急転
イエロー・モンキーがヘッドフォンの中で歌っている。転売された不動産に関するわけの分からない判例の前で。この判例が参照している法律。民法の、九十四条か。俺はポケット版の六法をめくった。
聖子が選んだ、民法の基本書とやら、わけがわからないなりに進めてはみたが。やっぱり分からない。こんなもの、宇宙の言語だ。
俺はため息をつき、プレイヤーを止めて、ヘッドフォンを外した。
あれから聖子に会わず、一週間になる。
安奈のことを、引きずっているせいではない。連絡が来ないのだ。さあ会おうと思って、メールをしても返信は無いし、電話をしても取ってもらえない。高校がないはずの時間帯を選んでも、同じだ。
こっぴどくフラれる。その通りなのか。これでは、安奈に別れを告げたことも無駄になる。
覚悟はしていた。フラれる理由も、十分過ぎるくらいある。俺を殴りつけた後のことも、気が動転した末、ついやってしまっただけかも知れない。俺は聖子にとって、いらだたしい存在でしかないのかも。
ただ、いきなり一切の連絡が取れなくなるとは不可解だ。聖子の性根なら、本当に俺をわずらわしく思うのであれば、胸倉つかんで殴りつけた行動力でもって、直接追い払うだろうに。
それとも、俺など、どうでもよくなるほどの、何かがあったのか。
窓の外から、俺を呼ぶ声がした。平日ながら非番の兄貴だ。今日も朝から、巻藁を切り刻んでいたはずだが、一体何だろう。
窓を開けると、兄貴が胴着のままこちらを見上げている。その隣には、兄貴の背丈を超えた、背の高い制服の女、サキだ。
聖子ではなく、サキ。あのショッピングモールから、一度も話していない。俺の家は、聖子から知ったのかも知れないが、一体何の用事だろうか。家に来るくらいだから、尋常なことではないのだろう。
「寛志、降りてきたらどうだ」
「すぐ行くよ。入ってもらって」
兄貴に返事をすると、俺は階段を駆け下りた。
サキを玄関で出迎え、居間に通してやった。時刻は午後三時過ぎ。彼女を座らせておいて、レモンティを淹れた。戸棚にロールカステラがあったので、これも切ってみた。
応接の支度を終えた俺は、サキの向かいに座った。どうぞと促すと、サキはレモンティに口をつける。俺の金でファーストフードを食ってたときとは大違いだ。
今日は随分上品というか、しおらしい雰囲気だ。顔の造形がはっきりしていて、上背もある彼女が元気を失くすと、なんだかすごく落ち込んでいるように見える。もしも気安い関係なら、肩を叩いて励ましてやりたくなるが。
この間のハンバーガーからすれば、小さく頼りないロールカステラ。それをフォークで少しだけ切り、口に運ぶサキ。これは、やっぱり様子がおかしい。
この子は、聖子の保護者的な立場だった。そういえば、俺と聖子のことは、彼女に知られているのだろうか。どう動くべきか。以前泣かされたときのような不覚を取るつもりはないが。
表情を崩さず警戒する俺に、サキの第一声。
「ねぇ、あの、お兄さん……いい人よね」
分かりやすいな。こいつ、兄貴に引っ掛かったか。しおらしい様子というのは、あれか。好意を持った人には、なるべくお淑やかな自分を見せたいとかいう、古典的なやつだ。もしかしたら、サキは、聖子が男に対して上手く振る舞うのに、コンプレックスがあるのかも知れない。
しかし、サキはそれこそアメリカ人みたいに、同じような体格のごついスポーツマンに惹かれそうな気がしたのだが。十年上とはいえ、童顔で小柄な兄貴と並べば、下手をすればサキの方が年上に見えてしまいそうだ。大体、兄貴には恋人が居そうだし。
俺は紅茶を口にした。
「……いい人だけど、変わってるだろ」
「あれ何の武術なの」
「実戦重視の、古い剣術だってさ。高校のときからだから、もう十年になるかな。お
師匠さんに気に入られてて、物凄い入れ込んじゃってさ。今日みたいに、仕事がない日は、朝早くから斬りまくってるよ」
腕前は年々上がっている。高校の頃は抜き打ちもできなかったし、素人目にも、フォームというか、動きがばらついていた。それがどんどん洗練され、今は刀の動きが見えない。動作も滑らかで、速さと相まって、いつどこを、どう斬ったのか分からなくなる。
窓の向こうで、掛け声と共に抜き打ちが決まった。唐竹にい草を撒いた分厚い標的が、四つに分かれてばさばさと落ちる。三度斬ったか。窓を隔てても、気迫が伝わってくる。
残心から、流れるような動作で刀を払い、鞘に太刀を収める兄貴。サキはうっとりと見つめている。
「かっこいいわね。公務員だし、いよいよ侍だわ」
「公務員って、侍なの」
「侍が公務員って方が正確かな。幕府とか藩の役について、お米の給料もらって暮らしてたんだから、公務員でいいじゃないの」
侍って、そうだったのか。知らなかった。聖子の友人だし、やっぱりサキにも突出したものがあるのだろう。いわゆる歴女か。
それはいいとして。そろそろ本題に映ろう。俺が紅茶に口を付けると、サキも同じようにした。これでお互い、言い出せる空気になった。茶というのは、話し合いに大事なんだな。
「……それで、一体何の用事なんだよ」
「聖子の事よ」
予想は着いたが。メールでも電話でもなく、噂が立つ危険まで背負って、わざわざ俺の家に来るとは、よほどのことか。
サキの目つきが厳しくなった。俺の底を測るように、鋭い口調で言う。
「この間のこと、あたしは全部知ってるからね」
三呂で会ったときを思い出しそうな、詰問口調。心臓が鳴りかかっている。いよいよ、来るべきときが来た。
「あんたはさ、どうしたいわけ。あの子の色んなこと、全部知っちゃったんでしょ。傷つけたことも、分かってるでしょ。あの子に悪い所もあるのは、分かってるだろうけど」
強い口調のわりには、あのときのような迫力が欠けている。俺が強くなったのか、サキの方が何かを焦っているのか。
「聖子ちゃんに、何かあったの」
俺の質問は、核心を突いた。サキは眉間にしわを寄せ、テーブルをにらみ付けた。両手を顎で交差させると、深刻な雰囲気が増す。
「……話すかどうかは、あたしが決める。その前に答えて。あんた、聖子のことどう思ってるのよ。まだ、関わるつもりはあるの」
質問に質問で返すな、とは何の漫画の台詞だったか。ここは、答えなければ。安奈に決意を伝えたときのように。俺はまっすぐ、サキの目を見返した。
「関わりたい。できれば、いや、絶対、俺が一緒に居たい。あの子が、昔のことで辛い目にあったり、苦しくなって勉強が邪魔されたりするのを、何とかしたい。でないと、後悔する。格好つけるとかじゃなくて、あの子と居ると、俺も助かるんだ」
言葉を尽くしても、伝わらないのだろうか。だが、気持ちが言葉になって勝手にあふれていく。
「俺の大学は、平丘だけど、戻ろうと思えばすぐだ。声をかけてくれたらすぐに飛んで戻る、俺からも連絡するよ。大学は夏休みだって長いし、なんとかやっていける。できるように頑張るつもりだ。サキちゃんが、サキちゃんが聖子ちゃんのこと大事に思ってるのは分かってるから」
「やめて!」
悲鳴のような声で、サキが俺を遮った。
俺が声をかける前に、頭を抱えてしまう。
「そんなんじゃないわよ……私は、あの子から逃げられないだけだもん。聖子が、聖子がうまくいってくれなきゃ、私が原因作ったみたいで、嫌なのよ」
突然、なんなんだ。困惑する俺の前で、サキは次々に感情をさらけだした。
「あんた、意味が分かんない。なんで突然、そんなまともなこと言い出すの。しかも、嘘じゃないでしょ。何でそんな、余裕あるのよ。こんなの私の方が、私の方が、無理してあの子と一緒に居るみたいじゃない」
なんとなく分かった。サキが何を考えているのか。しかし俺の仮定が正しいなら、とんでもなくうぬぼれた考えになる。自分で認めるのは嫌だな。
「あれから、色々あったんだよ」
憧れの声優の過去の恋人の話を聞いたり。ファーストキスが終わったり、な。
サキは理解できないと言いたげだ。いらだたしげに腕と足を組み、視線を外す。
「色々って何よ、この間はまだ全然だったのに。大体、あの子も驚いてたわよ。殴られても逃げないしキレないし、どうしていいか分からないって」
聖子が俺を扱いかねている。それで連絡を絶っているのか。しかし聖子は孤独なはずだ。俺を引っ掛け、一年間、心を癒したいくらいには。俺以外の『お兄さん』候補でも見つけたのだろうか。いや、計算を見破られて傷ついたことから、そうやすやすと逃げられるものか。似たことをやるのは、怖がるはず。
「元彼が戻ってきたのよ」
痺れを切らしたサキの言葉は、鼓膜を通って俺の頭に刺さった。
「え……」
二の句を継げない俺に、こうなりゃやけだと言わんばかりに、サキはまくしたてた。
「だから、元彼。あの子の体とか、心とか、彼女だって名声とか、味わい尽くして逃げてたやつが戻ってきたの。あの子の本当に大事なことから、上手い事逃げてた奴が、また連絡取ってきたのよ」
俺は顔をしかめた。思わず眉間にしわが寄る。唇を噛んでしまう。
サキには、俺を気遣っている余裕がないらしい。決壊したダムは止められない。言葉の奔流も一旦始まればせき止める術はない。
「頭の悪い奴よ。でも、楽しいことは大好きみたい。受験と進路で色んなものがせっぱつまってくるから、春休みだけ、手っ取り早く遊べそうな聖子の所に戻ってきたのよ。腹立つくらい、人に取り入るのが上手いから、聖子もまんまと騙されちゃって……もう私の話も聞かなくなってる」
聖子が、親友であるサキの話を聞かないだと。いや、俺を殴りつけた後の不安定な姿が本質ならば、それもありうる。きっと、相当うまくやられたのだろう。
「あの子、私より頭いいのよ。私なんかに言われなくても、自分じゃ絶対、あんなの良くないって分かってるはずなんだけど、寂しいのが止められなかったのよ。私じゃだめなの、私は友達だけど、友達ってだけじゃ、聖子には……」
悔しげにうつむいたサキ。後れ毛のかかる頬に、小さな涙がにじむ。サキを苛んでいるのはなんだ。聖子を守れなかった罪の意識、それとも聖子との友情。どっちであっても構わない。重要なのは、そういうサキが俺の元を訪れ、全てを語ったということだ。
事態はそれだけ切迫している。
俺は立ち上がった。
「今日は学校、休みなんだな」
「あいつら、約束しちゃってるみたい、多分、あんたと行った海岸かな。あそこに行くと思うんだけど」
もしそうなら、とっ捕まえられるかも知れない。俺は駆け出そうとしたが、少しだけ冷静になった。
「それは確実なの」
「……とりあえず、最初のデートで、あんたと、あの海岸のこと忘れに行くって言ってたのよ。夕日を見に行くって」
夕日なら、確実だ。俺は時計を見た。今午後、四時前。
あの日、帰りの電車に乗ったのが五時半過ぎだったか。それくらいまで居るかどうか。
考えている時間は無い。俺はサキを置いて部屋に駆け登った。机の脇に、駅から出ていく列車の時刻表がある。一番近い下りで、午後四時三十分。そのタイミングじゃ、日没までに間に合わない。
だが、取れる策はそれが最善。俺は舌打ちして、あの日と同じジャケットをはおり、ショルダーに財布とスマホを放り込んで駆け下りる。
階下に降りた途端、俺は足を止めざるを得なかった。
体を丸めたサキの隣に、初めて見る顔つきの兄貴が立っているのだ。
顔は笑っているが、目が笑っていないという状態を初めて見た。兄貴はこの間やってきた聖子のことを知っている。そして、今日初めてきたタイプの違う女子高生のことも。この短い期間に二人もの別々の女の子が俺の家を訪ね、しかもその片方が泣いている。
わが弟がどういうクズか、分かろうというものだ。
喧嘩をしないのは、勝てないことが分かっているからだと思ったが。それで良かった。この迫力、身動きができない。サキと対峙したときとは、別の意味でだ。
「おい、この子泣いてるぞ。こないだ来た女の子はどうしたんだ」
どうやら、練習を終えて部屋に入り、サキを見て勝手に事情を察したらしい。こりゃあ厄介極まりない。
頼みのサキは気が動転して、説明の余裕はなさそうだ。こんな誤解、根も葉もないことだから一時間もあればこの場は収まるだろうが、それでは間に合わん。
兄貴の突き刺さるような視線。真剣な顔はやはり年上、全てが、けた違いの大人のそれだ。くそ、武道家の殺気も突き刺さってくる。
どうすりゃいい、俺は兄貴に信用されているのかすら分からない。だが時間は食えない。
もういい、やけだ。
「すまん、兄貴!」
開口一番、俺は腹の底から声を出し、力いっぱい頭を下げた。
今にも刀に手を掛けそうだった兄貴は、たちまちぽかんとした表情になる。こういう顔は本当に少年じみている。本当に安奈と同い年なのが信じられなくなりそうだ。好きな奴はたまらないのかもな。
「すまんって、お前……本当に、この子たちに何か」
「説明してられないんだ! とにかく衣戸まで、水族館まで車出してくれ。説明は途中でするから」
当たり前だが、俺のむちゃくちゃな要求に、兄貴はますます困惑している。そりゃあ意味が分からないだろうが、これじゃまた時間が無くなる。
どうしようと思った矢先、兄貴の顔が再び凍り付いた。サキがその腕を取り、ぐっとしがみついている。
「……お願いします、寛志の言う通りに。説明はしますから」
涙の跡も真新しい、意志の強そうな瞳。じっと見つめられると、さすがの兄貴もたじろいでしまう。仕事柄、強烈な税金の滞納者と、議論を戦わせることもあるらしいが。サキのように、純粋で力強い少女の涙には、抗いようがないのだろう。
兄貴はため息を吐き、腕を組んだ。漫画の中国人みたいに、胴着の袖で腕が隠れている。
「分かったよ……二人とも、だな」
俺もサキもうなずいた。
これで、兄貴の着替えを待って、あの海岸へ出発できる。そう思ったが、兄貴は大事な刀を居間のテーブルに置いた。胴着のまま、家と車の鍵を取った。
「兄貴、着替えは」
「急ぐんだろ。俺はいいよ、車に乗れ」
そう手振りで示され、俺とサキは顔を見合わせた。何てこった。一言の説明も無いのに、俺達が急いでいるというだけで、兄貴は全力で力を貸してくれるらしい。
すぐに車に乗り込んだ。俺は兄貴に注意され、母親にメールを入れておいた。衣戸に兄貴と買い物に行く、夜は遅くなると。こんなざっくりしたメールで、許されるかは分からないが。兄貴が信頼されているから、それで帳消しか。
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