第七幕


 第七幕     十一月二十四日 午後



 本格的な冬の足音が忍び寄る、十一月も終盤を迎えた日本海。そこから吹き付ける海風が、肌に突き刺さるように冷たい。

 長沖西海岸のパトロール専用道路に停められた、第五小隊副班の武装バンの上。俺はトップルーフから上半身だけを覗かせ、七〇式小銃を援護のために構えていた。

 一際強く吹きつけた海風の冷たさに、背筋がぶるっと震えた、その直後。小銃のスコープが切り取る丸く小さな視界の中で、防護スーツに身を包んだ榊が、薄汚れた女ゼイビーズの頭を散弾銃で吹き飛ばした。一拍遅れて、銃声がここまで届く。

 あいつは面倒臭がりな性分故に、散弾銃の威力に頼り過ぎる癖がある。だがあのやり方では汚染された肉片が広範囲に飛び散るので、消毒用の石灰を散布する処理班の職員からは、出来るだけ控えて欲しいとの苦情が絶えない。

 散弾銃はあくまでも、襲い掛かって来るゼイビーズの動きを抑制するために、浅い射角で四肢を破壊する目的のみに用いる。そして止めの一撃は、自動拳銃でコンパクトに対処するのが本来の定石だ。汚染範囲を無駄に広げ、周囲にも無用な被害を及ぼす可能性が高い水平射は可能な限り避けるべきなのに、榊はいつまで経ってもそれを守ろうとはしない。

「葉山先輩、駆除完了です」

「了解。サーモスコープで目標の体温低下を確認し終え次第処理班に連絡するので、それまではそこで待機せよ。……それと毎回言っているが榊、お前は急ぎ過ぎだ。もう少し焦らず、落ち着いて駆除しろ。また処理班から文句を言われるぞ」

「了解です。以後、気をつけます」

 榊と葉山副小隊長のお決まりのやり取りが、耳にはめた無線インカム越しに聞こえた。以後気をつけますと毎回言っているが、どうせ榊は次の出動でも、同じ事をするのだろう。あいつの反省はいつも口先ばかりで、守られた試しが無い。あのいい加減な性格が災いして、いつか何か、とんでもない失敗をやらかさなければ良いのだが。

「それじゃ田崎、バルーンの準備だ」

「了解です」

 出番の無かった小銃の薬室から弾丸を抜いた俺は、副小隊長の指示に従って、この後駆けつける処理班の目印として上空に飛ばすバルーンの準備に取り掛かる。

 このバルーンと言う奴は、遠くからでも目立つよう蛍光オレンジ色に塗られた分厚いゴム生地の袋に、ヘリウムガスを詰めただけの代物に過ぎない。分かり易く言えば、ちょっと頑丈な風船の親玉みたいな奴だ。勿論只の風船とは違い、勝手にどこかへ飛んで行ってしまわないように金属製のワイヤーでバンに連結されていて、内部のガスを詰め替えれば何度でも再利用可能になっている。

 未だしぼんでいるそれをバンの車外に持ち出した俺は、付属のボンベからヘリウムガスを注入しながら、ここ最近の業務内容に関して思いを巡らす。

「今日もまた、出番無しか……」

 偶然が重なっただけなのだろうが、およそ一ヶ月前にクリスの父親の頭を吹っ飛ばしたあの日の出動以来、俺に防護スーツを着てゼイビーズと直接対峙する機会は一度も訪れていない。

 俺にお鉢が回って来ない、その理由は何か。三人一組で出動するこの業務においては、指揮官を除いた残り二人の隊員の内の片方が至近距離から駆除業務を行って、他方は武装バンからその援護を担当する規定になっている。この際どちらの隊員が駆除業務を行うかは日替わりのローテーションで決まるのだが、最近は俺の担当になっている日に限って、ゼイビーズが漂着して来ないのだ。

 その偶然の連続に、俺は内心ホッとしていた。と同時に、大きな不安を抱えている自分にもまた気付いていた。今の俺は以前と同じように、銃の引き金を引けるのだろうか? そして以前と同じように、人を殺せるのだろうか? そんな不安が、俺の心に重く圧し掛かる。

 クリスを見舞ったあの日。医療棟の喫茶室で、そして寮の自室で感じた、あの強烈で生々しい人殺しの実感。それは今も尚、俺の胸の中で重くドロドロとした塊となって心を蝕み続けるのを止めず、思い出す度に軽い吐き気がこみ上げて来る。

 一応この一ヶ月で、自分なりに心の整理をつけたつもりだ。だがそれでも、今再びゼイビーズと相対した時。しかもそれが、あの日のクリスの父親の様に名前も素性も知れた人間だった場合に、果たして俺は以前のようにその頭を吹き飛ばして平然としていられるのだろうか? そして平然としていられたにせよいられなかったにせよ、どちらにしても自分の中の大切な何かを失ってしまうようで、俺は怖かった。

 一人の人間を殺す。今はただ純粋に、それが恐ろしい。恐ろしくて恐ろしくて、仕方が無い。

 勿論それは、つい先程までスコープ越しに覗いていた汚物まみれの女とて、例外ではない。最終的に俺が引き金を引く事は無かったが、あの女だってゼイビーズウイルスに感染する以前は、どこかの土地で文明的な生活を営む罪無き一市民に過ぎなかった筈だ。名前も家族も有し、その年齢と同じだけの月日をかけて築き上げられた人生を背負った、一人の人間だった筈だ。

 仮に榊が駆除に失敗して、小銃による狙撃で仕留めなければならなくなっていたとしたら、俺はその全てを彼女から奪い去る事が出来たのだろうか? それ以前に俺は、本当にあの女を狙っていたのだろうか? 無意識の内に、照準を逸らしていたのではないだろうか? そんな疑問符がこの一ヶ月間、掃っても掃っても手応えが無く消えてくれないもやの様に、俺の心にまとわりついて離れない。

「田崎、もういいんじゃないのか?」

「え? あ、すいません。ボーっとしてました」

 無線インカム越しに投げかけられた副小隊長の声で我に返った俺の目の前で、いつの間にかバルーンは限界まで膨らみ切って、パンパンになっていた。

 バルーンのガス注入プラグには圧力を感知して働く安全装置が付いているので、必要量以上のヘリウムガスを注入して破裂させるような事故は起こらない。だが事故は起こらなくとも、間抜けな理由で副小隊長に注意されてしまったのはバツが悪いなと思いながら俺はガスボンベのプラグを抜くと、膨らませている途中でバルーンが飛んで行かないようにバンに固定していたフックを外した。

 今にも雪が降り出して来そうな、薄いグレー一色に染まる初冬の曇り空。そこに蛍光オレンジ色のバルーンが一つ、ゆっくりと浮かび上がって行く。その光景は、まるでモノクロフィルムの映画の中に一点だけ鮮やかな総天然色の物体が紛れ込んでいるようで、何だか物凄い違和感を覚えて気持ちが悪い。

 タイトルは失念したが、昔ネットTVで観た映画に、そんなシーンがあった気がする。確か主人公達が魔法だか何だかの力でテレビの世界の中に飛び込んでしまい、途中まではモノクロの画面なのだが、物語が進行するに連れて次第にカラー映像が混ざり始め、最終的には全ての登場人物達がモノクロ派とカラー派に分かれて対立すると言う内容だったと記憶している。

 その映画を観ていた時の強烈な違和感と、自分の眼がおかしくなったのではないかと言う不安感が、この曇り空に浮かぶ蛍光オレンジ色のバルーンからも微かに漂っていた。そこに在る筈の無い物が在ると言う、むしろ恐怖に近い感覚が。

「なんか、嫌な感じだな」

 ボソリとそう呟いた俺は、少しだけ背筋をゾッとさせた。

 そう言えば、その異常な違和感を覚えた映画を観たのは、確か自宅のリビングだった筈だ。まだ『大流行』以前の、父さんが健在だった頃だろうか。今となっては懐かし過ぎる、過ぎ去ってしまったあの時、あの場所。

 国家や世界と言ったマクロな単位は勿論の事、家庭や学校と言ったミクロな単位で見ても、『大流行』はそれまでの平凡な日常を俺達からごっそりと奪い去って行った。あの日、俺の家族が並んでソファに座って映画を観ていたマンションのリビングも、今は知らない誰かの手に渡っているのだろう。

 『大流行』で北米の本社が『沈黙』した結果、父さんの勤めていた映画の配給会社はあっけなく消滅した。突然収入源を断たれた我が家に訪れた、決して潤沢とは言えない貯金を切り崩して生活する日々。食料品に医薬品に燃料、更には海外の安い労働力で作られていた日用品等が商店の棚から次々と姿を消して行く中で、俺と両親の三人家族は、何とか手に入る品々を消費しながら慎ましい生活を送る事を余儀無くされた。勿論それは我が家に限った話ではなく、当時はどこの家庭でもそうならざるを得なかったのだが。

 そんな殺伐とした日々の中でも父さんは、必死で再就職先を探した。だが国全体、いや人類全体が大混乱に陥っている最中にあっては、そうそう条件の良い働き口が見つかる筈も無い。結局父さんの職探しは難航し、無駄に時間ばかりが浪費されるだけだった。

 不思議な事に当時、岡山県で果樹園を営む母さんの実家から何度もあった転居の誘いを、父さんは頑なに拒み続けていた。今にして思えば何故もっと早くそれに頼らなかったのかと、悔やまれて仕方が無い。食糧不足と不安定な社会情勢の中では、農家は魅力的な就職先だ。そのため多くの若者がこぞって地方の農村に働き口を求めて押しかけ、場合によっては高校を中退してまでも、その列に加わったと言うのに。

 思うに父さんは、それまでに築いて来たキャリアが生かせる仕事に固執していたのかもしれないし、もしくは生まれつき脚の機能に若干の障害があったので、農業に従事する自信が無かったのかもしれない。それともその障害が原因で、自分が家族のお荷物になる事を恐れていた事も考えられる。もしかしたら俺が高校を卒業する迄は転居しなくてもいいように、あの町から通える範囲で就職先を見つけようとしてくれていた可能性も、否定出来ない。

 だがどんな推測を立てようとも、唯一その答を知っている父さんは、今はもうこの世にいない。俺の高校卒業を半年後に控えたあの日あの夜、駅のホームから線路に転落したまま、父さんは帰らぬ人となった。

 脚の障害が原因の事故だったのか、それとも精神的な疲弊が原因の投身自殺だったのか。その真相は今尚謎のままだし、正直言ってそのどちらでも、俺は構わない。どちらにしても、父さんが死んだ事実だけは揺るがないのだから。

 父さんが死んで、残された家族に何か心境の変化があったのかと言えば、意外なほどそれまでと変わらぬ日常生活を送っていた。

 俺は相変わらず淡々と高校に通い続けていたし、当初は夫の早過ぎる死に塞ぎ込んでいた母さんもすぐに立ち直って、早々に平凡な日々を取り戻した。おそらくそれだけ誰もが、人の死と言うものに慣れ切ってしまっていたのだろう。何せ、その頃には既に日本の人口はほぼ半減していたのだから、むしろそれまでに近親者が誰一人として亡くなっていなかった事の方が奇跡に近い。

 そう言った事実を鑑みて当時を振り返れば、それは何の不思議も無い事だったのだと思う。だが父さんの死をあっさりと受け入れた母さんに対して当時の俺は、言葉に出来ない不信感を抱いた。やがてその不信感は、思春期に誰もが抱く異性の親に対する生理的な嫌悪感と重なり、俺と母さんの心の距離は日増しに遠退いて行った。そして最終的にはそれが原因となって、家族から距離を置くために、高校卒業と同時に実家を出て就職する決意を俺に固めさせる。

 そうして選んだ就職先は、衣食住の全てを保障してくれて、尚且つ何の資格も持たない高卒の俺を受け入れてくれる場所。結果としてそれが、発足して三年目を迎えた国境防疫隊だった。

 今にして思えば、何て短絡的な思考で自分の将来を決めてしまったのだろうかと、当時の自分の愚かさに反吐が出そうになる。だがあの頃の俺は愚かなりに、真剣で必死だったのだ。

 そして俺の高校卒業と国境防疫隊への入隊を待ってから、当時住んでいた千葉県郊外の分譲マンションは売却処分。母さんは実家に帰って両親の経営する果樹園を手伝い始め、今も偶に桃やマスカットに混じって送られて来る写真の笑顔を見る限り、むしろあの頃よりも幸せそうですらある。

 そんな事を思い出していたらなんとなく、空に浮かぶ蛍光オレンジ色のバルーンが、何か巨大な果物の様にすら思えて来た。

 大空に、巨大な果物。そりゃ違和感を覚える筈だ。

「田崎、お前も飲むか?」

 不意に背後から声をかけられて振り向くと、葉山副小隊長が湯気の立つお茶の入ったプラスチック製のカップを両手に持って立っていた。

「あ、頂きます」

 差し出されたカップを受け取った俺は、香ばしい香りの漂う玄米茶をグッと胃に流し込む。車内の電気ヒーターで温められたお茶は熱過ぎない程度の飲むにはちょうど良い温度で、海風に当たって冷えた身体に心地良く染み渡って行く。

 胃の中から身体を温めながら周囲を見渡せば、後方には相変わらずパトランプを赤く点滅させてこちらを監視する、警察車輌の姿。最近は奴らによる監視が以前にも増して執拗になっているように感じられるのだが、やはり俺達防疫隊の無線を盗聴していると言う噂は本当なのだろう。だがそれに対して俺達が取るべき最善の対応は、徹底した無視以外に無い。小隊長からも、奴らには関わるなと念を押されている。

 俺は小さく嘆息して警察車輌に背を向けると、副小隊長との会話に意識を戻す。

「しかし先輩、寒くなって来ましたねえ」

「ああ、もうこの辺も本格的に冬らしくなって来たな。このままだと今年は、初雪が近いかもしれんぞ」

「そうですね、今月中には降り始めるんじゃないですか?」

「そうだな。そろそろバンのタイヤも、スタッドレスを用意してもらうか」

 昨年この地に赴任して来るまでは、山口県と言うのは西日本なのだから、関東よりもずっと暖かいのだろうなと思っていた。だが実際には想像していたよりも遥かに寒くて、雪も頻繁に降り積もり、俺の認識がいかに甘かったかを思い知らされる結果になった。日本海に面している土地なのだから、少し考えれば関東よりも寒い事くらい容易に想像出来た筈なのに、まったく当時の自分の愚かさが恨めしい。

「あーええなー。俺も飲みたいなー。熱いお茶が飲みたいなー」

 俺と副小隊長の会話を聞いていた榊の恨めしそうな声が、無線インカム越しに聞こえて来た。見てみれば、防護スーツを着込んだ榊は俺達から二百mほど離れた浜辺で防護フェンスを背もたれにして、寒そうに膝を抱えて座ったままぼやいている。

 駆除業務で直接ゼイビーズと接触した隊員は、処理班の回収車が到着する迄は既に死体となった駆除目標の近くで待機し、俺達残された隊員に接触してはならない。故に榊はいくら寒くても、熱いお茶の注がれたカップを受け取る訳にはいかないのだ。もし仮にカップを受け取る事が出来たとしても、どのみちあの防護スーツとヘルメットを着用したままで飲食する事は不可能なのだが。

 それを重々理解した上で、尚も榊は無理な要求をぼやき続けている。

「ははは、処理班が来るまで我慢しておけ、榊。その後は暖かい部屋で三日間ゴロゴロ出来るんだから、そこでお茶でも何でも好きなだけ飲んだらいいじゃないか」

 葉山副小隊長が笑いながら、榊の愚痴に応える。

「そない言われてもなー。今寒いのはどーにもならんけん、かなわんなー」

「そんな事言って、どうせそんなに寒くはないんだろ? 防護スーツ着てんだから」

「せやけど、俺だけ仲間外れにされよるみたいでなんか納得いけへんもん」

 榊の愚痴は更に暫く続いていたが、相手にするだけ時間の無駄なので、俺は無視する事にした。海風に吹かれながらカップに残った玄米茶の最後の一口を啜っていると、隣に立った葉山副小隊長が、やおら口を開く。

「……そう言えばそろそろ、クリスが退院する頃じゃなかったかな? 田崎、榊、お前達は何か聞いているか?」

「俺はなんちゃ聞いてないですよ。たっつぁんは?」

「いや、俺も何も。……だいたい副小隊長様が知らない事を、俺や榊みたいな下っ端隊員が知っている訳無いじゃないですか」

 副小隊長から突然振られた話題の内容に、俺は少しギクリとする。そして同時に、ドロドロとした胸の奥の熱く重い塊が、再びその顔を覗かせるのを感じた。

 夕暮れの病室で、俺と副小隊長が射殺したゼイビーズが自分の父親だったと告白されたあの日以来、俺はクリスの見舞いには一度も行っていない。自分が殺した男の娘と、一体どんな顔をして会えばいいのかさっぱり見当がつかなかった俺は、行こうと思えばいつでも見舞いに行けたにもかかわらず、意図的にそれを避けて来たのだ。

 彼女の顔を思い出して無言で項垂れる俺とは違い、当事者の一人である筈の葉山副小隊長は、顔色一つ変えずに会話を続ける。

「そうか、お前達も何も聞いてないか……。いやな、クリスが帰って来てもまだ除隊しないようなら、彼女の退院祝いを小隊の皆でやろうかと思っていたところなんだがな。そうなったら、お前達はどうする? 参加するか? しないか? ……まあ、未だ日時も何も決まってないんだがな」

「あ、俺、参加します」

 榊が即答した。対して俺は上手い返答が思い浮かばず、空のカップを口元に運んで、何を言えば良いのか分からない唇の寂しさを誤魔化す。

 クリスが帰って来る。その時彼女は一体、父殺しの俺にどんな顔を向けるのだろうか。果たして俺は、彼女にどんな顔を向ければいいのだろうか。

 空にはまだ、場違いな蛍光オレンジ色のバルーンが風に泳いでいた。

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