追跡

 南の街から戻ってくる、通勤の車を後目に。兄貴の操る緑色のノートが、助手席に俺、後部座席にサキを乗せ、県道をひた走る。途中で東へ折れ、しばらく行って隣の市へ入る。バイパスに入ると、高速道路だ。


 十分もかからぬ間に、俺は安奈のことを省いて兄貴に説明した。


 聖子と出会ったこと、惚れこんだこと、傷つけたこと、殴られたこと、それでも離れたくないこと。俺以上に勉強ができるのに、いじめのせいで酷い目に遭ったこと。苦しみを抱えている事。本当に初めて吐き出しまくった、俺の本音。


 兄貴は制限速度ぎりぎりをキープしながら、返事だけしていた。


 それ以上の会話は特になく、ジャンクションに侵入。そこで俺は代金の事に気付いた。料金所の真っ赤な建物が見えたのだ。


「兄貴、高速のお金」


「どうせETCだ。後で領収書が来るよ。悪いと思うなら、向こう行ったらバイトして返してくれ。お前は少しくらい、やっといたほうがいい」


 俺の方を見ずにそう言うと、兄貴は路線を変更し、料金所のゲートへ侵入した。

ありがたいことに、高速はスムーズに流れていた。衣戸から出てくる車は結構居たが、衣戸へ向かう車は多くない。


 車は軽快に流れていく。ようやく運転に余裕ができたのか、兄貴が話しかけてくる。


「……それで、サキちゃんっていったっけ。君はどうして」


 サキは答えなかった。気になっている兄貴に、いきなり声をかけられた。それだけじゃない、自分でも、聖子との関係がなんであるのか、分かりかねているのだろう。心配して俺が振り向くと、聖子や安奈より明らかに豊かな胸にシートベルトを抱き、自信なさげに肩を落としている。俺の心を抉るほどの力を持っているくせに、こういうときは、本当に何とかしてやりたくなる。


 しかしこっちに気付いた途端の、厳しい視線。俺は首をすくめたが、その目つきはサキが元気を取り戻した証でもあった。


 はっきりした声で、サキが口にする。


「私……聖子が大事なんです」


 それだけで、全てが分かるだろう。サキと聖子の関係も、サキと俺の関係も。


 実際、兄貴は理解していた。そして、しばらく溜めると、こう返した。


「うちの弟でいいのか」


 サキの笑い声が聞こえた。車内の空気がぐっと緩む。


「……今引っ掛かってるやつより、マシなのよ」


 なるほど、と言っておかしそうにしている兄貴。これでいいのだろうが、腹が立った俺は、窓の外に視線を固定した。しかし、景色など見えず、高速の遮音板が流れていくばかりだ。


 兄貴は愉快そうに、サキの調子に合わせる。


「マシならそっちの方がいい。でも、気を付けてな。君も女の子だし、分かってると思うけど、思い詰めるとマシな選択もできなくなるから」


 ごく自然な忠告だが、痛い所だ。聖子にしてみれば、デートという幻を保っているところを、再び俺が現れてぶっ壊されるのだ。今度は殴られる程度で済めばいいが。


 俺の不安を払しょくするように、サキの声に迷いはない。


「分かってる。そんなになってたら、それはもう、仕方がないの。あたしに命令はできないもん。ただ、こいつの方がマシってのくらいは、分かるって信じるわ」


 俺は嬉しくなった。サキがそんなに、俺を買ってくれているとは。が、言葉が続く。


「ただ……お兄さんには悪いけど、本当に、ほんのちょっとだけ、マシってくらいなのよね。正直それもどうか分かんなくなってくる。でも、論理的にいって、最善の方法なの」


 上げてるのか、下げてるのか、はっきりしろ。俺がこんな無茶をするのは、お前の直感のお蔭でもあるのに。そう問い詰めたい気分だったが、兄貴はからからと笑う。明朗で爽やかな、罵倒、なのか。


「ははは……どれくらいマシかはともかく、マシだってのは、正解だ。あんまり話してないけど、俺が兄貴として保障する。君はきっと、正しいことをしてるよ。うちの弟のこと、分かってくれて嬉しい」


 罵倒なんかじゃない。傍から聞いたら何様かと思えるくらい、俺の価値を信じている。しかしこんな上から目線の言い方じゃ、サキは――。


「……ありがとう、ございます」


 噛み締めるような、弱々しい礼。いつもの調子を取り戻したかと思ったが、サキにはサキの不安はたくさんあるのだ。聖子は忠告を受け取ってくれなかったというが、もしかしたら、サキを傷つけるような言い方をしたのかも知れない。


 兄貴はさっきの一言で、俺に自信を付けさせただけでなく、サキの不安をも取り除いた。俺達から聞きかじった事情から、こんな芸当ができるとは。やっぱり、安奈と同じで、十歳上の大人だ。


 サキが落ち着いたせいか、車内の雰囲気はさらに良くなっている。みんな黙ってはいるが、それは互いに配慮した結果だった。


 ジャンクションを経て、進路を南へ軌道修正。衣戸が近づき、少しばかり車が増えた気がするが、そう大した量ではない。快調に飛ばしながら、兄貴がふとサキの高校の話題を振った。なんでも、仕事でサキの高校のOBの世話になったそうだ。そこからは、俺の知らない高校のカリキュラムで盛り上がっていた。


 そうやっていると、すぐに水族館前のインターに着いた。住宅街のすぐ脇の道へ降りると、水族館に接した国道へ向かう。時間は午後五時半か。ちょうどいい。


「国道沿いで、降ろせばいいのか」


「うん。後は歩いていく。サキちゃんのこと、よろしく頼むよ」


 サキちゃんだなんて、なれなれしいかと思ったが、特に文句は出ない。最初に泣かされたことはあったが、年の差からいって、こう呼んでも差支えないのだ。


「頼まれよう。えーっとそれから……」


「なに」


 珍しく、言いにくそうな様子の兄貴。どうしたというんだ。


「お前の状況、客観的にいって、ろくなことにならないぞ。向こうは、デートを邪魔されるわけだろ。サキさんには悪いけど、どうもその聖子って子、なんか危なそうだ」


 また、俺の心を折るようなことを。いや、だからこそ、兄貴でさえ、奥歯にものでも挟まったような。伝えるかどうか、迷ったんだろうな。


「それでもいいよ。とにかく、それでもいいから、それでも今よりマシなんだよ。俺もそう信じてるし、何より」


 俺はそこでサキの方を振り返った。にらまれるかと思ったが、サキは黙って、うなずいてくれた。


「あの子のこと、ちゃんと分かってるサキちゃんだって、その方がマシだって言ってるんだよ。だからいい、大丈夫さ」


 当然、大丈夫じゃないことも、考えられる。こんなことを言えば、そのときのダメージが大きくなるだろう。リスクを増やすのは馬鹿げたこと。


 だが、ここはそう言うべきところだ。俺自身のためにも、むちゃくちゃな俺の頼みに、協力してくれた兄貴のためにも。後ろで聞いてる聖子の親友のためにも、な。


「……それなら、いいよ。そうか、お前……うん、行ってこい。サキちゃんのことは、心配するな」


 頼もしいな。そういえば、小さい頃はもっと遊んでもらってたような気がする。俺の方ばかり、背が伸びてしまったけど。


「うん。ありがとう、兄ちゃん」


 思わずそんな昔の名を呼んでしまうと、兄貴は嬉しそうに笑い、俺の肩を叩いた。

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