第六幕


第六幕     十月二十六日 午後



 萩市の大隊本部基地に到着した俺と葉山副小隊長の二人は、中隊基地のバス停で乗せてもらった軽トラックの運転手に軽く礼を述べてから降りると、その足で敷地内に在る医療棟へと向かった。ここで言う『バス停』とは、いわゆる普通の、市営バスが停車するような正規のバス停の事ではない。

 中隊基地から大隊本部基地に向かう際や、もしくはその逆の際。基地の周囲は民間の立ち入りが制限されているので、普通のバスやタクシーを利用しようと思ったら、一旦制限区域外まで出なければならないので非常に面倒だ。かと言って基地の備品の公用車を借りようと思えば、これも事前に文書による手続きが必要なので、手間がかかる。そこで多くの隊員は、基地のゲート脇等で自分の目的地の書かれたプラカードを掲げて立ち、そこに向かう車に相乗りさせてもらうのが慣例になっていた。要は基地と基地とを繋ぐヒッチハイクの様なもので、俺は隔離棟から中隊基地に帰って来る際にも、これを利用している。

 このヒッチハイクシステムが、全国どこの防疫隊でも行われている事なのかどうかを、俺は知らない。だが少なくとも一年前に俺が配属された時には既に、この第七管区国境防疫隊第一大隊の基地間では、ごく普通に行われていた。そしてこの、ベニヤ板に汚い手書き文字で目的地の書かれたプラカードの置かれている各基地の植え込みやベンチの事を、俺達防疫隊員は通称『バス停』と呼んでいる。

 かくしてそのバス停を利用し、俺達はクリスの見舞いにやって来た。

 ゼイビーズとの接触による『感染疑い』の観察期間が終了したため、クリスと葉山副小隊長の二人は昨夜、隔離棟の経過観察室から開放された。だが即日原隊復帰した副小隊長と違い、負傷しているクリスはそのまま同じ敷地内の医療棟に入院し、一ヶ月は安静にしていなければならないとの診断が下された。ただしそれは肉体の負傷のみの話で、精神に負った傷がどれ程の時間をかければ治るのかは、定かではない。

 当然この三日間に幾度も、鈴原小隊長がクリスの容態を医療棟に問い合わせていた。だが彼女は診察した医師にも何も話さず、今日の午前中に単身病室を訪ねた小隊長本人を前にしても、只静かに涙を流すだけだったと言う。

 その小隊長とは別行動で、俺達二人は午後勤務との交代を終えてから来たために、既に太陽は西に傾きかけていた。

「……クリス、大丈夫ですかね?」

「さあな……小隊長の話だと、随分と憔悴してたって言うしな……どうなんだか」

 俺が発した曖昧な疑問に、葉山副小隊長も曖昧な答えを返した。

「一体何がそこまでショックだったんですかね……。そりゃ、俺だって初仕事の時はショックでしたけど、少なくとも自分がどんな仕事をさせられるのかは充分理解出来ていた筈ですし、そこまで立ち直れなくなるなんて……」

「いや田崎、お前は知らないだろうけど、お前が配属されて来る前に居た篠崎も研修期間中はヘラヘラして大口叩いてたくせに、いざ本番を迎えてみたら今回のクリスみたいになっちまったからな。それで観察期間を終えたら、そのまま隊に顔も出さずに辞めて行っちまったし、決して珍しい事じゃないのさ。特にクリスはまだ若い女の子だ。ショックで辞めちまってもまあ、仕方無いっちゃあ仕方無いのかもな」

「そんなもんですか」

「そんなもんさ。まあ何も言わずに突然辞められるのは、残されたこっちの身としてもあんまり気分の良いもんじゃないけどな。……だから田崎、クリスに言い残してる事があったら、今日の内に言っとけよ? 特にこっち方面な」

 副小隊長が口の端に意味深な笑みを浮かべ、再び性交を表す下品なサインの形にした左手の指を俺に向けながら、余計な忠告をして来た。その行為にやや呆れつつ、俺はかぶりを振って返答する。

「そんなの別に無いですよ。それにそんな言い方されると、クリスが辞める事が確定しているみたいじゃないですか。……ところで葉山先輩は、浜辺で泣き喚くクリスに近付いたあの時、何か変な所に気付いたりしましたか? 小隊長にしつこいくらい何度も聞かれたんですけど、俺は特に何も気付く事は無かったんですが……」

「いや……特に無いな。俺が駆けつけた時にはもう泣き喚くだけで、まともに話が出来る状態じゃなかったからな」

「そうですか……」

 残念ながら、副小隊長からも有益な情報は得られなかった。

 そのまま目的地に到着するまでの間、四日ぶりにあの日互いに見聞きした物の情報交換をしながら、俺と葉山副小隊長は医療棟の廊下を並んで歩く。

 大仰に医療棟と言っても所詮は防疫隊の僅かな隊員を相手にするだけの小さな施設に過ぎず、一通りの診療科と医師が揃えられてはいるが、大掛かりな手術や検査が出来るほどの設備は無い。ただやはり心労が耐えない仕事柄か、診療内科医と心理カウンセラーだけは常時複数人待機しているのが、他の医療機関と比べて少し異質と言えなくもなかった。

 そんな医療棟の三階奥。クリスの入院する、海側に窓を向けた見晴らしの良さげな個室のドアを、葉山副小隊長がノックする。

「クリス、入るぞ」

 返事を待たずにドアを開けて入室した俺達二人に、独り病室のベッドに横たわっていたクリスは少し驚いたような顔をしたが、それも一瞬で、すぐに思い出したように微笑みかけて来る。だがその笑顔はいつもの能天気なそれではなく、表面的で硬く、力無い作り笑顔だった。普段ならこちらの笑いを誘う犬歯の抜けた歯並びも、頭に巻かれた包帯と相まって、何だか物凄く痛々しい姿に見える。

 予想していた通り、病室は窓から海が臨める眺望だった。だがその窓も北側を向いているので室内は全体的に薄暗く、期待していたほどの開放感は無い。

「ようクリス、副小隊長様が見舞いに来てやったぞ」

「元気かクリス? ホントはもうちょい早く来たかったんだけど、今日は俺も葉山先輩も午前勤務だったからさ」

 適当な挨拶をしながら俺と副小隊長は、病室の隅に重ねられていた丸椅子を二つ、ベッドの脇に並べて腰を下ろす。たとえ彼女がどんな様子であったとしても、その心情を過度に刺激しないために、クリス本人の前では出来得る限り普段通りを装う事を俺達二人は事前に示し合わせていた。

「ああ、これ、差し入れ。大したモンじゃないけど、ここに置いとくから腹が減ったら適当に食べてくれよ」

 俺がベッド脇のキャビネットの上に置いた袋菓子が詰まった紙袋を、クリスはあまり興味無さげにチラリと一瞥する。

 本来ならば年頃の女性への見舞いには花束を持参すべきなのは、重々承知している。だが『大流行』以降は多くの花畑が食用農地に転用されて花屋が激減したために、中隊基地周辺では一軒も見つからず、用意出来なかった。

 なので仕方無く適当に菓子類を見繕って来たのだが、それも多くは塩味か醤油味のスナック菓子や煎餅の類ばかり。若い女の子が喜びそうな甘味も一応売ってはいたものの、果物とその加工品を除けば、その数はめっきり減ってしまっていた。それでも流石に全て塩味なのはどうかと思ったので、蜂蜜味のキャンディーも購入してみたのだが、甘い菓子がこれだけだと言うのはいかにも寂しい。コンビニに行けば、甘ったるいチョコレートや乳脂肪分たっぷりのアイスクリームがいつでも安く買えた子供の頃を思い出して、俺は少し悲しくなる。

「で、どうなんだクリス。容態は」

「あ、ごめんなさい、心配かけちゃって。もう大丈夫ですよ、全然平気です」

 平気な訳が無い。

 副小隊長の問いかけに気丈に答えてはいるものの、この三日間ずっと泣き続けていたのであろうクリスの両眼の瞼はすっかり泣き腫らしているし、布団で隠れて今は見えないが、その身体には折れた鎖骨と肋骨を固定するためのギプスも装着されている筈だ。それに心無しか、たったの三日間顔を合わせていないだけなのに、その顔がひどく痩せて見える。いや、痩せたと言うよりはやつれたと言った方が正解だろうか。とにかくベッドに横たわるその姿は、見るからに痛々しかった。

「午前中には、小隊長も見舞いに来たんだってな?」

「……あ、はい、来ました」

「飯、ちゃんと食ってるか? なんだか痩せたように見えるぞ」

「いえ……あんまり食欲無くって……」

 俺の質問に、言葉少なに答えるクリス。核心には触れないようにお互い他愛も無い会話で間を持たせようとしているが、どうしても余所余所しくなって言葉が続かず、ぎこちない問答になってしまう。それに気のせいか、クリスはどこを見ていいのか分からずに視線を泳がせているようにも思えた。

「なあクリス。その、こんな事になった以上無理強いは出来無いが、俺は職場の先輩としても仲間としても、お前には辞めないで欲しいと思ってる」

「……」

 俺が必死に言葉を選んで発した希望に対し、彼女は無言で俯いたままだった。

 それにしてもさっきからクリスが俺達と視線を合わせようとしないのは、単に気不味いからなのか、それとも何か後ろめたい事があるからなのか。普段の彼女からは感じない、妙な心の距離を感じる。

 そんな事を訝しんでいると、俺の隣に座った葉山副小隊長がズイと身を乗り出し、彼女を刺激しないよう普段以上に低く落ち着いた声で尋ねる。

「なあクリス、俺達は何も気付かなかったんだが、あの時現場で何かあったのか? そりゃ初めての駆除業務の辛さは、俺も田崎も経験して来た事だから良く知っているし、充分に理解出来る。その上で何か、あそこまで取り乱すような事があったのなら教えて欲しい。……勿論今ここで言わなくてもいいし、俺達じゃなくて心療内科の先生でも鈴原小隊長でもいい。とにかくずっと一人で泣いてばかりじゃ、いつまで経っても立ち直れないぞ? ん?」

 布団から覗くクリスの表情が、微かに強張った。だがその口は依然として開かず、三人とも無言のまま静かに時間だけが流れる。凍りついたような病室の中で、備え付けの壁掛け時計が立てるカチカチと言った機械音だけが、やけに大きく耳に響いた。

 今はまだ何も言いたくないのだろうから、今日はもう帰りましょうと俺が口を開きかけた、その時。天井をじっと見つめていたクリスの目尻から、堤防が決壊するように涙が静かに零れ落ち始める。音も無く枕に広がって行く、涙の染み。

 何故そうしたのかは自分でも良く分からないが、俺は手を伸ばすと、布団から僅かに出ていたクリスの右手をそっと握り締めた。すると彼女は少し驚いた様子でこちらを見つめてから俺の手を握り返し、まだ涙は流れ続けていたが、その口元を優しい微笑みに変える。それは先程までの作り笑顔ではなく、ささやかだが偽りの無い、本当の笑顔だった。

 俺にこんな甲斐性があったとは、自分でも驚きだ。


   ●


 果たして、どれ程の時間が経過したのだろうか。多分、それほど経ってはいない。俺がクリスの手を握り締めてから、せいぜい数分程度。病室内の三人ともが無言の、静かな時間が流れていた。

 やがて枕を濡らしていた涙も今は止まり、再び硬い表情で天井をじっと見つめていたクリスの口が、ゆっくりと開く。

「……どちらが撃ったんですか?」

「え?」

 クリスの発した質問の意味が分からず、俺と葉山副小隊長の二人は揃って困惑した。だがそれを補足するように、彼女は続けて口を開く。

「結局あの時、葉山先輩と田崎先輩のどちらがあの人を撃ったんですか? あの……ゼイビーズを」

「ああ、その事か。それなら最初に田崎が狙撃でぶっ飛ばして、その後に俺が近付いて止めを刺したんだが……それがどうかしたのか?」

 クリスの言わんとする所を理解した副小隊長が質問に答え、問い返した。

 言われてみれば確かに、あの時のクリスは前後不覚に陥るまで気が動転していたので、周囲で何が行なわれているのかを今の今まで理解していなかったとしても不思議では無い。だが何故、今更そんな事を尋ねるのだろうかと俺が不思議に思っていると、予想もしていなかった言葉が彼女の口から漏れる。

「Daddyでした……」

 今、何と言った?

「あれは……あたしのDaddy……父さん、でした」

 俺にはクリスが何を言っているのか、とっさには理解出来なかった。分かった事は唯一つ、彼女が『父さん』と言う単語を言い慣れていないと言う事だけだった。

「……本当にそうなのか、クリス。見間違いじゃないのか?」

 意を汲めずに困惑する俺と違って、葉山副小隊長はクリスの発言の真意を理解出来たらしく、座っていた丸椅子からその巨体を乗り出して彼女を問い質す。

「間違い無いです……あんな姿だったけど、間違い無くあれはあたしの父さんでした……胸の名前も階級も、何度も確認しました……間違い……無いです……」

 クリスの瞳から、涙が再び零れ落ち始めた。それは堰を切ったように止まる事無く次から次へと溢れ出して、彼女の頬と枕を濡らす。やがて握っていた俺の手を振りほどいて布団を掴み上げると、それで顔を覆って黙り込んでしまったクリス。布団の下からは小さくくぐもった、彼女の嗚咽だけが聞こえて来る。

「……分かった、ありがとうクリス。今聞いた事は俺の方から小隊長に伝えておくから、お前は傷が癒えるまでゆっくり休んでてくれ。それじゃ、また来るからな」

 そう言うと葉山副小隊長は、布団から小さく覗いているクリスの金髪頭をクシャクシャと撫でてから席を立つ。そして未だ状況が飲み込めずに困惑している俺の肩を無言で小さく小突き、一緒に退室するよう顎で促した。

「あ、クリス、じゃあまた来るからな。無理せずゆっくり休んで、元気出せよ」

 俺も副小隊長に倣って自分の座っていた丸椅子を片付けながら、何とも内容の無い、取って付けたような別れの挨拶を告げて病室を出る。その間もクリスは、こちらに視線を向ける事も無く、布団に顔を埋めて泣き続けていた。

「……どう言う事なんですか?」

 病室のクリスには聞こえない距離まで廊下を歩いてから俺が尋ねると、葉山副小隊長は無言のまま自分の顎髭を撫で回し、しばし沈思黙考してから口を開く。

「そうか田崎、お前は聞いてないのか……。とりあえず、下の喫茶に行くか? 話すと少し、長くなるからな」

「はあ」

 副小隊長の背中を追って歩く医療棟の廊下は不気味なほど静かで、洗剤の様な鼻を突く薬品臭が、微かに漂っていた。


   ●


 医療棟の一階には売店と並んで、入院している隊員の家族や職員が食事を摂るための喫茶店が存在する。だがこの店を利用している人は少なく、俺達が入店した際にも他には客が一人もおらずに、閑散としていた。普通の喫茶店であればこんな経営状態では倒産も止む無しなのだろうが、売店同様この店には防疫隊から資金面での扶助が出ているので、どれだけ酷い客入りでも潰れる事は無いらしい。

 さほど広くもない店内で、厨房から一番遠いテーブルに腰を落ち着けた、俺と葉山副小隊長。そこにノロノロと、いかにも面倒臭そうに注文を聞きに来たパートらしきおばさんに、軽食では一番安いサンドイッチ一皿と日本茶二人分を注文してから一息つく。

 一昔前までなら、サンドイッチにはコーヒーか紅茶が常識だろう。だが『大流行』によって原産国が軒並み『沈黙』した今では、そのどちらも入手困難な贅沢品と化した。特にコーヒーに関しては、ハワイ島で生産されているコナ・コーヒーを除けば、豆を栽培している農場が世界にまだ一つでも残っているのかすらも判然としない有様だ。しかも前述のコナ・コーヒーも、アメリカ合衆国が国内のみで消費する禁輸品として、その全てを完全に独占している。なので今再びあの苦い水を飲もうと思ったら、五年以上前に栽培された豆を、大枚はたいてどこかから手に入れて来るしか方法は無い。カフェイン中毒者にとっては本当に、生き難い世の中になってしまった。

「さて、どこから話せばいいのかな……」

 運ばれて来た日本茶を一口啜って喉を潤した葉山副小隊長は、自身の顎鬚を毟るように弄りながら、考えあぐねる。厨房の奥では痩せたマスターとパートのおばさんが小型のネットTVに見入っていて、俺達の会話には微塵も興味が無いらしい。

「……田崎、お前はクリスの家族の事に関しては、どの程度まで知っている?」

 副小隊長が俺の眼を見据えて、唐突に問うた。

「え? あ、確か母方のお婆さんが日本人で、他は全員アメリカ人のクォーターで、ずっと沖縄に住んでいて、両親は既に亡くなったとだけ聞いてます。それ以上の詳しい事まではちょっと……」

「そうか……うーん……」

 再び考えあぐねる、副小隊長。

 言われてみて再認識するが、俺はクリスも含めた同じ職場の仲間達の過去や素性を、それほど詳しくは知らない。いや、むしろ努めて知らないようにして来た節があると言ってもいいし、そうした傾向があるのは、何も俺に限った話では無い。

 その理由は単純だ。

 『大流行』によって国内だけでも人口が半減してしまった今のご時勢、過去五年以内に身内が一人も死んでいないなんて奴は、まず存在しない。それ故に誰であれ、その過去や素性を尋ねられれば必ずと言っていいほど死にまつわる話題が出て来て口が重くなり、場の空気が沈んでしまう。その死の匂いに俺は耐え切れず、意識的にそれらに関する話題を避けて来たのだ。勿論それは同時に、俺自身もまた自分の過去や素性を相手に尋ねられたくないからと言うのも含まれているのだろう。

「クリス自身の了解を得ないで俺が言ってしまうのもなんだが、これ抜きでは話が進まんからな……」

 葉山副小隊長が、やや重そうに口を開く。

「沖縄出身って事でお前も薄々感付いてはいるだろうが、クリスの父親と祖父は、在日米軍の軍人だ。……いや、『元』在日米軍と呼ぶべきか? 当の米軍自体が今も存続しているのかいないのかはっきりしないからな。正確には何と呼ぶのが正解なのかも分からんが、とにかくアメリカ海兵隊の沖縄基地に所属していたそうだ」

 クリスの両親が米軍基地の関係者だろうなと言うのは、俺も予想していた。

「それで例の在韓米軍救出作戦に参加して、そのまま帰って来なかったそうだ。それも父親と祖父の、両方とも。同じ部隊の上官と部下の関係だったらしいからな」

「ああ……」

 俺は得心した。

 『大流行』発生当初、前世紀から『世界の警察』を自称していた米軍は、世界中の感染拡大地域に兵士を派遣する事で各国に恩を売って回っていた。だがウイルスの流行を完全に抑制する事が不可能だと判断するや、今度は一転して各地の基地に閉じ篭り、徹底した自己保身に専念した。だがやがて、北米本土も含めたそれら引き篭もりの米軍基地にも、ゼイビーズウイルスの波は押し寄せる。果たして感染した人間が基地を囲むフェンスを破って侵入したのか、それともコウモリやネズミと言った小型哺乳類が感染源となったのか。とにかく奮戦空しく、大陸各地の米軍基地も次々と『沈黙』する末路を遂げるに至った。

 そんな情勢の中で、幸運にもほぼ無傷を保っていたのが、沖縄の海兵隊基地を中心とした在日米軍の各基地に他ならない。そしてこれらは当初、人と物資の出入りを厳しく制限しただけで、軍事的な作戦行動面では現状維持を貫いていた。

 だが北米本土が感染拡大地域に加わると、状況は変わった。米本土に帰還するか、このまま安全な日本に留まるか、それとも更により安全なハワイかグアムの基地に集結するか。この三つの案が議論された結果、在日米軍の一部は本土西海岸のサンディエゴ海軍基地に帰還し、残りはハワイとグアムの基地に移転する事が決定。こうして、太平洋戦争終結以降の永きに渡って各地に点在していた日本の米軍基地は、事実上その全てが放棄される運びとなった。

 そして在日米軍の撤収準備が始まった、二〇二一年四月。それまでギリギリの所で無傷を維持し、在日米軍と共に米本土帰還を予定していた朝鮮半島の在韓米軍基地が、ゼイビーズの襲撃を受けて『沈黙』した。ちなみに朝鮮半島自体は、その年の頭には既に韓国・北朝鮮のどちらの当局も、完全に『沈黙』している。

 とにかくこの事態を受けて、在日米軍は色めき立つ。そして当初の予定ではその前日に日本とおさらばしていた筈の海兵隊と空軍の混成部隊が、最後の任務として在韓米軍救出作戦を敢行。空軍の援護の元、海兵隊がヘリとボートで空と海から上陸して大規模な生存者の捜索を行なった。そして勇猛果敢な海兵隊員達は無情にも、基地内外に押し寄せていたゼイビーズウイルス感染者の群れに襲われ、一網打尽に包囲される結果となる。

 結局在韓米軍を救出するどころか、投入された海兵隊員の約八割が生死不明で現地に置き去りにされたまま退却を余儀無くされると言う大惨敗で、この作戦は幕を閉じる事となった。これが、在日米軍による在韓米軍救出作戦の概要と顛末である。

 その後、救出作戦を逃げ延びた在日米軍は予定を大幅に前倒しして、早々に米本土に帰還。噂によれば現在はサンディエゴとグアムの各基地に、これまで世界中に分散していた米軍残存勢力のほぼ全てが終結しているそうだ。もっともその規模は、かつての『世界の警察』からは程遠いほど矮小化しているらしいが。

 海の向こうの米軍の現状はさて置き、今はクリスの父と祖父の話に俺は意識を戻す。葉山副小隊長によれば、彼らは在韓米軍救出作戦から帰還しなかったと言う。つまり、生死不明のまま現地に置き去りにされた八割の中に含まれていると言う事だ。

「え? と言う事は……まさか、クリスが言っていたのは……」

 知りたくもない事実に気付き始めた俺の心の内を読むように、副小隊長が茶を啜りながら、それを肯定する。

「そうだ。彼女の言う事を信じるならば、四日前に俺とお前が駆除したあの男。あれは朝鮮半島から漂流して来た、クリスの実の父親だと言う事になる。だから彼女は死んだとばかり思っていた父親と、感動のご対面をした訳だ。残念ながら、相手はゼイビーズに成り果ててはいたがな」

「そんな……」

 信じられない。いや、信じたくもない。

「それが事実だとするなら、あのゼイビーズ……クリスの父親は、在韓米軍救出作戦の終了から四年以上も朝鮮半島で生き延びて来た事になるのか。ゼイビーズウイルス感染者は生命力が普通の人間よりも向上するとは聞いているが、そう考えるとすげえもんだな。一体どうなってるんだか」

「……いや、そんな、嘘でしょう? その……あれが……そんな……」

 あれがクリスの実の父親だったなんて、にわかに信じられる訳が無い。

 混乱する俺を尻目に、葉山副小隊長は悠然と語り続ける。

「そりゃ俺だって、はいそうですかと信じる訳にはいかないし、当然だがクリスの見間違いって可能性も否定は出来ないさ。だが彼女の言い分によれば、名前と階級章も確認したと言っていたしな。……米軍の戦闘服は右胸に名札、肩には所属章と階級章が縫い付けられているから、おそらくそれの事を言っているんだろう」

 そんな馬鹿な。それが事実だとしたら、俺が頭蓋骨に穴を開けて脳味噌を溢れ出させ、副小隊長が頭を吹き飛ばして止めを刺したあのゼイビーズが。濁った眼で泡交じりの涎を垂れ流し、泥と汚物にまみれたあの男が。あれがクリスの父親だったと言うのか? 俺達二人はクリスにとって、父殺しの仇となってしまったのか? そんな事があり得るのか?

 確かにあの時は暗くて良く見えなかったが、あの大柄な男は白人の様にも見えた。それに軍服っぽいシルエットの服を着ていたような気もする。だがしかし、全てが全て、そう易々と信じられる話ではない。あまりにも、唐突過ぎる。

 突然どうしようも無く喉がカラカラに渇き始めた俺は、手にした日本茶を一気に飲み下した。だがそれでもあっと言う間に唇が、喉が、痛いほどに乾いて行く。動悸も早くなり、全身の皮膚がピリピリと敏感になったような、フワフワと身体が浮遊するような、奇妙で気持ちの悪い感覚に襲われる。

「ま、どちらにしても、もう真偽のほどを確認する方法は無いだろうな。なんせ、唯一証拠になりそうなあのゼイビーズの死体は衣服もろとも即日焼却されちまったし……焼け残っていれば、骨からもDNA鑑定って出来んのかな?」

「さあ……」

 葉山副小隊長の問いに、俺は上の空で答えた。

 とにかく予想もしていなかった事態に、頭の中は真っ白だった。いや、真っ白と言うよりはむしろその逆で、色々な事がごちゃごちゃに渦巻いていて考えが纏められないと言った方が正解だろうか。まるでメモ用紙一枚に辞書一冊分の内容を書き殴ったかのように、そのどこかに書かれている筈の、自分の考えを探し当てる事が出来ない。

「え、そんな、その、俺達どうします?」

 気が動転している俺は、自分でも一体どんな答えを求めて、何を尋ねようとしているのか良く分からない質問を副小隊長に投げかけた。

「どうするったって、どうしようも無いだろうよ。今はクリスがゆっくり休んで、心の整理が付くのを待つしかないさ。幸いにも事の真相を俺達に明かしたって事は、人に話せる段階までは落ち着いて来たって事だろうからな。所詮俺達に出来る事なんて、たかが知れてる」

「はあ……いや、そんな……」

 妙に素っ気無く答える副小隊長に、俺はどう反応していいのかも分からない。

「とにかくクリスの様子がおかしかった原因はハッキリしたんだし、後の事はここの心療内科で働いてる専門家にでも任せるさ。彼女にとっても父親を殺した俺達が下手に刺激するよりは、そっちの方が良いだろうしな」

 副小隊長が何気無く発した「父親を殺した」と言う一言が、俺の心にズシリと重くのしかかる。誰でもないこの俺が、クリスの父親を殺した。信じたくもないが、それは動かし難い事実だ。

 国境防疫隊に入隊し、ゼイビーズの駆除業務に従事するようになって以降、人を殺していると言う自覚と罪悪感は間違い無くあったし、それらはこの国を感染から守ると言う使命感によって正当化して来た。実際問題として誰かが奴らを駆除しなければ、この国もまたゼイビーズウイルスの脅威から逃れる事は出来ない。それを表立って声高に責めるのは、『ゼイビーズウイルス感染者の人権』とやらを守ろうとして盛大な返り討ちに遭い、福岡の郊外で構成員の大半が生きたまま食い殺された、どこかの馬鹿な市民団体くらいのものだろう。

 だが今回は違う。これまで俺が行なって来た、どこの誰とも素性の知れぬ赤の他人を殺めるのとでは、全く事情が異なる。人を殺す事への罪悪感に加えて、見知った仲間の肉親を死に至らしめた事実がもたらす、この言い知れぬ実感は一体何だ? いやむしろ、これまで俺が罪悪感だと思って来た感覚の方が何だったのかと疑問に思うほどの、どす黒い実感。それが俺の心を蝕むように、覆い尽くすように、襲って来る。

 恐ろしいほどにリアルで、どうしようもないほどに生々しい。

 これまでに自分が駆除して来た、数十体の名も無き肉の塊。それらが突然各々違った名前と人生を背負った一人の人間として、俺の背中に、心に、重くのしかかって来て潰されそうになるこの感覚。漠然と感じてはいたが、意図的に眼を背けて来た都合の悪い事実を他人から指摘された時のような、後ろ暗い感覚。

 俺は全身の産毛がちりちりと逆立ち、皮膚がざわざわと泡立ち、胃の内容物が熱く重い塊となって、ゆっくりと喉元へせり上がって来るのを感じる。

「吐くなよ」

 俺の感じているどす黒い実感を見透かしたかのような、葉山副小隊長の言葉。

 脂汗を浮かべて青ざめている俺とは対照的に、普段と変わらぬ涼しい顔をした副小隊長は、いつの間にかテーブルの上に運ばれて来ていたサンドイッチの乗った皿を俺の正面からそっと退ける。そしてついでとばかりにその一つを摘んで口に放り込むと、不服そうな顔で咀嚼した。

「魚肉ハムか……まあ、卵が入っている分だけマシかな」

 葉山副小隊長にとっては吐きそうになっている俺なんかよりも、サンドイッチの中身が安い魚肉ハムだった事の方が重要らしい。

「葉山先輩は……その……平気なんですか? 俺達、クリスの父親を……殺したんですよ?」

 嘔吐しそうになるのを必死で堪えながら、恐る恐る俺は尋ねた。

「ん? 俺か? そりゃ勿論、平気じゃないさ。ただこれが、初めてじゃないってだけだ。……慣れていると言っちゃあ語弊があるかも知らんが、福岡で似たような目には何度も遭っているからな。今更どうってこたあない」

「ああ……」

 そうだ、すっかり忘れていた。副小隊長は今の中隊に配属される以前に、福岡奪還のための包囲作戦に参加していたのだった。素性も知らぬ漂流者を相手にした経験しか無い俺とは違い、この人はかの地で、日本人の一般市民を数多く射殺する任務に従事した経験の持ち主だ。普段は下品な冗談ばかり言って飄々としているが、俺が今感じているような感覚なぞ、とっくの昔に克服せざるを得なかった事は少し考えれば分かる筈。なのに何故、俺は今までそんな事を考えもしなかったのだろう。

「どうした? 食わないのなら、俺が全部食っちまうぞ?」

 何食わぬ顔で次々とサンドイッチを口に放り込み、日本茶で胃に流し込む葉山副小隊長。この人はここまで図太い神経を手に入れるのに、どれほどの血生臭い経験を重ねて来たのだろうか。そして俺自身もまた、いつの日にかこうなってしまうのだろうか。いや、こうなるべきなのだろうか。仮になったとして、それは喜ぶべき事なのか、それとも唾棄すべき事なのか。俺の頭の中で、いくつもの疑問符が次々と浮かんでは消えて行く。

「お前、煙草吸ったっけ?」

「……いや、吸いませんよ、今時。それに何度も言いますけど、俺まだ未成年ですから」

 副小隊長が、唐突に話題を変えた。

「ああ、そうか。そう言われてみりゃ、うちの小隊は俺と福田以外は未だ全員未成年だったな。……それに良く見たら禁煙か、この店」

 テーブルの上に置かれたメニューの表紙に、大きく禁煙マークが書かれているのを発見した副小隊長が、不満そうにこぼすと小さな舌打ちをした。

「まったく、煙草吸いには生き難い世の中になっちまったもんだな。自宅以外じゃ吸える場所なんて滅多に無いし、煙草自体も値上がりする一方だし。……嫁に言われて、今じゃ自宅でも吸えなくなっちまったし」

 深い溜息と共に愚痴を漏らし、取り出しかけた煙草とライターを制服の胸ポケットに戻す葉山副小隊長。その口から漏れた最後のセリフに、俺は反応する。

「奥さん、煙草嫌いなんですか? それとも、健康のために禁止されたとか?」

 俺の素朴な疑問に、副小隊長の表情が緩んだ。

「いや、その、な。まだ小隊の皆には話してなかったんだが、実は嫁が妊娠してるのが最近分かってな……。まだ三ヶ月なんだが、それで胎教に悪いってんで、自宅でも煙草禁止令を出されちまったんだよ。洗濯物に匂いが移るって理由で、ベランダでも駄目だとさ」

「……へえ、それはおめでとうございます」

「いや、まあ何て言うか、こう言うのは何となく恥ずかしいもんだな」

 考え事をする時や照れている時の癖なのか、副小隊長はしきりに自分の顎に生えた不精髭を、抜けるか抜けないかくらいの微妙な力加減で摘んでは引っ張っている。

「一人目ですよね? 男の子と女の子、どっちが欲しいんですか?」

 俺がそう言い終えた途端、副小隊長の緩んでいた表情が急に曇り、髭を摘んでいた手もピタリと止まった。

「……そうか。まあ、お前には言ってなかったしな。実は一人目じゃない、二人目なんだ」

「え? ああ、そうなんですか? でも先輩、今まで子供の話なんてした事ありましたっけ? 記憶にありませんけど……」

「……一人目はな、もういないんだ。よりにもよって、あの年に生まれたからな。嫁が助かっただけでも奇跡みたいなもんだ」

「ああ……そうですか……すいません。それはその、何て言うか……」

 事態を把握した俺も、そして勿論葉山副小隊長自身も、揃って口が重くなる。

「いいんだ、気にすんな。……この話はここまでにしておこうか」

 ボリボリと頭を掻きながらそう言うと、副小隊長は残っていた自分の日本茶の最後の一口を飲み干した。その口元には、微かにだが笑みが浮かんでいる。何かを懐かしむような、それでいて何かを諦めたような、達観した悲しげな笑みを。

 『大流行』の発生から今日までに、日本の人口が半減した最大の要因は何か。まず想起されるのは、ゼイビーズウイルスへの感染による直接的な死者の増加だろう。事実世界的に見れば、それが最大の死者を生んだ要因である事は間違い無い。だが日本に限って言えば、大陸からのウイルス侵入を海が遮断してくれたお陰で、その数は非常に少ない。北海道と福岡で、数十万人規模の死者が発生しただけに留まる。では一体、何が人口半減を引き起こしたのかと問われれば、それはひとえに急激な物資の窮乏が原因であったと答えざるを得ない。

 一時的には太平洋戦争終結直後と並ぶほどにまで困窮した食糧事情と、産業界が悲鳴を上げた石油不足も深刻だった。だが短期間で直接人命を脅かしたのは、何と言っても医薬品類の、文字通り致命的な不足によるものだった。

 ゼイビーズウイルスがヨーロッパから北米大陸までを席巻し、主要な医薬品生産国が次々に『沈黙』し始めると、国際市場での医薬品類の高騰と買い占めが激化。遂には生き残った生産国が自国分を確保するために、その輸出自体を制限、もしくは停止した。こうして市場からは、多種多様な医薬品類がその姿を消す事となる。

 御多分に漏れず日本も、国外からの医薬品類の輸入は完全にストップ。国内の製薬会社が生産していた分に関しても、その原料自体が入手困難になったために工場の操業は停止され、多くの医薬品類が残された国内在庫でやりくりする他無くなった。その結果、恒常的な投薬治療が欠かせない重病人、特に高齢者と新生児が食糧不足による栄養状態の悪さも手伝って、短期間でバタバタと死んで行った。

 更に二〇二一年は記録的な寒波の到来と石油不足が追い討ちをかけて、雪国での凍死者数も近年稀に見る数を記録。最終的には国内工場で代替薬品の生産が可能になるまで、そしてイングランドとフィンランド、スウェーデンが制限していた輸出を再開するまでは、多くの犠牲者が生まれた。そして状況は大分改善されたとは言え、今も尚、不足している医薬品類は少なくない。

 これは皮肉な話だが、医薬品の不足により国民健康保険と年金基金を食い潰していた老人達がごっそりと居なくなった事で、この国が抱えていた高齢者問題の多くは急速に改善。更に人口が半減した事が需要と供給のバランスを是正し、食料や燃料の不足の解消に大きく貢献した。おおっぴらに言う事は憚られるが、この大量死が結果として、現在の安定した物流の礎となったと言っても過言ではない。

 そして今では潤沢な国内生産が可能になった一部の医薬品類に関しては、ハイテク機器や電気自動車と並ぶ主要な輸出品目として、日本の経済の根幹を支えるまでに回復している。

 とにかくこの五年間での『大流行』による犠牲者の数は、世界規模では当然ながら日本国内だけに限定しても、直接・間接を問わず人類史上最大の域に達していた。

 そんな人の死が身近で日常的なものとなった日々にすっかり慣れ切り、感覚が麻痺してしまったからこそ、自分はこんな仕事も淡々とこなせるようになったのだとばかり思っていた。だが幸か不幸か、俺の神経はまだそこまで図太くはなかったようだ。やはり、人の生き死にに関する話題は心を磨耗させる。たとえそれが、直接会った事の無い新生児の死であったとしてもだ。

「ところで田崎、お前さっき病室でクリスの手を握ってたけど、やっぱりお前らデキてんの?」

「デキてません」

 三度みたび、性交を表す下品なサインと共に葉山副小隊長が振って来た話題を、俺は改めて否定した。

「そうか。でもまあ、その気になってくれそうな相手が居たら、とっとと手を出しておいた方が良いぞ? こんな仕事をしていると、結婚相手を探す機会もなかなか無いからな。それにただでさえ汚れ仕事だから、世間からは敬遠されがちだし……今日ここに来るまでに乗って来たトラックのオバちゃんの話、覚えてるだろ?」

「ああ……そうですね」

 俺は思い出した。この大隊本部基地に来るために、俺達二人は中隊基地のバス停で各基地に食材を納入している業者の軽トラックに乗せてもらったのだが、そこで相乗りする事になった納入業者の女性の態度と口ぶりを。

 最近では表立って責められるような機会はすっかり減ったが、それでも人を殺す事を生業とする国境防疫隊を、忌みモノ扱いする人は少なくない。件の女性もその類の人間らしく、本人にその自覚があるのかどうかは疑わしいが、車内での世間話の端々にも防疫隊とそこに勤める隊員達を忌避するかのような表現が多々見受けられた。曰く、防疫隊の基地を「こんな所」。駆除業務の事を「こんな仕事」と。そしてこの俺に対しても、「若い内はやり直せるんだから、こんな仕事、早く辞めちゃったら?」などと、散々な口ぶりだった。

 そうした防疫隊を取り巻く世間の風潮を鑑みれば、結婚相手はさっさと探しておけと言う副小隊長の忠告も、頷けないでもない。だが俺はまだ三三九度の酒も飲めない十代の若造だし、結婚について考えるには少し早過ぎる気がするので、その意思を率直に伝える。

「確かにそうなのかもしれませんけど……結婚なんて俺はまだ考えてもいないから、実感ありませんよ」

「ま、お前はまだ若いから分からんかもしれんが、相手は早めに見つけておいた方が、後々後悔しなくて済むぞ。……ああ、でも同じ小隊の中だとくっついてイチャイチャされても鬱陶しいし、一旦くっついたはいいが、喧嘩別れして険悪になっても面倒臭いか。やっぱりお前、クリスには手は出さないでおけよな。うん」

「結局どっちなんですか。……どちらにしても、余計なお世話ですけど」

 俺は呆れながら、皿に残っていたサンドイッチの最後の一切れを摘むと口に放り込み、挟まれていた魚肉ハムとレタスにトマト、そして少量のマヨネーズが絡められた卵入りのポテトサラダを味わってから嚥下する。

 果たしてそれが葉山副小隊長の意図的な話術によるものだったのかは分からないが、俺の喉元にまでこみ上げていた吐き気は、いつの間にか治まっていた。


   ●


「……なるほど、そう言う事か」

 小さな嘆息と共に、鈴原小隊長が素朴な感想を漏らした。

 長沖市の第四中隊基地本舎の、第五小隊長室。午後勤務を終えて帰還したばかりの小隊長を前に、俺と葉山副小隊長は、夕暮れの病室でクリスから聞き出した一連の事象を全て報告し終えた所だった。

 闇夜に包まれた窓の外では、陽が落ちた頃から降り始めた晩秋の冷たい雨がしとしとと哀しげな音楽を奏で、時折風に流されては窓ガラスを叩く。

 直立不動と言うほどまでは畏まっていない、やや力の抜けた姿勢で起立する、俺と葉山副小隊長。そして机を挟んだ向かいには、自分の椅子に浅く腰掛ける鈴原小隊長。いつもの前髪をかき上げたポーズの彼女がコツコツと指で叩いている机の上には、また新しい本が増えたようだった。

 この部屋にはとにかく本が多い。本の中に部屋が在ると言っても差し支え無いほどだ。勿論業務に関する冊子や資料もあるのだろうが、ここに所蔵された本の殆どは、鈴原小隊長自身が趣味の一環として自前で購入して持ち込んだ私物だ。それが本棚はもとより、机の上からサイドボードの上に、そしてロッカーの上までをも埋め尽くす。更には床から腰の高さの辺りまで、ぐるりと部屋を囲むように壁際が積まれた本で占領され、文字通り足の踏み場も無い。その光景はさながら、整理の行き届いていない、雑然とした古本屋の様相を呈している。

 本の内容は様々で、実用書や新書から小説、小説も推理小説からミステリーや恋愛やSFまで、あらゆるジャンルを網羅する。加えて数は少ないが、漫画や通販のカタログや写真集まで積まれている事から推察するに、彼女は別に活字の虫と言う訳ではないらしい。おそらく、紙の本であれば何でも良いのだろう。

 紙資源の枯渇が叫ばれて久しいこのご時勢。大抵の本は電子書籍でも販売されているのだから、そちらで買えば場所も取らずに便利だろうと、俺は思う。しかし小隊長に言わせればそれは無粋な素人の意見で、とにかく紙の本で読む事に意味があるのだそうだ。

 そんな本の虫である鈴原小隊長が俺達の報告を受けて、いつも以上に真剣な面持ちを浮かべたまま、ゆっくりと口を開く。

「……参ったな。そんな理由があるなら、もっと早く言ってくれれば良いものを……。今となってはそれが本当かどうか確認のしようも無いし、本人の証言だけで物的証拠の一つも無いとなれば、上への報告も難しいしな。……葉山、お前は現場で何か見てないのか?」

「はい。はっきりと彼女の証言を裏付けられるような物は、見ていません。……言われてみれば、駆除した男が白人だったような気がしなくもない。着ていた服が、軍服らしかったと思わなくもない。その程度の印象はありましたが……只でさえ現場が暗かった上に、クリスの様子がおかしい事にばかり気を取られていましたから。……それに感染者の身元なんて、これまで気にも留めた事がありませんでしたし」

 鈴原小隊長の問いに、葉山副小隊長が答えた。小さな溜息を吐いた小隊長が、今度は俺に視線を向ける。

「田崎、お前もか?」

「あ、はい。自分はバンの中から小銃のスコープ越しに見ていただけなので、そんな細かい点には全く……」

「そうか……」

 小隊長の、机の天板をコツコツと叩く指先が、その速度を増す。

「……分かった。今日はもう時間が時間なので、明日の午前中にでも、私から全てを佐川中隊長の方に報告しておく」

 そう言って椅子の背もたれに体重を預けた小隊長が、続ける。

「最終的に文書による報告や調査が必要になった際には、再度証言を得るために、お前達両名に協力してもらう事もあるかもしれん。それまでこの件に関しての一切は、今後の展開に関係無く、小隊の外には漏らさないでおくように。……それではもう遅いし、お前達は明日午前勤務だろう。今日はもう帰ってよろしい。以上、解散」

「了解しました」

 俺と葉山副小隊長は起立したまま小隊長の提案を了承し、肩の力を抜いて踵を返そうとする。だが次の瞬間小隊長の口から発された些細な一言が、俺の足を止めた。

「それにしても、何故クリスは私には何も報告しなかったのに、直接手を下したお前達には報告したんだろうな……」

 昼間の喫茶店に続いて再び、喉の奥辺りに何か重い塊が詰まったような感覚に、俺は襲われた。これまでも度々、鈴原小隊長に対して感じていながらも飲み込んで来た、言葉にし切れない負の感情。それらが思わず、口から漏れ出す。

「鈴原小隊長。小隊長はもう少し、言葉を選ばれた方がよろしいかと思います」

「……何だと?」

 窓の外に視線を向けていた鈴原小隊長が、キッとこちらを睨みつける。彼女の只でさえ険しく鋭い眼光が、更にその鋭さを増して、俺の眉間に突き刺さった。

 状況を即座に察した葉山副小隊長は俺を一瞥すると、小隊長に気付かれないように机の陰で俺のブーツを軽く蹴り、「やめておけ」と無言の忠告をして来た。だがその程度では、既に勢い付いてしまった俺の喉から溢れ出る言葉と感情を、押し留める事は出来ない。

「小隊長の発言は何かにつけて攻撃的で、お言葉ですが無神経に過ぎると思われます。確かに命に関わる仕事でありますから、厳しくなるのは分かります。ですが小隊長の部下との接し方は堅苦しいばかりで、ガス抜きと言うか、息抜きと言うか、その、肩の力を抜いて接する機会がありません。正直な所、それではクリスが小隊長に心を開いて、腹を割って話す事が出来ないのも当然だ、と、思います……」

 焦って一気にまくし立てた俺は、こちらを睨みつけて来る小隊長の視線に怯えながら、必死で呼吸を整える。喉から飛び出しそうなほどに心臓が脈打ち、この狭い小隊長室が広大な砂漠にでもなったかのように、喉がカラカラに乾いていた。

 一体、俺のどこに隠されていた度胸がそうさせたのか。国境防疫隊の様な準軍事的組織においては許される筈の無い、上官に対する反抗的な態度と進言。しかもそれを、規律に煩い鈴原小隊長相手に行なってしまった。だがそんな禁忌を犯しておきながら、その口調がしどろもどろな上に、いつも以上に畏まった敬語もどきになってしまっている辺りが、俺の気の小ささを露呈しているようで我ながら情け無い。だがその口調がどうであれ、今現在俺が立たされている状況が、非常に危ういものである事に変わりは無かった。

 俺の内耳には自分の体内で早鐘を打つ心臓の鼓動と、こめかみを流れる血液のジンジンと言う耳障りな音が、荒い鼻息と共に忙しなく鳴り響いていた。だが一歩退いて客観的に見れば、狭く雑多な小隊長室は静寂に包まれており、窓の外からの微かな雨音だけがそれを邪魔している。

 俺は緊張と恐怖で小隊長を直視する事が出来ず、視線を泳がせる。ふと俺の眼が、小隊長の机の上に積まれた本の影に、何かを見つけた。それは、白い錠剤の薬包。薬局等で処方される、プラスチックとアルミのシートで挟まれた錠剤を指で一錠ずつ押し出す、あれ。シートの半分がたの錠剤が使い終えられたそれに、俺は何故か見覚えがあった。この距離からでは印刷された薬剤名までは読み取れないが、あのシートの特徴的なデザインは、どこかで見た事がある筈。

 記憶を遡って錠剤の正体を思い出そうと試みた俺だったが、今はそんな事をしている状況ではないと思い出し、再び視線を鈴原小隊長に戻す。そこには一切微動だにせず、刺すような視線で俺を睨み続けている小隊長の姿。俺の全身からどっと脂汗が滲み出て、生きた心地がしない。

「……田崎二士、言いたい事はそれで終わりか?」

 たっぷり五分以上の時間を置いた後。俺の眼を見据えたままゆっくりと自分の眼鏡を外した鈴原小隊長が、怒っているとも呆れているとも取れる、低く落ち着いた声でそう尋ねて来た。そして無言のまま声が出ない俺の返答を待たずに、小隊長は再び口を開く。

「私は先程、「解散」と言った筈だ。だからそれ以降に起こった事は全て、勤務時間外とする。なのでお前の発言は公式な業務上の進言ではなく、あくまでもプライベートな意見として、個人的に心に留めておこう。……もう下がっていいぞ。今度こそ解散だ」

「はい、失礼します」

 まだ恐怖と緊張で二の句が告げない俺を尻目に、葉山副小隊長がいつも以上の大声で返答した。そして立ち尽くす俺の二の腕を掴んで強引に引き寄せると、一緒に退室するよう促す。

 俺は固まったように硬くなった膝が思うように曲がってくれず、歩き出す事が出来ない。しかし最初の一歩を踏み出した途端に、今度はその膝の力が抜けて、床に崩れ落ちそうになる。少しでも気を抜けば倒れそうになるのを必死で堪えながら、俺は副小隊長に背中を支えられて何とか廊下に出ると、そのままヨタヨタと歩いて窓際の壁にもたれかかった。

 背後から、副小隊長がドアを閉める音が聞こえる。

「……お前、一体何を考えてんだ?」

 小隊長室には声が届かないであろう距離まで廊下を歩いてから、葉山副小隊長は呆れたような口調でそう言うと、俺の頭を拳で軽く小突いた。軽くと言っても副小隊長の腕力なので、結構痛い。

「いや、その、何て言うか、この前からずっと小隊長がクリスの事を邪険に扱っているようで、それが黙っていられなくて……つい……」

「まあ、お前の気持ちも分かる。気持ちは分かるが、言っていい事と状況ってモンがあるんだ。とにかく、時と場合を考えろ」

「……すいません」

 葉山副小隊長の小言に俺の気は滅入るが、鈴原小隊長に睨みつけられた時の様に無言が続くのに比べれば、こうして説教されている方が幾分気が楽ではあった。そんな俺の心情を知ってか知らずか、副小隊長はかぶりを振りながら続ける。

「それにな、お前は小隊長の事を何も分かっちゃいない。あの人が無駄に厳しいと言うか、任務や規律にやたらと拘って、他人にキツく当たるのがどうしてだか分かってねえんだよ、まったく」

「……それは、どう言う意味ですか?」

 意味深な言葉を吐いた副小隊長は俺の問いに対して、自身の顎髭を揉んだり摘んだりしながら面倒臭そうに思いあぐねると、再び口を開く。

「あの人にだって色々な過去があるし、事情がある。そして現在がある。お前は他人の過去を知るのを意図的に避けているようだが、そんなこっちゃその人が何を考えて、何を価値判断の基準にして生きているかなんて分かんねーぞ? ……それにさっきお前は、小隊長の人との接し方について言及してたけども、お前自身も大概だ。もっと人が何を思って生きているのかを、直視しろ。そうすれば自ずと、自分の仕事の意味も見えてくる。自分に、何が足りないのかもな」

 予期していなかった返答に、俺は若干思考が停止する。確かに俺は、鈴原小隊長の過去を何一つ知らない。彼女がこれまでに一体どんな経験を積み、そして今何を考えて生きているのか。そんな事は考えてもみなかったし、考えようとも思わなかった。そして副小隊長が言う、俺に足りないものとは一体何なのだろうか。頭の中がグルグルと空回りする俺を尻目に、副小隊長の高説は続く。

「それにな、あー、なんだ。いや、やっぱり今ここではっきり言うのはやめておくが、俺から見たらお前もクリスも小隊長も、そう大して変わらないって事だけは覚えておけ。それだけは忘れないでおけば、今はそれでいいさ」

 副小隊長の曖昧な言い回しの、意味が分からない。

 だが同時に、俺は思い出していた。四日前の深夜、男子独身寮のロビーで佐川中隊長が言っていた、「鈴原三尉、あいつが一番無理をしている子供だ」と言う発言の、意味するところを。あの言葉の真意は未だに良く分からないが、葉山副小隊長が言わんとしている事と、何か関係があるのだろうか。

「とにかくだ。今さっきお前が言っちまった事は、もう忘れちまえ。深く考えるな。どうせ深く考えなくても、小隊長がどうしてああ言う態度なのかは、その内機会が来れば分かる事だからな。だから今はとっとと寮に帰って腹一杯飯食って、風呂入ってオナニーして朝までグッスリ寝ちまえ。それでいい。それでいいんだ」

 半ばヤケクソ気味な口調でそう言うと、葉山副小隊長は俺の背中をバンバンと叩いてから肩を掴み、中隊基地本舎の出口に向けてとっとと歩くように促す。俺はチラリと背後を振り返り、さっきまで自分達が居た小隊長室に眼を向けた。あの本で埋め尽くされた狭い部屋で今、鈴原小隊長は何を想っているのだろうか。


   ●


「ただいま」

 妻帯者の葉山副小隊長と男子独身寮の前で別れた俺は、寮の一階の食堂で遅めの晩飯を食ってから、三階の自室へと帰り着いた。玄関ドアを潜ると同時に帰宅の挨拶をしたものの、同居人が居る訳でもない一人部屋なので、当然返事は無い。

 照明のスイッチを入れると、一拍の間を置いてから明るく照らし出される六畳間。備え付けのベッドと机と椅子、それに本棚くらいしか家具の無い簡素で殺風景な部屋は、まるで俺の無趣味さを象徴しているかのようだ。

 タブレットPCでネットTVでも観ようかとも思ったが、今日は色々な事があって主に精神面で疲れていた俺は、迷わず壁際のベッドへと直行した。風呂にも入らず、制服も着替えないままにダイブした毛布と枕の感触が、妙に心地良い。官給品の安物マットレスはそれほど柔らかくはなかったが、それでも俺の疲れ切った身体を優しく受け止めてくれるには充分だった。

 暖かな毛布に包まれ、ジワジワと染み込んで来る眠気を全身で感じながら、俺は今日一日の出来事をゆっくりと心の中で反芻し始める。小隊長に反抗してしまった。そのせいで、副小隊長に怒られた。クリスの見舞いに行った。そして、クリスの父親を殺した。

 俺が、この手でクリスの父親を殺してしまった。

 一瞬にして胃袋が収縮し、猛烈な吐き気が襲って来る。俺はベッドから飛び起きると、口元を押さえながら便所に直行し、抱えるようにした便器の中に胃の内容物を全てぶちまけた。さっき食堂で食ったばかりの晩飯が、全て黄土色の吐瀉物と化して、胃液と共に喉と口を経由しながら便器を満たして行く感触が気持ち悪い。その気持ち悪さがまた嘔吐感を煽り、更に胃を収縮させて吐瀉物の量を増加させる。

 やがて胃の中身が空っぽになったが、それでも吐き気は止まらない。吐く物が無いにもかかわらず、それでも俺は便器に向かってゲエゲエとえずき続けた。遂には喉が切れたのか、便器の中に零れ落ちる大量の唾液に、僅かにだが赤い鮮血が混ざり始める。

 思い出した。思い出したと言うかむしろ何故、今の今まで忘れていたのか。誰でもないこの俺自身が、この手で、クリスの父親を殺してしまったんだった。いや、クリスの父親だけに限らない。駆除業務に従事してからの今日までに、何十人もの生きた人間を俺は殺して来たのだ。

 これまでずっと、駆除業務の前に俺が行なって来たあの儀式。自らに催眠術をかけるように、ゼイビーズは既に人間ではないと自分自身に言い聞かせるあの儀式。あれが如何に茶番だったか、そして偽善だったか。いや、偽善ですらない単なる誤魔化しの言葉だったかが思い出されて俺は恥じ入り、後悔し、苦悶する。あれは単に、自分が人殺しであると言う現実から眼を逸らすための、詭弁を並べ立てているだけに過ぎない。俺は、只の卑怯者に過ぎなかったんだ。

 便器の底に溜まった吐瀉物と唾液に、今度は頬を伝って流れ落ちた涙が新たに加わる。俺は顔をグシャグシャにして、泣き続けていた、泣いて、吐いて、また泣いて、また吐く。自分は何て事をしてしまったんだと言う後悔と、人を殺した罪悪感と、今後はクリスにどんな顔を向ければいいのかと言う絶望感で、言葉にならない嗚咽が喉から溢れるのを止める事が出来ない。俺は本当に一体、これからどうすればいいのだろうか。誰か、知っていたら教えてくれ。

 狭い六畳間に、俺の情け無い嗚咽だけが、いつまでも反響し続ける。

 窓の外では本降りになった冷たい雨が、アスファルトの路面を激しく叩いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る