第二幕


 第二幕     十月十九日 正午



 その日曜日の夕方、特にするべき事も無く自宅に居た俺は居間に行くと、ネットTVで適当なバラエティ番組をザッピングしながら観るともなしに観ていた。

 とりあえずザッと在京キー局の番組を巡回してみたが、リアルタイム放送では特に興味を惹かれるような番組は無かった。なので仕方無く、俺がネットワークのライブラリデータベースから面白そうなタイトルを探していると居間の奥のドアが勢いよく開いて、隣の書斎から父さんが飛び出して来た。その顔に、いつに無く真剣な表情を浮かべて。

「辰也、今すぐチャンネルをLIVEニュースに合わせなさい。それと母さんも一応、こっちに来て一緒に観なさい」

 普段は温厚で礼儀正しく、物腰柔らかで寡黙な父さんの口から珍しく発された、強い命令口調の言葉。その声に気圧された俺は慌ててリモコンのタッチパネルを操作して、二十四時間放送のニュース専門番組に、ネットTVのチャンネルを合わせる。台所で夕飯の支度をしていた母さんも、右手にピーラー、左手に剥きかけのジャガイモを持ったまま居間へとやって来た。

「ちょっとちょっと、何? 一体どうしたの?」

「いいから母さん、こっちに来て。……とりあえず辰也、早くチャンネルをニュースに合わせなさい」

 やや狼狽している母さんを制しながらソファに座る俺の隣に腰を下ろして、じっとネットTVのモニターを睨みつける父さんの横顔は、少しだけ怖かった。

 チャンネルを合わせてからデータバッファに要する僅かなタイムラグの後に、まず目に飛び込んで来たのは、画面右上に大きく表示された『速報』のテロップ。次いでモニターに映し出されたのは、小さな部屋の中で真っ赤に充血した両眼を飛び出さんばかりに見開き、口から白い泡状の唾液を撒き散らかしながらベッドの上で狂ったように絶叫して暴れる、若いアジア系の女の姿だった。

 女は革製のベルトで手足をベッドに縛り付けられながらも、一向に暴れるのを止めようとはしない。そのため、病院等でよく使われている簡素なパイプベッドのフレームは女が暴れる度にギシギシと軋んで悲鳴を上げ、今にもへし折れてバラバラになりそうにすら思えた。

 おそらくこの映像が撮影されている現場は、何がしかの隔離施設なのだろう。中継カメラの置かれた空間と暴れる女の居る部屋とはガラスか何かの透明な板で隔てられているらしく、そのためTVのスピーカーから流れて来る女が放つ絶叫は、実際よりも小さくくぐもって聞こえていた。

 それでも週末の茶の間に流していいような代物とは到底思えない、まさに断末魔と表現すべき絶叫と、それを発する正気とは思えない女の姿。一体そこで何が起こっているのか、一切の予備知識無しで突然その光景を観せられた俺と母さんは、只々ぽかんと口を開けてそれを観ている事しか出来なかった。

 果たしてこの映像が何を伝えようとしているのか皆目見当もつかなかったが、とにかく世界のどこかでただならない事態が起きている事だけは、鈍感な俺もそれとなく察する。

「……何これ?」

「しっ!」

 俺の率直な疑問を父さんが遮った直後、ニュースの画面が暴れる女の居る施設からTV局のスタジオに切り替わり、やや取り乱し気味の女性キャスターが映し出された。そしてそのキャスターが真っ赤に充血した眼でこちらを見つめ、口を大きく開いた次の瞬間。突然彼女の喉から発されたのは、鼓膜が破れモニターが割れるかと思うほどの物凄い大絶叫。全身がビリビリと震えるほどの絶叫の波を浴びせられながらも、俺にはそれが、ついさっきまでベッドに縛り付けられていた女の叫びだと言う事だけが瞬時に理解出来た。

 意味の分からない異常な状況に晒された俺も、そして勿論隣に座る父さんも母さんも、為す術も無くソファに座った体勢のままで只々涙を流していた。自分達が何故泣いているのか、それすらも理解出来ないままに。


   ●


 ハッと眼を覚ました俺は自分が今どこに居るのか理解出来ず、しかも顔の周囲が何かに覆われているような圧迫感があったので酷く驚き、狼狽した。だが反射的にその圧迫感から逃れようと頭を上げた拍子に後頭部をトラックの内壁にぶつけた事で、自分が防護ヘルメットを被ったままである事に気付く。そして同時に、ここが防疫隊の処理班の回収トラックの中である事を思い出して、ようやく俺は平静さを取り戻した。目尻からは少しだけ、涙が零れている。

 また、あの日の夢か。

 俺は壁にぶつけた――とは言っても、内部にクッションが施されたヘルメット越しなので全く痛くはなかった――後頭部を照れ隠しのためも含めて手で撫でさすりながら、今しがたまで見ていた夢の内容を懐かしげに反芻する。

「どうした? 何か体調に変化が出たのか?」

 記憶を辿って少し遠い目をしていた俺に、中年男性の声が疑問を投げかけた。

「いや、ちょっとうたた寝してしまっただけですよ。……ほら、あるじゃないですか、眠りが浅い時にいきなり身体がビクッてなるやつ。アレですよ、アレ」

「本当か? それなら構わないが……何か少しでも体調に異常を感じたのなら、すぐに伝えるんだぞ?」

 声をかけてきた中年男性は、真っ白な使い捨ての防疫服と透明な樹脂製のゴーグルで全身を包んだ、国境防疫隊処理班の職員。それがトラックの荷台を分断している金網越しにこちらの様子を警戒しているのが見て取れたので、俺は軽く作り笑いを浮かべながら手を振って応えた。とりあえず安心したらしい職員は、一旦は立ち上がりかけた座席に改めて座り直してから、再び俺の動向を監視する業務に戻る。

 長沖西海岸の浜辺でゼイビーズ一体を駆除し終えた俺は、バラバラになったその死体の詰められた布袋と共に、駆けつけた処理班のトラックに防護スーツを着たまま装備品ごと回収された。このままトラックの積荷は大隊基地の隔離棟へと直接搬送され、そこでゼイビーズの死体は焼却処分に。そして俺自身は防護スーツ及び装備品の銃火器類と共に入念な洗浄・消毒をされてから、『感染疑い』として同棟内の経過観察室で三日間、規定により他人との接触を一切断たれた隔離生活を送る事になる。

 『感染疑い』とは、ゼイビーズウイルス感染者と至近距離で接触し、その汚染された体液を防護スーツ越しにとは言え浴びてしまった、今現在の俺の置かれた立場。それは駆除業務の行われた浜辺に大量の消毒用石灰を撒きに来た処理班の人間にとっても、僅かな変化すら見逃す事が出来ない観察対象に相当する。なので、寝惚けて後頭部を壁にぶつけると言った間抜けな素振りをウイルス感染の兆候なのではないかと疑われてしまうのも、大袈裟だとは思うが理解出来なくもない。

 それにしてもいつ以来だろうか、あの日の夢を見るのは。忘れかけた頃を見計らったかのように、繰り返し夢の中に現れては消える光景。

 五年前のあの日、ベッドに縛り付けられて暴れ狂っていた女こそ、TVのモニター越しにとは言え俺が人生で初めて見たゼイビーズウイルス感染者だった。そして同時に、その喉から溢れ出た身も凍るような大絶叫の咆哮は、世界の在り様を根底から覆す混迷の日々の始まりを告げる地獄の鐘の音でもあった。

 夢の中では何故か、いつも最後にスタジオの女キャスターが絶叫し、俺と父さんと母さんの三人は涙を流してそれを見つめているのだが、実際にはそんなシュールな過去は存在しない。現実の彼女はごく普通に、淡々と原稿を読み上げてニュースの詳細を伝えていたし、俺達家族もそれを冷静に視聴していた。

 曰く、インドと中国の国境付近で新種の狂犬病らしき伝染病が爆発的な流行の兆しを見せ始めており、感染が拡がる周辺国の幾つかで非常事態宣言が出されたために、日本人観光客は渡航を控えるように外務省が緊急声明を発表したと言う事だった。先に映し出されたベッドの女は、現地の病院で強制隔離された、その伝染病の感染患者だと言う。

 この第一報を聞いた段階での俺はまだ、その後の世界情勢と人類史を揺るがす大惨事が勃発しているなどとは予想だにしていなかった。

 それは当時の俺がまだ、チン毛も生え揃わない十四歳の中学生に過ぎなかった事もあるだろう。だがあの時一緒にニュースを観ていた、外資系企業に永年勤めてそこそこ国際感覚もあった筈の父さんにも、そこまでの想像力は無かったと思う。父さんが怖いくらい真剣な眼差しでニュースを観ていたのはおそらく、映画の配給会社のバイヤーとして海外へ買い付けに行く事も多い仕事柄、感染が拡大して空港が封鎖されるなどの事態で業務に支障が出る事を危惧していたからだろう。

 件の伝染病そのものは対岸の火事に過ぎず、時間が経てば何事も無かったかのように収束するに違いないと、あの時点では誰もがそう考えていた。まさかその火の粉が我が身にまで降りかかって来るなどとは、当時国内に居た日本人のほぼ全員が想像もしていなかったに違いない。それ程までに伝染病・狂犬病の類は、清潔で安全な環境に慣れ切ってしまった現代の日本人にとって、一切の危機感を喚起させない遠く薄い存在になってしまっていたのだ。

 だが大方の予想に反して、その日から世界中のニュースはこの新種の伝染病関連一色に染まり、やがて一ヶ月も経つ頃には逆に感染地域からの情報が届かなくなった。

 感染が拡大した国家が、次々と『沈黙』し始めたのだ。


   ●


 俺が所属する長沖市の中隊基地とは別の、山口県の県庁所在地である萩市に居を構える大隊本部基地。その敷地内に進入した処理班のトラックは隔離棟の専用格納庫に入ると、更にその内部に在る焼却・洗浄施設のゲート内に車体を全て納めてから停車する。外の準備が整うまで暫しの間があってからトラックの後部ハッチが開き、ようやく俺達は、この狭い荷台から外に出る事が許された。

「お疲れさん。そんじゃちょっと、力仕事も手伝ってくれるかな?」

「ええ、ちょっと待ってて下さいね」

 トラックからコンクリート製の床に降り立ち、防護スーツを着たままずっと座っていたせいですっかり凝り固まった肩や腰を軽いストレッチでポキポキ鳴らしている俺に、トラックを出迎えてくれた処理班の職員二人が声をかけて来た。ここで言う力仕事とは、死体の焼却作業の事を指す。

「それにしても、今回もまた見事にバラバラだな。こっちとしてはあんまりバラさないでくれた方が持ち運び易いし、血で汚染されなくて好都合なんだけどね」

「無茶言わないで下さいよ。襲い掛かって来るこいつらを眼の前にして、そんな悠長な事を言ってられる訳が無いじゃないですか」

 職員が溜息混じりに吐き出した愚痴に、俺も現場の人間にしか分からない愚痴で返した。

「……やっぱり、こいつらを相手にする時は怖いもんかね?」

「そりゃ怖いですよ……まあ、最初の頃に比べたら随分慣れてきて、逃げ出したくなるような怖さは感じなくなってきましたけどね。でもこいつら次に一体どんな行動に出るのかさっぱり予想が付きませんから、緊張しますよ、ホント。……それにたとえ慣れたって、やってて気持ちの良い仕事じゃありませんから」

 すっかり顔見知りになった職員と適当な世間話で間をもたせながら、つい半時間ほど前に俺が浜辺で駆除したゼイビーズの死体の詰まった布袋をトラックから運び出すと、施設の壁面に口を開けた焼却炉の投入口に三人がかりで袋ごと放り込む。

 顔見知りの職員とは言ってもお互いに名前までは知らないし、更に正確に言えば、俺は向こうの顔を眼とその周辺しか知らない。何故なら彼らが着ている防疫服は顔以外の全身を覆う真っ白な布製で、その上から頭をすっぽり覆う帽子と抗菌マスクを着用しているので、透明なゴーグルを装着している眼の周辺しか地肌が覗いている部分が無いからだ。

 彼らの頭の天辺から足の爪先まで白尽くめの姿を見る度に、俺は小学生の頃に毎日学校まで給食を届けに来てくれた給食センターの職員を思い出して、少し懐かしく感じる。だが彼らが扱っている物は暖かくて美味しい給食とは対極に位置する、狂犬病ウイルスに汚染された人間の、冷たい血にまみれたバラバラ死体なのだが。


   ●

 

 ゼイビーズウイルス、及びこのウイルスが引き起こす感染症。それは二〇二〇年秋にユーラシア大陸南部の印中国境線付近で初めて確認され、その後は文字通り爆発的な速度で世界中に拡散した。その発生から現在に至るまでの仔細な経緯、そしてこのウイルスに関する学術的な基礎知識を、国境防疫隊の隊員は訓練校の教練で徹底的に叩き込まれる。勿論この俺も、例外ではない。

 人類史上例の無い感染拡大を見せる事となったこのウイルスは、ラブドウイルス科リッサウイルス属に分類され、日本では古くから『狂犬病』と呼ばれて来た感染症の原因となるウイルスの変異型亜種に類する。そしてその特性も従来のリッサウイルス属と一致し、脊椎動物の中でも哺乳類全般のみに咬傷や粘膜接触を介して、主に唾液から感染。感染後はウイルスが神経組織を這い登るように蝕みながら、最終的には感染者の脳にまで達して発症する、人獣共通の感染症だ。

 この感染症に発症した者は、重度の脳炎を引き起こして生命活動の中枢となる脳神経系をズタズタに破壊される。その結果、まともな理性や思考を失って重度の興奮性や精神錯乱・恐水症状や破壊衝動などの異常行動を引き起こし、やがては見境無しの凶暴性を発揮して暴れながら、周囲にウイルスを撒き散らかして感染を拡大させる。

 この段階までは、既に周知されている従来の狂犬病の症状と基本的に大差無い。だがこの先が、ゼイビーズウイルスは他のリッサウイルス属と大きく異なる。

 従来の狂犬病の致死率は、ほぼ百パーセント。発症すれば数日以内に、まず間違い無く全身の筋肉が麻痺状態となって呼吸障害などを引き起こし、やがては確実な死に至る絶対致死の感染症だ。事実、数千年に及ぶ人類の歴史の中でも狂犬病に発症して生還した例は、僅かに数える程しか無い。更にその僅かな生還例も、かろうじて一命を取り留めはしたものの、全身に重度の障害を負うなどの無事とは言い難い結果に終わっている。

 だが、ゼイビーズウイルスは違う。

 発症した者は重度の脳炎によって大脳辺縁系を完全に破壊され、それまでの人生で培って来た記憶も知能も理性も全て失い、原始的な欲望の赴くままに行動する『獣』、もしくは『昆虫』のレベルにまでその知性レベルが堕とされる。だがそれ以上は神経系が破壊される事も無く、決して死に至る事は無い。

 最初の感染が確認されてからの、この五年間。日本も含めた世界中に数多在る研究機関が数え切れないほどの生体サンプルを捕獲し、あらゆる面から徹底的な検証を重ねて来た。だがいくら検証しても、ゼイビーズウイルス単体での感染者の致死率は、驚くべき事に0パーセント。全くの、完全な、0。死亡例は、一件も確認されていない。

 この数字は、この感染症が只の風邪や虫歯よりも安全な病気と言っても過言ではない事を証明している。それどころか、ゼイビーズウイルスに感染・発症した患者の免疫力や基礎代謝が通常よりも飛躍的に向上し、むしろより健康体になったと言う報告すらも存在する。更には、脳炎によって大脳の大半を失った事でエネルギー消費の効率が上がり、より少ないカロリー摂取で長時間の生命活動が可能になっている事も確認された。

 だがウイルス自体が直接的に死をもたらす事が無くとも、人間としての理性を完全に失った感染者は肉欲の求めるままに人獣を犯し、破壊衝動の赴くままに暴れ狂い、食欲の求めるままに人肉も含めたあらゆる食物を見境無く喰らい尽くそうとする。当然ながらその危険性は、文化的な人間社会にとって看過出来るものではない。

 そしてもう一つ、症状に並んで特筆すべきゼイビーズウイルス最大の特徴に、その感染速度が上げられる。

 従来の狂犬病ウイルスには、感染してから発症するまでに数週間から数ヶ月の潜伏期間が存在する。よって、その間に患者の経過を観察して隔離する事により、無用な感染拡大を回避する事が可能だった。だがゼイビーズウイルスの場合は驚くべき速度で神経系に感染が拡がり、瞬く間に頭部の脳組織へとウイルスが到達して、百パーセントの確率で発症する。

 その感染速度は従来の常識からは考えられない速さで、脳組織から遠い手足の指先を咬まれて感染した場合でも、せいぜい十分。脳組織の存在する頭部により近い首筋などを咬まれたり、口膣や眼球の粘膜に感染者の血液や唾液などのウイルスを含んだ体液が付着した場合は、ものの数分足らずで発症してしまう。そうなれば、もはや助かる術は存在しない。感染者は無差別に人を襲って喰らい、更なる感染者を生み出し続ける『ゼイビーズ』へと、問答無用で変貌してしまう。

 こうして文字通りの鼠算式で無尽蔵に、そして爆発的な速度で犠牲者が増え続けるのが、ゼイビーズウイルスとその感染症の真の恐ろしさだ。

 更に最悪な事に、発症前・発症後を問わずこの感染症に対する有効な治療法は現時点では一切確立しておらず、感染を予防するワクチンも存在しない。

 通常、狂犬病の予防には不活化処理した狂犬病ウイルスを、そのままワクチンとして使うのが一般的であると同時に、最も有効とされる。つまり、無毒化した未だ生きているウイルスをあえて接種する事で体内に免疫を作り上げ、感染を未然に防ぐ方法だ。だがゼイビーズウイルスは特殊な変異体であるために、何故か不活化処理すると瞬時に死滅する特性がある。そのため、従来の方法では予防ワクチンを作る事が出来ない。

 当然、こうして俺達がゼイビーズのバラバラ死体を焼却炉に放り込んでいる今現在も、未だ『沈黙』を免れている国々の研究機関が総力を挙げて予防薬・特効薬の開発に心血を注いでいるのだろう。だが残念ながら今の所は、何の成果も上げられずにいるのが現状だ。

 一応日本では『大流行』以降、国民全員が狂犬病ウイルスのワクチン接種を毎年受ける事が、法律で義務付けられた。だがこれは昔から在る従来の狂犬病用のワクチンで、事実上ゼイビーズウイルスに対しては何の効果も無い。はっきり言ってしまえば、只の気休め。むしろ、行政による政治的パフォーマンスと言った方が正しいのかもしれない。

 しかし一見無敵のゼイビーズウイルスにも、弱点は存在する。自然界におけるゼイビーズウイルスそのものは比較的脆弱で、十七℃以下の環境に三十分以上晒されるか、ある程度以上の紫外線を浴びせれば簡単に死滅してしまうし、乾燥にも極めて弱い。更に当然、ウイルスの一種である以上は蛋白質が主原料なので、七十℃程度の高温で熱変性を起こして簡単に壊れてしまう。

 つまるところ簡単に言ってしまえば、ゼイビーズウイルスは生きている哺乳類の体内でしか生存出来ない、海を越える事が出来ないウイルスである。

 哺乳類にしか感染しない。このリッサウイルスの持つ特性がゼイビーズウイルスの感染範囲を限定してくれた事は人類にとって、そして海に囲まれた島国である日本にとっては、正に不幸中の幸いだった。もしこれがインフルエンザウイルスやノロウイルスの様に鳥類や魚類を媒介して感染したり、ましてや空気感染するような代物だったとしたら、今頃日本も無事では済まされなかっただろう。いやそれどころか、人類そのものがとっくの昔に『沈黙』させられていたに違いない。

 そんな現状だからこそ、人類に残された有効な対処方法は只一つ。それは感染者を、もはや文化的な『人間』でも生物学上の『ヒト』でもない害獣同然の『ゼイビーズ』と判断して、問答無用で即時駆除する事。そして汚染された死体と、その体液の付着した箇所を焼却処分か、もしくは消毒・洗浄してウイルスを死滅させる他無い。

 勿論言うまでも無く、この日本国内でその責務を果たす尖兵として立たされているのが、俺が所属する国境防疫隊だ。


   ●


 処理班の職員の一人が、ゼイビーズの死体を詰めた布袋が焼却炉の投入口に全て放り込まれたのを確認すると、その脇の黄色と黒の縞模様で縁取りされた赤い開閉ボタンを押した。するとゴウンと言う音と共に下からせり上がって来た扉で投入口が完全に塞がれ、中から燃焼ガスに点火される音が微かに聞こえる。少しの間を置いてから、扉にはめ込まれた耐熱ガラス製の小さな覗き窓から垣間見える焼却炉の中が、暗闇から明るいオレンジ色へと徐々に変化するのが見て取れた。今まさに、俺の目の前でウイルスに汚染された男の死体が布袋ごと、骨まで全て灰になるほどの高温で焼かれている。

 タイトルは失念したが昔観た古いゾンビ映画で、同じように布袋に入ったゾンビのバラバラ死体を火葬場で焼くシーンがあった。確かその映画の中では、焼いたゾンビの煙を浴びた人間や墓場に埋葬されていた死体が全てゾンビになってしまい、子供ながらに嘘臭いと思いながらも少し怖かった記憶がある。だが幸いにも、ゼイビーズウイルスは低温にも高温にも弱いので、そんな映画と同じ結果に陥る心配は無い。焼いてしまえば、簡単に死滅してくれる。

 そう言えば半年前に初めてこの焼却作業に立ち会った際に、何故だか分からないがゼイビーズの死体を焼き終えた次には、その駆除を行なった自分がここに放り込まれて生きたまま焼かれる光景が頭に浮かんでゾッとしたのを覚えている。ゼイビーズに関わった自分もまた汚染されているのではと、そう考えてしまったのだろうか。

「焼却作業、完了です」

 俺と一緒に布袋を運んだ処理班の職員が、死体の焼却作業が完了したその旨を、格納庫の天井近くに在る小部屋からガラス越しにこちらを見ている別の職員に向かって伝えた。少しの間を置いてから、小部屋の脇の壁面に据え付けられたスピーカーから抑揚の無い事務的な声で、次の行動の指示が出される。

「了解しました。準備が出来た職員から順に、奥の扉を抜けて経過観察室に向かってください。番号は一番、二番、五番です」

 あの小部屋の正式な名称は知らないが、俺達防疫隊の前線隊員は皆、偉そうに上から指示を出す事に対する皮肉を込めて『司令室』と呼んでいる。

 人間一体分の肉の塊を焼却炉に放り込む仕事を終えた俺と二人の処理班職員の計三人は、指示通りに経過観察室へと向かう自動ドアが並んだ格納庫奥の壁に向かうと、各々支持された番号が振られたドアの前に立って、それが開くのを待つ。ここから先は各自個別に行動し、『感染疑い』の容疑がかけられた観察期間が終わるまでの三日間、基本的に他者との接触は一切許されない。

 司令室からの遠隔操作で、俺の眼前に立ちはだかる『5』の番号がでかでかと書かれた自動ドアが開くと、白い壁が眩しい消毒室がその姿を現す。その中に駆除業務で使用した銃火器を携え、防護スーツを着用したまま足を踏み入れると、背後で静かに自動ドアが閉まった。

 広さにして三畳間有るか無いかの狭い消毒室内は、壁も床も小さな穴が無数に開いた抗菌タイルがびっしりと並んでいる。そして今俺が入って来た方角及びその向かいの壁に頑丈な自動ドアあるのと、壁際に浅いプール状の消毒槽がある以外には、特にこれと言った設置物は無い。

「消毒を開始します。銃火器類は重ならないように床に置き、防護スーツは脱がずに立ったまま両手を肩の高さまで上げ、脚を軽く開いて大の字になって指示があるまでそのままの体勢を維持してください」

 頭上のスピーカー越しに出された、あの司令室からと思われる指示に従って言われた通りの体勢になった俺に、全方位の壁の穴から霧状の消毒用無水アルコールが勢いよく噴霧される。おそらく今頃、背後の格納庫内では俺達が乗って来た処理班所属の回収トラックも、同じように無水アルコールで徹底的に消毒されている事だろう。

「防護スーツ、脱ぎ終わりました」

 スーツの上から全身に万遍無く消毒液を浴びせられ、ヘルメットが水滴で曇って視界が真っ白になった状態で三十秒間ほど放置されてから、更にその消毒液を真水で入念に洗い流された俺にようやく出された次の指示。その指示に従って、俺は防護スーツに加えてその下に着ていた制服から下着まで全て脱いで全裸になると、その旨をこの部屋のどこかに存在するマイクに向かって伝えた。

 抗菌タイルの床が、素足にはヒヤリと冷たい。

「了解しました。では眼と口をしっかりと閉じて、先程と同じ体勢を維持して待機し、再び指示があるまでそのままでお願いします」

 再び指示された通りの体勢を取った俺の裸体に、今度は直接、無水アルコールが噴霧された。水よりも沸点が低いアルコールは俺の体温でみるみる蒸発し、その際に気化熱を体表から奪い取って行くのですさまじく寒く冷たく、思わず声が漏れてぶるっと震える。

 全身に鳥肌を立てながら寒さに三十秒間耐え忍ぶと、この消毒室に入って来たのとは反対側の自動ドアが開いて、今度は小さな無人のシャワー室が顔を覗かせた。

「お疲れ様でした。両足を消毒してシャワーを浴びてから、観察室に向かってください。三日後まで、外出以外は自由に過ごして結構です」

 マニュアル通りの、簡潔で事務的な指示。それに従って着ていた服や防護スーツ等の装備一式はそこに残したまま、消毒槽の塩素水に脛まで足を漬けてからシャワー室に移動すると、狙い済ましたようなタイミングで背後の自動ドアが閉まる。おそらくは指示を伝えるスピーカーと同様に、消毒室のどこかにカメラが設置されていて、こちらの動向が全てあの司令室に筒抜けになっているのだろう。

 いい歳をした男である俺自身は裸を見られても平気だが、来週からクリスが駆除業務を担当した際には、あの司令室からカメラでここを監視している連中は彼女の裸体を見る事になるのだろうか。それともその場合には、監視役も女性に変更されるのだろうか。どちらにせよクリスの裸ならば俺も是非見てみたいので、出来ればその役職を、その日だけでも代わってほしいと本気で思う。普段は制服で隠れていてよく分からないが、白人である彼女は結構スタイルが良いし背も高いので、顔だけではなくその身体もちょっとした外人モデルくらいの器量は有しているに違いない。

 クリスの裸体を妄想して多少悶々としながらも、アルコール消毒によって冷え切った身体を熱いシャワーで暖め直した俺は、備え付けの薬用石鹸とシャンプーで軽く全身を洗い流してからシャワー室を後にした。脱衣所の様な隣の小部屋に用意されていたバスタオルでさっさと全身を拭くと、同じく用意されていた官給品の下着とジャージに着替えて、更に奥のドアをくぐる。ドアの向こうには、経過観察室へと向かう長い廊下が続いていた。

 シャワー室より先のドアは、もうあの司令室から遠隔操作される自動ドアではなく、中から手で開けられる普通のノブが付いたドアだ。規定の消毒さえ済ませてしまえば、もうそこまで神経質になって行動を制限する必要は無いと言う事なのだろう。

 消毒室に置いて来た銃火器と防護スーツ等の、ウイルスに汚染された体液が直接付着した装備一式は紫外線による消毒後に、一旦装備課の方に回されてから再び国境防疫隊の前線部隊の元に。俺の制服と下着は同じように消毒と、ついでに洗濯とアイロンがけまでしてくれた上で、この隔離棟を出る際に直接返却される。

 さて、これからの三日間、やるべき事の無い経過観察室で一体何をして暇を潰そうか。クリスに頼んでおいたお使いを、彼女が忘れていなければ良いのだが。

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