第五幕
第五幕 十月二十三日 午後
「よう、たっつぁん」
男子独身寮の食堂で少し遅めの昼飯を摂っていると、やおら向かいの席に腰を下ろした
『たっつぁん』と言うのは訓練校時代に付けられた俺のあだ名で、井上や榊などの同期生達から、俺はそう呼ばれている。正直あまり嬉しくない呼ばれ方なのだが、ムキになって否定するほどの事でもないので放置していたら、定着してしまった。
「お前のところの金髪ちゃん、昨日大怪我したらしいな?」
ズイと顔を突き出しながら、興味本位の下品な笑顔を浮かべた井上が俺に尋ねた。俺や榊とは異なる小隊所属の井上の耳にも入っていると言う事は、おそらく昨夜のクリスの一件は、既にもう中隊の隅々にまで知れ渡ってしまっているのだろう。仲間の隊員、それも女性隊員の負傷事故が表沙汰になるのは組織全体の士気低下にもつながるので、これはあまり好ましくない状況だ。
それにしても『金髪ちゃん』とは、また随分と幼稚で馴れ馴れしくて、気持ちの悪い呼び方を思い付いたもんだ。井上らしいと言えば、実に井上らしい。
包み隠さず言わせてもらえば、俺は井上のこう言った無神経さと言うか、人間関係における距離感の掴めなさが好きではない。職場の同期生なので一応の交友関係が続いてはいるが、出来る事ならば少し距離を置いておきたい相手でもあるし、そう思っているのは俺だけではないようだ。もっとも井上自身はまるでそんな事に気付いている様子は無く、そんな鈍感さもまた嫌われる要因なのだろう。
「クリスの事か? いや、あいつなら駆除業務中にちょっとトチりはしたけれど、かすり傷を負っただけで、そんな大怪我ってほどの怪我はしてねーよ?」
飯を口に運びながら、何事も無いような口ぶりでもって俺は答えた。本当の彼女は鎖骨と肋骨を折る重傷で入院しているのだが、下手に漏らせば針小棒大に流布されかねないので、あえて過小に伝えておく事にする。しかも相手が詮索好きで口が軽い井上ならば、尚更だ。
「ふーん、可哀想になあ。あの子、美人なのに」
美人なのは怪我と関係無いだろうと、やや不愉快に思いながら俺は顔を上げた。すると当の井上は、そんな俺の態度に気付いた素振りも見せず、完全に他人事と言った風情で呑気に飯をかっ込んでいる。その姿にますます不機嫌になった俺は、気を落ち着かせるために目の前の食事に意識を集中させる事にした。
今日の昼飯の献立は、鱈とイカリングのフライに、千切りキャベツとプチトマト。それと大盛りの白米に、ワカメと豆腐の味噌汁とキュウリの漬物。利用者数の多い大隊本部基地の食堂は常に複数のメニューが用意されているが、この独身寮のメニューは毎日朝昼晩毎に一種類だけで、その内容は選べない。偏食家ではない俺には殆ど関係無いが、好き嫌いが多い奴はその点が結構辛いそうで、確かクリスも貝類だけは苦手だと言っていた。
そんな事を頭の隅に捉えつつ、俺は昨夜の事をぼんやりと思い返す。重傷を負ったクリスが救助されたその日の夜、俺達の身に起こった出来事を。
●
俺達が所属する第七管区国境防疫隊第一大隊第四中隊は、山口県長沖市の市内、及びその沿岸一帯を管轄区域とする。その拠点である中隊基地は、元々は海岸沿いに建設されていた市立中学校の敷地を、校舎とその他の施設ごと接収したものだ。勿論、接収した中学校の校舎がそのまま準軍事施設として使える筈も無く、結局は大規模な建て替えと増築・改修工事が行われたのだが。
『大流行』の発生から福岡の陥落以降、日本海に面している地方自治体は、民間・公共を問わずに海岸線から五百m圏内での居住は全面禁止とされた。また、居住以外の用途でも人の往来を条例で厳しく制限したために、この制限区域内に存在する中隊基地の周辺は常に閑散としている。かつては登下校する中学生で賑わっていたのであろう基地前の市道周辺も、今ではすっかり寂れてしまい、見る影も無い。
クリスがゼイビーズに襲われた日の夜。その中隊基地敷地内の、通称『幹部階』と呼ばれる本舎三階に、俺達第五小隊の全隊員は緊急招集をかけられていた。
全隊員とは言っても、ゼイビーズに接触して『感染疑い』となったクリスは本部基地隔離棟内の病室に。彼女を救助した葉山副小隊長も、同じく『感染疑い』として隔離棟の経過観察室に収容されているので、不在。結果として小隊の総員六名の内、緊急招集に応じる事が出来たのは俺と鈴原小隊長と先輩の福田さん。それに俺と同期の榊の、合わせて四人だけだった。
まだ十月とは言え、陽が落ちればそれなりに寒い。だが今こうして俺達が集められている鈴原小隊長の個室には、小さいながらも電気ストーブが一つ置かれているので、充分に暖かかった。いや、それ程広くない部屋に四人も集まっているので、むしろ少し蒸し暑いと言ってもよい。
人数だけではなく時間もまた、部屋が蒸し暑い要因だった。
事務職等のデスクワーク組と違って個々人に決まった机が与えられていない俺達前線部隊の下っ端は、ミーティング等を各小隊の小隊長室、つまり今俺達が居るこの部屋で行うのが慣例だ。だが短時間でさっさと終わるいつものそれとは違って、今の俺達はもう一時間近く、ここで雪隠詰めにされている。おかげで室温はじわじわと上昇し、心無しか、湿気で窓ガラスが少し曇って来ているようにも見える。
緊急招集の理由を簡単に言ってしまえば、今日起きた一連の事件の経過報告に過ぎない。だが現地に居合わせた三名の内、俺以外の二名が『感染疑い』で隔離棟に収容されている事実が、状況を煩雑にしている。葉山副小隊長とは経過観察室の内線電話からしか会話が出来ず、まだまともに会話が出来る状態ではないクリスに至っては、彼女を診察した医師の報告から推察するしかない部分も多かった。
結果として俺と鈴原小隊長と葉山副小隊長、それに医師を加えた四名が口頭と電話で伝言ゲームの様な言葉のやり取りを繰り返すのみで報告は遅々として進まず、時間ばかりが無駄に浪費されてしまっている。
一応関係者と言う事で招集されはしたものの、当事者ではないので特に報告する事も無い福田さんと榊は、手持ち無沙汰にしながら俺達の遣り取りを傍観していた。
「分かりました……はい、はい。ありがとうございます」
受話器に向かって事務的な応答を繰り返す、鈴原小隊長。内線電話で医師から報告を受けている彼女は、自身の短く切り揃えられた黒髪を手でかき上げた姿勢を崩さない。これは彼女がイラついている時に無意識に取っているポーズなのだが、今夜の彼女は、俺達がこの部屋に入って来た時からずっとこのポーズのままだ。
「はい……分かりました。ではそれでよろしくお願いします。また何か変化がありましたら、御報告ください」
そう言い終えて受話器を置いた小隊長は相当不機嫌なのか、片手で前髪をかき上げた姿勢のまま、もう片方の手の指先でデスクの天板をコツコツと叩きながら沈思黙考する。そのまま暫く思い悩んだ後に、ゆっくりと椅子から腰を浮かせた彼女は、来客用の二人掛けソファに無理矢理三人で座っている俺達に向き直って口を開く。
「医者からの報告だとクリスは鎖骨一本と肋骨四本が折れてはいるが、幸い命に別状は無く、感染の兆候も無いそうだ。……だが精神的にかなり錯乱しているようで、今は鎮静剤を与えられて眠っているらしい。明日眼を覚ましたら、私の方から直接隔離棟に足を運んで様子を見てくる」
骨折と聞いて室内の空気が重くなる中で、俺の方を見据えた鈴原小隊長は続けて口を開く。
「田崎、一応最後にもう一度聞いておくが、何か報告し忘れている事は無いか? どんな些細な事でも構わない。クリスの様子で、何か変わった所とかは?」
「……いえ、先程報告した事で全部です。……とにかくクリスは酷く取り乱していて、ずっと何かを叫んでいましたが……日本語ではなかったので、何を言っていたのかはさっぱり分かりませんでした」
「日本語ではないと言うと、英語だったのか?」
「あ、はい。……いえ、英語だったのかも、正直分かりません。何と言うか、言葉になっていないと言うか……その……とにかく何を言っていたのかさっぱりで……」
小隊長の問いに、歯切れ悪く答える俺。あの時クリスが何を叫んでいたのか本当に分からなかったので、俺の返答もあやふやにならざるを得ない。
「……そうか、分かった。では今回の件はクリスが初の駆除業務に際して覚悟が足りず、躊躇したために起きた事故と言う事で、私から中隊長に報告しておく。当事者の一人として、田崎には今後も事情を聞く事があるかもしれないが、今日のところは全員解散して明日に備えるように。以上、解散」
最後まで前髪をかき上げたポーズのままだった鈴原小隊長の解散宣言を合図に、俺達三人は退室すべく、ぞろぞろと腰を上げる。俺は小隊長のクリスに対する言い分に、何か納得のいかない不愉快な違和感を覚えたので、それを訴えようと口を開いた。だが自分が訴えようとしているその何かを上手く言葉にする自信が無かったので、発しかけた言葉を喉元で飲み込むと、軽く一礼してから部屋を後にする。暖房の効いていない幹部階の廊下は薄ら寒く、窓の外は既に深夜の闇に覆われていた。
「……どないするんやろな、クリス」
本舎を出てから同じ敷地内に在る男子独身寮に向かう途中で、小隊長室ではずっと沈黙していた榊が、星もまばらな夜空を見上げながらボソリと呟いた。その呟きに、俺は問い返す。
「どないって、何がだ?」
「やっぱ、除隊してまうんかね。初仕事のすぐ後に辞めてまう人も多いて言うし、ましてやまだ十代の女の子やけんな、クリスも」
「……かもな」
それ以上続ける言葉も無く、全員が何となく黙ってしまう。
独身寮に帰って来た俺達三人は、誰が言うでもなく自然とロビーの安物ソファに車座で座る。そしてテーブルの上に置かれたポットから、備え付けの湯飲みに日本茶を注ぐとそれを一口啜り、ようやく人心地付いた。時刻は既に深夜勤務の交代時間を過ぎていたので、少し前までは隊員が忙しなく行き交っていたであろうロビーも、今は無人でしんと静まり返っている。それとは対照的に奥の食堂の方角からは、遅い夕飯にようやくありついた午後勤務組の賑やかな声が聞こえて来ていた。
不意に俺は、ずっとバタバタしていてすっかり忘れていたが、俺自身も昼飯以降何も食っていない事を思い出して急に腹が減り始める。だが空腹を訴える身体に反して気持ちの方は重く沈み、ソファから腰を上げる事を固く拒んだ。
「……なあ田崎くん。本当に、クリスくんに変な所は無かったのかな? その、勤務中に何か気になる所とか。どんなに些細な事でも構わないんだが」
重い空気を振り払うかのように、福田さんが小隊長と同じ事を尋ねてきた。
物腰の柔らかさだけでなく、常に穏やかな笑顔を浮かべた優しい顔立ちは、いかにも人畜無害と言った風貌。長めの髪を緩い七三のオールバックにして固め、丸レンズの眼鏡と色白の肌が、少しインテリな雰囲気を醸し出している。加えて高さだけなら副小隊長と並ぶ上背の持ち主だが、細身で華奢な体格とひどい撫で肩なので、申し訳無いがあまり頼りになりそうには見えない。なので、素性を知らずに外見だけから判断すれば、まさかこんな仕事をしている人物だとは思われないだろう。
対してその隣に腰を下ろすのは、俺と同期入隊の
インテリの福田さんと、ドカチンの榊。少し言葉は悪いが、この二人が並ぶと漫才か何かの凸凹コンビの様に見えなくもない。
そんな二人にじっと見つめられた俺は、小隊長室で詰問されていた頃に比べれば幾分緊張が解けたのもあってか、落ち着いた気持ちで自分が見聞きしたものを思い返しながら福田さんの質問に答える。
「いや……いつものクリスでしたよ? 研修期間が終わったんで若干テンションが上がってはいましたけど、それ以外は特に気になる点も無くて……。勿論駆除業務を葉山先輩に命令されてからは、見ていられないくらい緊張してはいましたけど」
福田さんは肩書きこそ無いものの、隊内での階級は俺よりも上なので、本来ならばこんな気安い言葉遣いをすべきではない。だがその物腰の柔らかさに甘えて、失礼だとは思うのだがついついこちらの口調も馴れ馴れしくなってしまう。一方で当の福田さんは、そんな事を気にする素振りも見せずに尚も優しい口調で応える。
「そうか……いや、それならいいんだ。上官の……鈴原小隊長の前だと言い難い事もあるかなと思って、僕なりに一応聞いてみただけだから」
「あ、はい。でも、あー……ちょっとだけ、気になる事は……ありました」
「ん? それは何だい?」
「あくまでも俺の感想と言うか、どう表現したらいいのか分からなかったんで小隊長には言いませんでしたが……クリスの泣き方がその……変と言うか……異常でした」
「異常……と、言うと?」
俺の曖昧な返答に、福田さんが新たな疑問符を投げかけた。
「何て言うか、悔しいとか悲しいとか辛いとか、そう言う大人も持っている理性的な感情で泣いているんじゃなくて……。うーん……上手く説明出来ないんですが、俺は直感で「子供の泣き方だ」って思ったんですよ」
「子供の泣き方?」
福田さんと榊が、今一つ得心しかねると言った表情を浮かべながら、俺の方に身を乗り出す。
「あの、例えばどうしても受け入れ難い事があった場合、大人なら泣くにしても歯を食いしばって我慢して、それでも耐え切れずに涙がこぼれるって感じじゃないですか。でもあの時のクリスの泣き方はこう、子供が駄々をこねて泣き喚くような……とにかく感情を爆発させて、「ギャー」って騒ぐような泣き方だったんですよ。単に駆除業務が苦痛なだけじゃなくて、もっと感情的な理由があって泣いているような」
「ふむ」
福田さんがちょうど良いタイミングで、話の腰を折らない程度の軽い相槌を打った。この人は普段の口数こそ少ないが、なにしろ物腰が柔らかくて聞き上手なので、うっかり言わなくてもいい事まで言ってしまいそうで少し怖い。あえて下手に出る事で、相手を饒舌にさせる術を本能的に心得ているのだろう。
「いや、本当に只それだけなんですけど、とにかくその泣き方にしても叫び声にしても、まともな取り乱し方じゃなかったんで……。それだけです、本当に」
頭をポリポリと掻きながら、自分でも要領を得ない内容だと自覚しつつも、俺は鈴原小隊長の前では言えなかった率直な心の内を吐露した。
「……そうか、ありがとう。確かに小隊長に報告すべきかは微妙なところだが、何故そんな事になったのかは明日クリスくんが眼を覚ましたら分かるかもしれないし、とにかく今夜はここまでにしておこうか。田崎くんは、夕飯がまだだろうしね」
そう言うと福田さんは、空になった自分の湯飲みをポットの横の『使用済』と油性マジックで書かれたトレーの中に置いた。そしてソファから立ち上がると、俺と榊を残してロビーを後にする。
「じゃ、俺も明日は午前勤務やけん、もう寝るわ」
そう言うと榊も湯飲みを置いてから、さっさと階段の方へと向かった。
閑散とした独身寮のロビーに一人残された俺は、晩飯を食いに食堂に向かう気にもなれず、今日一日の出来事をあれこれと思い出しながら項垂れて、自分の足元をじっと見つめていた。思う事は多々あったが、中でも一番気に掛かるのは、やはりクリスの事。果たして彼女の身に何が起こって、そして今どうしているのか。鎖骨と肋骨の骨折と言う肉体的な面も心配だが、精神的な面でも果たして無事なのかどうか、心配でならない。勿論こんな所で俺が思い悩んでいても詮無い事なのは分かっていたが、それでもやはり彼女の事が気になって、心から離れなかった。
クリスのあの能天気な笑顔を、もう一度見られる日は来るのだろうか。
「……ここ、いいかな?」
頭上から不意に声をかけられて、俺は俯いていた顔を上げた。ロビーのテーブルを挟んだ向かいの、さっきまで福田さんが座っていたソファに、いつの間にか中年の男が一人座っていて少し驚く。
人生の年季と経験を感じさせる深い皺で覆われた顔に、半分方白髪になった髪と髭を生やした中年男性。彼が何者なのか分からなくて俺は一瞬呆けたが、すぐに思い出すとバネ仕掛けの玩具の様に素早く立ち上がって背筋を伸ばし、最敬礼した。にわかに心臓がバクバクと脈打ち、額にじわりと汗が浮かぶ。そんな俺に向けて、中年男性はゆっくりと口を開く。
「勤務時間外だ、敬礼は要らん。座って楽にしなさい」
「は……はい、失礼します!」
言われた通りに俺は敬礼を解いて、ソファに座り直した。だが何故この人がここに居るのかと気が気ではなく、遂にはどう座っていいのかも分からなくなって、何だかトイレに行くのを我慢している人の様にモジモジとして居住まいが悪い。
俺の眼前にどっかりと腰を下ろしている、背はさほど高くないががっしりとした体格の、歳の頃五十台半ばと言った風貌の髭面の男性。彼こそは、
その人が何故今俺の前に座り、語りかけて来るのか。俺の記憶が確かならば中隊長は妻帯者の筈だから、この独身寮に住んではいないので、この時間にここに居る理由が存在しない。状況が理解出来ずパニックになりかけている俺を尻目に、佐川中隊長は眉間に深く皺を寄せるとゆっくり右手の人差し指で俺を指し、口を開く。
「山崎……だったかな?」
「……いえ、田崎です」
「おお、そうだそうだ、田崎だ田崎。いや、すまんな。この歳になってから急に部下が増えたもんだから、なかなか全員を覚え切らなくてな。そうそう、田崎だ田崎。そうそう、田崎」
苦み走るような厳つい表情を少しだけほころばせ、うんうんと何かに納得するように頷いている中隊長を見た俺は、何だか急に肩から力が抜けて緊張が解けるのを感じた。中隊長と一対一で会話をするなんて機会は当然これが初めてだったが、とりあえず悪い人ではないと、俺の直感が囁く。
「あの……何か自分に御用でしょうか?」
勇気を振り絞って、だがおずおずと尋ねた俺に、佐川中隊長は低く落ち着いた声で語り掛けるように言葉を紡ぐ。
「なに、ついさっき鈴原から今日の事故についての報告を受けてな。それで、まだその現場に居合わせた隊員が残っていたら話を聞こうかと思ったんだが……。今、時間は大丈夫かな?」
「はい、大丈夫です。問題ありません」
「そうか。じゃあちょっとだけ、話を聞かせてもらうとするよ」
そう言うと中隊長は新しい湯飲みにポットの日本茶を注ぎ、それを一口飲もうとしたが熱過ぎたのか飲めず、結局口を付けずにテーブルの上に置いた。どうやら見かけによらず猫舌らしい。
「……それで、確か事故に遭った隊員は君の後輩だったな。……田崎、君は防疫隊に入って何年になる?」
「はい、今年で二年目になります」
俺の返答に、佐川中隊長は小さな溜息を吐いて目を細める。
「二年か……まだまだ新米だな。俺が海保に入りたての二年目の頃なんざ、少し波が荒れただけでも船酔いでゲーゲー吐いて、その度に先輩から怒鳴られてたもんだ。……知ってるか? すごいぞ、冬の日本海は。波は荒れるし雪の混じった北風が肌に刺さるように寒いしで、特に夜は生きた心地がしなかったもんだ。うん、懐かしい懐かしい」
顔に刻まれた深い皺を更に深め、虚空に向かってうんうんと頷きながら懐かしそうに少し笑う中隊長。
海保とは、海上保安庁の略称。国境防疫隊は自衛隊と海上保安庁が共同で作り上げた組織なので、その上層部の大半は、この二組織からの出向もしくは転向して来た者で占められている。佐川中隊長が海保からの転向組だと言う事は、俺も過去にどこかで聞いた覚えがあった。そんな中隊長が俺の眼を真正面からじっと見据え、口を開く。
「さて田崎、今の仕事はどうだ? 上官の鈴原や葉山は良くしてくれているか? 防疫隊に不満は無いか? 何か俺に言っておきたい事があったら、この機会に全部言ってみろ。もう勤務時間は終わっているし、俺はこの通り制服も脱いでいる。組織の上官としてではなく、一個人として何でも聞いてやるぞ」
「……いえ、特に不満は……。鈴原小隊長は厳しいですが、葉山副小隊長がその分サポートしてくれていますし……。駆除業務の仕事は大変な事もありますが、それは入隊前にも充分に分かっていた事ですから……」
「そうか……やはり鈴原は厳しいか……ふうん」
てっきりクリスの件について報告を求められると思っていた俺は、佐川中隊長の意図するところを計りかねて、何だか要領を得ない、しどろもどろな返答をしてしまった。だがそれでも何か気にかかる点があったのか、中隊長は少し冷めて飲めるようになった湯飲みの茶を一口啜ってから、自身の顎鬚をさすりつつ何かを考えている。
思い切って俺は、こちらからも尋ねてみる事にする。
「あの、佐川中隊長。話と言うのは、その、今日のクリスの事故についてではないのでしょうか……?」
「ん? ああ、その件に関してなら鈴原から直接報告も受けているし、そもそも肝心の当事者の……クリーズ二士……だったかな? 彼女本人から直接詳細が聞けない内は、君達の報告と照らし合わせようが無いからな。それよりも今日俺がここに来て聞きたいと思ったのは、若い連中の本音だ」
もう一口、中隊長が冷めた茶を啜った。
「君も良く知っているだろうが、この国境防疫隊は出来たばかりの、まだまだ
言葉を重ねるに連れ、中隊長の眉間に刻まれた縦皺が、にわかに深くなる。彼の発した「人殺し」と言う単語に、俺の胸が少し痛んだ。
「だから俺は、それを少しでも是正しなくちゃならんと常々思っているんだが……正直言わせてもらえば、俺みたいな中途半端な階級の人間にはどうする事も出来ん。己の無力さを呪うよ」
再び、今度は腹の底から搾り出すような深い溜息を吐く佐川中隊長。
「それでも少し、聞いてみたかったんだよ。子供達の本音と言うやつをな。で、今日の事故に遭ったのがまだ十代の子供、それも女の子だと聞いて、その現場に居合わせた君に聞きに来た訳だ。……まあ、いきなり上官に本音を言えと言われたからって、すらすらと言えるもんでもないだろうからな。君には悪い事をしたかもしれん。だがもしも、後で何か俺に言いたい事が出来たら、たとえ愚痴でも何でもいいから遠慮無く俺の部屋まで言いに来なさい。俺に出来る事は少ないが、老人の中にも子供達と仲良くしたいと思っている変わり者がいる事くらいは、知ってて損は無いだろう」
「……いえ、ありがとうございます」
俺がそう礼を言うと、すっかり冷めた湯飲みの茶を飲み干してソファから腰を上げた佐川中隊長は、少しだけ微笑んだ。そして独身寮の出入り口に向けて一歩踏み出したところで、何かを思い出したようにこちらを振り返り、再び口を開く。
「そうそう、君の上官の鈴原な。あいつには気を付けろ」
「気を付け……それは、どう言う意味でしょうか?」
突然鈴原小隊長の名前を出された俺が驚いて聞き返すと、中隊長は複雑な表情を浮かべて自身の顎鬚をいじりながら、続ける。
「気を付けろと言うと、少し言い方がおかしいかもしれんな。どちらかと言えば、気にかけてやれ、か」
「気にかける……ですか?」
「そうだ。鈴原三尉、あいつが一番無理をしている子供だ。あいつが潰れて壊れてしまわないように、君達で支えてやってくれ。……本当なら、これは葉山に言うべき事なんだがな。あの筋肉バカは今、隔離棟にいるんで君に言っておく事にするよ。じゃあ、時間を取らせたな、山……田崎。お休み」
最後に俺の名前を間違えかけてから独身寮を去る佐川中隊長の背中に、俺は立ち上がると、最敬礼でもって応えた。正直言えば、彼が鈴原小隊長の何に気を付けろと言っているのかは良く分からなかった。だが中隊長が俺やクリス、それに小隊長の様な若い隊員を気遣ってくれている事が知れただけでも、俺は純粋に嬉しかったから。だからこれは、防疫隊の規範に準ずるものではなく、純粋に俺の内面から湧き上がった気持ちに準じた敬礼だった。
中隊長が完全に視界から消えるのを確認してから敬礼を解いた俺は、ソファに座り直して、自分の前に置かれた湯飲みの茶を一気に飲み干す。完全に冷めてしまっていたそれを胃に収めた事で、自分がひどく空腹だった事実を改めて思い出した俺は立ち上がると、遅い晩飯を求めて食堂の方角に足を向けた。そしてそのまま、佐川中隊長が葉山副小隊長の事を親しげに「筋肉バカ」と呼んでいたのは何故だろうかと考えながら、俺は独身寮の廊下を歩き続ける。
確か今夜の献立は、アジフライだった筈だ。
●
「辞めちゃうんかねえ、金髪ちゃん」
「さあな」
佐川中隊長と寮のロビーで言葉を交わしてから一晩が経過した、今日。昨夜遅い晩飯を食ったのと同じ食堂の同じ席で、昨夜榊に質問されたのと同じ事を質問して来る井上を、俺は適当な生返事であしらう。大体、クリスが辞めるかどうかを俺に聞いたところで分かる訳も無いのに、何故聞いてくるのか。皆そんなに、彼女の去就が気になるのか。むしろ、俺自身が誰かに聞きたいくらいなのに。
だが実際問題、前線に配属されてから半年間研修生として駆除業務の何たるかを目の当たりにしていても、初仕事で引き金を引く事が出来ずに除隊してしまう者は決して少なくない。第五小隊でも、一年前に俺と榊が配属される時に入れ替わりで一人、初仕事で挫折して除隊している。
いくら相手が人権を剥奪されたゼイビーズウイルス感染者で、法がそれを許しているとしても、一人の生きた人間を射殺するこの仕事がどれほど人の心を蝕むか。それは実際にその現場に立ってみるまで、到底理解出来るものではない。情け無い話だが俺だって、半年前に初仕事をこなしたその夜は、隔離棟の経過観察室の便所で罪悪感に耐え切れず嘔吐したクチだ。
理由は分からないが、何だか無性にイラついて来た俺はさっさとここを出て行こうと決めると、残っていた白飯と千切りキャベツを味噌汁で一気に口に詰め込んで日本茶で胃に流し込んだ。そして故意に大きなゲップをしてから、空になった皿の乗った盆を持って立ち上がる。
「じゃあな、先に行くぜ」
「あ、ああ」
やや面食らった表情の井上を尻目に、俺は空になった皿と盆を食堂の洗い場に溜められた水の中に放り込むと、その足でロッカー室の在る中隊基地本舎へと向かった。クリスの容態が少しでも軽くありますように、そして出来る事ならば、彼女が辞めませんようにと祈りながら。
戸外の秋風に、僅かにだが冬の匂いが混じっていた。
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