第三幕


 第三幕     十月十九日 午後



「ごちそうさま」

 誰が聞いている訳でもないが、永年の習慣に従って小声でそう呟き、俺は食事を終えた。それから空になった食器の乗ったお盆を、経過観察室の出入り口横の壁に設けられたダストシュートの様な引き出しに入れてから、監視員にその旨を報告するブザーのボタンを押す。

 八畳間ほどの広さの、真っ白に塗られた壁が眩しい経過観察室。ここに収容された『感染疑い』の人間が、たとえ監視員と言えども第三者と直接接触しないように、ここではあらゆる物品の受け渡しがこの引き出しを利用した面倒臭い方法で行われている。これを利用する度に俺は、昔観た映画『羊たちの沈黙』の中で主人公のFBI捜査官が独房に収監された天才的な頭脳を持つ殺人鬼に、同じような引き出しを使って捜査資料を渡すシーンを思い出す。

 ついでに言うと、この引き出し横の出入り口は当然だが鍵がかけられていて、俺が居る部屋の内側からは開けられない。この点も、映画の中で殺人鬼が収監されていた独房と同じだ。唯一その独房と違うのは、この観察室から外に物を出す際には、紫外線消毒の一手間が追加されている事くらいだろうか。

 どちらにせよ、今の俺は囚人と同じ扱いを受ける身の上だと言う事は変わらない。

 さておき本日の昼食の献立は、大根おろしが添えられた秋刀魚の塩焼きが二尾分に、大盛りの白米とワカメと大根の味噌汁。それと小鉢に入った風呂吹き大根と、きゅうりの浅漬けだった。これは、この隔離棟が在る大隊基地の食堂の日替わり定食の内容と一致している筈だ。食堂からここまで運んで来なければならない分だけ少し冷めていたが、まあ、美味かった。

「あー、食った食った」

 俺は後でおやつとして食べるために、デザートとして昼食に添えられていたミカンをベッド脇のサイドボードの上に置いた。それから熱い日本茶を湯呑み一杯一気に腹に流し込んで落ち着くと、ベッドの上にゴロンと大の字に寝転んで、パンパンに膨らんだ腹をさする。

「ガホッフゥ」

 あれから五年の月日を経て、ようやく毎日腹いっぱい飯が食えるところまで日本の食糧事情が回復した事に多大な感謝を込めながら、俺は大音量のゲップを天井に向けて放った。まあ一言で回復したとは言っても、その内容は『大流行』以前とはすっかり様変わりしてしまったが。

 オーストラリア産のオージービーフならそこそこ安く手に入るようになって来たが、国産和牛の肉は相変わらず天井知らずで高騰したまま、安くなる気配も見せない。それに輸入していた国々がことごとく『沈黙』してしまったので、バナナなどの国内では殆ど生産していなかった果物や野菜は、ほぼ完全に店頭から姿を消してしまった。おかげで最近では、かつては気軽に食べていた筈のその味を、舌の上で即座に再現出来なくなってしまっている。中でも特に手に入り難くなったのは砂糖を使った甘味類や特殊な嗜好品で、輸入に百パーセント頼っていたカカオ豆が原料のチョコレートなんて、最後に食べたのは一体いつだったのか思い出せないくらいだ。

 それらの代わりに、昭和の後半から消費量が年々下降の一途を辿っていた米と魚が、今や食卓の主役に返り咲いた。

 米に関しては元から日本人の主食だったし、『大流行』の年から今まで不足する事が一度も無かったので、それまで永らく小麦製品が占めていたシェアの殆どが米に置き換わってもそれほど大きな変化には感じられない。だが魚……と言うか魚介類全般の漁獲量と消費量はここ数年で劇的に増加し、今や日本の食卓のメインディッシュとなる貴重な蛋白源は、安価で大量に手に入る海産物一色だ。

 この短期間で漁獲量が激増した最大の要因は、何と言っても二〇一〇年代まで世界の海産物の六割を乱獲していた中国が、『大流行』によって早々に『沈黙』した事に間違い無いだろう。

 五年前、俺が最初に視聴したネットTVのニュースでもゼイビーズウイルスによる『大流行』の発生源はインドと中国の国境付近と言っていたし、この点に関しては現在でも専門家の意見は一致している。故にインドと中国、そしてその二カ国と陸で国境を接するアジアの国々が、世界で最初に『沈黙』し始めた。

 『沈黙』。それはゼイビーズウイルスの感染拡大によって国家機関が完全にその機能を喪失し、公的な情報を他国に送信出来なくなった状態を表す用語として知られている。果たして、最初にこの状態に陥った国はどこなのか。この用語を最初に使い出したのは、どこの国の誰なのか。それは諸説あって判然としないが、おそらくはゼイビーズウイルス発祥の地であるインドか中国に接している小国のいずれかである事に、疑問を差し挟む余地は無い。

 ちなみに当のインドと中国は共に国土も人口も広大であったために、完全に『沈黙』するまでには周囲の小国よりも時間を要した事は、皮肉と言わざるを得ない。

 とにかく最初の感染者が確認されてから僅か一ヶ月ほどで、アジア諸国が次々と『沈黙』し始めた。その後、感染は爆発的な速度でユーラシア大陸全体に犠牲者の山を築きながら、まるで湖面に投げ込まれた小石が生み出す波紋の如く全方位に伝播する事となる。そして三ヶ月も経つ頃にはユーラシア大陸に次いで陸続きのアフリカ大陸も、紅海に近い国から次々と『沈黙』し始め、その勢いは感染者の波が海に到達するまで衰える事は無かった。

 やがて人類の総人口が半分以下になった頃には、それまで半ば傍観を決め込んでいた南北アメリカ大陸の国々にまでも、ウイルスの伝播が始まる。

 報道に従えば、それは二〇二一年二月十五日の未明。米国ニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に向かっていた大型旅客機が、空港手前のハドソン川に不時着水し、大破した。現地に駆けつけたレスキュー隊による懸命の救助活動によって、多くの生存者が燃え上がる瓦礫と凍りついた真冬の川の中から救出されたのだが、皮肉な事にその全てが既にゼイビーズウイルスに感染・発症しており、そのままレスキュー隊員と救急医療関係者を次々と襲いだした。

 当時のアメリカ合衆国は、人間を含めた感染源となり得る物資の海外との往来を完全に停止し、言わば鎖国状態にあった。それ故に、自国内で引き篭もっていれば安全だとタカをくくっていたアメリカ市民はゼイビーズウイルスに対して何の備えもしておらず、しかも感染のスタート地点が人口密集地であったために、その伝播速度は凄まじかった。事故の一報を受けたワシントンの連邦政府が即座に戒厳令を発令し、各州の州軍が出動して街道を全面封鎖したが、その頃にはすでに東海岸一帯は手がつけられない状況になっていたほどに。

 その後の北米大陸は他の大陸における感染拡大地域と同じ顛末を辿り、やがて国境を越えてメキシコに入国したゼイビーズウイルスは、かつてアメリカ先住民の領地を蹂躙したスペイン軍よろしく南米各国を粛々と征服して行った。

 現在のアメリカ合衆国は、『沈黙』寸前の状態でギリギリ国家としての体裁を保っている。だがそれも、西海岸のサンディエゴ海軍基地周辺と、アラスカ及びハワイやグアム等の離島がかろうじて都市機能を維持しているのみの惨状だ。そして壊滅したワシントンDCに代わってアラスカに臨時連邦政府が樹立された事は日本政府も把握してはいるが、産業や経済は完全に崩壊しており、栄華を誇ったかつての姿は今や見る影も無い。

 そのアラスカで政権を担っている臨時大統領代行とされる人物も、ワシントンDCが曝露して政府関係者が皆殺しにされた際に、たまたま自身の選挙区に帰郷していて難を逃れたメイン州の下院議員らしい。本来ならばもう少しましな適任者が居ても良さそうなものだが、急場凌ぎではそれが精一杯だったのだろう。噂によれば近い内に、その下院議員も任を解かれ、生き残った軍の将官レベルの人物に全権が移譲されるらしい。だが死に行く巨像同然の今のアメリカ合衆国の惨状で、その国家元首に据えられると言うのも、果たして喜ばしい事なのだろうか。

 ちなみに北米大陸曝露のきっかけとなった旅客機が合衆国の国内線だったにもかかわらず、何故ゼイビーズウイルス感染者が乗っていたのかは今尚謎のままであり、おそらくは迷宮入りのまま後世の歴史に記されるのだろう。

 そう言った事情によって、それまで日本の食卓を賑わせていたブラジル産の鶏肉もアメリカ産の牛肉や小麦も、市場からは完全に姿を消してしまった。だが何よりも日本の食糧事情にとって問題だったのは、トウモロコシを主体とした南北アメリカ大陸からの安価な飼料の輸入が、完全にストップした事に間違い無い。飼料が手に入らなければ、それを餌として家畜を育てていた国内の畜産業も成り立たない。勿論それならば国産の飼料で遣り繰りすればいいのだが、それではコストが跳ね上がる。

 おかげで国産の肉や牛乳、バターと言った畜産加工品は価格が高騰。それでも牛肉に関しては、オーストラリアが輸出制限していたオージービーフを二年前から解禁してくれたおかげで、産地にこだわらなければ大分手に入り易くなった。豚肉も、廃棄食品を餌として再利用するサイクルを確立させた事で、一時期に比べれば生産量は上昇。だが新鮮さが命の鶏卵は依然高騰したままで、かつての『物価の優等生』も、今はある意味栄養価の高さに準じた適正価格に落ち着いている。

 それでもやはり今のご時勢、安く腹一杯栄養を摂ろうと思ったら魚が一番手っ取り早く、漁場が豊潤になったおかげでかつては高級食材だった大トロも、今では気軽に食える庶民の味にまで落ち着いてしまった。だがまさにその庶民である俺達にとってそれは、諸手を挙げて歓迎すべき、喜ばしい事に違いない。

 とにかくパンパンに膨らんだ俺の腹を見る限り、日本の食料自給率を短期間で大幅に上昇させると言う国家的命題は、着々と達成されつつあるのは確実なようだった。もっとも、食料自給率が僅か数年でここまで急速に上昇したのは、それを消費する人口が半減したのも大きな要因の一つなのだろうが。


   ●


「  ブー  」

 ブザーの音でハッと眼を覚ますと、窓の外では既に陽が落ちており、真っ暗な観察室の中を青白い月明かりだけが照らし出していた。

 昼飯で満腹になった俺は駆除業務での心身への疲れもあってか、食後の小休止のつもりで寝転がったベッドの上で、そのまま熟睡してしまったらしい。エアコンが効いているとは言え身体はすっかり冷え切ってしまっており、おやつにするつもりだったサイドボードの上のミカンも、当然だが手付かずのまま転がっていた。

 冷えた身体をさすって暖めながらベッドから抜け出た俺は、急いで部屋の電気を点けると、ブザーの鳴った出入り口の方角へと足を向ける。昼食の受け渡しにも使った出入り口横の引き出しの上にあるランプが赤く光っており、その引き出しを開けると、中にはゲーム機と本が数冊と、小さなメモ用紙が一枚入っていた。メモ用紙には「頼まれていた物を持って来ましたよ 窓の外を見てくださいね」と、あまり綺麗とは言えない、いかにも書き慣れていない拙い字で書かれていた。

 間違い無く、クリスの字だ。

 俺は急いで、今自分が居る隔離棟二階奥の部屋の窓に駆け寄ると、鉄格子の隙間から外を見渡す。眼下に広がるのは、街灯に照らされた大隊基地の駐車場。その街灯の下に、まだ防疫隊の制服を着てはいるものの、職務中は小さなポニーテール状に束ねている髪を解いたクリスがポツンと立っているのが確認出来た。

 コンコンと俺がやや強めにワイヤー入りの窓ガラスを叩くと、その音で眼下のクリスもこちらに気付く。この距離からでも見間違えようも無い、犬歯が一本抜けた間抜けな笑顔の彼女は右手の親指を立てて拳を握ると、それをこちらに向けて突き出して来た。そのジェスチャーが一体どう言う意味なのかは良く分からなかったが、俺も真似して親指を立てた拳をクリスの方に突き出して微笑み返してみると、それで満足したらしい彼女は大きく一度手を振ってから軽快な足取りでその場を立ち去った。流石にこの距離では聞こえないが、おそらくは何か、能天気な鼻歌を歌いながら。

 クリスティン・C・クリーズ、通称クリスは小隊の中では唯一俺の後輩にあたるアメリカ人の少女で、年齢も一つ下の十八歳だ。

 今年の春の配属初日にその姿を見た時、鈴原小隊長を除く俺も含めた小隊員は全員、恥ずかしながらも「外人が来た! どうしよう、俺、英語喋れない!」と、年甲斐もなく内心慌ててオタオタしていた。だが見た目は金髪碧眼にソバカス面の絵に描いたようなアングロサクソン系白人種にもかかわらず、口を開いた彼女は普通に流暢な日本語を話す、気さくでまだ幼さの残る可愛い少女だった。むしろ気さくが過ぎて規律違反が多く、小隊を束ねる鈴原小隊長からしょっちゅうお小言を喰らっている問題児なのだが。

 そんなクリスが奇跡的にお使いを忘れていなかったお陰で届いたゲーム機を、俺は早速観察室のネットTV用のモニターに繋いで電源を入れ、中に入れっ放しになっている十年以上昔に発売されたRPGのソフトを起動させる。前回の収容の際に、もう何度目になるのか忘れたゲームクリアをしているので、今日からはまた新たな制約を自分に課して遊ぶ事にしよう。

 さて、今回はどんなプレイに興じる事にしようか。


   ●


 序盤のチュートリアルが終了する頃に俺は、本来ならば三人パーティーで剣と魔法の世界を旅するべき所を敢えて仲間二人を開始早々に自滅させ、主人公一人単独で最後までクリアする枷を自分に強いてみる事にした。

 秋の夜長は、まだ始まったばかり。

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