安奈
一分くらい、見つめ合っていたかも知れない。憧れの声優と見つめ合うのが、そいつの口から過去の恋愛を知るためだなんて、俺はどうかしてるのか。
安奈が、口を開いた。
「……大丈夫、かな。うん、話すわ。一応秘密だから、これ、誰にも言わないでね」
「もちろんですよ」
自分の言葉が、こんなに重たいのは初めてだった。
俺達は食卓に席を写した。チェリーパイにはラップをかけて電子レンジに移し、お互いの紅茶を淹れ直して。造花が心を落ち着かせてくれる。
安奈が写真立てを持ってきた。懐かしそうに、目を細めて写真の中の男を指さす。
「この人はね、昔、私が大好きだった人。結婚を考えてた、恋人よ」
単刀直入に、事実が分かった。クソッタレな掲示板の書き込みを反復しそうになる頭を、必死になって抑え込む。話を聴くんだ、ここでは、ここでだけは、クズになっちゃだめだ。
「私が主役やった、アニメの原作のライトノベルの編集者さんよ。そのアニメの放送が終わって、ドラマCDやらなんやら、色んな企画も終わって一段落着いたところで、知り合ったの」
俺が聖子を知ったころで、小説とアニメが売れたものといえば、だいたい作品が絞られてくる。ライトノベルの原作付きとなると、数社に絞れる。
「すっごく真面目で、理想に燃えてる人。作品と、ファンを大事にしてたわ。君も何となく分かると思うけど、小説がアニメになると、たくさんお金が動いて、お金を出した人が満足できるように、元のイメージと変わっちゃう事が多いのよ。でもその人は、どうしたら、作家とかファンが喜んでくれるようになるか、ずっと考えてたの。みんなを説得したり、作者さんとスタッフの間を取り持ったりしてくれてたみたい。スタッフも感謝してたから、打ち上げの飲み会に呼ばれててね。アニメのでき、すっごくほめてくれて、私がヒロインやったのが本当に良かったって」
それで作品が特定できた。出版社もだ。悔しいことに、その作品は当時の俺が気に入った小説であり、夢中になったアニメだった。
前評判は良くなかったのだ。配役も心配され、特に安奈がヒロインの少女をやることには、ファンの俺でさえ不安を感じた。
が、一話目でそんな不安は吹き飛んだ。安奈の演技は神がかっていた。
一期に続いて二期も製作され、DVDの売り上げも上々だったらしい。何より、原作ファンからの評判が高い。
安奈の相手は、その結果の立役者だったというのか。恨めない。
安奈にも、そのときの思い出は大きいらしい。うっとりと、当時を思い出している。
「その人も、私のファンだったな。役者も、音楽家も、芸術やってる人はみんな、自分のやってること、分かってくれる人に弱いの。声優の女の子も、演技の話しながら、すり寄ってくる人に弱いわ。監督とか、演出家とかね。結局私も恋人になっちゃったんだけど、その人は、本当に、私が欲しいから褒めてるって感じじゃなかったなー。こないだ話したとき、君が言ってくれた言い方に似てたわ」
先を越された、という思いと、俺の言葉が安奈に届いたということと。どちらを優先させるべきだろうか。
一晩のゲームの中で、安奈の演技や音楽のルーツについて、俺は色々たずねた。知っている作品や俳優が出れば、それを褒めたり、派生する作品の話題になったり。今まで自分が考えて温めてきたことが、安奈との会話の中で次々と実を結んでいた。俺は楽しかったが、安奈も楽しかったのだ。話は続く。
「とにかく、価値観が合うっていうか、一緒に居て楽しかったのよねー。お互いが知ってる作品なんか二人で見てみたり、面白いお店に買い物に行ったり。君と同じで、えっちなことには慣れてなかったけど、なんかそれも嬉しかったわ。でも……」
安奈の表情に影が差した。腹の立つのろけが中断された。が、万々歳とは思えない。つかみかけていた幸せが、こぼれ落ちた。そのことは、悲しい。
「何のせい、かな。君なら分かると思うけど、アイドルっぽい売り方が流行り出したじゃない。養成所出たてとか、グラビアアイドルから来たとか、結構外見の良い子がユニット組んで、学園物の女の子の役、まとめてやったりすることがあるでしょ」
具体例は出さないが。事務所の圧力がうかがわれる、配役の原作レイプは確かに存在する。声のイメージが違う、実力が伴っていないなど、掲示板が阿鼻叫喚になった例を、俺は知っている。
安奈の笑みは、苦笑になった。これは、彼女の成功の歴史でもあるのだが。
「二十五のときだから、今から三年前ね。アイドルにしたら、もう年だったけど、顔がそこそこで楽器と歌ができたし、若手だと実績もあったせいかな。そういう売り方で行こうって事務所が言いだして、断れなかったのよ。で、しばらくは君みたいな可愛いファンもできたんだけど、去年の一月ね」
去年の一月。何があった。その時期といえば、高校二年の三学期。受験をにらんで勉強のギアを切り替えたあたりだから、声優関係のサイトやブログの巡回なんかも適当になってたころだ。そういう事件には疎かった時期――いや。そういえば、話題は小さかったが、恐ろしい出来事を小耳にはさんだ。口にするのもはばかられる、誰もが思っていて、決してやらなかったことを実行した、馬鹿が居たのだ。
「もしかしてあの、結婚した女の声優さんが、イベントのときに……」
「そう。よく知ってるね。箝口令(かんこうれい)も結構敷いたけど、どっからか漏れ
ちゃってたか」
当時アイドル的な売り方をされていた女性声優が、一般の男性と結婚を発表した。そのときは女性声優の掲示板に、汚い投稿があった程度で済んだ。
だが後日、その女性声優が出演したゲームのイベントに参加したとき、包丁を持った男が会場に乱入した。裏切り者、と叫びながら取り押さえられた男の姿を、その声優は目の前で見たという。それから彼女は仕事を休み、三年経った今も、まだ復帰の知らせは聞かない。
安奈のショックは、どれほどのものだっただろう。あまりに直接的な出来事で、異常さも恐ろしさもストレートすぎたせいか、ネットでも大きくは取り上げられなかった気がするが。
「あたし、怖くなったわ。それは、あたしのことを大事に思ってくれてた、彼もだったんだと思う。元々潔癖な所がある人だし、変な売り方されて、怖い目に遭うと思ったんでしょうね。もう声優辞めて、結婚して欲しいってプロポーズされたの。自分が、頑張って守るからって」
その人の写真が、ごみと一緒に捨てられるということは、どういうことか。それは分かるが、俺には喜ぶことができない。
「断ったんですね」
「ええ」
安奈はうなずいた。その表情に悲しみはあっても、後悔は無い。決意を、感じさせる表情だった。
「やっぱり、仕事は辞められなかったんですか」
俺はそう、聞いてしまった。俺には、安奈の選択が悲しく思えたのだ。
だが安奈は笑顔を浮かべた。優しげな顔で、懐かしむように語りだす。
「十二のときに、ギターを覚えて、十四のときから、時々あそこの、ほら水族館の横の浜、あそこで覚えた歌を歌ってたの。休日のお昼にやっててね、子供とかが来るから、余興にと思って、アニメの声真似し始めたんだけどね。上手いことやると、本当にびっくりして喜んでくれるの。それがすごく嬉しくて。私の原点だなあ」
その話は、雑誌のインタビューで目にしたことがある。そのときは出来過ぎている様な気もしたが、安奈と知り合い、一緒に過ごして、紛れもない真実だと思える。
「それからね、アイドル的にあたしのこと好きな人っていうのも、嫌いじゃないんだ。君も含めて、その人達には、子供の可愛さなんかはないけどさ。でもみんな、元気になってるわ。あたしの声とかあたしの歌を励みにして、辛い事や悲しいことを超えていく人が居るんだって、考えるとね、あたしも元気になるの。ちょっとサービスしてみようとか、頑張っちゃおうって、気になるのよ。それを辞めちゃうのは、どうしても嫌だった」
安奈。分かった気がする。この人は、人を喜ばせるために生きているのだ。それが安奈自身を幸せにするのだろう。声優であることを、歌を歌うことを、俺のようなファンの心の励みになることを、彼女は心から望んでいる。
きっと、譲れなかったのだ。
そして、その編集者は、安奈がみんなのものであることを、望まなかった。
安奈を自分だけのものとしたいというより、みんなの中身が問題なのだ。事件を起こしたのは、きっと俺以上にクズで、傷つきやすく、けた違いの苦しみを背負った、思い詰めやすい男だ。そんな奴のために、愛する人が人生を費やすことが、きっと許せなかったんだ。
分かった。安奈の別れの理由が、埋まらない溝が。お互いを愛していても、別れなければならないこともある。
安奈が、傷ついていないはずがない。その笑みが、寂しげなものに変わっていく。
「それで、声優続けるのはいいんだけどさ。やっぱり、がっくりくることがあるのよね。怖いから、掲示板は見ないし、ブログもツイッターもしてないんだけどさ。ほら、寛志君が最初にここへ来たときね、タケ君達怒ってたでしょ」
「はい。あれは、完全に俺のせいですけど」
この後の話題がなんとなく分かる。安奈は自分を抱きしめるようにして、テーブルに視線を落とした。
「あれ理由があるの。わたしのことを捜して、ここまで来てうろうろして、この町の写真撮ったりする人が居るのよ。先月帰ったとき、私いきなり知らない人に話しかけられて、腕つかまれそうになったときがあってね。怖かったし、悲しかった。私、やっぱり間違ってたのかなって。怖い目に、遭っちゃうのかなって」
大人としての、声優、響安奈としての彼女の姿が揺らいでいる。最初の夜、俺が怒ったときに似ていた。あのときも、自暴自棄のようになっていた。俺がインターネットで酷い書き込みをすると決めつけて。
また、ああ言ってやるべきだ。しかし俺は声が出せない。大人のファンの独占欲の強さ、暴走する欲望の恐ろしさと気持ち悪さは、その一人である俺が一番よく知っている。
あのときは安奈の事情も知らず、ただ感情にまかせた。事情を知った今、自分の感情も処理できない俺のようなガキには、何も言えない。
「でもねー、ついこの間、寛志君が来ちゃったのよ」
俺のことか。顔を上げると、安奈は茶目っ気を利かせた笑顔。さっきまでの不安が完璧に払しょくされている。まるでうそ泣きから立ち直った少女のように、無邪気に微笑む。
「最初君の事、怖い人だと思ってたわ。でも途中からどんどん分かんなくなってった。まずあたしを追っかけてる途中で、聖子ちゃんに絡まれてたでしょ。それでもついてきた。で、ストーカーに集中してるかと思ったら、衣高で買い物してるし。しかも、自分で酷い怪我して、死にそうなくらい追い詰められてて、心配だからって、部屋に上げて事情聞いてみたら、ストーカーも分かるわってくらい、波乱万丈な一日だったじゃない」
あの日のことか。これからの人生を生きていて、あれ以上に色々なことがある一日などあるのだろうか。安奈のテンションは止まらない。もう俺への配慮を置いて、喋り続ける。
「君には悪いけど、あれ聞いたとき、私面白くて仕方がなかったのよ。事件とか、この町に来たファンとかで、勝手に想像してたイメージが、ぶっ壊れたもの。とどめに、買ってたのが、私の好きなイエモンのCDで、しかも聴かせたら気に入るでしょ。で、私のことアイドルで売り出す前から見てるもん。君みたいな若い子がよ。ものすごい詳しいし、私より確実に頭良いし。進学校とか、国立大とか、法律とか、理解の彼方よ、あたしからは」
加速する感情にまかせて、安奈は話し続ける。手ぶりや、笑いが頻繁に混じる。安奈が俺にとって特別だったように、俺は安奈にとって、特別だったのか。
信じられない、俺のやったことなど、俺の苦しみなど、俺の心など、他の誰にも価値がないと思っていたのに。俺のことなど、誰も気にしていないと思っていたのに。
「ひっくり返ったわー。でも気が付いたの。コンサートの動員とか、CDやDVDの枚数ばっかり見てたけど、それ買ってくれたり、買わなくてもあたしの声聴いて、元気出して生きてる人って、みんなそれぞれ人生があるのよね。あたしは、可哀想な怖い人達のために、自分を生贄にしてるんじゃないのよ。君に出会って、気付いた。私、ただ怖くて、考えてなかったわ。みんなのこと、全然見えてなかったの」
自分を責めるといえば、言い過ぎかもしれないが。締めくくりの安奈の言葉は、重たいものだった。ファン、観客、聴衆、リスナー、言葉でまとめてしまえばそれまでだ。あるいは、安奈はそうしていたのかも知れない。しかし、彼ら一人一人、つまり俺達一人一人は、それぞれ全く別の人間だ。共通しているのは、安奈に惹かれた、ただそれだけなのだ。
「寛志君と居るとね、あたし元気が出るの。君見てると想像するのよ。あたしの声で喜んでくれる人は、どんな人なんだろうって。すごく楽しいわ。女の子のファンはどういう風に過ごしてるんだろうとか。もしかして、どこかの職人さんが、私の声聴ききながら、黙々と仕事してるかも知れないとか。ひとりで寂しい夜に、あたしの声聴きながら、パソコンに向かってる人が居るかもとか、高速飛ばしてるトラックの中に、届いてるかも知れないとか、外国でぼーっと聞いてる人も居るかも知れないとか」
こんなわけのわからん、俺が居たのだ。数千枚売れた、彼女のCDの向こうに、誰が居てどんな人生があるか、聞いて回るのは不可能だし、想像は無限大だ。
「君はたまたま出会って、話すことができたけど。ほとんどみんな、あたしが直接かかわらない人なのよ。でも、あたしの仕事は、あたしの声は、そんな人をたくさん元気づけられるの。それってきっと凄い事で、だから頑張ろうって、思うのよ」
穏やかな笑顔で言葉を締めくくった。安奈。溢れ出てくるその生気は、俺の心を洗い流していくようだった。おぞましい考えが消えていく、それどころか、掲示板の暗い印象さえも。安奈の心は、あるいは安奈という人は、どこまでも爽やかで明るい。俺達の感動を無視しているわけではない、想像を巡らしてくれる。
俺が、何もない俺が、初めて誇れるものを手に入れた。安奈という声優と出会えたこと、その声に惹かれるということ。きっと素晴らしい事だ。
安奈が再び、写真立てを取った。じっと見つめる先は、かつて愛した人だ。
「間違いとか、正しいとかは分からないけどね。でもあたし、やっぱりまだ精一杯、みんなと居たい。声優続けたいの。だから、だからやっぱりこれで良かった。君に会ってそれが分かったから、この写真、もう処分しようと思って。そういうわけなのよ」
ぱたり、と写真を伏せる。一息吐くと、本当に何かが終わったようだ。いや、安奈は確かに終わらせたのだ。そして俺は、はからずもその手伝いをした。こんなに、嬉しいことはない。
俺は紅茶を啜った。ぬるくなっているが、むしろそれが、胸に染み入る。安奈もまた、残りの紅茶を飲み干した。
そして二人とも、しばらく口を利かなかった。心地よい沈黙だ。こんなのはいつぶりだろう。話さないことが怖くない、だなんて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます