第八幕


 第八幕     十一月二十六日 正午



「あ、田崎先輩こんにちわ」

 そこに、クリスが立っていた。

 たまたま通りかかった女子独身寮の前に、何の変哲も無く、何の感慨も無く、拍子抜けするほどごく普通に、クリスが独りで立っていた。そして彼女は男子独身寮から出て来た俺を見付けると、これまたごく当たり前のように、いつもの能天気な笑顔を投げかけて来る。右上の犬歯が一本抜けた間抜けな歯並びも、以前と何の変わりも無い。

 驚くほど何の変化も見られない、以前のままの陽気で明るいクリスティンの姿に、何だか俺は盛大な肩透かしを食らったような気分を味わわされる。

「ああ、えと、え、あ、おっす」

 彼女と再会した時には一体どんな顔をすればいいのだろうかと、この一ヶ月間ずっと思い悩んで来た。だがどうやらそれが完全な取り越し苦労に終わってしまったらしい事に気付いた俺は、余りにも拍子抜けしてしまい、思わず呂律が回らない不恰好な返事をしてしまった。臨機応変な対応が出来ない自分が、少し情け無い。

 とりあえず俺は軽い咳払いをして気を取り直すと、改めてクリスと言葉を交わす。

「あ、ああ、クリス、もう退院したのか」

「ええ、ついさっき、本部基地の医療棟から帰って来たところなんですよ。で、これから第二小隊の友達と一緒に、ご飯でも食べに行こうかなって」

「ふーん……外で?」

「ええ、もちろん」

 クリスが中隊基地の敷地内にもかかわらず、制服でも官給品のジャージでもない私服に身を包んでいる事から、これから外の市街地に向かう所なのは容易に察しがついた。デニムジーンズの上から淡い色のワンピースを羽織り、流石にそれだけでは寒いので、更に上からミリタリーワッペンの貼られたフライト系の軍用革ジャンを着込んだその姿は、どこにでも居るごく普通の少女だ。

 そんな普通の少女は軽く微笑んで、基地の外を指差しながら口を開く。

「せっかく退院したんだし、一ヶ月ぶりに外に出て、何か美味しい物でも食べに行こうかなって思って。……田崎先輩は、これからどこかに行くところですか?」

「え? あ、ああ……」

 話を振られて今更気付いたが、今日は非番なのでつい今しがたまで惰眠を貪っていた俺の外観は、上下ともにダサい部屋着のジャージ姿。おまけに頭は寝癖でボサボサに髪が跳ね上がり、とてもじゃないが若い女の子の前に出るに相応しい恰好ではない事が、急に恥ずかしくなって来る。

「あ、いや、ちょっと売店まで行こうかと思ってな……」

 この中隊基地内に売店は、本舎の一階に小さなコンビニもどきが一店舗あるのみ。なので寮住まいの隊員は、寮内の自動販売機で売っていない物が欲しければ、わざわざそこまで買いに行かなければならない。

「そうですか……あ、田崎先輩はもうご飯食べました? 昼の」

「いや、まだこれからだけど?」

「じゃあ、あたしと一緒にこれから外に食べに行きませんか? ね?」

「え? ああ、別にいいけど……いいの?」

 クリスの急な誘いに、俺は驚いた。女の子と休日に基地の外まで食事に出るなんて、少なくとも防疫隊に入隊して以来、これが初めての経験になる。勿論入隊以前にはそんな経験が頻繁にあったのかと問われれば、それもやはり無かったのだが。

「ええ、もちろんいいですよ。田崎先輩とは、ちょうど話がしたいと思ってたところですから。……そう言えば、葉山先輩は今どこに居るか分かります?」

「え? いや、今日は午前勤務の筈だから、今頃はちょうど福田さん達と一緒にパトロール中だと思うけど?」

 俺を名指しで話がしたいと言う事と、クリスの父親を共に殺した葉山副小隊長の名前が出された事に、嫌な胸騒ぎを感じた。

「そうですか……。じゃああたし、友達に謝って来るんで、先輩も出かける準備して来てくださいね。ここで待ってますから」

「え? 謝るって?」

「ええ、田崎先輩と二人で行く事にしたから、一緒にご飯食べに行けなくなっちゃったって」

 予想外のクリスの返答に、俺は再び驚く。

「あ、え? その友達も、一緒に飯食いに行くんじゃないのか? 俺は別に、一緒でも構わないんだけど……」

「いえ、田崎先輩とは二人きりで話したい事があるんで、残念だけど友達とはまたの機会にって事で、今回は遠慮してもらって来ますね」

 てっきりクリスが女友達と食事に行くついでに俺が混ぜてもらうだけだと思っていたのが、いつの間にやら二人きりで出かける事になっていたので、狐につままれたような気持ちで少し釈然としない。

 それにしても改まって、俺に一体何の話があると言うのか。いや勿論、思い当たる節が無い訳ではない。クリスにとって俺は父殺しの仇なのだから、むしろ言いたい事は山ほどあって然るべきだろう。何であれば、いきなり背後から刺されてもおかしくはない。平時ならば女性との外出は喜ぶべき事なのだろうが、今の自分の置かれた立場でクリスと二人きりにされる事に、俺は一抹の不安を覚えざるを得なかった。

 だがもはや、後に退く道は残されていない。出来る事と言えばそんな心の内を見透かされないように、努めて平静を装う事くらいだろうか。

「なんか色々と騙されてるような気分になって来たが……じゃあ俺は一旦部屋に戻って着替えて来るから、クリスはここで待っててくれ」

「ええ、お願いします、田崎先輩」

 男子独身寮に戻ろうと踵を返した所で、俺は思い出したように振り返り、口を開く。

「……ところでクリス」

「はい?」

「その頭、なかなか似合ってるぞ」

 以前のクリスと比べて、目に見えて変わった点が一つだけ。ボブカットだった彼女の髪はバッサリと切られ、今はボーイッシュなショートカットになっていた。

「へへへ、そうですか? 自分じゃちょっと切り過ぎたかなって思ってるんですけど、やっぱりヘルメット被ると邪魔なんで、気分転換も兼ねてイメチェンしてみました」

 すっかり短くなった自分の金髪を摘みながら、クリスは屈託無く笑う。

 以前の軽いウェーブのかかったボブカットも勿論可愛らしかったが、耳もうなじも露になった今のショートカットも、それはそれで悪くない。お世辞抜きで、似合っていると俺は思う。許される事なら今この場で、クシャクシャに撫で回したいほどだ。

 そんな事を考えながら、俺は外出着に着替えるために男子独身寮の方角へと急いで引き返した。この日これから、何が起こるかなど知る由も無く。


   ●


 中隊基地のバス停で拾った売店のトラックが、民間の立ち入りが制限されている区域を抜けて長沖市の市街地に入ると、俺とクリスは適当な場所で降ろしてもらった。そこから飲食店を探すために、俺達二人は駅前の繁華街を目指して歩き始める。

 繁華街と言っても、お世辞にも栄えているとは言い難い長沖市のそれは規模も小さく、そこそこの大きさの総合スーパーを中心とした商店街と、そこから枝別れした路地に飲食店が点在している程度でしかない。その商店街も、決して少なくない数の店舗のシャッターが閉まったままの、いわゆる『シャッター街』と言う奴になりかけている。

 俺自身もほんの一年前にこの地に配属されて来たばかりなので、それ以前はどのような状況だったのかは推測に任せるしかない。だがたとえ以前から寂れていたにせよ、『大流行』とそれに伴う人口半減が、それに拍車をかけた事は間違い無いだろう。それでも一時に比べれば物流も大幅に改善されたので、俺の希望的観測かもしれないが、今後はこの辺りももう少し賑やかになるのではないだろうか。

 そんな事を考えながら、やがて辿り着いた繁華街をざっと見渡す。昼飯時とは言え平日の昼間なので、それほど人通りは多くなく、活気に溢れていると言うにはちょっと寂しい。それでもそこそこの数の若者が街路を行き交っている様は、この国が少しは活気を取り戻しているようで嬉しくもあった。まあ、実際以上に若者が多く感じるのは、単に老人の多くが『大流行』の犠牲になって姿を消したからなのだが。

「で、どこに入ります? 田崎先輩お勧めのお店とかってありますか?」

「そうだな……」

 ここに至るまでの道中、殆ど会話らしい会話もして来なかったクリスがようやく口を開いた。その口調に、以前と変わった所は感じられない。

「俺がよく行く店はあるけど……ただの定食屋だからなあ。クリス、お前が行きたい店とかは無いのか?」

「あたしはまだこの辺の地理がよく分かんなくて、知ってるお店も少ないんですよね……。今日も友達の方がお勧めのお店に連れて行ってくれるって話だったから、あたし自身にどこか目当てのお店があった訳じゃないし」

「なるほど」

「だから、その先輩のよく行くってお店でいいですよ? ファミレスとかのチェーン店よりは、あたしも定食屋とかの方が好きですし」

「そうか。それじゃあすぐそこの路地を入った所だから行ってみるけど、あんまり期待はするなよ? 安くて量が多くて、味は決して不味くはないってだけの、ホントにたいした店じゃないからな?」

 謙遜ではなく、実際そこは、どこにでもあるような只の定食屋だ。正直言えば、女の子を連れて入るような店なのかも疑わしいほどの。

 それにしても、何だか付き合い始めたばかりのカップルのデートの様な、ぎこちない遣り取りになってしまっているのが少し気恥ずかしい。と同時に、その気恥ずかしさを少しだけ楽しんでいる自分に気付いて、俺は更に気恥ずかしくなる。

「その店で全然構いませんよ。あたしも病院の、量が少なくて薄味の病人食には飽き飽きしていたんで、今はガッツリ腹一杯食べたい気分ですから」

 そう言うとクリスはまた、犬歯が一本抜けた能天気な笑顔を俺に向けて来た。一ヶ月前に病室で見せたあの痛々しい姿からは想像もつかないその表情に、彼女は一体どうやって父親の死に様を受け入れ、その父を殺した俺をどう思っているのだろうかと、少し狼狽する。そしてこれから彼女は俺に、何を語ろうと言うのか。その事を考えると、俺は喉の奥がヒリヒリするような不安がどうしても拭えない。

「じゃあ、行くか」

「ええ、先輩」

 目的地までの道中、他愛も無い世間話をクリスと交わしながら俺は、再びそんな事に思いを巡らせていた。


   ●


「俺は……和風牛ステーキ定食に、小鉢はブリ大根。ご飯は大盛りで」

「あたしは鰆の味噌漬け定食を、小鉢はお刺身の盛り合わせで……あ、あたしもご飯は大盛りにしてください」

 注文を終えた俺とクリスは、メニューをテーブルの端に片付けてから、出された日本茶を啜る。入店したのはスーパーの裏手の路地に面した、昼のランチタイムは定食屋、夜は居酒屋を営んでいる、どこにでもあるような小さな店舗。昨年この長沖市に赴任して来た直後の非番に、偶然見つけた店だ。

 真っ黒な焼板を外装に使った純和風の作りだが、建物自体は決して古い物ではない。見た目だけをいかにもそれらしく取り繕った、悪く言えば偽物フェイク、良く言えば渋いアンティーク風味に味付けされた、老舗っぽい店構えがこの店の売りらしい。

「今の店員、ちょっと驚いてたな」

「ま、いつもの事ですよ、いつもの」

 俺は小声でクリスに耳打ちし、彼女もそれにほくそ笑みながら同意した。

 注文を取りに来た店員が、気取られないように平静を装ってはいたが、明らかに驚いた表情を隠し切れなかったのも無理は無い。なにせ、金髪碧眼で透き通るような白い肌に茶色いソバカスが浮いた、どこからどう見ても紛う事無きアングロサクソン種の白人少女が、一切の淀み無い流暢な日本語で鰆の味噌漬けを注文したのだから。

 事前にクリスの素性を知らされていなければ、もし俺が逆の立場だったとしても、驚かない自信は無い。それほどまでに、彼女の話す日本語は完璧だった。

「いつどこに行っても、初対面の人に日本語で話しかけると決まって驚くんですよね。こっちがまだ何も喋ってないのに、突然英語で話しかけられる事もしょっちゅうだし。ひどい時はこっちが日本語で話しかけてるのに、向こうが下手な英語で返事して来たりするんですよ? 向こうの方が日本人なのに、変なの」

「ま、仕方無いさ。俺やうちの小隊の面子だって、最初にお前の顔を見た時は、英語なんか喋れないから全員ビビッてたんだぞ?」

「ええ、ええ。もちろん覚えてますよ? 最初にあたしが日本語で自己紹介したら、みんな明らかにホッとしていましたもんね」

「あ、やっぱりバレてたか」

「そりゃバレますよ。福田さんなんて分かり易いくらいホッとして、思いっきり溜息漏らしてましたもん」

 店の天井に設置されたスピーカーからは、有線放送の音楽が微かに聴こえて来る。客の入りは、座席の半分が埋まるか埋まらないか程度。さほど広くない定食屋の片隅の二人席で向かい合いながら、俺と他愛も無い会話を繰り返すクリスの姿は、以前と全く変わっていない。どこにでもいる、十八歳の少女の姿だ。

「……クリスはこっちに配属されて来る前はずっと、沖縄に住んでたんだよな? その割には訛ってないよな、お前」

「ええ、あたしの日本語はテレビのニュースとドラマで覚えた部分が多いし……それに、家族の中で唯一日本語で会話してたお婆ちゃんも神奈川県の出身だったから、基本的には標準語で喋ってましたしね。あたしのウチって、家族の中で日本語と英語がごちゃ混ぜで使われる、変なウチだったんですよ」

「ふーん」

 自分で振っておいてなんだが、家族の話題が出たので俺は少しドキリとする。他人のプライベートに踏み込むのも踏み込まれるのも、相変わらず苦手だ。

「そう言えば田崎先輩も訛ってませんけど、出身はどこでしたっけ?」

「俺は千葉。まあ、千葉と言っても東京に隣接してる辺りの新興住宅地だったから、あんまり故郷に対する愛着は無いけどな。訛りとかも全然無かったし。……同じ千葉でも房総半島の奥の方は訛りもすごくて、地元意識も強いらしいけど」

「へーえ。じゃあ、東京に行った事も何度もあるんですよね? あたしは生まれてから殆どずっと沖縄だったから、一度くらいは東京に行ってみたいなって思ってたんですよ。やっぱり、賑やかな所なんですよね?」

「東京か……そんなに良い所じゃないぞ? 特に『大流行』が起こってからは、人も減ったし潰れる店も増えたしで、めっきり寂しくなっちゃったしな」

 これは誇張でも謙遜でもなく、事実だ。今は多少なりとも回復しているのかもしれないが、俺が関東を離れた一年半ほど前の時点では、以前の賑やかさが嘘の様に東京は寂れた街になってしまっていた。それでも一応は、日本の首都。他の地方に比べれば、人が多いのは相変わらずなのだろう。だがとにかく活気と言うものが削り取られたように減少して、妙に疲れ切った、高層ビルの高さがむしろ心の空しさを助長するような、そんな街へと今の東京は変貌している。例えるなら、人で溢れたゴーストタウンと言った所だろうか。

「ふーん……そりゃ残念。一度は東京に行ってみたかったのに。……あ、訛りと言えば、榊先輩は訛りすごいですよね。出身、どこでしたっけ?」

「あいつは確か、四国の香川。うどんばっかり食う事で有名な」

「ああそうだ、そうでしたね。……あたし最初、「大阪弁なんですね」って言ったらすっごい怒られたんですよ? 「関西の方言を全部一緒にするな」って、本気で。そんなの、地元の人間じゃなかったら聞き分けられませんよねえ?」

 クリスが頬を膨らませて唇を尖らせた、怒っているような笑っているような複雑な表情で語り、俺は激しく相槌を打つ。

「ははは、俺も最初はそう思った。榊とは同期だから訓練校でも一緒だったけど、その頃はまだそれほど仲良くなかったから、詳しく聞くまではずっとあいつの事を大阪出身だと思ってたもんな」

「ですよねえ」

 俺もクリスも、榊を肴にして屈託無く笑い合う。いつものパトロール業務中の、当たり障りの無い世間話に比べると一歩踏み込んだ、プライベートな話題。超えてはいけない、そして越えられたくない一線を見極めねばとヒヤヒヤしている俺をあざ笑うかのように、クリスは気さくに自分の過去を話す。彼女を倣って俺ももう少し、気負わずに自分の事を話してもいいのかもしれない。

 そんな事を考えていると、ちょうど店員が俺達の注文した料理を盆に乗せて運んで来たので、お喋りは一時中断。

「へえ、全然美味しそうじゃないですか。じゃ、いただきます」

「いただきます」

 クリスが割箸を割り、礼儀正しく小さな一礼をしてから鰆の味噌漬けを食べ易いよう丁寧にほぐし始めたので、俺も自分の料理に手をつける。俺の箸の持ち方が少し間違った自己流なのに対して、アメリカ人のクリスは正しく箸を扱えているのが、何だか少し情け無い。

 俺の眼前に置かれたのは、少し奮発して注文した、久し振りの牛肉。メニューには「和風牛ステーキ」とだけ表記されていたが、あれは「和風ソースのかけられた牛ステーキ」と言う意味であって、国産和牛肉のステーキではないのだろう。おそらくは、オーストラリアから輸入された冷凍のオージービーフ。今のご時勢国産の牛肉だったら、とてもじゃないがこの値段では食えない。

 肉の出自はどうあれ、とにかく平皿に盛られた切り分け済みの大振りな牛ステーキに、付け合わせはマッシュポテトと大根おろし。肉の脂で焦がされた、ポン酢ベースの和風ソースの香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

 メインの牛ステーキとは別に、小鉢と言うにはやや大きめの鉢に盛られた、いい具合に味の染んでいる照りの綺麗なブリ大根。それに定食お決まりの白米と味噌汁と、白菜の漬物。白味噌仕立ての味噌汁の具は油揚げと大根で、どれも素朴な味わいだが、その奇をてらわない可も無く不可も無くなラインナップが、むしろ嬉しい。

「……そっちも美味そうだな」

「ええ、美味しいですよ?」

 他人の食事に目移りするのは行儀が悪いのかもしれないが、クリスの注文した鰆の味噌漬けも、香ばしく焦げた白味噌が見るからに美味そうだ。小鉢の刺身も鰆だろうか? 脂の乗った白身が実に美味そうで、それを口に運ぶクリスの笑顔が少し恨めしくすらあった。

 この長沖市にはこれと言った名所旧跡は存在しないが、唯一の産業と呼べるそこそこ大きな漁港から新鮮な魚介類が手に入るおかげで、市内の飲食店は魚料理が充実している。やはり俺も鰆にしておけば良かったかなと少し後悔してみたが、今となってはもう遅い。

「良かったら先輩、少し食べます?」

 俺の物欲しげな視線に気付いたのか、クリスが小鉢をこちらに差し出して尋ねた。

「あ、じゃあ一切れ貰っていいか? なんか悪いな」

「別にいいですよ、先輩が言ってた通りこの店、食べ切れないくらい量ありますし」

「じゃ、遠慮無く」

 貰った刺身を醤油につけ、口に運ぶ。鰆だかカンパチだかハマチだか、その白身魚の正体は俺の鈍い舌では判別がつかなかったが、どちらにせよ美味い事には変わりない。気のせいなのかもしれないが、いつもは独りで来て食っているこの店の料理も、二人で食うと不思議といつも以上に美味く感じる。そして食事が美味いと、自然と人は無口になる。俺とクリスは特に会話らしい会話も無いままに、盆に乗った皿が全て空になるまで、黙々と目の前の食事を平らげ続けた。実は自分達は二人とも、思っていた以上に空腹だったのだなと痛感しながら。


   ●


「ふう、ごっそさん」

「ごちそうさま」

 食事を終えた俺は、湯飲みに注がれた熱い日本茶を一口啜って、腹を落ち着けた。クリスも腹を満たし終えたようで、向かいの席で俺と同じく茶を啜っている。胃の奥から何度もゲップが出そうになるが、流石に女の子の前でそれは下品が過ぎるので、グッと我慢。今だけは、紳士を気取らせてもらう。

 それにしても、久し振りに食べる獣肉は美味かった。血の香り漂う赤身肉はマグロの赤身とはまた違った言葉に出来ない独特の旨みと野趣に満ちており、これを味わえない菜食主義者が可哀想にすら思える。

 茶を啜りながらそんな事を考えていた俺の耳に、クリスの斜め後ろのテーブル席に腰を下ろした団体客の会話が不意に届いた。その内容は偶然にも、今しがた俺が考えていた菜食主義に関する事に他ならない。

「なんだよお前、また野菜しか食わないのか? そんなんだから、いつまで経ってもガリガリなんだって。ほら、この店はステーキも置いてんだから、たまにはもっと精の付く物食えよ」

「いいですよ、俺は肉とか食わない主義なんですから」

「まーたウイルスが怖いとか言い出すのか? そんな魚の肉食ったくらいじゃ感染なんかしやしないんだから、気にせず食えばいいのに」

「そうそう、肉食って感染した奴の話なんて聞いた事ねーし」

「もう、放っといてくださいよ……俺の勝手じゃないですか……」

 テーブル席を占めているのは、塗料と機械油の染みで汚れた薄水色の作業ツナギに身を包んだ、四人組の男性客。見た所同じ職場で働く同僚の一団らしく、おそらくは昼の仕事を終えてから、少し遅めの昼食を摂りに来たのだろう。人の事は言えないが、肉体労働者の常で全員妙に声が大きく、その会話は店内に丸聞こえだった。

 会話の内容から推察するに、四人の中で一番後輩だと思われる若くて痩せた男が菜食主義者らしく、その事を周囲の三人の先輩に野次られているようだ。正直言って野次っている三人はあまりガラが良いようには見えず、また菜食主義者に肉食を無理強いするのは如何なものかと思うので、俺もガリガリの彼と同じく放っといてやれよと言うのが率直な感想だった。だが同時に、ウイルス感染に端を発する菜食主義は愚かだとも思うので、今一彼に同情し切れないでもいる。

 この店のメニューを見ても、『ベジタリアン向け』と表記された、一切の動物性蛋白質を含まない野菜料理が数多く並んでいる。その事実が示すように、『大流行』以降、ゼイビーズウイルスへの感染を恐れて菜食主義に転向した者は多い。世間には未だ、テーブル席で野次られているガリガリの彼の様に、ウイルスがあらゆる動物の血肉から感染すると狂信的に信じ込んでいる人間が少なくないのだ。

 科学的な事実として、ゼイビーズウイルスが属するリッサウイルス属は哺乳類のみに感染し、鳥類や魚類には一切感染しない。それに感染した哺乳類の肉であっても、ゼイビーズウイルスは低温にも高温にも極めて弱いため、火を通して調理するか一度冷凍してしまえば、たとえ捕食しても感染の危険は無い。だが現実には、今も多くの無知な市民が感染を恐れて菜食主義に走っただけでは飽き足らずに、逆に肉を食い続ける人々を無知蒙昧な愚者呼ばわりする始末だ。

 挙句の果てには、ゼイビーズウイルスは動物の肉を喰らう人間に対する神の鉄槌だとか言い出す新興カルト宗教までもが流行りだす有様で、本当に人間と言う奴は、追い詰められると何をしでかすか分かったものではない。そんな狂信者達からすれば、獣肉を食って喜んでいる今の俺は、頭のおかしい命知らずに見える事だろう。まったくもって、無知は罪とはよく言ったものだ。

 そんな事を考えながら満腹になった腹をさすっていると、向かいの席のクリスが静かに口を開く。

「……田崎先輩は、兄弟はいるんですか?」

「俺? いや、俺は一人っ子だよ。……どうして?」

 心ならずも反射的に、少し上ずった声で俺は答えた。プライベート、それも家族に関する事を聞かれると無意識に身構えてしまう自分が、相変わらず情け無い。

「そうですか……あたしも一人っ子だから、兄弟がいるってどんな感じなのか、いる人にはいっつも聞いてるんですよ。でもそっか、先輩も一人っ子か……」

 少し考え込んでから、クリスは続ける。

「あたしは昔から、大家族ってのに憧れてるんですけど、田崎先輩はどうですか? やっぱり、あたしと同じで一人っ子だから、大家族に憧れる? それとも、小じんまりとした家庭の方が落ち着くタイプ?」

「え? あ、いや、俺はどっちが良いとか考えた事も無いなあ……考えた事が無いって事は、別に大家族に憧れは無いって事なんだろうけど」

 予想もしていなかった質問に少し面食らった俺は、適当な返事をしてしまった。果たしてこの答が正解だったのか否か、その結果に少し不安になる。だが不安になると同時に、年頃の女の子から将来の家族構成の嗜好に関して訪ねられるのは、やはり深い意味があるのではないかと少し期待したのも事実だった。

 だがクリスが続けて語り始めたのは、そんな俺の期待とは全く違う、彼女の過去について。

「沖縄の米軍キャンプに住んでいた頃は、同じ基地で働く隊員の子供達で毎日集まって、みんな兄弟みたいに仲良く遊んでたんですよ。……まあ、狭い土地ですし、仲間意識が強かったから、自然にそうなっちゃうんですけどね」

 クリスは俺の顔から視線を外すと、少し遠い目をして窓の外を見るともなしに見つめながら、言葉を並べ続ける。

「キャンプ全体が一つの大きな家族みたいなもので、みんな仲が良くて、本当の家族じゃないけど本当の家族みたいで……。あたしも大人になったら海兵隊に入隊して、ここで結婚して家庭を持って、そうしたら沢山子供を生んでもっともっと家族を増やしてみんなで仲良く暮らすんだって、そう思ってたんですよ。今考えると子供っぽくて馬鹿みたいだけど、あの頃は本気で」

 俺が言葉を差し挟む余地など無く、まるで自分自身に言い聞かせるような口調で、クリスは語り続ける。懐かしそうな、それでいて少し悲しそうな愁いを帯びた表情を、その可愛らしい顔に浮かべて。

「それが五年前にあんな事になって……あたしのウチみたいに親の代からずっと沖縄に住んでいる家は最後まで残ってたけど、大半の隊員の家族は、さっさとアメリカ本土の実家に帰還しちゃったんですよね。日に日に基地内の人がどんどん減って、隣近所が空き家だらけになって、人の声もまばらになって、まるで家族が離れ離れになって行くみたいで……。それであたし、気付いちゃったんですよ。結局みんな、偽物の家族だったんだなって。本物の家族じゃなかったんだなって。本物の家族は、血が繋がってる人達だけなんだなって。……だからキャンプの友達がみんな居なくなって、最後にあたし一人だけが取り残された時に思ったんですよ。血の繋がった実の兄弟が居たら、こんなに寂しくはなかったのかなあって」

 当時感じていた心情が蘇ったのか、クリスの眼から涙が一筋、頬を伝って零れ落ちた。俺は内心動揺するが、今は只、語り続ける彼女を傍観する事しか出来ない。

「父さんとお爺ちゃんが行方不明になって、海兵隊がアメリカ本土に帰還してからは、あたしは神奈川のお婆ちゃんの実家に引き取られたんですけど……元々うちの家族は作戦が無事に終わったら除隊して、みんなで沖縄に残ろうって決めてたんですよね。日本が自分達の故郷だって。家族が離れ離れになるのだけは絶対に避けようねって。皮肉ですけど、血の繋がっていないキャンプでの偽物の家族と別れた事が、かえって本物の家族の絆を強くしたんですよ。……でも結局は神奈川のお婆ちゃんも去年亡くなって、あたし一人が取り残される事になっちゃったんですけどね」

 クリスの両眼からは今や、涙が止め処なく溢れている。そんな涙に濡れた顔をこちらに向けると、彼女はじっと俺の瞳を見つめ返した。そして一呼吸置いてから、ゆっくりと口を開く。

「先輩……だからあたし、一言お礼を言って、謝らなくちゃって思ってたんです……入院している間、ずっと。……あの日、父さんを撃たなければならなかったのは、あたしなんです。あたしがこの手でやらなきゃいけなかったんです。家族の不始末は、同じ家族がけじめをつけなきゃいけなかったんです……」

 既にクリスの声は、嗚咽交じりの涙声へと変わっていた。

「それにあたしは軍人の娘として、たとえ相手が実の父親であったとしても、与えられた任務を遂行しなきゃならない義務があったんです。他ならぬ父さん自身が、それを教えてくれたんです。……それなのに、あたしはそれから逃げたんです……それを田崎先輩と葉山先輩に、押し付けてしまったんです……」

 大きく一度深呼吸してから、腹の底から搾り出すような声でクリスは言う。

「先輩……ありがとうございます……ごめんなさい……」

 小さな唇から発せられた、感謝と謝罪の言葉。実の父親を殺した俺達に、恨みや復讐とは行かないまでも、決して良い感情は抱いていないだろうなと正直思っていた。それがまさか礼を言われるとは予想もしていなかったので、俺は心底面食らう。

 テーブルの上に置かれた紙ナプキンを数枚抜き取ると、それを真っ赤に充血した眼に押し当てて、零れ落ちる涙を隠そうとするクリス。それら一連の行動を不審に思っているらしい店員が時折、横目でチラチラと俺達の様子を窺っているのが正直鬱陶しい。

 顔を俯かせ、声を殺して泣き続けるクリスに、俺は一体どう反応していいのかさっぱり分からず声も出なかった。そして俺と彼女との間に横たわる価値観の違いにもまた、戸惑いを隠せない。だがおそらくは、クリスなりに心に抱く家族と言うもののあるべき姿と、軍人の娘としての確固たる矜持があると言う事だけは、何となく理解出来た気がする。そしてそれがあの日、あの浜辺で出会った変わり果てた姿の父親を、俺達とは全く違う視点で捉えさせていたであろう事も。

「クリス……」

 ぼんやりとではあるが、クリスとの心の距離が少しだけ縮まったように感じた俺は、彼女の名前をそっと呟いた。だが情け無い事に、それ以上のかけるべき言葉が思い浮かばない。結局俺は、手で顔を覆って小さな嗚咽を上げ続ける彼女の頭を、優しく撫でてやる事しか出来なかった。

 クリスは父親の死と共に、一歩前へと進む覚悟を決めた。今の彼女なら、おそらく実の父親ですらも殺せるだろう。だがそれに対して、この俺はどうだろうか? 人を殺す事に対する覚悟が揺らいでいる今の俺に、果たして躊躇い無く銃の引き金を引き、ゼイビーズを駆除する事が出来るのだろうか? クリスを慰める資格が、そもそもこの俺にあるのだろうか? その答が、今はまだ見えない。

 俺の胸の奥にまた、あのドロドロとした熱く重い塊が蘇り、軽い吐き気と共にその顔を覗かせる。

 店内の有線放送からは、一昔前のアイドルが歌う能天気な流行歌が流れて来ていた。


   ●


「……そろそろ出るか」

 そう言って俺が席を立つと、今はもう涙も嗚咽も止んだクリスは無言のまま、それに従った。

 時間にすれば、十分経ったかどうか。結局俺は声を殺して泣き続けるクリスに何の言葉もかけてやれないまま、彼女が泣き止むのを無言で見守っていただけだったが、おそらくはそれで正解だったのだと思う。余計な気遣いで同情されるのも激励されるのも、今の彼女にとっては本意ではないだろう。そっとしておいてやる事が一番の解決策である事は、この世の中には意外なほど多い。

 レジで会計を済ませた俺は外に出ると、暖かかった店内との気温差にぶるっと身体を震わせ、急いで上着のポケットに手を突っ込んで少しでも寒さから逃れようと試みる。

「へぷちっ」

 少し遅れて店から出て来たクリスもやはり寒いのか、小さなくしゃみを一つしてから、店内では脱いでいた革ジャンを急いで着込んで暖を取る。もしかしたらこの使い込まれて味の出た軍用革ジャンも、海兵隊員であった彼女の父親か祖父から譲り受けた、思い出の品だったりするのかもしれない。長身のクリスが着るにしても、明らかにサイズが一回り以上は大きい点から推測するに、その可能性は充分に考えられる。

 その素性を鑑みれば、クリスにとってのミリタリーファッションは決して見てくれだけのものではなく、彼女自身のアイデンティティーを示すものに他ならない。何故なら彼女は国境防疫隊の様な軍隊もどきとは一線を画す、正真正銘本物の軍人の家系に生まれた身なのだから。

 ともすれば俺達第五小隊の中で、一番軍人としての資質を持ち合わせているのは、一番若い少女であるこのクリスだと言えなくもない。そう考えると俺は、これまで彼女に先輩風を吹かせていた自分が少しだけ情け無くて、ちっぽけな存在に思えて来る。穴があったら入りたいとは、こんな状況を言うのだろうか。

 だがそんな俺の心情などまるで察していないクリスの顔には、もういつもの能天気な笑顔が戻って来ていた。そして彼女はピンと立てた右手の人指し指を、意味も無くクルクルと回しながら提案する。

「じゃ、行きましょうか、田崎先輩……って、これからどこに行きます? 先輩、今日は非番なんですよね? あたしも通常勤務への復帰は明日からだから、今日は丸一日空いてるんですよ。どこかに買い物にでも行きます? それとも、映画でも観に行きますか?」

 そう問いかけて来るクリスの表情はいつもの能天気な笑顔だったが、その眼は真っ赤に泣き腫らしていて、少し痛々しい。せめて瞼の腫れと眼の充血が治まるまでは、人の集まる場所は避けた方が彼女も恥をかかずに済むだろうと、いつに無く気を利かせた俺は返答する。

「そうだな、河原の公園の方に行って、散歩でもするか? 腹を落ち着けるために、軽く身体を動かした方が良いだろうしな」

「いいですね、それ。確か途中に、美味しい和菓子屋さんがあるんですよ」

「なんだお前、まだ食う気なのか?」

「当然です。女の子にとって甘い物は、別腹ですから」

「太るぞ」

 ちょっと呆れ顔で応えながら、まるでデートみたいだなと俺は思う。

「こうしてるとなんだかまるで、デートしてるみたいですね」

 間髪を容れず、俺と同じ感想を述べるクリス。まるで心の内を見透かされたかのように考えていた事をズバリ言われて驚いた俺は、思わず変な声が出そうになるのを何とかこらえて、笑って誤魔化す。

「あ、ああ、そうだな」

 少し硬くなった作り笑顔で俺が応えた、その直後。ジーンズのポケットの中の携帯電話がバイブ振動と共に着信音をがなりたてて、メールが届いた事を伝えた。俺のもクリスのも、両方同時に。

 メールの発信者は『第四中隊基地本部』。件名は『緊急招集命令』。

 冷たい風が一陣ぴうと吹いて、クリスの革ジャンの裾を揺らした。

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