ep.7-3 波間の海豹
時は少し遡り……
昨日の荒れた天候から一転、セレノの朝は好天で、清々しい陽光が肌に気持ちがいい。海はまだ嵐の影響を強く残していて、海水は濁ったままだった。波は高く、白波が立つ海面は荒々しい。
しばし様子見に沖合に出たいという漁師にくっ付いてソカロは少しばかりその仕事を手伝ったばかりであった。嵐の後にだけ釣れる魚もいるそうで、それを聞いたソカロはまだ見ぬお魚に会えることに期待して乗船したのだが、結果、物珍しい釣果はなかった。
それでもソカロは満足だった。海と船と潮風。ソカロはそれらがとても好きだった。
いま海岸を目的なく歩いているのも、なんとなく離れがたかったのかもしれない。
砂浜に打ち寄せる波もまた勢いがあり、波の裾は白く泡立ってシャボンの濯ぎ水のようにも見えた。その裾野に小さなイソギンチャクやら空き瓶やら海藻やらなんやらが巻き込まれて、様々なものが砂浜には打ち上げられる。
今日は何があるかな、と暢気に鼻歌をひっかけてソカロは海色の目をきらきらと輝かさせる。波に浚われて砂浜に置いてけぼりにされた小さなカニが慌てて波を追いかけるのを横目に捉えてソカロはふふふと笑った。
ふと視線を戻せば、視線のその先に大きな塊。波に幾度も洗われながら少しずつ浜辺に打ち上げられる。黒っぽいそれは大きな海藻…ワカメだろうか。大きさ的に巨大すぎるワカメの塊というよりは何かに絡まっているように見える。
ソカロは足早にその塊に歩み寄る。まるっぽいフォルム。もしかしたら海獣の類かもしれない。
「アザラシかな!」
アザラシだといいな、とソカロは思う。セレノではまだアザラシを見たことがない。大昔に一度波間に現れたアザラシを見たという老漁師の言葉によると“まあるくて、真っ黒い目がほんにめんこい”らしい。
「アザラシ…見たい!」
思うより先に駆け出していたソカロは一足飛びに辿り着くと、まじまじとまるい塊を凝視した。
――まるい。
ぽよぽよとしていて弾力のありそうな水に濡れた肌。大きさは140センチ前後。不思議な模様の体表。ワカメだと思っていた黒いものは体から生えており、二又に分かれている――おそらく尻尾か。
顔は伏せっているため分からないがきっと黒い眦を持っていることだろう。
「これがアザラシ…!」
はじめて見る現物にソカロは興奮した。しかし波に揺らされる他にはピクリとも動かないので途端に心配になる。
「死んでる…?」
アザラシが魚類に属するものならこのまま水の中に戻した方がよいだろうが、ざっと見たところエラらしきものは見当たらない。肺呼吸であればもう少し陸地へ動かすかとソカロは二又の太い尻尾をまとめて掴んでずるずると陸へと引き上げる。その最中に小さな鳴き声が聞こえた気がした。
嬉しくてアザラシの様子を窺えば、ころりと寝返りを打つ。固く閉じられた瞼は動かないが、青い唇が震えながらかすかに動く。
「うう、み、水……」
「――生きてる!!!!」
死んでないことに安堵したソカロだがそれ以上に、これはアザラシではなく『人間の女の子』であることに気が付いて、素っ頓狂な驚きが飛び出たのであった。
◇
「水…ありがとうございマス。あとタオルとか…服とか…モロモロ……」
ごにょごにょと口ごもりながら黒い目のアザラシ――もとい、少女はソカロに礼を告げた。
木造りの簡易な家屋の中、いくつもの柔らかなタオルに包まれてモフモフの白い塊になった彼女をにこにこと笑んで見守るのは、この家につつましく住む老婆だ。ロッキングチェアに根が生えたように腰かけ、微笑を絶やさない。
「お婆ちゃん入れて!アザラシが!」とソカロが勢いよく飛び込んだせいで立て付けの悪かった戸は完全に壊れてしまったが、それにも老婆はにこにこと修理用の工具を渡すのみで特に咎めることもなかった。
ちなみにこの老婆こそアザラシを見たことのある人物でもある。
「いいよ! 着てた服ももう乾いてると思うからちょっと待っててね!」
扉にハンマーを打ち付けてソカロは元気に返答する。
少女の服は屋外の陽光に当てながら干し烏賊と共に元気に回転しながら靡いている。効率よく乾物にするため回転を加えて水分を飛ばし、同時に風に当てるその道具とその様は初めて見る者にとっては圧巻の光景だ。
まさか烏賊と共に下着まで回転しているとは知らず、少女は「あっす…」とお礼もうまく言えぬまま遠慮がちに頷いている。
カーン!と勢いのよい音を最後に鳴らしてソカロはふーっと息を吐く。
原理は分からないがどうやら修理完了したようで、微笑む老婆にソカロはハンマーを返して満足げに鼻の下を擦った。老婆に外を指さされ、ソカロは思い出したように外に飛び出すと今度は衣服を握りしめて戻ってくる。口の端から何故かゲソが飛び出していたが、ひと息に飲みこんで、タオルの山に向かってずいとそれらを差し出した。
「はい! これタマの服だよ!」
「たま…っ!? なんですかその愛玩動物につけるような響きはァ! ワタシの名前は『タマーラ』! ですが!?」
急に立ち上がったタマーラの頭上からはらりとタオルが舞い落ちる。一拍おいて「ギエエエエ」と甲高い悲鳴をあげながら無防備な姿の少女、タマーラは慌ててタオルの波間に潜るのだった。
◇
「あらためまして…ワタシ、タマーラと言いまして……この度は危ないところをお救いくださりありがとうございまスっ!」
踵を揃え背筋を伸ばした少女は、目の前の巨躯から落とされる影の中で仰々しくも忙しない一礼を贈る。
なんとなく干物臭い乾いた服を纏ったのち、礼を告げて二人は老婆の家を後にしていた。ピシッと音がしそうな伸びた姿勢から九十度に腰を曲げる速度、元の姿勢に戻るまでが驚くほど素早くてソカロには残像が見えたほどだ。
「不肖タマーラ、このご恩は一生忘れませんのでェ! したらばこれにて失礼ドロン!」
「えっ、まってまって!」
流れるような早口を残しその場から去ろうとするタマーラの首根っこを慌てて掴まえてソカロは目をパチパチと瞬かせる。
「キミ、海でソーナンしてたんでしょ! おうちの人は?どこに行けばいいか分かるの?どっから来たの??」
つられて早口で問いただすソカロは、空中でバタバタと足を回転させるタマーラの「足がつかない!こわい!」と言う悲鳴に我に返って小さくてまるい足を砂浜に着けてやる。ただし首根っこは掴まえたままだ。
「え、え~~~~~とぉ……。遭難っていうか、難破っていうか、昨日の嵐がものすごくってェ~~……」
逃れられぬと悟ったタマーラはしどろもどろに答えながら目をあっちこっちへ泳がせる。
「ああ、昨日のアレね! それは大変だったね」
ソカロも昨日の大荒れの天候を思い、眉根を下げて同情する。嵐の影響でソカロも出歩けず、暗っぽい部屋の中で非常に鬱蒼とした一日を過ごしたからだ。
「え、へへ…お気遣いどうも…。でも幸運なことに目的地のセレノに流れ着きましたし、ワタシとしては結果オーライ的な…!」
ソカロの同情に気をよくしたタマーラはまんまるな目をよりまんまるに開いてキラキラと輝かせる。「そうなの?!よかったね!」と一緒に喜んでくれるソカロの態度も相まってつい気も緩んで口が開く。
「昔っからドジばっかなんですが、悪運は人一倍なのでス! このままワタシ一人で敵情視察もこなしたら団長にも褒めてもらえるかもしれないので頑張りまス!」
「テキジョウ…?」
聞き慣れない言葉にソカロはキョトンとオウム返しで首を傾げた。
「ほああっ!? スミマセンあのっなんでもないんですスミマセン!」
何度も謝りながらタマーラはペコペコと頭を下げるので、ソカロもよく分からないままペコペコと頭を下げ返す。
「タマは…どこから来たの?」
困惑しながら再度問われた言葉にタマーラは「ギクギクゥ!」と身体を硬直させながら叫んだ。えーと、を何度も口走りながら目を泳がせ過ぎて目玉はくるくると回っている。両手を握ったり広げたり、揉み手したりほっぺを摘まんだりして、ようやく絞り出す。
「と、遠くの方………」
散々勿体つけて出された返答がこの程度とはあまりにもお粗末。
しかし、ソカロはふんふんと頷くと「なるほどー!」と得心した様子で両手をポンと鳴らす。
「そんなに遠くからなら、セレノもはじめてだよね!セレノってすっごくいい街なんだ! ね、おいしい食べ物あるから紹介するよ!いいよね、レッツゴー!」
嬉々として紅潮した頬をタマーラに寄せたソカロは返事も待たずに一目散に駆け出した。
首根っこを掴まれ直したタマーラの「まままま待ってェ~~~~!」という涙混じりの悲鳴は、遥か後方へと置きざりとなった。
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