ep.4 Full moon & High tied

ep.4-1 夢




 まだ年端もゆかぬ幼い子どもは、自らの髪と同じ色をした芝生の柔らかな感触を楽しんでいた。


 仰向けに寝転んで見上げた空は薄い水色で、ところどころに小さな綿雲が浮かんでいる。

 時折、自分の上を通り過ぎていくそよ風は、春の匂いを存分に含んで空へと還っていった。

 育ちの良さそうな身なりの子どもは、服が草の色に染まることも気にせず、心地よさに身を委ね、うとうとと意識を揺蕩わせていたのだが、その小さな耳に遠くから聞こえる声を拾う。

 言葉は聞き取れないが、その声の雰囲気から、幼い少年は声の主が誰かを探しているのだろうと察する。そしてそれは自分を探しているのであろうことを。


 ブレイはぴょこんと上体を起こすと、恐らくは死角となっているであろうこの場所――なだらかな丘陵きょうりょうの斜面から顔を出した。

 そしてその視界に、白いワンピースドレスとこれもまた芝生と同じ、柔らかなライムグリーンの髪をふわふわとなびかせて歩く人物を映す。

 その人物に気づいたブレイは破願はがんして駆け出した。

 危なっかしく、転びそうになりつつもなんとか踏みとどまり、肩口で切り揃えられた髪を跳ねさせながら一心に駆けてその距離を縮めると、先ほどは不明瞭だった言葉がはっきりと耳に届いた。


「ブレイー、どこにいるのー?」


 此方に気づかず、背を向けたまま、その女性は我が子の名を呼ぶ。

 ちょっとおどかしてやろうと、年相応の悪戯心いたずらごこころを覗かせて、ブレイは無言で母の背後へと足を早める。


 が、急ぎすぎた足がもつれ、ブレイは為す術無く前のめりに転んでしまった。

 その音に背後を振り返った女性はちょっと驚いた素振りを見せると、すぐさまブレイの元へと駆け寄り、優しく引き起こした。

「大丈夫? 痛いところはなあい?」

 母の優しい口調に、まだまだ甘え盛りの子どもはじんわりと自分の涙が滲むのを感じた。急に足が熱く、痛む気がする。

「うぇ、あし、いたい…」

 穏やかなあたたかさを感じさせる女性、彼の母であるシンシアはふわりと微笑むと、泣きべそをかく我が子の足をゆっくりと取り、擦りむいた膝小僧に目を向けた。その場所に優しく手を当てる。

 それを不安げに見るブレイにシンシアは微笑みを深くした。

「……おまじない」

「おまじない?」

「そう、痛い時はね、こうやって手を当てるの。そうするとね、だんだん痛いのが消えてくの」

 きょとんとした丸い大きな瞳に見つめられながら、シンシアは慈愛に満ちた表情でそれを見つめ返した。

「ほんとだ。……もういたくないね」


 その言葉にシンシアはにっこりと笑った。

 母の言うことを素直に信じるこの子供がとても愛しかった。

「いたくない!」

 ブレイは楽しそうにそう言うと跳ねるようにして立ち上がった。

「いたくない!いたくない!」とはしゃぐように繰り返すブレイを見ながらシンシアはゆっくりと手を差し伸べた。

「さあ、帰りましょう。お父様もあなたの帰りを待ってるわ」

「え、おとう、……さま?」


 母の言葉にブレイは戸惑った。

 ――お父様が?

 途端にフラッシュバックするまっ黒な世界に燃え広がる炎の赤。

 無感情で残酷な表情。

 蒼い冷たい眼。


『お前に興味など、ない』









 ブレイは閉じていた瞼を開き、勢いよく半身を跳ねさせた。

 あまりに急に起き上がったせいで、ベッドの上に持ち込んでいた大量の書類の紙束が舞い上がり、ゆらゆらと遊びながら空を漂い、シーツはめくれてだらしなく床へと垂れ下がっている。


 ブレイは今しがた全力疾走してきたように息を荒げ、大量の汗を流してベッドの上で動けずにいた。見開かれた眼はブレイが落ち着きを取り戻すと同時に、徐々に猫のような釣り目がちな形に戻っていく。

 ブレイは大きく深呼吸をするとベッドから起き上がり、大窓のカーテンを引いた。

 途端、薄暗かった部屋に眩しい光が飛び込んでくる。その眩しさにブレイはうなると陰の中へと一歩引いた。

 燦々さんさんと降り注ぐ太陽の光に、ブレイは己がだいぶ寝すぎていることを理解したが、誰も自分を起こしにこなかったっことを不満に思う。

 しかし誰かが自室へと踏み込んできたとして、それはそれで大いに不満に感じるに違いなかった。

 朝っぱらから煩わしい会話を交わさないでいいだけマシだったと、ブレイは自分に言い聞かせた。



 あの日――、トランジニアが炎に呑まれた日からセレノに帰ってきて、今日で一週間目の朝だった。

 トランジニアからセレノへ帰ってきた経緯をブレイはあまり覚えていなかった。ただ、朧げに揺れる狭い馬車と、その最低な乗り心地は覚えているような気もする。道中、どこかに立ち寄ったような気もしたがそれも定かではない。

 ブレイはあの日以来、めっきり口数が減ってしまった。しかしそれ以外の仕事ぶりなどはいつもどおり、変わりはないように見えた。

 ――外面はそう、見えた。


 あの降りしきる雨の中に見せた、まるで人形のように生気の感じられない、抜け殻のような態度は今は鳴りを潜めている。その様子を知っている者は、あれ以来、危うさの薄れたブレイの態度にひとまず胸をなでおろしていた。

 しかしブレイは未だにあの場所から一歩も動けずに居る。

 突きつけられた父の拒絶と虚無にブレイは絶望し、全てを放棄したのだ。今まで築きあげた地位も、努力も、嘘も、感情さえも、もうどうでもいいことだった。


「……母さんの夢なんて、久しぶりに見たな」

 ブレイが母の夢を見たのは母を亡くした頃以来のことだった。

 まだ、片手で自分の歳を数えられるほどの頃の、幼気いたいけな夢だった。

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