第一幕
第一幕 十月十九日 午前
大型ワンボックスバンの、薄暗い後部座席。そこに腰を下ろした俺は駆除業務用の防護スーツに袖を通しながら、背後の助手席と頭上の車載スピーカーから二重音声になって聞こえて来る鈴原三尉の最終警告を、聞くともなしに聞いていた。
「お前には現在、我が国の領土を侵犯し、かつゼイビーズウイルス感染者の嫌疑がかけられている。言葉が理解出来るだけの知性が残っているのならば、今すぐ両手を頭の後ろで組んで、地面に伏せなさい。さもなくばこれを最終警告として、お前をゼイビーズウイルス感染者と断定し、国際協定に基づいて人権を剥奪。即時、駆除する。繰り返す、お前には現在、我が国の……」
まだギリギリ十代のうら若き女性にしては低く落ち着いた声で、最終警告を三度復唱し終えたのは、小隊長である鈴原三尉。我らが小隊の指揮官である彼女は面倒臭そうに自身の眼鏡を外してから、俺達の乗るバンの前方二百メートル程の浜辺に立ち尽くしている人影を、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらサーモスコープで観察している。そしてそんな鈴原小隊長とは対照的に、俺の隣の座席に腰を下ろした後輩のクリス二士は楽しそうな笑顔で、官給品の
「……楽しそうだな」
今にも陽気な鼻歌でも歌いだしそうなクリスのソバカス面を眺めながら、俺はやや陰鬱そうな空気を故意に含ませて、皮肉混じりに呟いた。だがこの金髪碧眼のアメリカ娘はどうやら、そんな空気が読めるほど繊細な女ではないらしい。
「このね、チューブマガジンの中をガシャガシャと弾が奥まで入って行く感触が、何度やっても気持ちいいんですよ、先輩」
その絵に描いたようなアングロサクソン種の外観からは想像もつかない流暢な日本語で、散弾銃の
「はい、田崎先輩。ヘルメットですよ」
やがて六発のショットシェルを八七式散弾銃の弾倉に詰め終えた彼女は、それを傍らに置くと、俺に防護スーツのヘルメットを差し出しながら白い歯を見せてニカリと笑う。俺に向けられた、屈託の無い満面の笑顔。右上の犬歯が一本抜けているクリスの笑顔は言っちゃ悪いがひどく間抜けで、彼女の能天気な性格も手伝ってか、見ていて何だか妙に安心出来る。
この抜けた犬歯に関しては本人曰く、中学生の頃になかなか開かないガラス瓶の蓋を力任せに引っ張ったらすっぽ抜け、勢い余ったその蓋が直撃して根元からボッキリと折れたらしい。勿論すぐに歯医者に行って差し歯を作ったのだが、その差し歯もすぐに抜けてしまうので、結局面倒臭くなって以降は抜けっ放しにしているのだと彼女は言う。実に何と言うか、クリスと言う少女の大雑把な性格が凝縮されたようなエピソードだと感心するやら呆れるやら。
そんなクリスから手渡された、頭部をすっぽりと完全に覆う形状の、強化ポリカーボネイト製の防護ヘルメット。一見すると、船外活動を行う宇宙飛行士が被るような外観のそれを頭に被った俺は、既に着込み終えた防護スーツの襟首と二重ジッパーでしっかりと接続して、ヘルメットの内部を外気から完全に遮断した。
抗ウイルスフィルターを仕込んだ通排気口が装着された後頭部以外は透明な防護ヘルメットの内側は、曇り止めのワックスが充分に塗られている筈なのだが、それでも俺の呼吸に合わせて若干曇る。更に外界の音がくぐもって聞こえるのも相まって、装着すると、想像以上の息苦しさと圧迫感を覚えざるを得ない。これを被る度に自分が閉所恐怖症でなくて良かったと、俺は心の底から感謝する。
「田崎、もう出られるか?」
「はい小隊長。後は手袋をはめるだけですから」
左耳に装着した無線インカムから聞こえて来た鈴原小隊長の問いに返答しながら、俺は防護スーツ着用の最後の締めとして、分厚い牛革製の防刃手袋をはめてスーツの袖に接続した。そして二・三度拳を握ったり開いたりして手袋を手に馴染ませると、小さく嘆息して心を落ち着ける。
「小隊長、駆除準備完了しました」
「よし田崎、外に出て駆除業務を開始しろ。……くれぐれも言っておくが、今日は面倒臭がらずにちゃんと後ろから出るように頼むぞ」
「……了解です」
全身を覆う防護スーツに身を包んだ俺の耳には鈴原小隊長の皮肉が、すぐ後ろの助手席から直接聞こえてくる生の声と、それに僅かばかり遅れた無線インカム越しの声との二重音声になって聞こえて来た。それはまるで二人の小隊長に同時に話しかけられているようで、何とも言えず気持ちが悪い。彼女の様な気の強い女が身の周りに二人も居たとしたら、心の休まる暇も無いだろうと思うと少しゾッとする。
気を取り直して八七式散弾銃を左手に掴むと、俺はバンの後部座席と荷台を区切る二重ドアをしっかりとロックしてから、後部ハッチを開けた。そして前回の出動では狭い車内での移動を面倒臭がって規定を破り、二重ドアの内側にある車体横のハッチから外に出て小隊長にこってりと絞られたのを思い出しながら、バンから車外の浜辺へと降り立つ。
それほど強くはないが、浜辺には海風が吹いていた。分厚い防護スーツの生地越しにも、僅かにだが外気の冷たさが感じ取れる。
「じゃ、田崎先輩頑張って。それと一応、気を付けてくださいね? こっちでも万が一に備えて、援護の準備をしておきますから」
「おうクリス、来週からはお前も駆除業務に出るんだから、先輩の仕事ぶりをしっかりと見ておけよ?」
「はーい」
俺の背中をバンバンと叩いて送り出すクリスの頭を軽く小突いて、少しばかり先輩風を吹かしてみた。
訓練校を卒業して今年の四月にこの小隊に配属されて来た新米隊員のクリスは、今週で半年間の研修期間を修了し、来週からは本格的に駆除業務にも従事する事になっている。なので彼女には悪いが、これでようやく俺達先輩隊員の負担も少しは軽減される事になるだろう。普段は海岸沿いをパトロールするだけの簡単な仕事に従事し、『税金泥棒』のそしりも甘んじて受け入れざるを得ない、我らが国境防疫隊。だがこの駆除業務だけは危険と恐怖、そして何よりも罪無き人を殺める事で負う心の傷から逃れる事は出来ないのだから、それが少しでも分散されるのは歓迎すべき事に違いない。
気を取り直して俺は、防護ヘルメットの中で軽く左右に視線を巡らせてみた。
見渡す限り特筆すべき遮蔽物の無い浜辺に敷設された、国境防疫隊の巡回パトロール専用道路。その路面に降り立った俺の視界は、先程まで居た狭苦しいワンボックスバンの中に比べれば別天地の様に明るく開けはしたものの、全身を隙間無く覆う防護スーツとヘルメットのせいでそれほどの開放感は無い。
大仰に防護スーツとは言っても、基本的にはゴアテックスをベースにした抗ウイルス処理済みの分厚い合成繊維を三枚重ねで縫製した服に過ぎない。ただしその生地と生地の間に、ゼイビーズの歯や爪を通さないための硬質プラスチックで出来た小さな円盤状の防刃プレートが二重に織り込まれている点が、只の服とは大きく異なる。
前腕から肘、そして脛から膝にかけてFRP製のサポーターが装着されているそのシルエットは、自衛隊や警察の爆弾処理班が採用している防爆服にも似ている。だが防爆服に比べれば、全身に金属プレートやグラスファイバーが入っていない分だけこちらの方がはるかに薄く軽く、動き易い。それでも強化ポリカーボネイトで出来た防護ヘルメットを含めれば総重量は二十㎏を越え、何よりも完全な密閉構造であるために、暑さと息苦しさが尋常ではないのだが。
とは言えこれでも、現在採用されている防護スーツは随分と改善された結果の産物らしい。俺自身が着用した経験は無いが、初期のプロトタイプは生地が全て防水処理された牛革で出来ていたために通気性が最悪で、夏場は着用者が熱射病でバタバタと倒れたそうだ。
その悪名高きプロトタイプの名残でもあるのか、正式採用された現在の防護スーツも、手袋だけは間に薄い抗ウイルス繊維を挟みこんだ二重の牛革で出来ている。ともすれば真っ先にゼイビーズに噛みつかれそうな箇所だが、指先だけは細かい作業をする関係上防刃プレートが仕込めなかったために、こんな心許無い状態になってしまっているらしい。将来的にはこの手袋も多少は改善されるのかもしれないが、今は安全性よりも機能性の方が優先された格好だ。
俺は閉塞感漂うヘルメットの中で大きく一度深呼吸をしてから、身に着けた装備の最終点検を行なう。
左手には主武装の八七式散弾銃。右腰のホルスターには副武装のSIGP二二〇、九㎜
準備万端。一切の問題無し。
「よし田崎、目標が有効射程範囲に入る地点まで前進せよ」
「了解です、小隊長」
バンの後部ハッチを後ろ手に閉めた俺は、無線インカム越しに下された鈴原小隊長の命令に従い、目標である浜辺の人影を目指してゆっくりと歩を進める。途中、俺はちらりとバンの助手席に座る彼女に眼を向けた。
濃紺色の生地に細いオレンジ色のラインが入った国境防疫隊の制服に身を包んだ、細身で小柄な鈴原小隊長の端正な横顔。耳の長さで切り揃えられた短く艶やかな黒髪に、レンズの小さな黒縁の眼鏡を光らせた、まだ幼さの残る顔立ちの少女。彼女はバンの横を歩く俺ではなく、前方の人影をフロントガラス越しにサーモスコープで凝視しており、その顔は、いつもの人を寄せ付けない硬く憮然とした表情のままだ。まあ幼さの残る少女とは言っても、彼女もまた俺と同じ十九歳なのだが。
それにしても、これから危険な駆除業務を遂行させられる部下に対して労いの言葉の一つくらいかけてくれても罰は当たらないと思うのだが、彼女はそんな素振りを微塵も見せはしない。せめて言葉には出さずとも、軽く微笑みかける程度の優しさくらいは持ち合わせていて欲しいと願うのだが、ちょうど一年前にこの小隊に配属されてからこの方、俺は鈴原小隊長のそんな表情はついぞとして見た事が無かった。
美人と言う程ではないが彼女もそれなりに整った顔立ちをしているのだから、もっと愛想良くすれば少しは魅力的にも見えるだろうに、勿体無い。常に能天気な笑顔を浮かべている表情豊かなクリスとは、まるで対照的だ。
そんな二人の少女を心の中で比較しながら、俺は散弾銃を片手に独り浜辺を歩き続ける。防護スーツに動きを阻まれながらも重い足取りで一歩一歩距離を詰めるに連れて、砂浜に突っ立っている人影の仔細な容貌が次第に明らかになってきた。
ぱっと見は、そこそこ大柄な中年男性に見える。だがボサボサに伸び放題の頭髪と髭に覆われた顔から僅かにうかがえる眼には、人間らしい生気がまるで感じられない。更に黄ばみを通り越して茶色く変色した歯が覗く、ダラリとだらしなく開かれた口蓋の端からは白く泡立った大量の涎がボタボタと溢れ落ち、男の足元の砂浜に薄汚い染みを拡げ続けている。
その醜悪でおぞましい姿は疑いようも無く典型的なゼイビーズウイルス感染者であり、その名称の由来となったハリウッド映画やビデオゲーム等でお馴染みの生ける死体、ゾンビそのものだった。
男が着ているボロボロになった衣服は泥と埃と垂れ流された排泄物、それに垢や汗や血液などの老廃物が染み込んで蝋の様にガチガチに固まっているらしく、元がどんな色だったのか判別がつかない茶褐色のボロ布と化している。その身体からは、おそらくこの距離まで近付いた段階で鼻を突き、吐き気をもよおさせるような悪臭を放っている事は想像に難くない。だが幸いにも、この防護ヘルメットの通排気口に装着された抗ウイルスフィルターには高度な脱臭効果があるお陰で、俺はそのおぞましい臭いを嗅がずに済んでいる。
「身の毛もよだつ、とは良く言ったもんだな。本当に産毛が逆立って来る」
俺はヘルメットの中で、誰に言うでもなく男の外観に対する率直な感想をボソリと呟いてから、周囲をうかがった。
背後の波打ち際に漂うのは、この男が乗って来たのであろう小型ボート。その船体にはハングル文字で船名か所属かが書かれてはいるものの、日本人の俺にはさっぱり読めない。分かる事は唯一つ、この男が朝鮮半島から流れ着いて来たのであろう事だけだ。
国境防疫隊と連携している海上保安庁の巡視艇から、この小型ボートが国境線を越境しているとの連絡が入ったのは、今からおよそ二時間ほど前。その海保の巡視艇は、俺達が待機していた浜辺にボートが漂着したのを沖合いから見届けた後に再び海上の監視業務に復帰して、今はもうその姿を消していた。
ゼイビーズウイルス感染者の駆除は、可能な限り陸上で国境防疫隊が行う。そのため、奴等の姿を哨戒任務中の海上保安庁や海上・航空自衛隊が発見した場合も、最寄りの防疫隊への報告と、引き継ぐまでの監視を行うのみに留めるのが不文律だ。
その名目上の理由は海中への汚染を防ぎ、陸上で確実に駆除して焼却・消毒するためとされている。だが実際のところは、海上の国境線と東シナ海の海底油田の警備に回す貴重な人手を、ゼイビーズの駆除業務で無駄に浪費するのを避けるのが最大の狙いである事は否めない。俺達防疫隊とは違い、彼らには真の意味での国境と国益を守ると言う重要な任務が課せられている。
そう、『国境防疫隊』などとの御大層な名前を頂いてはいるが、その全てが海上に存在する日本の国境線上に、我らが防疫隊の隊員は只の一人として配備されてはいない。極めて短期間に突貫で作られたこの組織は、既にその名称からして矛盾を内包している、何とも足元の覚束ない存在なのだ。
そんな事をぼんやりと考えながら俺は、数十分前までは海保の巡視艇が停泊していた沖合いに向けていた視線を再び、波打ち際を漂う小型ボートの方へと向ける。
ボートには航行用のエンジンとスクリューが搭載されているのが見て取れるものの、すっかり赤茶けた錆まみれになっているそれが、まともに動くとは到底考えられない。それに海保の巡視艇からの報告でもその点に関しては触れられていなかったので、おそらくは海流に任せて韓国か北朝鮮のどちらかから、男を乗せたままここまで漂着して来たのだろう。
五年前の『大流行』以前なら、どちらの国から来たかで政治的な問題にも発展しかねなかったのだろうが、既に両国共に『沈黙』してしまっている今となってはそんな事に意味は無い。いかなる国の出身であろうと、今のご時勢ゼイビーズウイルス感染者と認定されてしまえば、只粛々と駆除されるだけだ。
「田崎、こちらのサーモスコープで目標の体温が三十八度以上を一分間維持した事を確認した。よって国際特別防疫措置法に基づき、
「了解しました。田崎辰也二士、鈴原澄香三尉の命令により、目標を速やかに駆除します」
無線インカム越しに鈴原小隊長と規定通りのやり取りを交わしてから、俺は左手に携えていた八七式散弾銃を両手でしっかりと構え直すと、目標である男との距離を更に縮めた。
ゼイビーズウイルスに感染・発症した人間は体温が上昇し、三十八度以上を常時維持し続ける。『大流行』初期の頃はゼイビーズウイルス感染者か否かを判断するために厳格な基準を設け、主に被疑者の体液等から判定する試薬の開発などが検討・試験運用された。だが爆発的な感染の拡大は、そんな悠長な事をしている余裕を人類に与えてくれる道理も無い。結局最終的には人権団体などの反対を押し切り、見た目と口頭による警告、そしてサーモスコープによる体温判定を元に現場の指揮官の判断で即時駆除する現実的な運用方法で落ち着いた。
この迅速な対処方法が、誤認による殺傷事故の発生を助長するのではないかと懸念する声は、今も絶える事が無い。だがそんな事を言う連中も、実際の駆除業務の現場に立ってみれば、考えを改めざるを得ないだろう。こいつらゼイビーズを目の前にして、それをウイルスに感染していない普通の人間と見間違える事など、どうやったって考えられやしないのだから。
俺は男との距離が五十m程まで縮まった所で散弾銃のフォアエンドを引き戻し、クリスがチューブマガジンに詰めてくれたショットシェルの初弾を、「シャコンッ」と言う独特な音と共に薬室へと送り込んだ。この音も、かつての俺の様な何の変哲も無い一介の日本人にとっては、ハリウッド映画か海外ドラマの中くらいでしか聴く機会など無かった。故に、訓練校の実弾演習で初めて己の手元からこの音が発された時には、自分が銀幕のアクションスターにでもなったかのように思えて興奮したのをよく覚えている。だが防疫隊の最前線に配属されてから丸一年。駆除業務を遂行する身になってからは、およそ半年。今ではこの音も、陰鬱な時間の始まりを告げる地獄の鐘でしかなくなってしまった。
弾丸の装填音に反応してゆっくりとこちらに視線を向けた男と、眼が合う。生気や感情と言ったものがまるで感じられない、目ヤニまみれの黄色く濁った眼。
それまでは近付いて来る俺の存在に気付いていながらも、全身を覆う防護スーツが血と肉の匂いを遮断していたので、食物とは認識していなかったのだろう。だが人間だった頃の知識と経験の名残が、「
ドブガエルの鳴き声を、百倍ぐらい不快な絶叫へと増幅させたかのような咆哮。なるほどそうか、こいつはこんな声で啼くのかと、俺は納得する。
去年の秋、訓練校を卒業して最前線に配属された直後の初出動で、俺は初めてゼイビーズ共の生の咆哮を直接耳にした。それは天を劈き鼓膜を蹂躙する、人の喉から発されたとは到底思えぬ金切り声の大絶叫。そのあまりの迫力に、当時未だ研修期間中だった俺は距離を置いた安全なバンの中で待機していたにもかかわらず、心臓を凍った手で鷲掴みにされたかのように全身に鳥肌が立ち、震えが止まらなくなったのを覚えている。それほどまでにこいつらの喉から発される気の狂ったような絶叫は、人間の本能に恐怖を植えつけて来るのだ。自分はなんと恐ろしい職場に身を置いてしまったのだろうかと、その一瞬で人生の全てを後悔するほどに。
だが人間と言うのは、環境に適応する動物らしい。あれから一年経った今では俺もすっかり順応したもので、こいつらの咆哮が平気になったばかりか、その種類を勝手に分類して聞き分けたりもしているのだから、慣れと言うのは恐ろしい。
「はい、ご苦労様」
そう言って俺は冷静さを保ったまま、こちらに高速で接近して来る男の少し手前の空間に腰だめで狙いを定めると、躊躇う事無く散弾銃の引き金を引いた。ドンと言う銃声を従えて偏差撃ちされた散弾が、突進して来る男の右膝全てと左膝の半分を、バシャッと言う水っぽい音と共にミンチ肉に変えて後方へと吹き飛ばす。体重の支えを失った男の膝から上が、勢いよく血飛沫を上げながら砂浜の上を転がった。
だが男は己の両脚が欠損した事実など、まるで気に留めていないらしい。露ほどの痛みを感じる素振りも見せずに咆哮を上げ続けながら、残された腕の力だけで砂浜を這いずって、尚も俺の方へとにじり寄って来るのを止めようとはしない。
傍から見ればなかなかに猟奇的な光景だが、防疫隊に一年も籍を置けば、こんなものはもう見飽きるほどに見慣れてしまった。
俺は再び散弾銃のフォアエンドを引き戻して薬室に二発目の弾丸を装填すると、排出された初弾の空薬莢が地面に落ちる前に再度引き金を引き、今度は男の右腕を肩口から吹き飛ばす。
血煙を巻き上げて弾け飛ぶ、血と肉と骨の塊。
断末魔の様な大音量の咆哮を上げ続けながら、身体を支える四肢の内の三本を失っても尚、俺めがけて前進しようと男は暴れるのを止めない。だが残された左腕一本だけではまっすぐ進む事が出来ないようで、結局は浜辺の砂を四方八方に撒き散らかしながら、同じ場所で小さな弧を描くようにバタバタと暴れているだけだ。一見するとその姿はまるで、駄々をこねる子供の様ですらあった。
一体何が不満で、この男は駄々をこねているのだろうか。こんな姿になってもまだ生きている事に対してか? それともこれから死ぬ事に対してか? その問いに答えてくれる者は、どこにも居ない。
もうこれは必要無いだろうと判断した俺は、構えていた八七式散弾銃をスリングで肩に吊り下げた。そして腰のホルスターから抜いた九㎜自動拳銃のスライドを引いて初弾が薬室に装填されたのを確認すると男との距離を詰め、残り二mばかり迄接近してから慎重にその頭部に狙いを定めると、いつもの儀式を始める。
「これは人間じゃない、元人間だ。これは人間じゃない、ウイルスに犯された苗床だ。これは人間じゃない、記憶も知能も理性も失った害獣だ。これは、人間じゃ、ない。だから誰かが駆除しなければならないんだ」
声には出さずに、自分自身に催眠術をかけるかのようにゆっくりと心の中でそう呟いてから、俺は自動拳銃の引き金を引き絞った。パンと言う小さな乾いた破裂音と共に発射された直径九㎜の鉛弾が、男の後頭部に穴を穿つ。一拍の静寂の後に血の軌跡を従えて、人間の形をした肉塊がドサリと崩れ落ちた。
生と死の境界は時に明確であり、また時に曖昧模糊としている。そして今、俺の足元にはその境界線を越えて死の淵へと落ちて行った男の死体が、只静かに転がっていた。まるで捨てられた生ゴミ同然に、血まみれの肉塊となって。
銃弾によってゼイビーズに止めを刺す場合、人体の運動機能を司っている間脳や小脳を破壊するために後頭部を狙うのは、駆除業務の基本中の基本だ。同じ頭部であっても奴らの大脳及びその辺縁系は既に機能停止しているので、前頭部を破壊してもその生命活動を完全には停止させられない場合がある。実際に頭の前半分を吹き飛ばされてパックリと脳蓋を剥き出しにしながらも、それでも尚防疫隊の隊員に襲い掛かって来る個体の記録映像を訓練校の講義で観せられた事があったが、それは視聴中に嘔吐する者が複数出るほど壮絶なものだった。
「小隊長、駆除完了しました」
「了解した、田崎二士。サーモスコープで目標の体温低下を確認し終え次第処理班に連絡するので、それまではそこで待機せよ」
防護ヘルメットの外からでも操作出来る無線インカム越しに、後方のバンの中から指示を出す鈴原小隊長と事務的なやり取りを終えると、俺はその場に文字通り重い腰を下ろして一息ついた。元は生きた人間だった血と肉の塊が散らばっている砂浜に少しでも顔を近付けるのは決して心地の良いものではなかったが、今はそれ以上に、この防護スーツと銃火器の重さから一刻も早く俺は逃れたかったのだ。
仮に防護スーツ無しでこの量のゼイビーズウイルス感染者の体液を浴びたとすれば、それだけでも命の危機は免れ得ない。だが防疫隊ご自慢のこのスーツとヘルメットさえあれば、どれ程感染者の汚染された血肉を浴びようとも、理論上はウイルス感染の危険性はまず無い。万が一、ヘルメット後部の通排気口を完全に塞がれてしまえばヤバイかも知れないが、流石に通常の駆除業務でそんな事態は起こり得ないだろう。
発足からまだ三年余りしか経過していない国境防疫隊だが、防護スーツ以外にも、その装備はそこそこ充実していた。
今現在俺が身に着けている装備の内、腰の自動拳銃だけは陸上自衛隊からのお下がりだが、スリングで左肩に吊り下げた八七式散弾銃は国境防疫隊のオリジナル装備だ。まあ厳密に言わせてもらえば、この散弾銃自体が『八七式』などと言う型番が付けられていてまるで純国産品のようだが、実際は米国レミントン社製のM八七〇ショットガンの、ほぼ完全なコピー品に過ぎないのだが。
レミントン社製のオリジナル品との相違点と言えば、防護スーツ付属の分厚い防刃手袋を着用していても問題無く扱えるように、トリガーガードの穴が大きく開けられている点ぐらいのものだろうか。他にも一応、使用後の消毒作業がし易いように若干構造が簡略化されているのと、湿度の高い日本での使用を考慮してオリジナルよりも錆に強い素材が採用されているらしい。
訓練校時代にその点を解説してくれた教官に、何故合法なライセンス生産品ではなく違法なコピー品を採用したのかを尋ねた事があるが、その答えは簡単かつ明瞭。肝心の米国レミントン社そのものがとっくの昔に『沈黙』してしまっているので、ライセンス許可を取ろうにも取りようが無いからと言う事だった。そしてこれらの事情は、散弾銃だけに限らない。後方で待機するバンの上でクリスが構えている筈の、
今現在、そのレミントン社が物理的に存在している筈のアメリカ東海岸は、果たしてどんな惨状になってしまっているのか。そんな事を考えている俺から五十mほどの距離まで、鈴原小隊長とクリスを乗せたバンがゆっくりと徐行で近付いて来た。そして処理班が駆けつけるための目印となる蛍光オレンジ色のバルーンを、クリスがヘリウムガスで膨らませて上空へと飛ばすのが、少し呼気で曇った防護ヘルメットの強化ポリカーボネイト越しに垣間見える。
「田崎先輩、お疲れ様でーす。目標の死亡を確認したんで、処理班に連絡しましたー。バルーンも飛ばしたんで、到着するまでそこでゆっくり休んでてくださーい」
バンを運転中の鈴原小隊長に代わり、クリスの明るく能天気な声が、無線インカムを通して俺の耳に届いた。語尾を妙に延ばした今時の若者を代表するような喋り方に、俺は少し呆れる。
時刻はまだ、陽も昇り切らない午前中。だがゼイビーズウイルス感染者に至近距離まで接近した俺だけは、このまま到着した処理班に、男のバラバラ死体もろとも回収される。そしてその後、少し気は引けるが大隊基地の隔離棟送りにされて、今日の仕事は終了だ。
「了解だクリス。それじゃ、悪いけど俺はゆっくり休ませてもらうよ」
西暦二〇二五年十月十九日。秋も深まる空の下、日本海に面した山口県長沖市の長沖西海岸には浜辺に打ち寄せる穏やかな波の音だけが、今は静かに聞こえていた。
さて、今日の昼飯の献立は何だったっけ?
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