聖子

 さて。一方は片付いた。意外と簡単だったな。


 だが、もう一人――。


「……なによ」


 砂浜に尻餅をついたままの聖子。俺の喉元を、食い破りそうな視線をくれる。


 キスシーンに居合わせたせいで余裕がなかったが、今日の服装はずいぶんと気合が入っていた。俺と出かけたときは、微妙にダサい彼氏を、優しくリードする元気な女の子という感じだった。


 今日はといえば、短めのスカートに、歩きにくそうなブーツ。メイクも随分気合が入っている。方向性としては、サキのようなセクシー系を目指したのだろう。さっきの奴の好みに合わせたか。必死だったんだな。苦しみは、察するに余りある。


 そういう俺の心根まで見抜いてか、聖子は俺の方など見ない。


「なによ、こんな所まで、私の邪魔しに来て……あんたのせいで、あんたのせいで!」


 声を荒げても、苦し紛れには違いない。それに、去っていたあいつの真意は、聖子の方こそ、分かってただろう。そう言うことはできるだろうが。それを指摘して、この子の苦しみは和らぐだろうか。


 なす術のない俺の前で、聖子は自分の苦痛を倍加していく。


「もう嫌だ……なんで、なんで私、こんなことになるの……なんで私、普通じゃないの。いじめられたから、一年も学校に行けなかったから? それだけでもう全部駄目なの? あのとき、死んじゃえばよかったの。法学だって好きなのに、今さら、今さら馬鹿になんて、もうなれないのに」


 その通りだ。俺は聖子の傍にしゃがみ込むと、黙ってその肩を抱こうと手を伸ばす。


 砂を巻き上げ、俺の手を振り払う聖子。俺をぶん殴った力は相変わらず、振り払われた指先が痺れる。


 立ち上がった聖子は、敵意を持った目で俺をにらんだ。


「触んないでよ! 童貞のくせに、あんただって、どうせ私ならと思ってるんでしょ。自分なら理解できるとか、くだらないこと言って近づいてくるんでしょ。それで最後は、最後は私なんか放り出すんでしょ」


 聖子の言う通り、放り出さない保障がどこにあるだろう。


 俺は今から大学に行く。そして就職か、資格試験への道か選ぶ。色んなものが変わって、この時期に知った聖子のことなど離してしまうかも知れない。


 そういう方法があることは、安奈を通じて知ってしまった。


 それでも、聖子のために、俺のために、言ってやるのだ。


「放り出すかよ」


 聖子が目を開いた。俺を見つめている。期待、不安、恐れ、怯え。


 これ以上、これ以上、この子を一人にはしておけない。


 俺は聖子に駆け寄ると、一気に抱きしめた。


 聖子はなにも言わない。俺の胸元に顔を埋めると、激しく泣き始めた。


 ポロシャツの胸が、べとりと濡れる。これで二枚目だ。この海岸は、涙ばかりだ。


 しゃくりあげる子供にするように、俺はその背をそうっと、なでた。俺自身にも、ゆっくりと言い聞かせる。


「心配なんか、しなくていい。俺は毎週だって戻るし、毎日、電話くれたっていい。法学の授業が始まったら、話せることも増えるだろ。受験の勉強なら、英語と国語と、地歴公民までは、なんとか見るよ」


 この期に及んで、頑張ったらできそうなことばかり言ってしまう俺の性格。いよいよ、どうともしがたいな。


 俺が勉強の話をしたせいか、聖子はたじろいたようだった。


「受験なんて、どうでもいいってあいつに……それに、法律なんて、学校に行けなかった暇つぶしだから」


「それは、あいつに言わされたんだ。忘れてるみたいだから言うけど、法学の話してるとき、楽しそうだったよ。俺が、嘘ついてまで、話を合わせたくなるくらい。キャラは演技でも、法学が好きなのは、本当だろ」


 自分の良いところというのは、他人からの方が良く見えるものだ。


 聖子はまだ不安げに、俺を見上げる。


「でも、私また、いじめられるんじゃないかな……サキにも酷いこと言っちゃったし。今度一人になったら、もう」


「俺に、この場所教えてくれたのはサキだよ」


「本当に……」


「そうだ。あの子は、君を見捨てたと思ってて、その罪の意識だって確かにあるけど。それがきっかけだったかも知れないけど。でも、君から離れるつもりはないんだ。君の事、大事に思ってる。あんな親友は、絶対離しちゃだめだ」


 目下のところ、俺にそんなのは居ないから、羨ましくもある。高校で親友ができるって、きっとすごい事だ。


「それに、楽しかっただろ、サキと居て。元気が出たんだろう、買い物に行ったり、三呂のお寿司屋さんでご飯を食べたりして。そういうサキちゃんが、君の事、大事に思ってくれてるんだ。きっと、サキちゃんだって楽しかったはずだ」


 教科書通りのことを言いすぎて、ケツの穴がかゆくなりそうだ。

 だが、正論が正論なのは、それで考えることが基本だからだ。基本に帰れば、大抵のことはうまくいく。


 聖子に必要なのは、寂しかったり不安なとき、興味や関心の赴くまま、話をして盛り上がれる相手だ。そして、心を乱されない環境。ただそれだけでいい。それでこの子は立ち直れるし、傷痕だって塞がっていく。


 聖子、離すな。君がつかみかけている物は、とても貴重で重要だ。


「私、いいの……戻って、また、あんたやサキと居て。普通に勉強して、みんなのこととか、モテるとかモテないとか、みんなが知らないとか、知ってちゃいけないとか、気にしなくて……」


 俺を見上げる聖子の目に、光が戻ってくる。それは、容貌がいいとか、女の感触だ男の感触だとか、くだらない物じゃない。人にとって最も重要な光だ。


 好きな人間と仲良くし、好きな事に全力を尽くして、好きに生きるために。安奈が持っていたあの雰囲気の切れ端、俺が憧れ、嫉妬していた、けた違いの片鱗。


 俺はこの子の、この輝きを、壊したくなかった。あんな男や、暗い過去なんかに、かき消されていいものじゃない。


「気にしなくていいんだよ。このまま受験潜り抜けて、色んな人と出会って、勉強して勉強して、目標通り、弁護士のお姉さんの所まで行けばいいんだ。誰がどんなこと言っても、気にしなくていい」


 言ってて笑えてくる。ネットじゃ、頭が狂っていると思われそうな意見だ。けれど、聖子に一番必要な方法だ。ネットで色んな連中と一緒に狂っていた、俺にも。恐らくだけど。


「さすがにやり過ぎると……ほら、紀州屋でもあったし」


「あれは、注意してもらって、もうやらないからいいんだよ。それに、俺に分かることなら注意するし止める。俺も分からないことなら、サキちゃんでもいいし、弁護士のお姉さんでもいいし、とにかく君の事、応援してる他の大人に聞けばいいんだ」


 兄貴に聞いてもいいだろう。それでだめなら、母さんか父さん。こっそり安奈に聞いてもいいかもな。


「とにかく、心配ないよ。ときどき、誰かに助けてもらったりしながら、できることやっていけば、それでいいんだ」


 毒にも薬にもならないような言葉だな。こんなことが大事なのかも知れない。


 聖子は完全に落ち着きを取り戻した。相変わらず、俺にしがみついてはいるが。


 俺を見上げる聖子。夕日が横顔を照らし、その笑顔が、えもいわれぬ茜色に染まっている。女性として魅力的かどうかは、こういうときに判断すべきだ。


 殴られるまでの俺も、あながち間違ってはいないらしい。


「……なんかあんた、大人みたいね」


「元々、君よりは年上だよ」


 外見的にも、な。聖子が笑う。からりとした、爽やかな顔で。


「生意気だわー、童貞のくせに」


「……それいじるの、やめてくれよ」


 わりと本気で傷つく。顔をしかめる俺から、聖子はひょいと体を離した。楽しそうに見えるが。


 ごめん、と一言。その顔が再び曇りそうになり、俺は焦った。


 何か他の話題はないか。ちょうどいいところで、林の方からこちらへ出てくる二人連れを見つけた。


 背の低い胴着の男と、背の高い制服の女子高生。なんという格好の組み合わせだ。俺達への視線が一気に彼らに向いてしまっている。


 予定を変えたな。様子を見に来てしまったのか。聖子も気が付いたらしい。


「……あれ、サキ。サキだ、ねえ、サキだよ。隣の人は」


「俺の兄貴。今日仕事非番で、ここまで車出してくれたんだ」


「サキ! サキ、ありがとう……」


 サキの名を呼び、全力で手を振る聖子。こっちに気付いたサキが砂浜を駆け出す。兄貴も走り出した。兄貴は、なぜ走り出したんだろうか。


 喜びのままに、駆け出した聖子。飛び出す様は、やっぱり子犬だ。とびきり旺盛な好奇心と、少々無鉄砲な勇気。


 魅力的だ。俺は、騙されてなどいなかった。


 しかし、ここは落ち着いて行こう。兄貴の前だし。


 やれやれとつぶやいて、歩き出したまさにそのとき。聖子が急に振り返る。


 なんだと思う暇もなく、唇を奪われる。


 身動きのできない俺に、極上の笑顔が降り注ぐ。


「ごめんね……童貞とか言って。それと、ありがとう。これから、よろしく」


 そう言い切った聖子は、俺の反応を待たずに駆け出した。もう無理、恥ずかしいという言葉を残して。


 サキと聖子が抱き合って喜びあう。兄貴が俺に手を振っている。


「……なんだ、簡単だな」


 つぶやいて歩き出す。砂の中を一歩ずつ、確実に。


 聖子を見かけてから、今日で十日。


 世界が変わるには、十分すぎる時間だった。

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クラム・ブルーズ 片山順一 @moni111

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