ロシアの地にて 第二話

 今回のロシア出張の目的は、関連会社の支店視察やロシア経済界の重鎮たちとの会合などいくつかあったが、一番の理由はバイカル湖の地下に眠るメタンハイドレート採掘権をめぐる政府関係者との交渉のためだった。


 メタンハイドレートは別名『燃える水』とも言われるエネルギー原料で、二酸化炭素産出量が石油の半分であること、バイカル湖や日本近海に多数埋蔵されていることなどから、新エネルギーとして期待されている。


 ただ、メタンハイドレートの採取技術開発には今まで様々な問題が付きまとってきた。それは、技術的な問題というより、主に石油や石炭関連への既得特権を持つ者たちからの妨害の方が大きかったかもしれない。そこに宝の山が、環境問題とエネルギー問題を解決できる大きな答えが眠っているのに、実用化が一向に進まない理由はそこにあった。


 この度、圭吾が率いる企業を中心とした日本の企業数社と、ロシアの企業団とが協力してバイカル湖の採掘施設実用化に向けて動き始めた。その一環として、圭吾は日本側の企業代表者の一人としてこの地に来ることになったのだ。


 どちらかというと日本側が資金を投入し、日本とロシアの合同で技術開発を行うという形になるのだが。そのため、ロシア側には貴重なロシアの天然資源を日本に奪われるのではないかという危惧を抱くものもいると聞く。しかし、この技術が確立できれば、日本近海にも大量に眠るメタルハイドレート採掘にも応用でき、『資源小国』という汚名を返上することも繋がるため大きな期待がかけられてもいた。







 イルクーツクでの移動はもっぱら、車。

 移動中は運転手付きドイツ車の後部座席から、圭吾はよく車窓を眺めていた。このイルクーツクは、バイカル湖に臨む河川の合流地帯に栄えた街で、東シベリアの行政や経済の中心地でもある。歴史の古い街だけあって、この地方独特な木造建築やロシア様式の修道院、博物館などが並ぶ美しい都市だ。


 圭吾は少しでも時間ができると、ホテルの近隣を散策してみた。日本と比べると肌寒い外気温ではあったが、市場などはとても活気があり歩いているだけでも楽しい。


 しかし、その美しい街並みにも貧富の差は暗い影を落としているようで、何度か物乞いをしているらしき人々を見掛けた。その中には赤ん坊を連れた女性や、小さな子供もおり、圭吾は少し胸の痛い気持ちになるのだった。


 そういえば、この街に滞在中、何度かイザから電話があった。なんでも、人形に呪われてしまったので、その呪いを解くために金沢まで行くそうだ。あまり遠出したがらないイザが珍しい。


 蛇足だが、イルクーツクと金沢市は姉妹都市だったりする。






 バイカル湖西側のイルクーツク州や東側のブリヤート共和国の経済業界関係者たちとの会合、政府役人との顔繋ぎも順調にこなしていた。一定の成果と手ごたえを感じて、明日には帰国するという夜。


 圭吾は、夜半過ぎに疲れた表情で宿泊先に戻ってきたところだった。この辺りで最も高級と言われているホテル。長い足毛の赤い絨毯を革靴で大股に歩くと、エレベーターへと向かった。後ろには、秘書や部下が数人ついている。


 エレベーターに乗り込むと、秘書が明日の予定を口早に告げるのを、圭吾は疲労を吐き出すように小さく息をつきながらネクタイを緩めつつ、耳に入れる。やっと、ロシアでの行程は全て終わった。明日はまた飛行機での移動になる。ちょっとは体を休められるだろうか。そんな安堵感も、多少あった。それが、油断に繋がったのかもしれない。


 最上階で、エレベーターの扉が開いた。

 圭吾はフロアに出ようと外に一歩踏み出して、足を止めた。目の端に映った複数の影。

 影が見えた瞬間、圭吾は危険を感じてエレベーターに戻って扉を閉めるボタンを叩きつけるように掌で押した。


 しかし扉が閉じる前に、軽い音が数発フロアに響く。エレベーターの籠の中に向かって薄い白煙の何かが撃ち込まれた。

 咄嗟にマズイと感じた圭吾は隣にいた部下の口を手で塞ぎ、自分の口元もスーツの袖で覆うが、至近距離から放たれたソレは一瞬にして籠の中に充満した。


 閉まりかけた扉の隙間に、タトゥーが指の先まで描かれた太い手が差し込まれて、強引にこじ開けられた。

 その時には、籠の中にいた人間は圭吾も含めて全員が床に倒れていた。


 エレベーターの扉が完全に開かれると、防毒マスクをつけた体格のいい男たちが籠にずかずかと入り込む。

 何事かをロシア語で囁きあったあと、圭吾の身体を無造作に持ち上げた。完全に意識を失っていた圭吾は力なく手足を投げ出し荷物のようにタトゥーの男の肩に持ち上げられる。

 男が顎で他の男に合図すると、足早に男たちはフロアを急ぐ。そして、非常階段から下へと降りて行った。


 御堂圭吾が誘拐されたことに周りの物たちが気付くのは、次にエレベーターを呼んだホテルの客が籠の床に転がる圭吾の部下と秘書を発見して悲鳴を上げてからのことだった。


 その頃には、圭吾を担いだ男たちは既にホテル裏口に止めてあった車からその場を去った後だった。

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