変化

 テーブルを見つめる俺に、安奈が呟いた。


「……お礼って、程じゃないかも知れないけど。聖子ちゃんのこと、少しだけ」


 俺は顔を上げない。目を見て言われれば、その通りにしてしまいそうだから。きっとそれは、安奈の本意ではない。


「正直言って、私には、もうどうすればいいのか分からない。想像してたより、事情が複雑みたいだし」


 手に負えないということか。思い返せば、過去を語ったときの反応が、それを物語っていた。


「でも一つだけ。何が必要か、どうすればいいかは、もう寛志君に分かってると思うわ」


 卑怯な言い方だ。それでは、俺は、俺の行動の責任から逃れられない。


 大体、分かっているのなら、なぜ俺は悩んでいる。


 理由は簡単。答えが分かれば、それで終わり、ということばかりじゃないからだ。安奈と、写真の恋人のように。分かったからって、実行が、ためらわれることもある。


 けれど、必要なのは、そんなことに飛び込んでみることだ。俺もまた、今の安奈のように。


 口には出さなかったが、俺はそのとき、決意を固めたのだと思う。


「さあ、片付けちゃいましょ。早く帰らなきゃ、家の人が心配するわよ」


 立ち上がり、部屋へ向かう安奈。俺はうなずくと、彼女の後に続いた。


 片付けの間、作業をしながら、俺達はまた、たくさん話をした。俺はこの町での安奈の思い出や、好きな音楽についても詳しく聞いた。その結果、イエロー・モンキー以外にも聞きたいミュージシャンが増えてしまった。これでいずれ、衣高の古CD屋以外に、新譜を売ってるCDショップにも行くことになるだろう。


 俺はお返しに、安奈の知らない、俺の家族のことについて語った。兄貴のやっている武術、父親の船のスケジュール、母親の税関に展示してあるライオンの全身剥製の話が、わりと盛り上がった。


 最大サイズのゴミ袋に、七袋分のごみをまとめ、不要な本を紐でしばり、衣服はたたみ収納した。出しっぱなしのゲーム類も、よくプレイするもの以外、地層から出てきた本体の箱にしまい、押し入れに封印した。


 見違えるようになった部屋では、たくさんの発見があった。その中でも一番大きいのは。


「やー、久しぶりに、ここに出たわ。懐かしいなー」


 安奈がベランダの壁にもたれ、夕日に向かい目を細めている。俺は見事な風景と、風景に感じ入る安奈を交互にうかがう。


 この部屋はベランダを備えていた。片付けによって、それが解放されたのだ。


 ベランダは西向きで、夕日に照らされる衣戸市の西半分が一望できた。北側の山に、まとわりつくように建てられた、大小さまざまな家やマンション。南にあるガスタンク、水族館の特徴的な建物、その奥へ消え入りそうに連なる海岸。みんなみんな、紅茶の琥珀色と似た、夕べの明かりに照らされていた。


 風の温かみが、増している。


 春が来るのだ。時間の区切りが、一つ動く。


 俺は安奈に覚られぬよう、ため息を吐いた。やはり口に出しておこう。今から俺がすること、これから、俺達が戻っていく場所のことを。


「……安奈さん、多分、これで最後ですよね」


 安奈の方は、見ずに言った。


「俺、これから、やっぱり聖子ちゃんに会おうと思います。勝手かも知れないけど、あの子には、俺が居た方が、良いと思うから」


 理由はと問われれば、はっきりとは言えない。また、心が傷つくような言葉をぶつけられるかも知れない。


 それでも、俺はあの子の傍に居てやりたい。


 小さい女の子のように、俺の手にすがりついていた電車内。悪態をつき、俺の懐でジャケットに包まったベンチの上。店員ににらまれながら、専門書を読みふけった紀州屋。全て強烈に蘇ってくる。


 あの子を放っておいたなら、俺はきっと後悔する。あの子のために、そして何より、俺自身のために。


「……だから、ここへは、もう来られません。今日みたいに過ごすことは、もうできないと思います」


 言ってしまった。部屋を片付けながら、感じていたこと。


 俺は隣をうかがう。見つめることは、怖くてできない。怒られるからじゃなくて、安奈が悲しむのが怖かった。憧れの存在、大人の女の人に俺などが、と思うけれど。ひどい自惚れだ。


「……ちょっと残念、かな」


 聞こえた声は、少し震えていた。


 俺はたまらず、安奈を振り返った。夕日に彩られた横顔が、微笑みと翳りをたたえている。


「ありがとね。ほんの少しの間だったけど、楽しかったわー、君と居て」


 簡単な言葉に込められた安奈の感情。それを感じ取ると、強烈に胸が締め付けられた。これから俺は、彼女の一ファンへと戻るのだ。ストーカーの夜から続いた、夢のような時間は、終わりを告げる。


 諦めたくない思いも、ある。安奈が婚約者の話をしてくれたのは、たった数日で、話しても構わない人間だと認めてくれたからだろう。俺だって、安奈と居て、心地良い。ファンだからとか、憧れているとかそれもあるけど。単純に、もっとたくさん話したい、まだまだ知りたいことがある。


 それなら、夢を夢で無くすることも――。


 いや。勉強し過ぎた俺には分かる。子供のくせに、それをやった後の結果が。声優の仕事に打ち込みたい安奈。西の大学へ行くことを選んだ、俺自身の立場。変なファンがうろつくことのある、この町を歩くこと。とてもできない、俺だけでなく、安奈の立場からいっても。


 こんなこと、分からなければよかったか。いや、分かってしまうから、俺なのだ。染み入るような悲しみが、湧き上がってくる。気持ちだけでは、動かないことがある。全て、噛み締めなければならないのだ。


 無意識に、歯噛みをする。安奈に見られたくなくて、うつむいた俺の頬に、涙がこぼれた。格好悪い別れ方は、したくないというのに。


 耐え切れなくなりそうな俺の胸元を、ふわりとした感覚が満たす。安奈が俺の腕の中に居る。驚いて見下ろした俺は、生まれて初めて他人に唇を奪われた。


 一瞬で涙が止まる。驚きを感じればいいのか、興奮を感じればいいのか。


 体を離した安奈が、いたずらっぽく微笑んだ。


「……ほら泣かないでよ、思い出しちゃうじゃない」


 婚約者のことを、か。俺と似た奴だったんだな。苦笑するしかない。


 陽が沈んでいた。建物に明かりが灯りはじめ、宵闇が満ちていく。群青色に染まる空を探せば、一番星が見つかりそうだ。


「でも本当に良かったの。聖子ちゃんに、こっぴどくフラれるかもよ」


 すっかり調子を取り戻した安奈に、俺は笑顔で応じた。


「なら、また待ちますよ。安奈さんの声だけじゃなくて、音楽だってあるし」


 ポケットのCDプレイヤー、これからはスマホと一緒に持ち歩くことになりそうだ。音楽を聴くたびに、安奈のことを思い出すだろうが。それはそれでいい。


「……帰ります。本当に、ありがとうございました」


「こちらこそ、かな。元気でね」


 差し出された手を取る。しばらくの握手の後、俺は部屋を後にした。


 たった数日で、全てが変わってしまうことが、確かにあるかも知れない。だが俺以外には説明できないだろう。結局、具体的な数字は出せないのだ。


 一週間前の俺には、いくら言っても、無駄だっただろうが。

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