第四幕


 第四幕     十月二十二日 午後



「あ、葉山先輩お疲れ様です。たった今、隔離棟から帰って来ました」

「おう田崎、お疲れさん。……お? たった今帰って来たって事は、本部基地から直接来たのか? それじゃあ、一旦寮の方に帰って荷物置いてから合流するか? 待っててやるぞ?」

 ゲーム機を小脇に抱えて入室して来た俺を見て、葉山副小隊長がニットセーターを脱ぎながら提案した。

「いや、面倒臭いんで、これ全部ロッカーに放り込んだらこのまま出動しますよ」

「そうか、じゃあちょっと着替え終わるまで待っててくれ」

 そう言うと副小隊長は、着替えを再開する。

 三日間の観察期間を何事も無く終えた俺は、早速その日の午後からの勤務に就くために、差し入れのゲーム機と本を携えたまま直接長沖市の中隊基地に送ってもらった。そして今、ちょうど基地の男子ロッカー室で着替え中だった葉山晴臣はやまはるおみ副小隊長と鉢合わせしたついでに、簡単な復帰の報告を小さな形式だけの敬礼と共に済ませたところだ。もっともこれから俺と副小隊長は同じバンで午後の勤務に就くのだから、鉢合わせするのは当然と言えば当然なのだが。

 敷地内の独身寮からではなく、葉山副小隊長の様に外部の自宅から基地に出勤して来た防疫隊員は、このロッカー室で制服へと着替えた後に装備課で銃火器類などの個人では管理出来ない装備を受領してパトロール勤務に就く。それに対して俺の様な寮住まいは自室にもロッカー室にも制服を常備しているので、装備受領前にロッカー室に立ち寄るかどうかは、その日の気分次第。そして今日の俺は勤務前にロッカーに納める物があったので立ち寄ったところ、下着姿の副小隊長と鉢合わせした事になる。

 国境防疫隊の沿岸パトロールは八時間勤務の三交代制で、一年三百六十五日、二十四時間休む事無く行われている。今日の俺は十五時からのタイムシフトで、葉山副小隊長の指揮する第五小隊副班に配置されていた。

 俺は小脇に抱えていたゲーム機と本を自分のロッカーに放り込んで鍵をかけると、副小隊長が制服に着替え終わるのを壁に寄りかかって待つ。眼前には、ピッタリと肌に密着したTシャツとボクサーブリーフ姿の副小隊長。俺にホモセクシャルの気は無いが、それでも副小隊長の鍛えられた肉体美には、正直惚れ惚れしてしまう。

 俺自身も身長はともかく、体格に関しては訓練校で受けた基礎訓練のおかげで、そこそこ筋肉質な身体を維持している。だが陸上自衛隊からの転向組である葉山副小隊長は更に厳しい訓練の賜物なのか、俺よりも二周りは太く、それでいて引き締まった肉体を誇っていた。今こうして眼の前で露にされている丸太の様に太い筋骨隆々とした腕周りも、それを包むTシャツの袖が、今にもはち切れそうにすら見える。

「よし、待たせたな田崎。それじゃあ行くか」

「はい、先輩」

 防疫隊の制服に着替え終えた葉山副小隊長が、自身の短く刈った髪と、顎に生やした無精髭を軽く撫でて整えながら俺を促した。廊下を先行する副小隊長の背中を追うように、俺も後に続いてロッカー室から外に出る。

 浅黒く日焼けした厳つい顔立ちに、低く野太い声。身長も俺より十㎝以上高く、中隊基地の廊下を背筋を伸ばして歩くその姿は、まさに『軍人』と言った風貌の葉山副小隊長。だが話せば下品な冗談ばかり言ってよく笑う気さくな人で、「副小隊長」と堅苦しく階級で呼ばれるのを嫌い、同じ小隊の部下達には「先輩」と呼ばせている。もっとも規律に煩い上官である鈴原小隊長は、それを快く思っていないようだが。


   ●


「あ、葉山先輩、田崎先輩、お疲れ様でーす」

 装備課で糞重い駆除業務用の装備一式と車の駆動キーを受け取った俺達が、基地の駐車場に停められた第五小隊副班の武装バンに到着すると、そこにはいつも遅刻ギリギリに来るクリスが既に到着していた。珍しい事もあるもんだなと、俺も副小隊長も少し驚く。

「おうクリス、どうした? 今日は早いな」

「ええ、葉山先輩。研修期間も終わって、今日からあたしも晴れて本隊員ですからね。ちょっと張り切って、いつもより少し早く来ちゃいましたよ」

「いや、このくらいの時間に来るのが普通なんだがなあ。特に新人は」

 偉そうに胸を張ってみせるクリスのくせ毛がかった金髪頭を、副小隊長が笑いながらクシャクシャと撫で回した。それを横目に俺は、担いで来た銃火器類と弾丸を駐車場の路面に下ろしながら口を開く。

「なんだクリス、先に来てるんだったら、装備の方も先に受け取っておいてくれりゃいいのに」

「あー、ごめんなさい田崎先輩。いつもあたしが遅れてばっかりだから、そこまで気が回りませんでしたー」

 後輩らしからぬ気の利かなさに愚痴をこぼす俺に向けて、クリスは両手を合わせて拝むようなポーズで謝罪するが、その顔はいつもの能天気な笑顔のままで悪びれている様子は無い。心なしか、舌先をぺろりと少し出しているようにすら見える。

「ま、俺は別にその辺気にしないからいいけどさ。年下の女の子に力仕事やらせても気が引けるだけだし。でも主班に配属された時はそこら辺ちゃんとやっとかないと、小隊長がうるさいだろ?」

「はーい、その時は気をつけまーす」

 分かってるんだか分かってないんだかの能天気な返事が、俺の耳を撫でた。

 バンの後部ハッチを引き上げ、車内の固定具に装備課で受け取って来たばかりの防護スーツ一式と各種銃火器を固定する俺達に、クリスはほぼタメ口で語りかけながらいつもの間抜けな笑顔を向けている。相手が俺と葉山副小隊長だから問題になっていないが、公的機関の上官と先輩に対してこの口の利き方は、鈴原小隊長だったら小一時間はみっちりお説教モノだろう。

「じゃ、田崎。運転頼むわ」

「了解です先輩。それじゃ、後ろにはクリスが着いてくれ」

「はーい」

 副小隊長から投げ渡されたバンの駆動キーを慣れた手つきで受け取った俺は運転席側に回ると、一般の市販車よりも厚くて重いドアを開けて座席に尻を納め、エンジンモーターを始動させる。助手席には副小隊長、後部座席にはクリスが腰を下ろし、俺はゆっくりとアクセルを踏み込んで駐車場からバンを発進させた。

 途中、中隊基地のゲートで入出管理に関する所定の手続きを終えてから、高いフェンスで海側と陸側に分断された沿岸パトロール専用道路を、俺達は走り出す。

「今日は天気が良いが、流石に窓を開けると海風が冷たいな」

「もうすぐ今年も冬ですからねえ」

 一旦は助手席側の窓を開けたが、風の冷たさに閉め直した副小隊長に俺が応えた。

 パトロール業務に使用されている、俺達の制服同様紺地にオレンジ色のラインが塗装された大型ワンボックスバンは、ゼイビーズと相対した状況を想定してメーカーに特注された国境防疫隊の専用車輌だ。基本的な構造は市販車と大差無いが、フレームと外装には厚く強固な素材が採用され、窓もワイヤー入りの強化ガラス製でそうそう簡単には割られない仕様になっている。

 とは言っても所詮そこは、モーター駆動の電気自動車。残念ながらガソリンエンジン車に比べるとどうしても馬力が低く、車重の限界値も低いために、装甲車輌と呼ぶにはやや心許無い強度なのは致し方無い。

 中隊基地には緊急事態に備えて――俺はまだ一度も動いている所を見た事が無いが――陸上自衛隊お下がりの装甲車も一応配備されている。それに比べるとこのバンの外装ではせいぜい拳銃弾を防ぐのが限界で、想定される敵が少数のゼイビーズ程度ならば問題無いが、お世辞にも銃弾飛び交う戦場に出られるような代物ではない。

 だが装甲の軽薄さに対して、攻撃用の装備は意外と充実している。駆除業務に使う各種銃器に加えて、何と言っても特筆すべきは、トップルーフに固定して簡易銃座にも出来る七.六二㎜口径の軽機関銃ライトマシンガン。これはいざとなればゼイビーズの十体や二十体は軽く薙ぎ払えるだけの威力を有する、頼りになる逸品だ。もっともこの軽機関銃も、幸か不幸か俺は配属以来一度も使う機会に遭遇した事は無く、弾薬無しの本体のみで十㎏を越える重量は、完全に無用の長物と化してしまっている。

 さておき、日本海の海岸線を一筆書きでなぞったような、防疫隊の沿岸パトロール専用道路。その一本道を時速二十㎞前後を維持しながら走り続ける仕事は退屈だが、天気さえ良ければ気ままなドライブの様で、それほど嫌いじゃない。唯一の欠点は、完全なモーター駆動の電気自動車が余りにも快適過ぎて、ともすれば眠気に襲われがちな事くらいだろうか。

 中東の産油国が軒並み『沈黙』して以降の日本は、化石燃料に頼らない電気自動車への移行が急速に進んだ。現在では軽トラック以下の車輌はほぼ全て電気自動車が普及し、やや古い車種でハイブリッド車がまだ少量生産されてはいるが、乗用車でガソリンエンジン車はめっきり見なくなった。

 その背景にあるのは、現在日本が置かれている、決して潤沢とは言えない石油事情。東シナ海の海底油田から産出される原油は船舶と航空機に優先して回され、電力によるエネルギーの代用が可能な車輌への供給は、馬力が必要な輸送用車輌にほぼ限定されている。そんな理由から我らが国境防疫隊の武装バンも、モーター駆動の電気自動車が採用された。

 だがこれでも他国と比較すれば、日本のエネルギー事情はまだ運が良かった方だ。電力に関しては過不足無く潤沢に供給されているし、政治的障害だった中国が早々に『沈黙』してくれたお陰で、台湾と共同で行われた海底油田の開発も順調に推移している。多少の不便さに目を瞑れば、生活する上で困る事は無い。

「ところでクリス、お前今、免許の方はどうなってんだ?」

「免許? 教習ですか? えーっと、まだやっと学科が半分くらい終わったところですかねー」

「なんだ、もう仮免くらいまでは行ってると思ってたのに、まだそんなもんなのか」

「ごめんなさーい、まだもうちょっと時間掛かりまーす」

 視線はバンの進行方向に向けたまま、背後の後部座席に向けて投げかけた俺の問いに、クリスは悪びれる様子も無く答えた。十八歳になったばかりの彼女は、先月から普通自動車の免許を取得すべく業務の合間を縫って教習に通っている。だがその進捗は、俺が予想していたよりも遥かにゆっくりとしたペースらしい。

「おいおいおい、もうちょっと急いでくれないと、俺が損するばっかりじゃないか」

「へへへ、ごめんなさーい」

 嘆息する俺に対して笑いながら応えるクリスに、やはり悪びれた様子は無い。

 国境防疫隊の沿岸パトロール業務は三人一組、六人で構成された各小隊を二つの班に分けて行われる。二つの班の内、小隊長が直接指揮を執るのが主班。副小隊長が指揮を執るのが副班とされ、それぞれの班長は基地との通信などを含めた指揮に集中するために、バンの運転は残りの隊員の内のどちらかが担当する。なので必然的に、クリスが早く免許を取得してくれないと、この面子の時はいつまで経っても俺が運転手を務める事になってしまうのだ。俺は決して三度の飯より運転が好きなドライブ狂ではないので、クリスにはもっと真面目に教習所に通ってもらわないと困る。

「葉山先輩、このパトロール道路って公道なんでしたっけ?」

「……いや、確か私道扱いだった筈だが?」

 俺の問いに、助手席の窓から海岸線を眺めていた葉山副小隊長が少し考えてから答えた。

「じゃあ法律上は問題無いからクリス、お前運転してみるか? 信号も殆ど無い一本道だから、遊園地のゴーカートを運転してるみたいなもんだぞ?」

「やめときます。あたし、絶対にぶつけますから」

 俺の粋な提案を、クリスは即答で拒否した。

 オートマ車なんだから子供でも運転出来るのに、せっかくの機会を無駄にするとは馬鹿な奴だなと思いながら、俺は三日前の事を思い出して口を開く。

「……ああそうだクリス、差し入れありがとな」

「ああ、あれで良かったんですか、田崎先輩。とりあえず頼まれた通りに、部屋の机の上にあった物を持って行ったんですけど」

「おう、あれで全く問題無し。お礼と言っちゃ何だが、今度お前が隔離棟送りになった時には、俺が何か持って行ってやるぞ?」

「えー? いくら田崎先輩でも、あたしの部屋に入られるのは勘弁して欲しいなー。それに女子寮は男子禁制ですよ、一応」

「ああ、そう言えばそうか、忘れてた」

「……なんだ田崎、クリス、お前らデキてんのか?」

 俺とクリスの意味深なやり取りに、蚊帳の外扱いされた葉山副小隊長がニヤニヤ笑いながら横槍を入れた。よく見れば右手の指で、性交を表す下品なサインを作っていたが、幸いそれは後部座席のクリスには見えていないようだ。

「えー? そんなんじゃないですよー? ね、田崎先輩?」

「そうそう、只の世間話ですよ」

 俺が否定するよりも一足早く、柳に風と言った塩梅であっさりクリスに否定されてしまったので、俺もそれに同調した。

 実際問題として、俺とクリスの間に男女の関係は無い。だが俺自身は内心、クリスの事を一人の女性としてまんざらでもないと思っている。なので、彼女が副小隊長の冷やかしに照れるなり、不自然にムキになって否定するなりしてくれるのを少しだけ期待していたのだが、残念ながらその期待はするだけ無駄だったようだ。

「ははは……そうだお前ら、今日この勤務が終わったら一緒に飲みに……って、そうか、二人ともまだ未成年なんだな、お前ら」

 酒の席に誘い損ねた副小隊長が、残念そうに小さな溜息を吐いた。

「俺は別に構わないですよ? ビールくらいなら飲んだ事が無い訳じゃないですし」

「あたしも」

「いやいや、俺も隠れて飲むくらいは別に構わんと思うけど、さすがに上官が未成年を二人も連れて堂々と外で飲むのはマズイだろ。本部にバレたら懲戒モノだし、うっかり小隊長にでも見つかったら、何を言われるか分かったもんじゃないしな」

「本部からの懲戒よりも、小隊長に怒られる方が上ですか。……そう言えば前から聞いてみたかったんですけど、その、気にしてたらすいませんが、葉山先輩はどう思ってるんですか? 鈴原小隊長の事を。……その、年下が上官ってのは、何かとやり難いんじゃないかなと思って……」

 俺の唐突で不躾な質問に少し驚いた葉山副小隊長は、一度大きく深呼吸して間を置いた。そして車の進行方向を見据えてジョリジョリと自身の顎鬚を撫でながら、言葉を選ぶように答える。

「そうだなあ……そりゃ、たまにはやり難いなあって思う事はあるが、それ以上の不満とかは別に無いかな。確かに俺は小隊長よりも歳は食ってるが、他所から来た身だから前の職場のキャリアは転職した時点で無くなったものと割り切ったし、あちらさんは士官学校出身だからどうしても出世が早くなるしな。それに年下の上官は、陸自時代にもいなかった訳じゃない」

「……そうですか」

 俺は少し、ホッとした。

 葉山副小隊長は約四年前に国境防疫隊が設立された際に、国防機関としての経験者不足を補う目的で陸上自衛隊と海上保安庁から出向いて来た、いわゆる『転向組』の一人だ。将来的には元居た陸自の職場に二階級特進で復帰出来るらしいが、防疫隊に所属している間は当然、そこでの階級に従わざるを得ない。噂ではそれを良しとしない転向組の隊員も多いと聞くが、とりあえず副小隊長はその言葉を信じる限り、今の自分が置かれた境遇に不満は無いようだった。

「それにしても田崎、お前どうした? 急に答え難い事を聞きだして。俺、何かお前の気に障る事でも言ったっけ?」

「いやいやいや、そんなんじゃありませんよ。ただ何となく、聞いてみたくなっただけですから」

 少し焦りながら、俺は言葉を濁して誤魔化した。

 実際、何故こんな事を急に尋ねたのかは、自分でも良く分からなかった。もしかしたら俺自身が、同い年の女が上官である事に対して無意識下で不満があり、それを副小隊長の置かれた立場と重ねる事で自分を正当化したかったのかもしれない。

 鈴原小隊長は俺と同じ十九歳ながら、通称『士官学校』と呼ばれる国境防疫隊甲種養成学校で二年間のカリキュラムを修了した、いわゆる幹部候補生の一人だ。訓練校で半年間の教練と基礎訓練を受けただけの、俺やクリスの様な一兵卒とは出自が異なる。だが現在十九歳で、入隊前に二年間のカリキュラムを修了していると言う事はつまり、鈴原小隊長は高校を卒業していない。中卒の身だ。

 あくまでも伝え聞いた話なので信憑性にやや疑問が残るが、彼女は中学卒業直後、開設されたばかりの士官学校に第一期生として入学した。そしてそのまま優秀な成績を修めて卒業したものの、中卒と言うのがネックとなって本来用意されていた筈の出世コースからは微妙に外れ、こんな辺鄙な地方の部隊に配属されてしまったらしい。

 今の時代、高校を出ていないなんて決して珍しい話でもないのに、老人連中は未だに頭が固くて学歴偏重の風潮はそうそう簡単に消えてはくれないらしい。いや、今の時代と言うよりは、『大流行』以降のここ数年と言った方がいいのだろうか。高等教育の就学率が、急激に低下したのは。

 俺はまだ幸運にも、親の蓄えがあったお陰で高校を無事に卒業する事が出来たが、『大流行』の混乱の中では高校入学自体を諦めた者も少なくない。それにせっかく進学出来ても、最終的に卒業までこぎつけられたのは、俺の通っていた高校でも全校生徒の半数に満たない程度だった。

 昨年辺りから就学率は徐々に回復していると聞くが、俺の世代では食い扶持を稼ぐために仕方無く中卒で働き始めた者も数多く、結果としてそうした連中の受け皿でもあった国境防疫隊の構成員の平均年齢は、低い。特に俺達の様な前線の下っ端は、異様に低年齢化している。

 ちなみに俺の後ろに座るクリスも御多分に洩れず、高校を卒業せずに、沖縄から本州へと出て来た身だ。

「あたしは年上とか年下とか関係無しに、葉山先輩が隊長の方が良かったなー。鈴原小隊長、細かい事ですぐに怒るんだもん」

 そんなクリスが唇を尖らせながら、後部座席から能天気な意見を述べた。

「ははは、なんだ、クリスは俺の事が好きなのか?」

「えー? あたし好きですよ、葉山先輩の事。だって優しいもん」

「おいおい、浮気がバレたら俺が嫁さんに殺されちまうよ」

 妻帯者の葉山副小隊長とクリスが、共に屈託無く笑いながら父と娘の様にじゃれ合い、俺もそれに釣られて笑ってしまう。小さく開けた運転席側の窓の外からは、日本海の波の音が耳をくすぐるように小さく聞こえて来る。

 こんな穏やかな時間なら、ずっと続いてもいいかなと俺は思った。


   ●


 防護スーツを着込んだクリスは、見ていられないほど緊張していた。只でさえ色白な顔からは更に血の気が失せて、蒼白と言う言葉が示す通りに、ややもすれば青味がかっているようにすら見える。

 彼女の膝の上に置かれた防護ヘルメットの強化ポリカーボネイトと、額にうっすらと滲み出した脂汗の粒が、バンの車内灯の光を反射して鈍く輝く。


   ●


 長沖市の中隊基地から我らが第五小隊副班に駆除業務の遂行を要請する無線通信が入ったのは、パトロール業務を開始してから二時間ほどが経過し、西の空に陽が傾きつつある頃だった。

 曰く、萩市との市境付近の浜辺で、防護フェンスをよじ登ろうとするゼイビーズと思しき個体に関する通報が、付近を車輌で通過した漁港関係者から複数寄せられているとの事。これを受けて、付近をパトロール中だった我々第五小隊副班はその有無を確認し、対象をゼイビーズウイルス感染者と認定した場合には、現場の判断に基づいて即時駆除せよとの命令だった。

 現在、日本海側を中心とした日本の海岸線には、総延長三千㎞にも及ぶゼイビーズ侵入防止を目的とした防護フェンスが敷設されている。そのため、かつては夏になれば海水浴客で賑わっていた砂浜も、今では遊泳禁止はおろか、漁業と海運業を目的とした港湾利用を除く一般人の立ち入りそのものが法律で固く禁止される事となった。

 この高さ六mに達する、頂上が手掛りの無い鼠返し状の登攀不可能なフェンスは、二〇二二年の福岡奪還作戦から僅か半年の間に突貫で設置された物だ。同様の物は台湾やイングランドと言った、ウイルスが蔓延する大陸と近接していながらもギリギリの所で未だ『沈黙』を免れている国家の、ほぼ全てが採用している。

 オーストラリアだけは流行地域と地理的に離れている事と、海岸線が長過ぎる事もあってか、コストのかかる防護フェンスの設置を渋り続けている。今あの大陸がウイルスに陥落すれば世界の食糧事情が一気に悪化する懸念があるために、日本も含めた他の国々からは設置を強く要請されているのだが、それでもオージーはなかなか重い腰を上げようとはしないようだ。

 そして中隊基地から無線で指示された長沖西海岸の西端地点で、その防護フェンスによじ登っては落下し、落下してはよじ登ってを繰り返している大柄な男を俺達が肉眼で確認したのは、今から二十分ほど前の事だった。

 防護フェンスには五百m毎に暗証番号とカードキーでロックされたゲートが設置されており、当局からの許可を得てこれを通過しなければ、フェンスの浜辺側に出る事は地元住民であっても許されない。対象の男から充分に距離を取ったゲートを通過し、沿岸パトロール専用道路の浜辺側に出た俺達のバンが停車すると、葉山副小隊長が後部座席に視線を向けてからゆっくりと口を開く。

「クリス、準備をしろ。今日の駆除担当はお前だ」

 名指しされたクリスの顔からいつもの能天気な笑みが瞬時に消えるのが、バックミラー越しにもはっきりと見て取れた。


   ●


「お前には現在、我が国の領土を侵犯し、かつゼイビーズウイルス感染者の嫌疑がかけられている。言葉が理解出来るだけの知性が残っているのならば、今すぐ両手を頭の後ろで組んで、地面に伏せなさい。さもなくばこれを最終警告として……」

 防護フェンスをよじ登ろうとする男に対して葉山副小隊長が繰り返し発する、最終警告の声。その声を背景に、制服の上から防護スーツを着用するクリス。研修期間を終えて正規の隊員になった以上、いつかは駆除業務を経験せざるを得ない。ならば出来るだけ早い内に慣れておいた方がいいだろうと言う俺達の提案に心を決めた彼女は、終始無言だった。それは口を開けば、ガチガチと歯の根が合わないほど震えているのがバレてしまうのを必死で隠しているのだと言う事は、すぐに理解出来た。半年前に初の駆除業務に赴いた際の俺もまた、同じ状況だったから。

 バンの後部で防護スーツを着用し終え、膝の上にヘルメットと防刃手袋を乗せた状態で座席に座ると、静かに深呼吸を繰り返すクリス。傍らには、既にショットシェルが装填済みの八七式散弾銃。俺は彼女の小刻みに震える右手を両手で包み込むように握ると、その手が予想以上に冷たくなっているのに少し驚きながら、諭すように声をかける。

「いいかクリス、呼吸を整えて、落ち着いてやれ。これまでずっと、俺や榊や福田さんが駆除するのを何度も見て来ただろう? あのフェンスをよじ登っている男、アレはもう人間じゃないんだから、何も気に病む事は無い。俺達が気を付けなくちゃならない事は只一つ、奴らに指先を咬まれない事だけだ。それ以外の事は考えなくていい。……大丈夫、お前ならちゃんと出来るから」

 忠告し終えた俺は、唇をギュッと結んでいるせいで固くなっているクリスの頬を、軽くぺちぺちと叩く。そしてこれまでの出動で彼女が俺にそうして来たように、防護ヘルメットを差し出しながら、歯を見せて微笑みかけた。不安の色を湛えたクリスの碧い瞳が、俺の瞳をじっと見つめ返す。

 ようやく覚悟が決まったのか、一度大きく深呼吸したクリスは俺の手からヘルメットを受け取ると、それを被って防護スーツの襟と二重ジッパーで結合した。更に防刃手袋も装着してから、やや緊張で強張ってはいるが、いつもの歯を見せた笑顔を俺に向ける。相変わらず右上の犬歯が一本抜けた、間抜けでどこか安心出来る笑顔を。

「よし、行って来い。ちゃんと援護しといてやるからな」

 バンの後部ハッチを開け、景気付けにクリスのヘルメットをゴンと一発小突いてから、俺は大事な後輩を戦地に送り出した。

 クリスが車外に出たのを確認した俺は天井のトップルーフを開くと、そのまま援護狙撃用の小銃をスリングで肩に吊るしてステップを上る。そしてバンの屋根から上半身を乗り出してみれば、夕陽に赤く照らされた防護スーツに身を包み、八七式散弾銃を携えた彼女の姿が眼下に確認出来た。

 俺と殆ど変わらない、むしろヒールの高い靴を履けば俺を越えてしまう身長のクリスが、心無しかいつもより小さく見える。

「よしクリス、そのまま有効射程距離まで前進だ。焦る事は無いぞ、ゆっくりでいいからな。田崎は援護の用意をしろ」

「了解です、葉山先輩」

 三度の最終警告を終え、それに対する返答が無い事を確認した葉山副小隊長の指示が、耳にはめた無線インカムから聞こえて来た。俺は手にした七〇式小銃のバイポッドを開き、それをバンの屋根にしっかりと接地して銃身を安定させると、スコープを覗き込んで照準を調節しながら前方の男を観察する。

 距離およそ二百m。小銃のスコープの丸く小さな視界に映る男は、大柄で鍛え上げられた体格ながら、緩慢な動きで防護フェンスによじ登る。そしてフェンス頂上部の鼠返しで手掛りになる場所を探している内に体勢を崩して地面に落下すると、再び起き上がってはまたよじ登ると言った一連の動作を、飽きる事無く繰り返し続けていた。その知性の欠片も感じられない行動と、汚物と老廃物にまみれて薄汚れた姿は、見間違えようも無く典型的なゼイビーズのそれだった。

 『ゼイビーズ』と言う名称。それを最初に提唱した人物が誰だったのかは、はっきりとしていない。

 語源が狂犬病の学名の『rabiesレイビーズ』である事。そして感染者の容姿も行動パターンも、その全てがハリウッドのホラー映画やビデオゲームに登場するゾンビにそっくりである事から、その頭文字を『zombieゾンビ』のzに変えて『zabiesゼイビーズ』と、海外の匿名ネット掲示板だかゴシップ記事だかで呼ばれ始めた事。更にそれが、そのまま済し崩し的に正式名称になってしまった事までは、よく知られている。だがその的確過ぎる呼称を考案した人物がどこの誰で、今現在生きているのか死んでいるのかは、諸説紛々あり過ぎて、もはや結論を見出す事自体が不可能と言われている。

 しかし映画やゲームに登場するゾンビとは違い、ゼイビーズウイルス感染者は、決して荒唐無稽な動く死体ではない。れっきとした、生きている人間だ。

 国際特別防疫措置法に基づき、発症した者は例外無く脳死状態と判定され、法的には既に死んでいるものとして扱われると言う点では、確かに奴らも「動く死体」と言えなくもない。だがやはりゼイビーズも呼吸し、物を喰らい、睡眠を取り、生殖活動すらも行って子孫が残せる、紛う事無き生きた人間である。

 つい先程クリスに、「アレはもう人間じゃないんだ」と語った舌の根が乾かない内にこんな事を言うのも無責任だが、あれはクリスの、そして同時に俺自身の罪悪感を少しでも薄めるための方便に過ぎない。そんな方便に縋りでもしなければ、こんな仕事を続ける事は不可能なのだから。

 俺はギュッと唇を噛み締めて、覗き込んだ小銃のスコープに意識を集中させた。

 右眼はスコープを覗いた状態のままでも、左眼の視界の隅を、防護スーツに身を包んだクリスが一歩一歩男との距離を詰めて行くのが微かに見て取れる。耳の無線インカムからは彼女の荒い鼻息が耳障りなほどはっきりと聞こえ、その緊張感が、こちらにもひしひしと伝わって来ていた。

 いっその事、今すぐここからの狙撃で俺があの男を駆除してしまった方が、クリスのためなのかもしれない。だが残念ながら、それは防疫隊の規定に反する行為であると同時に、彼女に駆除業務の経験を積ませる妨げになるだけだ。

 中隊長以上の権限によって、緊急的感染拡大、つまりアウトブレイクと判断された場合を除き、ゼイビーズウイルス感染者の駆除は至近距離から目標の頭部を破壊して行う規定になっている。いや、正確に言えば規定には、「可能な限りの至近距離で行う」とだけしか記載されていない。なので恣意的に運用すれば遠距離から狙撃してしまっても構わない筈なのだが、過去にそうした方法を採ったところ、一撃で仕留められずに目標に逃走された例や、水平射撃で飛び散った目標の頭部が汚染を拡大した例が頻発した。そのため、可能な限り徒歩で目標に近付いて注意を引きつけた上で、弱点である脳神経系が集中する頭部を確実に破壊する事で駆除業務を達成させるのが、前線で任務に就く防疫隊員の間では常識となっている。

 つまり、目標に接近する事によって防護スーツを着た駆除業務担当者自らが、目標であるゼイビーズを逃がさないための生きた囮となる。そして接近戦で駆除を完遂する事によって、飛び散った血肉による汚染の範囲を最小限に留めるのが慣例となっているのだ。小銃での狙撃による援護は、あくまでも二次的手段に過ぎない。

「クリス、こちらのサーモスコープで目標の体温が三十八度以上を一分間維持した事を確認した。よって国際特別防疫措置法に基づき、葉山晴臣二曹が命令する。クリスティン・クリーズ二士、速やかに目標を駆除せよ。駆除の方法とタイミングは、お前に一任する」

 無情にも淡々と、葉山副小隊長からクリスに駆除命令が下った。

「……了解しました。クリスティン・クリーズ二士、葉山晴臣二曹の命令により、目標を、速やかに、駆除……します」

「ゆっくりでいい。焦らず落ち着いて、手順通りにやれ」

「……了解です……」

 規定通りの応答で命令を受領したクリスは、いかにも重そうな足取りで、目標である男との距離を詰める。無線インカム越しに聞こえて来る彼女の息遣いは更に荒さを増し、ゴクリと唾を飲み込む音さえもはっきりと聞き取れた。インカムの受信感度を上げれば、早鐘の様に鳴る心臓の鼓動すらも聞こえて来そうだ。

 俺は小銃のスコープに集中させていた意識を、少しだけ周囲の状況に傾けた。空を覆う夕闇が、刻一刻とその濃さを増している。夜戦装備を積んで来ていない以上、陽が落ち切る前に駆除を完了させなければ、クリスの身の安全も保障出来ない。

「嫌な状況だな……」

 率直な感想がボソリと、俺の口から漏れた。

 それにしても、出来るだけ気に留めないように努力はしているのだが、それでも背後から視界の隅にチカチカと映り込む赤い光が鬱陶しい。付近を通り掛かった港湾関係者からの通報を受けて出動したのか、もしくは噂に聞いているように防疫隊の無線を盗聴したのか。俺達の乗る武装バンの五十mばかり後方の安全地帯に停車した県警のパトカーが、サイレンこそ鳴らしてはいないが赤いパトランプを点滅させ、まるで俺達を監視しているかのようにも見える。

 いや、おそらくは実際に監視しているのであろうし、このパトランプの無意味な点滅も、俺達に無駄なプレッシャーを与えて集中力を削ぐ幼稚な嫌がらせである可能性は高い。

 国境防疫隊は『大流行』発生直後に自衛隊と海上保安庁が突貫で作り上げた、国家的暴力装置の一つだ。その誕生の経緯故に組織としての防疫隊は防衛省に帰属し、その上層部の人事はほぼ先の二組織からの出向と転向、そして公的機関の例に漏れず中央官庁からの天下りによって成り立っている。

 当初、この組織の設立と人事に食い込んで甘い汁を吸おうとした警視庁と警察庁が、政治的な勢力争いの末に拒絶された過去がある。そのため国境防疫隊と警察組織とは伝統的に敵対関係にあり、水面下での鍔迫り合いを、発足から四年が経過しようとする今も尚続けていた。

 いや、流石に敵対とまで表現するのは、少し言い過ぎかもしれない。だがそれでも、俺達国境防疫隊の沿岸パトロール業務中に、県警が無意味な難癖を付けて妨害して来るのは日常茶飯事だ。奴等にとっては、自分達以上の重武装に身を包んだ連中が、我が物顔で縄張りを荒らしているのが気に食わないのだろう。

 これらの前提条件に加えて更に防疫隊と警察組織との関係を決定的に悪化させたのが、二〇二二年に実行された福岡奪還作戦だ。この作戦では自衛隊と国境防疫隊があらゆる現場でのイニシアチブを取り、主導権の譲渡を主張する警視庁・警察庁を完全に排除した上で作戦を完遂させた。

 警察を排除した最大の理由は、何と言っても装備と練度の違いに他ならない。対ゼイビーズを想定した装備を充実させた国境防疫隊と、破壊活動に特化した機動兵器を多数所持し、その扱いに長けた陸上自衛隊。この二者が連携して行なう作戦行動の最中においては、素人同然の警察組織など足手まといの烏合の衆にしかならないのは火を見るよりも明らかだった。故に、無意味な二次被害を増加させないためにも、敢えて自衛隊と防疫隊は警察を排除したのだ。

 だが排除された側は、それを良しとしなかった。自分達が享受すべきだった手柄と名声を、全て不当に奪い取られたと感じた警察組織はヒステリックなまでの被害妄想に囚われ、今尚執拗な執念でもって防疫隊に一泡吹かせる事に心血を注いでいる。

 上層部のお偉いさん達の都合は知らないが、最前線で文字通り命のやり取りをしている俺達下っ端隊員達にとっては、本当に迷惑極まりない話だ。

 明滅する赤いパトランプの光にそんな事を思い出させられ、少しイラついていた俺の耳に、微かにだが散弾銃のフォアエンドを引き戻す音が聞こえた。小銃のスコープを覗けば、いつの間にか目標との距離を有効射程内にまで縮めていたクリスが射撃体勢に入っている。俺は万が一の場合の援護狙撃に備えて、スコープ内に拡大された、泥と埃と老廃物まみれの男の頭部に意識を集中させた。

 映画やドラマでは狙撃手を演ずる俳優が、片眼を瞑ってスコープを覗く姿をよく見かける。だがセオリーに従えば、両眼を共に開いて行うのが正しい狙撃姿勢だ。勿論そうする事で、遠近両方が明瞭に見える訳ではない。人間の五感は指向性が無駄に高いため、スコープを覗いている側の眼に意識を集中させればそちらしか見えなくなるし、反対側に意識を集中させればそちらしか見えなくなる。重要なのは、遠近両方に対して即座に意識を向けられる状態にしておく事。そして片目だけを瞑ると言った、人体にとって平常ではない状態を少しでも回避して無駄な力を抜き、可能な限り自然体に近い状態を維持する事が狙撃には必要不可欠と言う事だ。

 しかし散弾銃に初弾を装填し終えたのですぐに駆除業務を遂行すると思われたクリスが、俺の思惑を外れて、いつまで経っても一向に引き金を引かない。小銃のスコープで丸く切り取られた俺の視界の中で、散弾銃を構えたクリスも駆除目標の男も互いに向かい合ったまま微動だにせず、只時間だけが過ぎて行く。

 彼女にとってはこれが初仕事なのだから、まだ人を殺す覚悟が決まらないだけなのかもしれない。だがあそこまで目標と接近した状態で躊躇するのは、いくら何でも危険過ぎる。日本に漂着するゼイビーズは、海を漂流していた期間は何も口にしていないので、飢えた状態にある事はまず間違い無い。それ故に、目の前に近付いて来た奇怪な服装の人型――防護スーツに身を包んだ防疫隊員――を食べ物と認識した途端、奴等は腹を満たすために全力で襲い掛かって来るからだ。

「クリス、どうした? 早く片を付け……」

「Oh my ……」

 痺れを切らせた葉山副小隊長が声をかけた、その直後。クリスが最初はゆっくりと、そしてすぐに聞き取れないほどの早口で、何かを声高にまくし立て始めた。

 俺には全く理解出来ない流暢な英語で、ヒステリックに喚き散らすクリス。その声量は次第に大きくなり、遂には絶叫と化したそれによって鼓膜が破れるかと思った、次の瞬間。初仕事ではそう言う事がまま有るとは聞いていたが、出来る事ならば聞きたくなかった音が響き渡った。

 嘔吐するクリスの、容赦の無い吐瀉音。

 無線インカム越しのそれは、まるで耳の中に直接吐瀉されているかのような錯覚を覚えるほどの生々しくもおぞましい音で、俺も釣られて少し吐きそうになった。だがそこは、グッと気を落ち着けて耐える。

 俺だって初仕事の時は、何とか喉元で留めたとは言え強烈な吐き気に耐えながら職務を遂行したのだから、まだ十八歳の少女であるクリスがそれに耐え切れなかったとしても何も不思議は無い。しかしあの小さなヘルメットの中で吐いてしまったのだけは、最悪だ。想像するのもはばかられるが、彼女の綺麗な顔も、軽くくせ毛がかったふわふわの金髪も、今頃は自身の吐瀉物まみれになっている事だろう。

 これは駆除業務が無事に終わったら精一杯慰めてやらなきゃなと、俺は姑息にも先輩風を吹かす算段を立てる。だが予想に反して吐瀉音の次に無線インカムから聞こえて来たのは、クリスの絶叫交じりの盛大な泣き声だった。しかもこの泣き方は、いい歳をした大人の泣き方ではない。年端もいかない、幼い子供の泣き方だ。駄々をこねる子供同然に、只々感情に任せてギャンギャンと喚き散らす、見苦しい泣き方。それが俺の耳の中で響き渡り、鼓膜を蹂躙する。

 流石にこれはおかしい。いくらなんでも、取り乱し過ぎている。

 無線インカムから止む事無く聞こえる、言葉にならない悲鳴交じりの嗚咽。それを背景にして、小銃のスコープ越しにクリスが散弾銃を力無く地面に落とすのが見えたのと、ほぼ同時。駆除対象である汚物まみれの大男がゆっくりとこちらに向き直ると、夕闇空に轟き渡る、大絶叫と表現しても過言ではないほどの咆哮を上げながら彼女に襲い掛かった。

「おいクリス! クリス! どうした! 応答しろ!」

「クリス! 下がれ! 俺がやるからお前は一旦下がれ!」

 今度は葉山副小隊長と俺が叫ぶ番だった。

 だが俺達の呼びかけに対してもまともな返事が返ってこない中で、獣の如き速さでクリスの元に駆け寄った巨体の男は、彼女に覆い被さるようにして飛びかかる。そしてあっと言う間にクリスを押し倒してその腹の上に馬乗りになると、強化ポリカーボネイト製の防護ヘルメットを、滅多刺しの要領で力任せに殴りつけ始めた。

 俺の耳には相変わらず何を言っているのか全く要領を得ないクリスの嗚咽と絶叫が轟き、更にそこに男の咆哮と、ヘルメットを殴打する打撃音が加わる。その音の洪水は既に俺の鼓膜の限界を超えており、まるでスタングレネードが至近距離で爆発したかのように、全身にビリビリとした痺れすら感じた。

「クリス! 手をどけろクリス! 手を背中の下で組むんだ!」

 俺の必死の叫びも、錯乱した彼女の耳にはおそらく届いていない。

「田崎、すぐに狙撃しろ! 俺は予備のスーツを着て出る!」

「了解!」

 バンの助手席から下された副小隊長の命令に応えはしたものの、状況は非常に厳しかった。

 国境防疫隊の防護スーツとヘルメットは見た目以上に優秀で、たとえゼイビーズに組み伏せられたとしても、その爪や歯に早々容易く貫き通されるような代物ではない。硬質プラスチック製の防刃プレートが隙間無く織り込まれたスーツの生地は、生身の人間程度の力で振り下ろされた刃物はもとより、二十二口径の拳銃弾の接射にも充分に耐え得る。更に強化ポリカーボネイト製のヘルメットは、高い衝撃吸収性と共に、九㎜口径弾でも貫通出来ないだけの強靭さを有する。これらを着用している限り――集団ならまた話は変わってくるが――単体のゼイビーズ程度が相手なら身の安全は保障されていると言っても過言ではない。

 だが、唯一の弱点である指先だけは違う。

 防刃プレートが仕込めなかったここだけはゼイビーズの歯に貫かれてしまう可能性があり、過去に数度、実被害も出ている。そのため、ゼイビーズに襲われて組み伏せられた場合は弱点である両手を自分の身体の下に隠し、そのまま味方の救援が来るまで無抵抗で耐え忍ぶのが、最善の策としてマニュアル化されている。これは全ての防疫隊員が訓練校での実地訓練でしつこいほど何度も教えられ、俺自身も、嫌と言うほど頭と身体の両方に叩き込まれた。

 しかし完全に我を忘れ、パニック状態に陥った今のクリスは訓練の成果を全て忘却し、自分の腹の上に馬乗りになった男の猛攻を、最も敵に晒してはいけない手先で凌ごうと必死でもがいてしまっていた。

 考え得る限りの、最悪の状況。

「狙撃はまだか、田崎!」

 焦る葉山副小隊長の檄が飛んだ。檄を飛ばされた俺はバンの上で狙撃の機会をうかがいながら、口を開く。

「もう少し……もう……少し……」

 俺の覗く小銃のスコープの中で重なった、男とクリス。二つの人影は薄暗い夕闇の中で、今や殆ど一つのシルエットになってしまっている。

 身体の正面をこちらに向けた男の頭部に俺は狙いを定めるが、その顔には必死に抵抗するクリスの手が被さり、狙撃のタイミングが掴めない。しかも耳の無線インカムからは止む事無く聞こえる大音量の嗚咽と、絶叫と、咆哮と、打撃音。加えて背後のパトランプの赤く点滅する光がスコープのレンズに反射して集中力を阻害し、浜辺は暗く、東側を背にしている俺の視界には水平線に沈み行く夕陽が逆光で差し込んで来る。狙撃の条件としては、これ以上無いくらい最悪だ。

 それでも俺は小銃のボルトを引き戻して初弾を装填すると、照準を目標に合わせて呼吸を整え、意識を集中させる。葉山副小隊長が予備の防護スーツを着て車外に出たのだろうか。バンの後部ハッチが開閉される音が、背後から微かに聞こえた。

 とにかく、撃たなければならない。焦った俺はクリスの指ごと吹き飛ばしてしまわないように、彼女の上に馬乗りになった男の眉間を狙って、引き金を引き絞った。俺の耳元で無煙火薬ニトロセルロースが一瞬で燃焼する乾いた音が轟くと同時に、銅でコーティングされた円錐形の鉛の塊が、目標めがけて緩やかな回転運動と共に射出される。

 夕闇の空気を切り裂いて飛ぶ、直径七.六二㎜の小銃弾。

 だが向かい風を受けて僅かにホップしたのか、それともクリスに当てまいとビビった俺の手が無意識に銃身を浮かせてしまったのか。無情にもその弾丸は狙いの上方に逸れ、折り重なった二人の背後に並ぶ防護フェンスの土台のコンクリート壁に当たり、小さな火花を散らして弾け飛んだ。

 自分の頭の直上を、何かが高速で通過したのを危険と感じたのだろうか。理由は分からないが、クリスの腹の上に馬乗りになった男の動きが不意に止まり、その顔を俺の方へと向ける。そのままこちらに注意を向けていてくれればと期待したが、それはほんの一瞬の出来事に過ぎず、男はすぐにまたクリスのヘルメットへの殴打を再開した。せっかくの狙撃のチャンスを逸し、俺は歯噛みする。

 その時俺の視界の端で、何かが動いているのが見て取れた。それはクリスの救援に向かう、防護スーツ姿の葉山副小隊長。

 だがいくら体力に自信のある副小隊長でも、あの鈍重な防護スーツを着込んでいては、クリスと男の元に辿り着くまで最短でも一分はかかるだろう。いや、バンに積まれていた散弾銃と小銃をクリスと俺が使っていると言う事は、副小隊長はあの糞重い六二式軽機関銃を持って出た筈だ。それなら更に追加で三十秒はかかる。とてもじゃ無いが、それまでここで何もせずに手をこまねいて見ている訳にはいかない。

 何としても副小隊長が到着するまでに男を仕留めなければと焦りながら、俺は小銃のボルトを引いて初弾の空薬莢を排出すると、そのままボルトを戻して第二弾を薬室に送り込む。今度は確実に、男の顔面のど真ん中に風穴を開けてやるつもりで覗いたスコープの中で、何かが夕陽を反射してキラリと光るのが眼に止まった。男が右手に何かを――クリスのナイフを――握り締めている。

 防護スーツの左肩には、近接戦闘用のタクティカルナイフが標準装備として装着されている。勿論それは、今現在クリスが着用しているスーツも例外ではない。それを彼女に馬乗りになった男が偶然抜いたのか、それともクリス自身が応戦するために抜いたのを、逆に奪われてしまったのか。どちらが真実なのかは俺には分からなかったが、そのナイフが今、男の手の中にある事だけは確かだった。

 ゼイビーズウイルスがもたらす重度の脳炎により大脳を破壊された感染者は、記憶も知性も失うために、複雑な道具を使いこなすような真似は出来なくなる。だが発症以前に、永年の習慣や反復行動として身に付けたものは脳が破壊されても身体が覚えているのか、まるで知性が残っているかのように振る舞う場合がある事も、周知の事実だ。例えば奴らの多くはノブを回せばドアが開く事を理解しているし、個体差は大きいが、時として鈍器や刃物等の単純な道具ならば使いこなす事が確認されている。また、捕獲した生体サンプルからは確認出来なかったので事例としては非公認だが、過去には自転車に乗って移動する個体も目撃されたらしい。

 日本に漂着するゼイビーズの多くが大なり小なり『船』に乗って来るのも、それが海を越えられる乗り物だと言う事を、破壊された大脳の欠片が微かにでも覚えている証拠なのだろうか。

 そして今、俺の眼前でクリスの腹の上に馬乗りになり、彼女のヘルメットに白く泡立った涎を巻き散らかしながら大音量の咆哮を上げ続けている巨体の男。そいつは手にしたナイフを逆手に握ると、それをクリス目がけて振り下ろすべく、大きく振りかぶっていた。

 まずい。非常に、まずい。あれで何度も滅多刺しにされれば、流石の強化ポリカーボネイトでも割れない保証は無い。仮にナイフ自体が貫通しなかったとしても、生じたヒビ割れや穴から奴のウイルスに汚染し尽くされた唾液がヘルメット内に侵入すれば、それだけで感染は免れ得ないだろう。もはや狙撃のタイミングを悠長にうかがっているような猶予は、僅かばかりも残されていない。

「クリス、頼む……手を下ろしてくれ……」

 俺が諦め半分でそっと呟いた声が、無線インカムを通して奇跡的に聞こえたのか。それとも眼前に振り上げられた鋭利な刃物から反射的に逃れようとした、只の偶然か。クリスがその両の手を、馬乗りになった男から離して自身のヘルメットを覆った。その瞬間を見逃さず、俺は狙いを定めて小銃の引き金を引き絞る。再び無煙火薬が燃焼する乾いた破裂音を響かせて、銃口から放たれた小銃弾は夕闇を切り裂いて飛んで行く。

 照準は完璧に男の顔面中央、正確に鼻柱のど真ん中を捉えていた。だが俺が引き金を引いてから着弾するまでの僅かな時間差で、男は手にしたナイフを振り下ろすべく姿勢を下げる。そのため狙った位置から数㎝上の頭頂部に突き刺さった鉛弾は、そのまま男の頭頂葉から後頭葉に一直線の穴を穿った後に、脊椎を抉り取りながら首の後ろから抜けた。小さな赤い血の花が、男の首後ろにパンと咲く。

 一瞬、この世から全ての音が消え失せたかのような静寂の中で、男の後頭部が破裂する音だけが耳に届いた気がした。だがそれは、耳元で浴びた銃声が鼓膜と脳にもたらした錯覚なのかもしれない。それに自分が撃った弾が標的に命中した時に感じる、全身に軽く電気が走るような手応えも、只の気のせいなのかもしれない。だが俺の主観を信じるなら、着弾したその瞬間には確かにその音を聞いたし、確かな手応えも感じた。

 そして静寂の次に訪れたのは、空気を激震させる大絶叫。後頭部に子供の拳大の穴を穿たれた男の喉から発される、物理的に人間の域を超えているとしか思えない、これまで以上の大音量の咆哮が周辺一帯に存在するあらゆる物を蹂躙する。

 あまりの声量に耐え切れず、俺は反射的に耳から無線インカムを外す。それでも尚耳に届く断末魔の絶叫を上げて、後頭部の穴から灰色の脳味噌をボトボトとこぼれ落としながら、男は身体を海老反りに仰け反らして倒れた。かと思うと、今度はぐるりと後方に一回転してから再び上半身を起こす。更に後ろに倒れては一回転して起き上がるのを繰り返し、砂浜の上で何度も後ろ向きにゴロゴロと転がりながら、徐々にクリスから遠ざかる男。遂には背後に立ち塞がった防護フェンスの支柱にぶつかって止まると、全身を大きく仰け反らしたブリッジの様な体勢で、ビクビクと全身を激しく痙攣させながら叫び続ける。

 その一連の、不気味で不可解な挙動。それはまるで、自分の身体を後ろ向きに折り畳もうとしているかのようであると同時に、後頭部に開いた穴からこぼれ落ちる自分の脳細胞を、背後に倒れる事で拾おうとしているかのようでもあった。

 とにかくそれは、これまでに見た事が無いほどの、奇妙でおぞましい光景だった。

「田崎、やったのか?」

 バンの屋根に放り投げた無線インカムから葉山副小隊長の声が聞こえて来たので、俺は慌ててそれを拾うと、耳にはめ直す。

「葉山先輩、やりました! アイツの頭、ぶち抜いてやりましたよ!」

「よっしゃよくやった! 後の始末は俺がやるから、お前はバンの無線で本部の処理班を呼んでくれ! ……それと救護班もだ!」

 指示通りに俺は、無線で大隊本部基地に処理班と救護班の出動を要請する。それを終えてから再び小銃のスコープを覗くと、ちょうど副小隊長が、仰向けに倒れたままのクリスの元まで辿り着いたところだった。だが辺りはもう殆ど何も見えないほどに夕闇が濃くなっていたので、二人の仔細な動向は分からない。その間もずっと、痙攣しながら脳味噌をこぼれ落とす男の断末魔の絶叫は止む事無く続いていたが、自動拳銃によるものと思われる小さな銃声が二回聞こえた後に、それもピタリと止んだ。おそらくは副小隊長が、止めを刺したのだろう。

 静寂と宵闇が訪れた浜辺には、背後のパトカーのパトランプだけが、目障りな赤い光の点滅を繰り返し続けていた。結局最後まで何もしなかった警官共を俺は睨みつけたが、勿論奴らは何の反応も示さずに、只々傍観を決め込んでいる。その態度は腹立たしい事この上無かったが、無力な俺にはどうする事も出来ない。今の俺に出来る事は只一つ、クリスの安否を気遣う事だけだった。

 耳の無線インカムからは幼い子供の様に泣きじゃくるクリスの悲痛な嗚咽が、いつまでも聞こえ続けていた。

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