突進
車は国道沿いに到着。俺は兄貴と、聖子に礼を言い、歩道に出た。
振り返ることなく歩道橋を渡って、あの水族館の前を行く。最初にここを歩いたとき、まさかこんな風に戻ってくるとは思っていなかった。
しばらく行って海の方へ曲がり、砂浜沿いの林を行く。同じ潮の香りがする。三呂からここまで来たとき、うきうきしたのが蘇る。その後の苦しみもだ。
林を抜けると、今まさに夕日が沈む所だった。平和な人達が、うろつく光景もそのまま。
ここのどこかに、聖子とそいつが。
とりあえず砂浜に降りた俺は、見てしまった。
少し背の低い聖子を抱き寄せ、その背に手を回し、口づけるそいつの姿。
二人の姿は、夕日を背景に、これ以上ないくらい調和している。俺と聖子に好奇心を剥き出した群衆。咳払いでもしたそうに、素通りしていく。
なんだ、これは。なんなんだ、こいつらは。
今にも炸裂せんばかりに、俺の心臓が拍動する。あっという間、握りしめた手に汗がにじむ。顔が凍ったような気がする。パーツの一つも動かせない。
俺の知らないもの。俺の知らないこと。しかし人類はずっと昔から知っていた、どんな人も虜にするもの。
聖子が身を浸している、もうひとつの世界。俺に与えられなかったもの、俺自身が最初から馬鹿にして、求めてこなかったもの。手に入らないと、苦しんでいたもの。
足がすくむ。抱き合う二人は、俺に気付かない。このままでいいんじゃないか、これは俺の知らないもの、関わったら俺が傷つくし、崩していいものでは。
今までの全てを裏切り、逃げ出しそうになったとき。
俺に、安奈との一瞬の口づけが蘇った。
ただ、相手に任せるばかりだった。俺自身、期待はしても、意図したものじゃなかったかも知れないが。
それでも俺に、安奈は口づけをくれた。恐らくは安奈自身の意志で。
俺は、知らないわけじゃなかった。逃げることはない。
俺は身を隠すことなく、立ち止まって二人を見た。聖子は本当に、心から自分を捧げているのか。
抱き合うカップルを凝視する、先週海岸で喧嘩をした元彼。情けなく、恐ろしく、女女しくみっともない立場。それが今の俺だ。笑えてくる、笑う余裕が生まれた。
聖子は俺に背を向けている。男の視界に、俺が入ったらしい。
「……なんだよ、あんた」
聖子の背に手を回したまま、こちらをにらみ付ける男。
サキと対峙したときとは違う意味で、俺は胸が悪くなりそうだった。あのときは過去のトラウマだったが。今は、見るだけでプライドを砕かれている気がする。俺はこいつと比べ、圧倒的に下だ。女にもてるかどうか、という男の格のようなもので。
男は、これでもか、というくらい、俺のかかわりたくないタイプの奴だった。
まず全体的に線が細い。しかし背は高く、俺と張るくらいある。悔しいが顔もいい。聖子が格好いいと褒めたのが納得できる。涼しげで、鼻筋が通って、いかにも女にちやほやされそう。特に、切れ長で冷ややかなその瞳。どこか不安定で、いかにもな魅力がある。
ただひとつ、負け惜しみは言える。こいつは格好がいいだけだ。イエロー・モンキーのヴォーカルにあった、あの妖艶さがない。この程度の魅力では、それだけで、女性の心を完全に蕩かすことはできないだろう。流行の雑誌で知識を仕入れ、金をかけて精一杯服に手を入れ、学校の中でモテる奴というのが関の山か。
それでもモテるには違いないし、高校生なら体の関係も結ぶのだろうが、それだけだろう。それだけでいい人間が世の中にはたくさんいるから、こんな奴が減らない。
問題は、聖子がこいつにどこまで入れ込んでるかだ。
その聖子が、振り向いた。一瞬、俺を見て凍り付いたようになる。しかし、すぐに男の腕に身を寄せ、苛立たしげにため息を吐いた。
「なんでこんなところに来たのよ。サキの仕業なの」
挑発的な言葉も、敵意すら感じるその視線も。なんだったら、ダサい男の前で新たな彼氏にすがる軽薄な女を演じる姿さえ。
やっぱり、親を頼む子供にしか見えない。
サキの注意に耳を貸さないというから、どんなになっているかと思えば。まったく安定していない。これなら、聖子を崩すのは軽いかも知れない。
やはり問題は――。俺は聖子には答えず、男の方を見た。
意外なことに、態度に敵意を感じない。やれやれとでも言いたげに、聖子を抱え、ただただ、所在なさげにしている。
なぜだ。俺のことを聖子から聞いていないのか。しかしそれならそれで、俺は突然絡んできた、ガタイのいいクズの変態だろう。恋人なら、聖子を守ろうとして当然じゃないか。
俺が怖いのか。いや、そんな風にも見えない。本当にただ面倒くさそうだ。もっともこいつにすごまれたところで、安奈の町で出会った金髪や赤毛より怖くはない。
俺の視線から何かを感じ取ったらしく、男はため息をついた。
「何だよ、今さら……」
今さら。その言葉が出るということは、やはり俺について知っている。聖子はやはり話したんだ。どんなボロクソを吹き込んでいるかも知れないが。
やはり、こいつからだ。俺はなるべく表情を平静に保つようにした。不思議なもので、修羅場とはいえ、学校でふるまうようにすれば、案外冷静になれる。
「俺のこと、聖子から聞いてるんだろ。こっちは、わけわからんまま放り出されて、納得できないんだ。お前、本当に聖子のことが好きなのか」
男は、俺が聖子を問い詰めなかったのが意外だったようだ。うっとうしそうに、目を細め、言った。
「……そんなこと、なんであんたに言わなきゃいけないんだよ、面倒臭い。べつに聖子の親でも兄弟でもないんだろ」
取りあえず相手をしてやっている、と言わんばかりだが。言ってることはその通りだ。俺は言葉に詰まってしまったが、よく見れば男の言葉は聖子の方にも効いているらしい。それはそうか。聖子は、本当に好きなんだな。
もうひと押し、してみるか。俺は男の目を見据えた。不思議と、怖くはなかった。
こいつは、俺と違う世界の人間だ。友達はたくさんいるだろうし、聖子とはセックスを済ませているし、もしかしたら他の女性とも体験しているのかも知れない。童貞の俺にとって、宇宙の彼方にも等しい出来事をいくつも経ている。そういう意味ではけた違いの一種。
だがな。
聖子に安奈、サキ、金髪と赤毛、それから兄貴か。ここ二週間で色々な人間を知ったが。もしかしたらこいつは、その中で一番大したことがないんじゃないだろうか。聖子の法学の話についていけていないらしいから、俺より頭も悪いだろうし。
頭を働かせていると、冷徹にさえなってきた。なんだ、目の前の奴はそういうことだったのか。
俺でも勝てるな。ここは、勝負をかけよう。俺は男に向かって口を開いた。
「……納得できないんだ。お前らが好き合って一緒に居るんじゃなかったら、俺が馬鹿みたいだからな。聖子ちゃんは、お前のことが好きみたいだし。お前がぶん殴られる覚悟で、俺に向かって聖子が好きだって言えるなら、こっちも納得できる。そうしたら、この場で連絡先消去して、家に帰って、もう二度と会わないよ」
ついでに、SNSの類も一切やっていないことを告げてやった。スマホを出して確かめてもらおうとしたが、うざったそうに断られた。
ともあれ、俺が、完全に連絡を絶つことは分かったはずだ。
視線を外さず、反応をうかがう俺。聖子も必死に男の腕にすがり、祈るような目でその顔をうかがっている。もう俺に当てつけるとか、追い払うとか、考えられる状態ではないようだ。たとえ嘘でも、好きだという一言だけで、聖子という人間を、思い通りにできるのだろう。こいつがそういうタイプの悪人なら、終わりだが――。
ため息が、風の中に混じった。男のものだった。
「……なんなの、お前ら。本当うざってぇわ」
冷酷な声でそう言った男。信じられない、と言いたげな顔で見上げる聖子。
予測通りではあった。聖子には最悪の結果だが。痛ましい気分になった俺に、そいつは汚い言葉を吐き出す。
「そんなに好きなら、勝手に持ってけよ。こんな面倒くせえ女、お前にやるよ」
女性だろうと男性だろうと、人間は、もらったりあげたりできない。こいつの耳には、そんな言葉、まるで届かないのだろうな。
そいつは、いらだたしげに聖子を振りほどいた。糸の切れた操り人形のように、聖子が砂浜に座り込む。残酷なほど美しい夕日が、俺達を彩っている。
男は聖子を見下ろし、毒の雨を降らせた。
「お前、もういいっつったじゃねえかよ。いじめとか、進路とか面倒くせえことは、どうでもいいって。だからこうして来てやったのに、こんなわけわかんねー童貞一人、上手いこと追っ払えねえなんて」
「やめろ」
驚くほど、低い声が出ている。これほど怒るのはいつ振りだろう。
「あん?」
振り向いたそいつに向かい。俺の怒りが、声になった。
「それ以上、聖子を傷つけるのをやめろっつってんだ! このクズ野郎!」
砂浜の時間が、止まったように思えた。俺は確かにその瞬間、平和を崩したのだと思う。
だが構わん。こんな俺以下のクズ野郎、今この場でブチ殺しても飽き足らない。俺が異能を持つ、バトル漫画の主人公なら、最初の暴走の犠牲は、きっとこいつだ。
まあ、そんなことはできないがな。そして、何より。
「……なんなんだよ、もういいだろ、その女、お前にやるんだから」
つまらなさそうに、そう吐き捨て、男は砂浜から去っていった。
こういうことだ。あいつはきっと、本気で向ってくる相手に、本気になれない奴なのだろう。そんな奴と殺し合いになんか、なるはずがないのだ。すごすごと帰っていくが、恐らく、俺にびびったわけでもない。ただ、面倒になっただけ。
帰ったらSNSに毒でも吐いて、友達にぐちって。しばらくしたら、今度は、聖子のような面倒くささを抱えていない女を、漁るに違いない。
あの外見だから、すぐに見つかるだろう。そして、それを罰する法律などないのだ。もう、考えないでおこう。
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