて俺の注意を引きながら、そう言った。通路はバンの横に俺が随伴出来るだけの幅があったが、かと言って、車輌が大きくUターン出来る程の幅は無い。ここまで来た六十mばかりの道のりをバックで引き返す手も考えられたが、小隊長はバンを切り返して反転させる方法を選んだようだった。

 俺は無言のまま、バンからやや離れた後方に下がり、それを確認した小隊長は切り返しを開始する。

 一旦斜めに前進したバンが工場設備ギリギリで止まり、今度は前進した時とは反対にハンドルを切りながら、バックする。そして今度は壁際ギリギリでバンが停車した、その瞬間。工場の最奥までが見通せる俺の視界の左隅で、何かが動いた。それは、一人の人間。いや、正確には元人間と言うべきか。

 積み上げられたすり身の容器の陰から、眼を真っ赤に血走らせた小柄な男がのそりと現れて咆哮を上げると、こちらに向かって全力で駆け寄って来るのが眼に入った。俺の全身の産毛が一瞬にして総毛立ち、意識が一点に集中したためか、実際には高速で移動している筈の小男の動きが異様にゆっくりとして見える。

 まずい。スローモーションになった視界の中で、そのゼイビーズの小男は脇目も振らず一直線に俺めがけて突き進んでいると言うのに、人を殺せない今の俺には有効な対抗手段が残されていない事実が非常にまずい。だがそんな事を考えている間にも、狂った獣の様な咆哮を上げる小男は口から泡だらけの涎とすり身の破片をボタボタと垂らしながら、尚も猛スピードで接近して来る。

 クリスの奴が見逃したのかと、彼女の大雑把な性格からは充分に予想出来た雑な探索の結果を恨むが、無能な俺がそれを恨むのはお門違いだし、そもそも今は恨んでいる余裕も無い。

「田崎!」

「分かってます!」

 俺の名を叫んで注意喚起する鈴原小隊長に、焦りながら応えた。

 分かってますと言ったが、一体何を分かっていると言うのか。とにかく何かしら応戦しなければと焦った俺は、急いで肩から吊り下げていたミニミを構え直す。そしてアイアンサイトで小男の顔面ど真ん中に照準を合わせ、叫ぶ。

「止まれ!」

 なんと愚かな行為か。人語を解するだけの知能を失ったゼイビーズが、警告で止まる訳も無い。そんな事は百も承知な筈なのに、俺はそんな無駄な行為に一縷の望みをかけてしまう程にまで、追い詰められていたのだ。そして当然、ゼイビーズである小男は足を止める事無く、凄まじいまでの咆哮を上げながら俺との距離を詰める。

 いよいよもって絶体絶命の淵に立たされた俺は、手中のミニミを素早く逆手に持ち直した。そしてタイミングを見計らい、飛び掛かって来たゼイビーズの小男の顔面めがけて、重量七㎏の鋼鉄の塊であるミニミを振り下ろす。

 ゴキンと言う鈍い音と共に、金属チューブ製の銃床が小男の頬骨を直撃した。渾身の力で振り下ろされたそれは小男の頭蓋骨を陥没させ、眼窩から飛び出した左の眼球が潰れて、中からゼリー状の硝子体と眼房水がドロリと垂れ落ちる。

 人を確実に殺してしまう銃の引き金は引けなくなった俺だが、致命傷を与えられるか否かが不確実な鈍器による攻撃は、どうやら問題無く行なえるようだった。

 そして当然、致命傷を与えられなかった小男は突進の勢いに任せて、全体重でもって俺を押し倒す。

「くっそ!」

 小男の体当たりによって後方に弾き飛ばされた俺は、怨嗟の言葉を叫びながら仰向けの体勢で、工場の床を転がる。コンクリート製の床に防護ヘルメットの後頭部が勢いよく激突して、ゴオンと盛大な音を立てた。微かにだが何かが壊れるような破砕音も混じっていたので、もしかしたら首後ろの級排気口を損傷したのかもしれない。

 だがそんな事を考えている間にも、顔面の左半分が大きく陥没したゼイビーズの小男は、倒れた俺に圧し掛かると腹の上に馬乗りになった。

「糞っ! どきやがれこん畜生!」

 俺は罵声を浴びせるが、その声は小男の喉から放たれた、全身をビリビリと震わせるような壮絶な大音量の咆哮によって掻き消される。そして容赦の無い拳の雨が、俺の防護ヘルメットに打ち下ろされ始めた。絶対有利のマウントポジションから繰り出される、容赦の無い殴打の嵐。殴られる度にゴンゴンと言う衝撃音が、ヘルメットの中を反響する。

 殴打する間にも、木の洞の様に大きく開かれた小男の口蓋からは白い泡状の涎が溢れ出し、防護ヘルメットの表面にもボトボトと滴り落ちて俺の視界を塞ぐ。その鬼気迫る形相と、陥没した顔面に光る真っ赤に血走った右眼。そして渾身の力で振り下ろされる拳の粗暴さは、とても俺より小柄な体格から生み出されたものとは思えない迫力と破壊力に満ち満ちている。剥き出しになった人間の本性は、野生の獣と同等か、むしろそれ以上に凶悪だった。

 これが万全の状態で臨む普段の駆除業務であれば、こんな状況に持ち込まれたとしても、全く問題は無い。たとえ相手が理性のタガが外れたゼイビーズであったとしても、防護スーツとヘルメットは生身の人間の力程度で破壊出来る代物では無いので、ただじっと耐え忍んで仲間の救援を待てば良いだけだからだ。

 だが今、俺のパートナーである筈のクリスは副班の援護に向かってしまい、ここには居ない。そして俺の防護ヘルメットの表面には、クリスの散弾銃による接射で出来た大きな線状の傷が二本、刻み込まれている。本来ならばそうそう簡単に壊れるような代物ではないこのヘルメットも、この状態で馬乗り殴打され続ければ、無事では済まないかもしれない。

 思い返せば、このフロアの入り口付近で俺を襲い、クリスによってナイフで首を掻っ切られたゼイビーズの時は、奴の下半身が吹き飛んでいて踏ん張りが利かなかったお陰で殴打する力もそれほどではなかった。だが今、俺の腹の上に馬乗りになっている小男は、顔面が陥没しているとは言え五体満足だ。そいつが渾身の力で殴打し続ければ、たとえ割れて砕ける事は無いにしろ表面の傷が拡がって、汚染された体液がヘルメットの内部まで侵入してくる可能性は充分に考えられる。

「糞っ! 糞っ! やばいぞこれは……」

「田崎! すぐに助けに行く! 待ってろ!」

 怒声を吐く俺の耳に、切迫した鈴原小隊長の声が、無線インカム越しに届いた。

 今、小隊長は何と言った? 助けに行く? 誰が? 主班の武装バンには、三着目の防護スーツなど積まれていただろうか。いや、そんな物は存在しない。だとしたら、二階に増援に向かったクリスを呼び戻すと言う事だろうか。確かにそれまで耐えろと言う事なら、充分に合点が行く。だが果たして、俺自身は精神的に耐えられたにしても、肝心の防護ヘルメットは物理的に耐えてくれるだろうか。残念ながらそれを保証してくれるものは、どこにも無い。

 焦った俺はマニュアルに反して、一番の弱点である筈の手先で馬乗りになった小男のゼイビーズを押し退けようとしては、それを弾かれる。全てが想定外の事態で、もはやマニュアルを遵守している場合ではない。

 俺の腹の上で絶叫しながら、力任せに殴りかかって来るゼイビーズに対して応戦しようにも、手にしていた主武装のミニミは転倒した弾みでどこかに転がって行ってしまった。腰のホルスターには副武装の九㎜自動拳銃が収められている筈だが、腹の上に馬乗りになった小男が邪魔で、手が届かない。それにたとえ手が届いたとしても、今の俺には引き金が引けないので、どちらにしても銃は無用の長物だ。

 こうなったら左肩のタクティカルナイフくらいしか、使えそうな武器は無い。たとえ今の俺に人を殺す覚悟が無いにしても、ナイフで敵の手足にダメージを与えて、その隙に今の組み伏せられた体勢から脱する事くらいは出来なくもないだろう。しかし最悪の場合は、一ヶ月前のクリスの様に、逆に相手にナイフを奪い取られてこちらが命の危険に晒される可能性も考えられる。百%確実な安全策など、どこにも存在しない。

 だがもはや、考えあぐねている時間は無い。俺は左の肩口に固定されているナイフに手を伸ばすと、硬質樹脂製のシースのボタンを押してロックを解除し、それを抜こうとした。

 まさに、その刹那。

「おおおおおおおおおっ!」

 無線インカムからだけではなく、生身の耳にも直接聞こえて来た、鈴原小隊長の勇ましい叫び声。声の聞こえる方角に顔を向けると、武装バンに残して来た七〇式小銃を棍棒の如く握り締めた小隊長が、防護スーツも着ていない無防備な制服姿のままで駆け寄って来るのが見えた。そして俺の腹の上に馬乗りになっている小男の顔面を、その小銃の銃床で、ゴルフのスイングの如く下から上に向けて豪快に殴り抜く。

 顎を叩き砕かれ、口蓋から真っ赤な鮮血を噴出させてのけぞる小男。殴り抜いた勢いのまま、用を終えた小銃を床に放り捨てる小隊長。そして彼女は自分の腰のホルスターから自動拳銃を、手馴れていないせいか若干もたつきながら引き抜くと、それを体勢を崩したゼイビーズの小男に向けて狙いを定め、引き金を引いた。

 パンパンパンッと三発の乾いた銃声が工場の壁に反響した後、小男は仰向けに、天を仰いで崩れ落ちた。それと同時に、真鍮製の空薬莢がコンクリートの床に落下した甲高い金属音が、耳に届く。

「田崎! 無事か!」

 鈴原小隊長が息を切らせ、拳銃を構えたその手を微かに震わせながら、俺に向かって叫んだ。

「小隊長! 防護スーツも着てないそんな格好で外に出たら危険です!」

「今はそんな事を言っている場合じゃないだろう! クリスを二階から呼び戻している時間は無かったんだ! こうするしか他に無いだろう!」

 それは確かに、そうかもしれない。だが下手をすれば、今の襲撃で飛び散った小男の体液を、全身に浴びていた可能性もあったのだ。加えて少し東に通路を進めば、クリスに首を掻っ切られた男と、散弾銃で頭を吹き飛ばされた男の死体も、おびただしい量の血と脳漿を周辺一帯にぶちまけて転がっている。こんなウイルスまみれの場所に、何の防備もしていない制服姿で立っている事自体が危険極まりない。

 しかし彼女の身の安全を危惧する俺をよそに、鈴原小隊長は声を荒げて急かす。

「とにかく早く立て、田崎! 隠れていた七体目を駆除した以上は、もうこんな場所に長居する理由は無い! 即時撤収するぞ!」

「了解です、小隊長」

 そんな事は、あえて指示されるまでも無い。俺は仰向けに寝転んだ体勢の身体を右に半回転させて、うつ伏せの状態になる。

 この防護スーツの、最大の欠点の一つ。それは生地の内側に仕込まれた防刃プレートによって関節の可動範囲が制限されているために、一度仰向けに倒れてしまったら、簡単には起き上がる事が出来ない点にある。起き上がろうと思ったら、今俺がしているように一旦身体を反転させてうつ伏せになり、そこから腕の力で上体を起こして膝立ちになるしか無い。

 そしてマニュアルに従い、上体を起こして膝立ち姿勢になった俺の背後で、何かがゆっくりと立ち上がった。

 銃撃によって死んだとばかり思われていたゼイビーズの小男が、殆ど千切れかけた左腕をだらりとぶら下げて、頬が陥没して顎が割れた顔からどす黒い血と真っ白な涎を滴らせながら、ゆらりと立っている。その異様な姿は、まさにハリウッド映画に登場するゾンビそのものだった。

 そのゾンビの下顎骨は小銃による殴打で完全に粉砕しており、更に首の骨も折れているのか、頭が少しおかしな方向に傾いている。しかし残念ながら、小隊長が放った三発の拳銃弾は小男の左上腕と左胸を貫いてはいたが、致命傷を与えるには至っていなかったらしい。いや、もしかしたら既に致命傷なのかもしれないが、痛覚を失ったゼイビーズウイルス感染者は死を恐れず、苦痛も恐怖も一切感じない。それはただひたすら欲望の赴くままに、生者を襲うのみの存在だ。

 そしてその存在が今、無防備な小隊長の前に立ち塞がっている。

「小隊長! 逃げて!」

 俺は有らん限りの声で叫んだ。だが小隊長は逃げる気配を見せずに、手にした自動拳銃を構え直して、小男と正面から対峙する。

 膝立ち姿勢でしゃがみ込んでいる俺には眼もくれず、小隊長に襲い掛からんとしたゼイビーズの小男に向けて発射された四発目の拳銃弾は空を切り、背後の工場の壁に穴を穿った。このままでは彼女が生きたまま食い殺されると危惧した俺は、無理な体勢から小男に飛び掛かり、その腰のベルトをかろうじて掴む。襲い掛かろうと身体を浮かせたところを邪魔されたために、勢い余ってつんのめった男は体勢を崩し、床に倒れ込んだ。だが既に小男は、小隊長に接近し過ぎていた。

 前のめりになって倒れ込みながらも、小男は最後の執念を発揮するかのようにして鈴原小隊長の足首を掴み上げると、彼女を巻き込んで転倒した。倒れた衝撃で小隊長の手を離れ、工場の床を転がる自動拳銃。

「小隊長!」

 文字通りの意味で共倒れになった二人を引き離そうと、俺は掴んだ小男のベルトを必死の思いで引き寄せるが、最悪にも血と脂で滑って、その手はすっぽ抜けた。自由になった小男は床に転倒した体勢のまま、残された右腕一本で、同じく転倒した小隊長の身体を這い登り始める。足首から脹脛、脹脛から太腿、太腿から腰へと小隊長の身体を登り詰めた小男は、彼女の喉元から熱い血潮のほとばしる肉を喰らうべく、その口蓋を拡げて歯を剥いた。

 早く立ち上がらねばと、俺は焦る。だが焦れば焦るほど、重くかさばる防護スーツが動きを阻害して、立ち上がる事が出来ない。

「こいつっ! 離れろっ! 離れろっ! 離れろおおおおぉぉっ!」

 自らの身体を這い登って来るゼイビーズを引き離さんと、必死に抵抗する鈴原小隊長が一際大きな絶叫を上げた。もはや、一刻の猶予も無い。

 やっとの思いで立ち上がる事に成功した俺は、足をもつれさせて転びそうになりながらも、なんとか体勢を整えて二人の元へと駆け寄る。そして渾身の力と全体重を乗せて、小男の右脇腹をサッカーボールの如く蹴り抜いた。

「喰らえやコラアアアァァッ!」

 怒声と共に、横隔膜を斜め下から抉るような、完璧なクリーンヒットの一撃が決まる。ボキボキと肋骨が折れる感触を俺の足先に伝えながら、蹴り飛ばされたゼイビーズの小男は床を転がると、工場の壁に並んだパイプに激突してその動きを止めた。その一方で、蹴った勢いに加えて身体を支える軸足が血と脂で滑った俺は、その場で盛大にすっ転ぶ。再びゴオンと、コンクリートの床に打ち付けたヘルメットの後頭部が盛大な音を立てた。

 転んだ衝撃で一瞬意識が飛びかけたが、なんとか堪えて正気を保つ。そんな事よりも、今は一刻も早く小隊長の安否を確認せねばと上体を起こした俺の視界の隅で、何かが動いた。

 膝立ち姿勢から視線を上げた俺の眼前には、再びゆらりと立ち上がってこちらを見下ろす、ゼイビーズの小男。千切れかけていた左腕は完全に千切れ落ち、陥没した顔面からは更に大量の鮮血と涎を垂れ流し、折れた首の骨に加えて肋骨が完全に砕けているためか、もはや真っ直ぐに立つ事も出来ないらしく、その身体を奇妙な「く」の字に曲げている。

 そして満身創痍の小男は小さく一歩を踏み出すと同時に、銃撃によって左胸に空いた穴と口から一際大量のどす黒い血をゴボッと噴出してから、前のめりにドサリと倒れた。完全に動きを止めた横隔膜が、もはやこのゼイビーズが呼吸をしていない事を物語る。命を失ったその小さな身体を中心にして、コンクリートの床に赤い血溜まりが広がって行く。

 物言わぬゼイビーズの死体を見つめながら、俺は自分がこの小男を殺してしまったのではないかと怖くなり、胃の奥底から急激な吐き気がこみ上げて来る。だが今は、そんな事に気を取られている場合ではないと自分に言い聞かせて、迫り来る嘔吐感をグッと飲み込んだ。小男は自分が殺したのではなく、小隊長に胸を撃ち抜かれたのが致命傷だったのだと自分に言い聞かせる事で、何とか自制心を保って。

 とにかく今は、小隊長の安否が最優先だ。

「小隊長っ! 無事ですか!」

 上官の身を案じて振り返り、俺は叫んだ。だが既に、無事ではなかった。

 振り返った俺の視界に映るのは、半身を起こして自分の左手を見つめたまま茫然自失とする、鈴原小隊長の姿。その左手の小指と薬指が、無い。そこに存在していた筈の二本の指は、ゼイビーズの小男によって、根元から噛み千切られていた。

 白い骨と腱が露出した真っ赤な傷口を注視しながら、まるで時が止まったかのように、俺と小隊長は立ち尽くす。あのゼイビーズの下顎は、小銃の銃床による一撃で完全に砕かれていた筈なのに、一体どこに指を二本も噛み千切るだけの力が残っていたのか。

「ああああああああああああっ!」

「小隊長!」

「糞っ! そんなっ! そんな事があって……あああああっ!」

 見る間に顔から血の気を失わせ、絶叫する鈴原小隊長。彼女の取り乱した姿など、眼にするのは初めてだった。

「どうした田崎! 小隊長! 何があった!」

 耳の無線インカムからは、状況説明を求める葉山副小隊長の声が届いている。だが今の俺にも小隊長にも、それに応答しているだけの余裕は無い。

「田崎っ! 田崎! こっちに来い! 急げ! 時間が無い!」

 苦心しながらもなんとか立ち上がった俺に向かって、一足先に身を起こした鈴原小隊長が叫んだ。その声は努めて平静を装おうとしてはいるが、呼吸は荒く、動揺と焦り、そして恐怖を隠し切れてはいない。彼女は止血のためか、右手で左の脇の下を押さえながら、少し離れた位置に停められた武装バンの方角に足を向けていた。よく見ればバンの後輪が、工場の床の端に掘られた排水用の溝で脱輪している。俺が小男に襲われた時に、小隊長が焦ってハンドル操作を誤ったのだろうか。

「ここじゃ駄目だ……ここじゃ床に血が……」

 何かをうわ言の様に呟きながら、足早に、だが少しフラフラとした覚束ない足取りで歩く鈴原小隊長の後を、俺は追う。果たして彼女は、これから何をしようと考えているのか。この段階で既に俺も、その目論見には薄々感付いていた。

 膝をガクガクと震わせながら無人の武装バンまで辿り着いた小隊長は、腰に巻かれた自身のガンベルトを外す。左手の傷口がベルトに触れたのか、途中で一瞬、痛みに耐えるような苦悶の表情を浮かべた。そして制服の上着を脱ぎながら、額にじっとりと脂汗を浮かべた蒼白の顔を俺に向けて、彼女は口を開く。

「田崎、その防護スーツを脱げ。いいか、足の裏に汚染源が付かないよう、慎重にだ。慎重に、慎重に急いで脱ぐんだぞ」

 足の裏と言う事は、やはりあれか。あれを俺にやれと言うのか。

「……分かりました」

 俺は指示された通りに、防護スーツを慎重に脱ぎ始めた。俺自身が感染した訳でもないのに、心なしか呼吸が荒くなり始め、緊張で膝がフワフワしてどうにも落ち着かない。

 まずは表面にこびり付いたゼイビーズの体液を丁寧に拭い落としてから、ヘルメットを外す。それから外気や液体の侵入を防ぐ腹の二重ジッパーを下ろして防護スーツを脱ぐと、その脱いだスーツ一式を床に投げ捨てた。スーツを脱ぐ際に、僅かにだが血液が付着してしまった制服の上着も、同時に脱ぎ捨てる。

 防護スーツは制服だけでなく、ブーツも履いたまま上から着込んで、完全に全身を覆う構造になっている。そのため、脱ぐ際に血で濡れた床を踏まなければ、ブーツの裏に汚染されたゼイビーズの体液は付着しない筈だ。俺は細心の注意を払って、足の踏み場を何度も確認しながら、汚染されていない清浄な床に降り立つ。

 これで俺の準備は整った。次は、小隊長の番だ。

 防疫隊員のガンベルトには、刃渡り十八㎝、刃厚五㎜のタクティカルナイフが標準装備として固定されている。自らのそれをシースから引き抜いた、シャツ一枚姿の鈴原小隊長。彼女は出来るだけ汚れていない床に、汚染されたゼイビーズの体液が付着していないかを慎重に確認してから、脱いで折り畳んだ制服の上着をそっと敷いた。そしてそこに仰向けに寝転がると、右手に持ったナイフの刃を自身の左腕に押し当てて、俺に言う。

「田崎、やってくれ。頼む。命令だ」

 白く細く華奢で、それでいて柔らかそうな、鈴原小隊長の二の腕。そしてその二の腕に押し当てられた、無骨で硬く黒光りする、切れ味鋭いナイフの刃。この二つが何を意味しているのかを、俺は重々承知していた筈だった。だがいざその現場に立たされると、こうも緊張し、恐ろしいものなのか。

 俺の眼をじっと見据える小隊長の顔は蒼白で、眼鏡のレンズ越しに見えるその瞳は、恐怖で怯え切っている。ナイフを支える彼女の右手が、ガクガクと小さく震えているのが見て取れた。

 一度大きく深呼吸してから、俺は覚悟を決める。

「やります」

 俺はナイフの背に自分の履いているブーツの踵をしっかりと押し付けると、勢いを付けて全体重をそれに乗せ、踏み抜かんばかりの力で踏み込んだ。

 微かに押し返して来る、柔らかな肉の弾力。それに続いて、硬い骨が鋭利な刃物で切断されるゴゾリとした感触が、靴底越しに俺の足の裏から背骨を経て脳にまで生々しく伝わる。そして、鈴原小隊長の左腕が切り落とされた。

 加工工場の外では、この冬初めての粉雪が舞い始めていた。

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