ep.3-25 雨降る丘陵
ふと気付けば、ブレイは街から離れた小高い丘に立っていた。
黒煙が呼んだトランジニアの曇天からは、冷たい小雨が降り注ぎ、ブレイの身体をしっとりと濡らしている。周囲には街から逃げ出してきたのであろう住民達が身を寄せ合っている。ある者は涙を流し、ある者は口論を繰り返し、またある者はブレイと同じように、静かに街を見つめていた。
ブレイは何を感じるでもなく、ただ辺りの様子を目に写した。
街から上がる火の手は雨により勢いを落としていたが、未だ
ひときわ周囲のざわめきが大きくなったことに気付いたブレイは、そちらを振り返る。人垣を割って此方に向かってくるのはヂニェイロ家当主、リカルドであった。
ブレイはそれを見とめると、さして興味もなく、交わった視線を切った。
一方的に視線を切ったブレイの行為に、リカルドは額に青筋を立て形相をより険しいものへと変える。歩幅を広げて距離を詰めると乱暴にブレイの肩を掴み、無理やり向き合わせると同時に咆哮する。
「この悪魔め!! 俺の娘を、家族を返せ!!」
ビリビリと辺りを震わせる渾身の
しかしそれにも反応を示さずに、ブレイは強く掴まれた肩の痛みもそのままに、視線を遠くへ流していた。焦点の合わない、無気力な態度にリカルドの怒りは増すばかりである。
頭に血を上らせたリカルドは、拳を無抵抗な少年へと振り上げる。頭上に掲げられた拳にそれでも反応を示さないブレイの立ち尽くす様子に、リカルドは振り上げたままの拳を
「なんとか言ったらどうなん…!」
「パパ!」
耐え切れず拳を振り下ろそうとしたリカルドを留めたのは、子供の幼く高い声だった。
ハッと声の聞こえた方向へ顔を向けたリカルドは、小さな女の子とそれを抱く少年を視界に捉えると、ブレイの肩に食い込ませていた手を離し、そちらへと恐る恐る駆け寄る。
「マリア…」
抱きかかえられた少女の前に膝を突いたリカルドは、そのまろやかな頬に、
「マリア…!」
少年からマリアと呼んだ少女を大事に受け取ると、リカルドはそのまま強く胸に抱き、子ども特有の柔らかな髪に顔を埋めては何度も娘の名を呼んだ。
その様子を見て安堵の息を吐いた少年は、再会に抱き合う親子を感情のない目で見つめる、萌黄の髪の幼馴染へと哀しい目を向ける。
ゆっくりとした足取りで呆然とした様子のブレイへ近づいた、そう年の変わらないように見られる少年。そのエメラルド色の瞳は今は哀しげに伏せられ、くすんだ金髪は雨に濡れ毛先から雫がひとつ、肩に落ちた。
憂いの表情をした彼の名はオリオン・オーギュスト。
ブレイやルミナと幼少を共に過ごした、もう一人の人物である。
「ブレイ」
掛けられた言葉は心地好い低さで、労わりが滲んでいた。
「久しぶり。こんなところで再会なんてアレだけど。トランジニアからの避難者はみんなここに集まってきてる。ルミナも、ソーマも無事だよ」
掛けられた声にも反応を示さないブレイの肩に、オリオンは優しく腕を回す。
されるがままオリオンの肩に顔を埋めるようにして、ブレイは寄りかかることになった。
「ブレイ。セレノに帰ろう。俺がここに来た意味もそこで話すよ。……よく頑張ったね。会えて良かった」
優しく掛けられる声と、宥めるように撫でられる背に、ブレイは小さく「うん」と返す。消え入りそうな声だったがオリオンは確かにその声を拾うと、そっと微笑んだ。
「ルミナから聞いたけど、ソカロも無事みたいだよ。たくさんの人を連れて街から出たのを見た人がいたんだ。こっちに向かってる」
その言葉に応える代わりに、ブレイはぎゅっとオリオンの肩口に顔を押し付けた。
よしよしと肩を軽く叩くと、オリオンは自分の背後に
「トウセイ、他の避難者を迎えに行ってくれる? 先導してあげて。散り散りになった人達を会わせてあげよう。きっと今はそれが一番だろうから」
その言葉にゆらりと人の動く気配。
今までその場に居ただろうかと思わせる気配のなさ。無表情に雨に打たれていたのは、異国の服を
オリオンは返答がないことなど気にも留めず「働きっぱなしにさせて悪いねー」と付け足すが、それに応えるはずの主はすでに姿を消していた。
それから暫らく。
ルミナ、ソーマが合流し、それに遅れてソカロも到着し、誰も欠けることなく全員が集うことができた。しかし、誰もが疲弊し、特にソーマは腹に受けた傷が開いてしまったようで、衣服のあちらこちらに血が滲んでいた。ルミナもソカロも所々、擦り傷や火傷を負っておりその表情は暗い。
ブレイは口数こそ少ないが、オリオンと再会した時の様な危うさを表には出さず、あの時の様子は影を潜めている。お互いの無事を確かめあい、またオリオンという幼馴染との思いがけない再会にルミナは幾分か元気を取り戻したが、やはりこの重苦しい空気を払える程には至らなかった。
いつもの
しかし、ソカロはそんなブレイの様子を前に落ち着けずにいた。勝手に飛び出し、ブレイの元を離れたことに罪悪感を少なからず感じていたのが大きいのだろう。そわそわと落ち着かないソカロは、仲間の散開と同時にブレイの傍へ歩み寄ると、気まずいながらに声を掛けた。
「……ブレイ、あの、ごめん。勝手な行動とって」
視線を合わせようとしない、下を向いたまま顔すら上げないブレイの態度に焦りながら、ソカロはブレイの前に屈み込み、膝が汚れるのも気にせず目線を合わせようと試みる。前髪が掛かって表情が
「俺、悪いことしたって思ってるよ。でも、でもさ俺、トモダチが……大事な人が大変な時にほっとくなんて、でき、」
続くはずだった弁明は、ぱしっという軽い破裂音に遮られた。
突然のことに頭が追いつかないソカロであったが、遅れて、じんと頬が痛む。先ほどの音はブレイに頬を張られたものだと気が付く。
慌てて頬に手を当て、ひどいと訴えかけたソカロであったが、
「ぶれ…」
「何故、」
驚きの表情のソカロへ、ブレイは声を振り絞って言った。
「僕の傍を離れた」
放たれた言葉への返答に詰まるソカロに冷め切った
言い放たれたソカロは片膝を突いたまま、その場から動けずに居た。
滴る雨水が額を伝い目に入るが、どうでも良かった。人の気持ちに疎いソカロでも、ブレイを酷く傷つけてしまったのだと理解できた。しかしその理由は分からない。
透明の水の中に、どろりと濁った黒が溶けるように、ソカロの頭の中は彩度を欠いていく。
混迷と焦りとでいっぱいのソカロを現実に引き戻したのは、肩口を引っ張りあげる大きな手だった。
ハッとして引っ張りあげられた先には、こちらを
「そーま…」
ソカロが名を呼ぶと、ソーマは掴んでいた服から手を離す。目線を逸らし、
「おいテメー。テメエにアイツの護衛は向かねぇよ。……護衛だけじゃねえ、兵士に向いてねえ。その甘い考えと行動直せねえんなら、とっとと辞めろ」
ソーマの高く通った鼻筋を流れる雨の粒を瞳に捉えながら、ソカロはソーマの言葉の意味を測りあぐねる。それ以上言葉を重ねることなく、ソカロの襟元から手を離したソーマは背を向けてその場から去ってしまった。
その背を見ながらソカロは激しさを増して降り落ちる雨に
「じゃあ、俺はどうすればいいのか、教えてくれよ……」
身を寄せ合い、悲劇に嘆く人々。
泣き疲れて眠る女の人の背を撫でながら、ルミナは小さくなった街の黒煙を見ていた。
そのルミナの横顔から遠く、鉛色の空へとオリオンはその視線を移す。
今や突き刺さるように降りだした雨粒が頬に痛かったが、構わずオリオンは空を見つめる。
今日のトランジニア壊滅により、この国の情勢は大きく傾くだろうことは決定的であった。
また、自らの今後を決する
――もっと雨が強く降ればいい。
街から炎を消して、人々に焼きついた悲しみや怒りを、少しでも流してくれればいい。
オリオンは静かに瞳を閉じる。
長く伏せられるかと思ったエメラルドの瞳だったが、すぐさま瞼は開かれる。強い意志と共に。この光景を忘れる事はできない。
――見ない振りは、もう出来ない。
ep.3 end
The pointed truth
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