第三章 ロシアの地にて

ロシアの地にて 第一話

 乾燥した寒気団の中を抜け、飛行機はわずかに頭を下げ始める。少しずつ高度を下がり白い雲海に機体が突っ込むと、窓ガラスから見える景色は乳白色で覆いつくされた。


 ホワイトアウトしてしまった窓ガラスを眺めていても詰まらないので、圭吾はデスクに置いたノートパソコンに視線を戻した。


 飛行機前方にあるファーストクラスフロア。一つ一つの座席が小さな個室のようなパーテーションに囲まれた中に、沈み込みすぎるわけでもなく硬すぎるわけでもない座り心地のいいソファが一つ置かれている。デスクは折り畳み式のソレではなく、使わないときは足元にスライドさせ、使うときだけ手元に持ってこられる木目調の家具のようなしつらいをしている。

 まるで、ちょっとした書斎のような造りだった。


 圭吾はデスクに頬杖をついて、会社の部下に向けて進行中のプロジェクトについての指示メールを書いていた。パソコンの横には、高カロリーのビスケット。それを指で折ると、特に何の興味もなさそうに口に運ぶ。


 機内は乾燥が強い。パサつくビスケットが喉に引っかかりそうになり、何か飲み物がほしいなと顔を上げた時、座席の横を通りかかったスチュワーデスと目が合う。


「何か、お持ちしましょうか?」


 スチュワーデスの極上の笑みに、軽く微笑を返しながら。


「ああ。水、もらえませんか?」


 圭吾の言葉に、彼女は、ええ、すぐにお持ちしますと優雅に応えたあと、圭吾の視界から消えていった。

 圭吾はもう一枚ビスケットを指でつまむと、はむと口に入れる。


 正直……あんまり食べたくはない。何時間も飛行機の中で座りっぱなしで体を動かしていないせいもあるのだろう。まだ先ほど食べた機内食が胃の中に残っている気がする。今日は、いつになくコレを食べるのに嫌気がさしていた。

 ただ、食べないわけにはいかない。自分は、そういう体質なのだから。


 かかりつけの専門医に、一日に摂取しなければならないカロリーが決められている。その値は、普通の40代一般男性の倍以上の数値だ。


 病名は、いくつもついている。その全てが遺伝病だった。血を絶やしてはいけない、薄めてはいけないという強迫観念からか、御堂の血筋は代々近親相姦を繰り返してきた。そのため、他に類をみないほどに多くの遺伝病に晒されている。


 圭吾の姉の一人は生まれた時からずっと寝たきりだし、もう一人の姉は幼い時に早逝している。弟は肉体的にはさほど異常はでなかったが、極度の精神障害でずっと入院しっぱなしだった。


 遺伝病の刃は圭吾にも無関係ではなく、ミオスタチン異常や鋭すぎる五感など、いくつかの遺伝由来の病気を抱えている。

 圭吾がこうして普通の人と同じように社会生活を営めるのは、他のきょうだいと比べて比較的出てきた異常が生きていくのに影響が薄い部分だったというだけだ。


 これが、圭吾の類まれな運動能力の秘密でもあったが。圭吾本人にとっては十分すぎるほど面倒くさい症状ばかりで、自分では障害だとすら思っている。

 ミオスタチン異常のヘテロ接合のおかげで、圭吾の身体は細身の割にはしっかりと筋肉がついている。何もしなくても。いや、これ以上筋肉をつけたくなかったら、極力運動はするなとすら医者には言われている。


 圭吾の意志とは無関係に、身体は摂取したカロリーを最優先で筋肉を作るために消費してしまう。そのため、通常のカロリー摂取では脳など他の部分にエネルギーが回らなくなって健康が維持できなくなってしまうのだ。

 特に真っ先に影響がでてしまうのが、大量のエネルギーを必要とする脳。


 つまり、早い話が人の倍以上のエネルギーを常にとっていないと、すぐに意識が保てなくなってしまうのだ。昏倒するだけならまだいいのだが、エネルギーが足りなくて朦朧としてくると、昔の悪癖を抑えることができなくなってしまう。それが何より怖かった。

 機内食なんぞでは到底必要摂取カロリーに満たないので、こうやって医療用の高カロリービスケットなどを食べて補っているのだった。


 ぼりぼり美味しくなさそうに医療用ビスケットを貪っていると、先ほどのスチュワーデスが、エルセンハムという高級ブランドのミネラルウォーターを手に戻ってくる。圭吾のテーブルに曇り一つないグラスを置くと、とくとくと中身が注がれた。


「ありがとう」


 圭吾の謝辞に、彼女は綺麗な笑顔で答えて席を離れていった。

 窓に目を移すと、ちょうど機体が雲海を抜けたようで窓ガラスいっぱいに視界が広がる。


 青く青く澄んだ空。その目線の遥か下に、緑の大地が顔を出していた。

 その緑と茶色の大地に、白く太く長いものが横たわっているように見える。

 機体は左に傾きながら大きく螺旋を描くように旋回した。傾いたことで左側の窓際の席にいた圭吾には、より大地が近く大きく見えた。


(あれは……バイカル湖か)


 冬季のしっぽをまだ離さない5月はじめのこの時期、まだバイカル湖の湖面は凍り付いて真珠をばら撒いて敷き詰めたように白く、その雄大な姿を大地に横たわらせていた。


 本当はモスクワからイルクーツクへの移動にはシベリア鉄道を使ってみたかったのだが、悠長に電車の旅を楽しんでいる暇はないため仕方がない。


 機体がイルクーツクの空港に降り立つのも、もうすぐだ。

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